"喪失"した故郷

ミーシャ

ここではないどこかを求めて

M・エンデ「遠い旅路の目的地」


エンデを自分の精神的な父と慕い、彼のかの人の書いたものを愛している自分にとって、この作品はひどく胸打つものがあった。


エンデの作品で、主人公の生まれから「最期」までを通して書かれるものは、どこか皆悲劇的であるように思う。それは彼らが共通して、”ここではないどこか”を探して、”今ここ”に常に間借りしている感覚を有しているからである。


それに苦痛を感じているかどうかは別としても、どうしようもなく惹かれる”どこか”こそが、彼らにとっての”本来の”居場所であることは自明である。


今、ここにない自分の居場所を探す彷徨こそが、ファンタジーの端緒のように思う。そしてあとは、求める「どこか」を現実的尺度で記述する際の視点と、描かれる内容との間の必然的隔絶を、いかに止揚するかというところで、書き手の解釈が加わるだけだ。この解釈は、書き手のものの観方、哲学、彼の現実に対する価値付けであっていい。


夢見る“どこか”を、いまの言葉で「異世界」と言うのなら、1)異世界の言葉によってのみ、異世界を描くか、2)異世界の基準によって、現実を語るかという手法に、重点がおかれることで、娯楽性が高まり、それを飛躍させると、3)現実の基準で、異世界を再解釈する同人志向、パロディの要素が認められるようになる、ということになるだろうか。


エンデの手法が、この3つではなく、現実的尺度で現実を語ることで、異世界を”指向する”、もしくは”表象する”レベルに留まるものであることは、非常に興味深いことのように思う。


つまり、手法として、常に「書き足らない」ことを以て”完成”するのである。エンデが熟慮をかけて描いた「はてしない物語」は、まさにその代表的存在である。


書くという行為は、常に、描かれる対象そのものに触れる経験と比べれば、情報量や、表現の「不足」という現実から、自由になることは無い。それは、人間が一度の食事で一生は生きていられないのと同じくらい自明なことである。しかし、この「描くこと」の耐えがたい現実を”掛け算”して、ここに無い「どこか」を、永遠に「描けないもの」にしてしまうとき、思わぬ扉が開く。


すなわち、異世界を現実と同じ密度によって構築しない、もしくは描かないことこそが、書き手の意思であるということ。


手法の1から3では、物語の中の人物ないし存在が、作品内で異世界を望み、それが実現するのに対し、エンデにおいては、彼らは狂信的なまでに「どこか」を指向し、作品の外にまで浸潤して、作品世界の神である書き手を飲み込み、永遠に「どこか」を遠くに追いやってしまうのである。むしろ、書き手こそが、主人公であるというべきか。


これが、エンデの描くファンタジーの魅力の構図であり、読み手を圧倒する悲劇的要素そのものであると、思われる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る