マーブルケーキ

和良拓馬

マーブルケーキ

 この場所に足を踏み入れた瞬間、鮮やかな緑色が記憶の底からこんこんと湧きだしていって、流れるペンキのように頭の中を一気に染めていった。歩きながら、記憶を蘇らせる。前に来たのは何歳の時だっけ? 10年以上前なんだろうな。おばあちゃんの手を握りしめてゲートをくぐって、その先にぱーっと広がる芝生の絨毯に、悲鳴にも似たような歓声を挙げた気がする。でも、そこで馬を見たとか、レースがどうだったかとかは、さっぱり記憶に残っていない。

 私は今、地元にある競馬場に来ている。それは初めて、たった一人で競馬場に来た瞬間でもある。


 扉を開けると、目の前にはコースが広がっていた。湧きだし続ける記憶と、実際に見ている光景とのギャップに面食らってしまった。意外と小さい。そして、芝生もそんなに広がってはいない。芝生の先には白い砂のコースがある。こんなのあったっけ? というか、ここでも馬が走るのかな? もっと大海原のように、芝生があると思ったんだけどなあ……。


 額がだんだん、不愉快なくらい湿っぽくなっている。見上げてみると、空はどこまでも水色で、ほんの一部分だけ強烈に光っている。照りつける光線が体を痛めつける。外の空気が、私自身を痛めつけることが許せない。だから、夏も冬も嫌い。


 その苦しみから逃れる方法を、私は知っている。息を大きく吸い込み、空気をお腹の中に溜める。お腹の中に溜まった空気を細く、真っ直ぐにして口から吐き出す。ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけながら。

 みるみるうちに、体が軽くなっていく。そして、日差しの痛みだとか、暑さだとか、体から噴出する汗だとか、そういうものを一切感じなくなってくる。

 空気を吐き終えると、ずいぶん心地よい感じになってきた。体から心地よい空気が循環している。クーラーや扇風機がなくても、とっても涼しい。


 視界から徐々に私自身が見えなくなって、遂にどこかへ消えてしまった。

 今日も無事に、私は透明人間になれたみたい。


   ◇


 透明人間業界、いや、そういう業界があるのかよくわからない。でも、私の透明っぷりは一般的な透明人間像と異なる部分がある。

 今、透明状態の私は無料給水所の前にいる。これを用いて解説しよう。ちょうど一杯飲みたいところだし。


 まず、透明人間はボタンを押すことが出きる。そういう感覚を失った幽霊系統の方もいるかもしれないが、私の場合はその点はっきりしている。目の前のボタンを押すと紙コップがころりと落ちて来た。数秒経つと冷たい水が流れてくる。

 紙コップに水が満タンになり、私はそれを掴む。その瞬間、紙コップも私と同化して透明になる。口に流し込む。水は体の中をすーっと流れていく。おいしい。水が床にこぼれるということはない。

 飲み終えたコップはきちんとゴミ箱へ。ポイと手放すと、紙コップはその姿を取り戻し、ほの暗い底へと消えていった。

 この状態を第三者の視点で見ると、誰も居ないのに給水機が稼働した挙げ句、紙コップがふっと消えてしまう……という感じだろうか。ひょっとすると、いわゆるポルターガイストは私のような存在が巻き起こしている悪戯なのかもしれない。


 創作物の中には全身の包帯をほどいたらそこには透明人間が……なんて話があるみたいだが、私の場合だと身につけているもの全てが透明になる仕組みである。透明状態になると、着ていた服も透明になる。同じく、モノを掴んだり持ったりすると、そのモノも透明になってしまう。また、一度透明になると一生戻れない話もあるらしいが、私の場合は至って簡単で、再びあの呼吸法をすれば元に戻るのだ。


 さて、そろそろ競馬場の探検でもするか。何だか、昔に来た時よりも綺麗になったのかな? 流石に中学生や高校生らしき人はいないけど、意外と女の子も多くて安心した。カメラを首から下げている人が多い。どこかで写真を撮るのかな?

 競馬場の探検をするならば、透明状態では不都合も多いだろう。私は再び、すーっと大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していった。

 視界から、徐々に色彩を帯びていった自分自身が見えていった。


 以上が透明人間の原理である。


   ◇


 私の名前は風岡(かざおか)明里(あかり)。生まれも育ちも福島県。こういう特殊能力がある点を除けば、普通、ないしは普通以下の高校3年生。

 何をやっても目立つ女の子じゃなかった。勉強も運動もルックスも「中の下」を行ったり来たり。家族の中でも、3兄弟の真ん中というポジション。優秀な兄と甘え上手な妹に、パパとママのエネルギーは吸収されていった。

「えっ、あんたそこに居たの!?」「明里は地味だよね」「風岡は目立たないなからなあ」……そんなフレーズを耳にすると嫌だけど、自然とそれを受け入れてしまう自分がいた。「地味」っていうのは、この世に存在しているからこそ貼られるレッテルなのだ。

 そんな私の存在を唯一認めてくれたのが、おばあちゃんだったのだ。いつも一対一で遊んでくれた。お手玉やあやとりといった昔の遊びを教えてくれた。

 そして、この呼吸法もまた、おばあちゃんから教わった。小学校低学年のときである。テストや運動会や演芸会の前だと、いつも緊張して一人で震えていた。そんな私に、オマジナイとしておばあちゃんから授かったのだ。


 そんな私にとって一番かけがえのない人を失ったのは、4年前の夏だった。物心がついてようやく、実は病と長いつき合いをしていたことも知った。頼りがいのある姿の中には、気がつかない苦しみとの戦いがあった。


 そして、私を認めてくれる人がいなくなった。不安と緊張でイライラ続き。家族と喧嘩する回数も急に増えた。自分自身をコントロールできなかった。


 あの呼吸法が抱く意味が大きく変化したのは、ちょうど高校受験の勉強が佳境を迎えた夏だった。進路で両親と対立していた私は、いつもの通り部屋に籠もって泣いていた。


 もう私なんて誰からも認められないんだ。

 認められないんだったら、私なんていなくなってしまえばいいんだ。


 一体いつまで泣いていたんだろう。ようやく目を覚ました。黒々と塗りつぶされた部屋に、満月の光は一直線で差し込む。そんな空間の中だから、余計にドキドキしている。呼吸もまだちょっと荒い。

 その時ふと、おばあちゃんのおまじないを思い出した。小学生の頃はよくやっていたけど、最近はやってないな。色々と思い出しながら、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。それをしただけだと、その時は思っていたのに……。


 いい感じの深呼吸だった。すごく体が軽い。もやもやが晴れているのがよくわかった。

 ようやく我に返った。何故か顔を洗いたい気分だった。暗い廊下を歩き、洗面台に辿り着いた。

 電気を灯す。この調子だと、私の目は相当真っ赤なんだろうな。見たくないなあ。


 見たくない顔が見えなかった。いや、鏡に映ってないから、その時はどんな顔だったかもわからない。自分の悲鳴で自分の耳が痛くなった。でも、誰もやって来なかった。透明人間の声は透明なのだ。

 そして、混乱して真っ黒になった私の頭の中で、誰かが囁いてきた。私は再び、大きく息を吸い込んだ。


   ◇


 さて、こんな便利な機能を手に入れたことなのだから、さぞかし優雅な透明人間ライフをお過ごしでしょう……と思われそうだが、現実はそんなに活用していない。異性の浴場とか更衣室とかに入ろうという発想も無い。多分、それは男子特有の発想。


 私がこれを使う時は、一人になりたいときだ。

 何もしたくない時、何もできない時、自分自身から逃げたい時……。

 そんな感情が襲うと、私はいつもイライラしている。そして、胸がずっと苦しくなる。その苦しみを和らげるために、いつも大きく息を吸う。

 他人から見えなくなると、目線を気にする必要が無くなる。パパとママ、兄妹、学校そして社会からの束縛は消える。そして、透明な私は好きな場所で好きなことをしている。

 姿が見えるときは何もできないのに、透明になった瞬間、私は不思議なくらい前向きで積極的に行動している。地味な私を認めてくれるのは、透明になった私だけ。だから、今の状況は案外嫌いじゃない。


 今日は本来であれば、塾の模擬試験の日だった。でも、今は競馬場に居る。みんなと横並びで試験を受けることに意味を見いだせなかった。どう頑張ったって、私は人より幸せな生活が出来る気がしない。大学受験に耐えうる精神力も無いし、仕事に精を出せるほどの体力も無い。玉の輿を狙える魅力も無かった。


 透明人間になってはや3年。競馬場は一度でいいからこっそり行ってみたかった。今日が夏の最終開催日だと、駅前のポスターに記してあった。何とか間に合った。

 どこに居ても苦しかった。だから、少しでも良い思い出がある場所に行きたかった。そうすれば、何かが良い事と巡り合えるんじゃないかと思った。

 おばあちゃんはギャンブルが好きだったし、結構得意だった。突然お菓子やおもちゃをプレゼントしてくれる時は、大体当たった時である。部屋に転がり込むと少し赤くなった新聞を机に広げて、正座したままラジオを聴いていた。

 かといって、ギャンブラーにありがちな癇癪を見たことは無かった。いつも落ち着いていて、レースを黙って聞いていた。で、当たったときは思わずニヤリ。ああいう呼吸法を伝授してくれる人だからこそ、なせる技なのかもしれない。


 さて、かれこれ2時間以上競馬場にいるけれど、案外飽きないものである。レースもよくわからないけれど、自分の目の前を馬が走るのは迫力がある。女性ファン専用スポットなるものもあり、私はハンドマッサージのサービスをしてもらった。売店で買った焼きそばは安っぽいけれど、なぜだろう、ソースの香りが私の幸福感を増幅させてくれた。

 こんな場所で汗をかきながら、のんびり1日を過ごす。競馬場は本当の自由を手に入れた人たちだけが足を運べるスポットなのかもしれない。

 ただ、何かが欠けていることにも気がついた。でも、私は未成年だから、それに手を出してはいけない。その一線はわかっていた。あの娘に出逢うまでは。


   ◇


 午後1時半、外の暑さがピークに達する時間帯。パドックにいる人たちはみんな汗をかいている。新聞を片手に頭をひねったり、カメラを持ってにやにやしていたりしながら。でも、視線はみんな馬を見ている。

 パドックは割と落ち着ける場所だった。まず、場内の中で最も女性比率が高い。カメラを持った女性は、間違いなくここにやってくる。男ばかりの場所はやはり落ち着かない。

 何より、色々な馬を、ずーっと眺めていることができるのが楽しい。馬の顔はみんな穏やかで、かつ愛おしさを喚起させる。まあ、たまに変な匂いがするのがアレだけど。


 その時、私は気がついた。さっきのレースよりも、人が何だか多い気がする。そんなにスゴいレースをするんだろうか? 

 みんなの視線の先を追ってみる。理由はすぐにわかった。パドックに一頭、変な馬がいる。白い。正確に言うと、うっすらと茶色い斑点もある。ダルメシアンみたいでもある。でも、やっぱり白い。ひょっとして、これが俗にいう「白馬」っていうヤツなんだろうか? 周りの馬は茶色や黒や灰色だから、やっぱり目立つなあ。

 大型ビジョンで名前を確かめる。5番の馬、名前は「マーブルケーキ」。4歳の女の子。白の部分が生地で、黒の部分がチョコレートなのかな。でも、ケーキの生地って肌色だよね……。あと、今の天気ならケーキよりもアイスクリームがいいな。バニラとチョコのミックスが食べたい。


 見つめ続けているうちに、何だかだんだん彼女のことで頭が埋め尽くされていった。みんなは普通なのに、マーブルケーキだけ変な感じ。変な感じだから、みんなにからかわれたりするのかな? 自分でも白いこと気にしているのかな?

 もしかしたら、私と同じような境遇なのかな? みんな同じなのに、自分だけ違う。いや、私とマーブルケーキは違う。私は誰からも注目されないのに、彼女は周りのみんなから注目されている。

「透明」と「白」って、似たような感じじゃないのかなあ?


   ◇


 彼女を見ているうちに、意外な欲求が湧きだしていった。

 マーブルケーキの馬券を買ってみたい。応援したい。

 私と彼女は同じ異端仲間。仲間なんだ。仲間だからこそ、応援する気概を見せなきゃいけないのだ!

 同じように見えて何かが違う気もしていたけれど、それは頭の片隅に置いといた。今は馬券を買うことのみ考える。


 とは言え、私も一般的な常識を兼ね備えた高校生だ。未成年は馬券を購入しちゃいけない。それくらい知っている。バレたらどうなるんだろう。逮捕されるんだろうか。詳しいことはよくわからない。

 それくらいのことは一通り考えた。でも、今日は一線を越えても怖くなかった。もう模試は終わってしまった。あとは野となれ山となれ。もう一線越えればいいのだ。


「ビギナーズガイド」と書かれたパンフレットを読みながら、マークシートを塗りつぶす。今日はセンター試験の模試だった。こんなところでマークの練習をするとは。そういえば、おばあちゃんは赤いサインペンでいつも塗りつぶしてたなあ。でも、ペンケースに赤ペンは無い。何色でもいいよね? 側面に「合格祈願」と彫られた鉛筆を握りしめる。

 コースは「福島」。レースは「8」。番号は「5」。馬券の種類は「がんばれ」と書いてあるのが良いな。それは「単勝+複勝」なのね……。お金はぱーっと……それぞれ100円ずつ。今日はトータルで2000円と小銭しか持ってきてないし。


 さて、問題はどう買うかだ。年上に見られがちではあるので、堂々と買っても良いかもしれない。でも、バレたときが怖い。ここは安全策を打つに越したことはない。私は大きく息を吸い込んだ。

 窓ガラスを見つめる。悪いことをする前の人間の表情は……予想通り、わからなかった。


   ◇


 ずらっと一列に並んだ発券機。数十名のおじさんたちが、淡々とお金を支払って紙切れを手に入れている。これがお金に化ける人は、果たして何人いるんだろう?

 しかしまあ、どの発券機も人がいる。なかなか透明人間が買うスペースが無い。締め切り時間が迫っている。やばい。

 ようやく誰も並んでいないところを見つけた。周囲の人間は頭上の画面に映る別のレースに夢中で、誰も正面を見ていない。チャンスだ!


 すっと近づく。まずは投票カードを入れる……いや、入らない。あれっ? 買えない? どういうこと?

 いや、落ち着け落ち着け。お金の投入口が緑色に点滅しているじゃないか。そうか、先にお金を入れるのね。飲み物の自動販売機と一緒じゃん。危ない、危ない。

 次はお金を支払わねば。鞄から財布を出す。小銭は10円玉ばかりだった。100円玉は1枚しかない。全くスマートでは無い買い方だ。こんなところで時間を失いたくはないのに。

 手の上で10円玉が10枚あることを確認し、1枚ずつ投入する。終えると、画面が切り替わった。すーっと向こうから白い紙切れが出てくる。

 これが馬券か……。何だろう。すごく綺麗な紙に見える。本来ならば人間の欲望が詰まっているはずなのに。


 馬券の端と端を両手で大切に触ってみる。それを眺める私は明らかににやにやしていた。

 さあ、早くここから立ち去りましょう。くるっと振り返ると、おじさんが慌てた表情で発券機に近づいていることに気がついた。おじさんは私がさっき買った発券機にすっと入った。


「おーい、お嬢ちゃん!」


 んっ? お嬢ちゃん??

 思わず振り返った。周囲にお嬢ちゃんと呼べる人は居なかった。

 そして、気がついてしまった。今、私は自分自身を認識することができる。服も身体も、自分の目で見ることができる。


 私とおじさんの目が合った。目を合わせると、おじさんはおそるおそる、少し強ばった表情で語りかけた。


「あっ、いた。お嬢ちゃん、君の……」


 何かを言い終える前に、私は廊下を全速力で走り抜けていた。

 嘘でしょ。なんで。私は誰からも見えなかったはずなのに!


 トイレに逃げ込み、慌てて個室の鍵を締める。鞄から手鏡を取り出し、自分の表情を見た。頬を湿らす汗は、声をかけられた時に出たものか、それとも走った反動か。

 私はいつのまにか、透明ではなくなっていた。


   ◇


 太陽が燦々と照りつける競馬場。最後の直線周辺となると、人も多い。ゴール前から少し離れたところ、あの標識は「2」って書いてあるから、200メートルくらい前なのかな。そんなところにいた。

 何とかあの場は逃げ切った。でも、これから逃げきれる保証は何一つ無い。

 とりあえず、ここでレースを見届けよう。それだけは決めた。本当はレースなんて見る気はなかったんだけど。


 このまま長い時間、競馬場に居てはいけない。そう思った私は、出口の前までには辿り着いてはいた。でも、その時に大きな過ちに気がついたのだ。


 あれっ? 財布が無い!


 私はいつの間にか無一文になっていた。どこで落としたんだろう? あまりにも慌てて逃げたのが仇になった。手がかりを探してみようと、逃げた道を渋々戻っていった。トイレの中も探した。でも、見つからなかった。どこにもない。

 馬券を買った場所周辺には行けなかった。あのおじさんは私の存在を認識していた。少なくとも、あの時の私はみんなから見えていた。周囲にいた人たちは年季の入った競馬ファン。あの子、未成年っぽいよね? そう悟られてしまったのだろうか。

 実際に買ったのがバレたらどうなるんだろう。どうしよう、捕まったらどうしよう。とにかく、あのおじさんに見つかったら、私はどうなってしまうのかわからない。色々な意味で終わってしまう。


 この場所から逃げ出したい。でも、財布を無くした今、お金がない。競馬場から家まで歩いて帰れる距離じゃない。そして、財布を無くしただなんて、誰にも言えない。

 こんな時こそ、私は透明になりたかった。でも、透明になれなかった。ずっと緊張状態が続いて、呼吸を整えようとしても失敗に終わった。


 結局いたずらに時間が過ぎていき、このゴール前に到着したわけだ。


 どうしようと考え続けている中、あることに気がついた。ポケットの中に紙切れが1枚あった。マーブルケーキの馬券! これだ! これが当たればお金になるんだ! 当たれば家に帰るためのお金が手に入るかもしれない!

 良かった、まだ私にはチャンスがあるんだ。

 大丈夫だよ。だって、おばあちゃんはギャンブルに強い。そういう家系だもん。奇跡が起こるはず。それに、マーブルケーキなら、彼女なら私の気持ちに応えてくれるはず。


   ◇


 ファンファーレが鳴り響き、遂にレースがスタートする。この結果次第で、私がこの場所から無傷で出られるかどうかが決まる。ああ、私って今、ギャンブルに身を投じているんだな、って改めて思い知らされる。周囲では微笑む大人たちは、そして記憶の中のおばあちゃんは、本当に毎回こんな気分になりながら競馬しているんだろうか? それとも、私だけ?

 太陽から発せられる熱気は、空の上からだけではなく、地面からも私を締め付けようとしている。ますます体が痛くなってきた。


 ガシャン、という乾いた音と共にゲートは開かれた。16頭の馬たちが足音を響かせながら、私の前を一瞬で通り過ぎていった。舞い上がる白い砂埃。マーブルケーキは2番目だった。調子良いんじゃない?


 実況の声はよく聞こえなかったので、大型ビジョンの映像を注視する。マーブルケーキは順調に走っている。さすが白馬だ。どの娘よりも発見しやすい。この調子、この調子で……。群れた馬たちは大きく崩れることなく、集団で淡々とコースを巡る。本当に、競馬のレースって1分そこらで終わるのだろうか。暑さは私の時間感覚も狂わせてしまっている。


 待ちに待った第4コーナーを通り過ぎ、遂に直線でマーブルケーキは先頭に立った。そして、どんどん私のところに近づいていく。でも、外側から別の馬もやってきた。あと少し。あと少しなんだから、お願い!


 いけーーーーーーーーーー!!!


 お腹の底から一本の芯ができて、私の体を貫くかのような感覚だった。そして、その芯は体の中をより熱くさせた。

 ほんと、久々に絶叫した気がする。


 先頭の馬がゴールを通り過ぎた瞬間、安心して何だか一気に力が抜けた。思わず座り込む。色々なものが溢れだしてきた。私自身の力でそれを止めることができない。どうすればいいんだろう。


「おーい、そこにいたのかー!」


 何だか呼ばれた気がしたので振り向くと、さっきのおじさんが呼んでいた。隣には緑色の服を着たおばさんがいる。職員っぽい。もう、別の意味で立ち上がれなくなってしまった。


   ◇


 クーラーが効いた室内はやっぱり居心地が良い。ベンチに座りながらただただぼけーっと人が行き来する様子を見ていた。でも、鼓動が止まらない。さっきのレースからずーっと。真っ赤な血は間違いなく、私の体をぐるぐる巡っている。


 財布は発券機の隅に置きっぱなしにしていた。気がついたおじさんが声をかけてくれたんだけど、急に逃げ出すもんだから……と。近くにいた職員のおばさんとずっとレース中探してくれて、どういう理由かわからないけれどゴール前でヘタレ込んでいた私を発見したんだって。


 私が未成年であるかどうかは、何も指摘してくれなかった。


 ずっと握りしめていた右手をパーにする。「がんばれ」と書かれた馬券はくしゃくしゃになっていた。当たったんだからいくらなんだろう? 気になる。でも、どうやってお金に替えるかがよくわからない……。


 この馬券を買って、握りした瞬間から、ずっと透明になることができていない。さっきまで体に染み着いていた感覚は、どこかへ消えてしまった。


 全てはあの白い馬のせいだ。あの白い馬のせいで、私にも色が付着してしまったんだ。

 でも、何でだろう。もう透明になれないことに、安心している私もいる。


 発券機の前をうろうろしている人たちは、次第に小さな集団となって街頭テレビを眺めはじめた。せわしなくレースは続いている。

 馬券を天にかざしながら、私は今なんで、この場所にいるんだろう? と考える。焦点が馬名に合っていった。すると、不思議なことに、紙切れが走り去っていった彼女の姿に見えてきた。思わず大きく息を飲む。落ち着いてき鼓動と引き換えに、頭の中はだんだん白く染まっていった。


<了>

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マーブルケーキ 和良拓馬 @Waratas

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