第5章 嶺南の聖母
15.
外城が陥落したころ、蕭衍は各地に救援の檄文を送っていた。
――勤皇の義士に告ぐ、京城を救援されたし。
このとき檄文を受取った陳覇先は決起を決意し、高要で勤皇軍を結成した。
「わしは皇上を助けるため建康へ上る。嶺南のこと、よしなにお願いしたい」
天下大乱の兆しだ。梁朝の再生は期しがたい。しかし陳覇先は勤皇を旗印に掲げ、馮宝と冼夫人に後事を託し、援軍をひきつれ北上した。
「謀叛をたくらむ高州刺史李遷仕は江西の
病に侵された馮宝を残し、五万の俚人兵をひきつれた冼夫人は自ら進発した。いま馮宝に任せると、陳覇先ともども建康まで行きかねない。高州を攻め落とし、
ついに五嶺を越えたのだ。ただし五嶺は越えても、嶺北を侵略する意図はない。陳覇先にわが意のあるところを誇示して見せたのだ。冼夫人の援軍到着で、劣勢だった陳覇先軍は息を吹き返し、李遷仕の謀叛軍を打ち払った。
「祖法に反してまで、よう五嶺を越えて来てくだされた。お気持ち忘れまいぞ」
陳覇先は諸将を一堂に集め、酒席を設けて勝利を祝った。冼夫人の心情を理解しているかれは、部隊を勤皇軍と嶺南守護軍とに明確に分け、冼夫人に酬いた。
勤皇軍は北上する。冼夫人は嶺南守護部隊をひきい、高凉・高州ヘ凱旋する。
陳太守は、じぶんが持つ軍政権限を馮宝、冼夫人に託して、嶺南を任せた。
「こののちわしが嶺南に戻ることはなかろう。嶺南のことはそなたらに任せる。広州刺史も承知している。南朝と心を一にして、戦乱の世を平和裡に収めてもらいたい」
冼夫人は微笑んで委託を受けた。
「嶺南のこと、心得ております。このうえは、無事、本懐遂げられますように」
「本懐といわれるか。遠からず、わしが侯景を討つ。そのあとは――」
陳覇先はことばを濁した。南朝梁の宗室はすでに統治能力を失っていた。
――わしが、とってかわるか。
現実主義を貫き、夢を語らなかった男に、天下取りの可能性が芽生えていた。
五年後、梁朝を廃した陳覇先は、陳朝を興す。馮宝は新政府の要職を請われたが、固辞した。高凉俚人、民族自決の象徴である高凉太守にこだわったのだ。
陳朝の二年目、馮宝は病のため亡くなった。長子馮僕は、
馮宝のさいごを看取ったのは冼夫人と馮僕、そして葛徳だった。冼夫人は赤子を抱いていた。そのうしろで茜と葵、そして一匹の子犬が神妙に控えていた。
「あのとき止められていなければ、わしは李遷仕に加担し、梁の皇帝に弓を引いていたかも知れぬ。さすれば、馮家はもとより、冼家も危ういことであった」
当時、馮宝は熱病に犯されていた。夢幻の境で、祖先の霊が呼び寄せるまま、北への回帰にうなされていた。
「あくまで陳朝と心を一にし、嶺南の安寧と高凉民族の誇りを保ってくれ。くれぐれも独立割拠など考えてはならぬ」
さすがに慎重にことばを選び、馮僕をさとした。
「迷うことも多かったが、ときにわしを
葛徳の手をとり、請わずにいられなかった。
「北に未練があるわけではないが、わしもついに祖先の地を見ることはなかった。葛徳どの、頼みがある。葵に北の大地を見せてやってはもらえまいか。そこで葵を放つもよし。嶺南に戻すもよし。葵の意志にまかせてもらいたい」
「こころえた」
葛徳は握られた手に力を込め、同意した。
「こんなわしを見限らず、ようつくしてくれた」
さいごに馮宝は、冼夫人に眼を移した。
「お気をしっかりもたれませ。あなたにはまだまだやらねばならぬ仕事が、残っているではありませんか。北朝に対峙して陳朝を補佐し、嶺南に高凉民族の自決を勝ち取ること。そして海のシルクロードの再開を見届けること」
「黄金丸を失ったあとのワスケは、見るに忍びなかった。いま、いかがしているやら」
「あれから六年経ちます。ワスケとお玲は西方の宝物をたずさえ、ほどなく戻ってまいるころでしょう。ヤスケもほれ、かように大きゅうなり、ブチとたわむれております」
冼夫人が預かった赤子は、白と黄の毛が混じるオスのブチ犬とともに育っている。
「思い出は尽きぬが、顧みて悔いはない」
あたかも眠るがごとくに、馮宝は逝った。
ワスケの船隊が持ち帰った西方の宝物を携え、馮僕は陳皇帝に朝見した。ガラスや銀の容器、象牙・ルビーなどの宝玉を手に、陳帝は楽しげに葛徳に
「みごとな秘宝だが、いまのわが朝には過ぎたるもの。ならば、これらの秘宝を北の斉・周に献上し、下賜金を競わせ、戦後の復興資金にあてるか」
算盤に
「北が分かれておればこそ、三方で鼎立しておれる。嶺南が成長して南朝の一翼を担ってくれるまでは、北の統一は先に延ばしてもらいたいものよ」
陳帝はためらうことなく、その場で馮僕を高凉太守に任命し、護国侯夫人冼英の補佐を条件とした。高凉大都老の冼英に嶺南の統治を委ねたに等しい。
「高凉のみに
北の二国にくらべ力量劣勢の南朝にとり、嶺南の存在意義は大きい。
葛徳は商隊をひきいて、馬に乗った。葵が一行にしたがった。北に進むにつれ、葵の本能が眼を覚ました。吐く息が白く見え、からだから湯気が立ち込めるころには、ときに狼のように遠吠えし、生肉を好んで食べた。日増しに野性味を帯びてきたのだ。
北斉の都
黄昏が迫るにつれ、みぞれが雪にかわり、風に舞った。やがて激しい吹雪が一行の前進を阻んだ。風の鳴る音に混じり、狼の遠吠えが聞こえる。葵はピクピクと耳を動かし、声との距離を測っている。やがて行く手の白い大地に、黒い足跡が印されだした。
「狼だ。それもそうとうな群れだ」
葛徳は前進をあきらめ、大木を背に野営の陣を張った。荷馬車をたおし防壁とし、赤々と炎を燃やして、狼が近寄るのを牽制した。
「火を絶やすな。狼が飛び込んで来たら、
部下に指示し、ゆっくり立ち上がった葛徳は、炎の外に出て大きく弓を張り、矢を放った。野生の狼は血に反応する。一匹を殺せば、共食いで仲間割れする。
低く唸っていた葵が、矢の方角に向かって飛び出した。矢はあやまたず、群れのボスの胴体を深々と射抜いていた。葵は勝利の雄叫びを上げた。群れはボスの座を譲り、葵にしたがった。それきり葵は戻らなかった。
狼の群れを誘導し、祖霊の地・漠北に去ったのだと、葛徳は確信した。
16.
帝位について三年、陳覇先はあっけなく崩御した。陳朝五代三十二年、短命王朝を象徴するかのように、早々と己が舞台の幕を引いたのだった。
その後、北周が北斉を攻略、北朝を統一する。やがて北周は隋にとってかわられ、隋の
「ばばさま、お加減はいかがですか。おかわりありませんか」
ヤスケが顔をのぞかせた。ブチをつれている。冼夫人の横で寝そべっていた茜が起き上がり、ブチに近寄った。二匹とも若いころの奔放なじゃれあいはない。くんくんと臭いを嗅ぎあって、久闊を叙す、おとなびたあいさつだ。
ブチも茜も四代目になる。二代目黄金丸の毛並みは白と黄色の二色だったが、いまの代は黒と赤を交え、四色に増えている。
ヤスケはもの心つくまで冼夫人の手元で育てられ、その後、羅浮山で方士の修行をした。いまは葛徳の下で動いている。航海をつづける両親は、いちども帰国しなかった。
「陳朝が隋に攻められ滅んだと、隋の文帝(楊堅)の子、晋王楊広から知らせがあった。嶺南のすみやかな帰順を求めている」
冼夫人は二匹を撫でながら、ヤスケに語った。楊広はのちの
「で、ばばさまは、どうされますか」
「ほどなく、隋将
このころ冼夫人は九十歳に近い。高凉に住み、聖母と呼ばれて久しい。嶺南を守り、部族民の安寧を保つ象徴の意味が込められている。軍政の実務はすでにひまごの
「隋につくか、離れるか。かなわぬまでもせめてひと言、ものもうすか」
九十近い老人には酷な判断を、託されていたのだ。
「その判断、茜にゆだねてはどうか。葛徳さまからの伝言にござりまする」
ヤスケは顔を上げずにいった。鼓動が高鳴った。冼夫人の怒りを恐れたのだ。
「なんと――」
思いがけぬ提案に、冼夫人は一瞬、ことばを失った。
馮・冼両族の軍をひきつれ、曾孫馮魂を陣頭に立てて、冼夫人は広州へ向けて出陣した。ブチをつれている。茜はヤスケに托し、先発させた。半信半疑ながら、なかば葛徳の意向に沿ったかたちだ。
軍列は大雲霧山の高台につらなった。冼夫人は、山上から高凉を振り返った。
――二度と戻れぬかも知れぬ。
冼夫人は祖霊の地に向き合って、両手を合わせた。
ヤスケは駆けた。茜とともに
――五嶺にて韋洸の軍を待て。
葛徳の心言(テレパシー)が、脳裏に届いている。
襄陽を出立、武昌を攻め落とした南征軍総管の韋洸は、洞庭湖・湘江伝いに南下した。長沙を経由し、騎田嶺を越えれば韶関、待望の嶺南に進入する。
厚い雲が、天空を覆っている。常ならば、陽が上っておかしくない刻限だ。
一瞬、ひとすじの光線が、するどく天空の闇を突いた。張りつめた闇は破れ、みるまに拡散した光が地上いっぱいに溢れでた。
北の方角を注視していた茜が、耳をそばだてている。前方からゆっくりと近づく影が、光を浴びて全身をあらわにした。
狼か、と見紛う大型犬だ。蒼い眼を光らせ、口のなかで唸りながら茜に近づいてくる。がっしりと引き締まった無駄のない体躯は、蒼味がかった毛並みで覆われている。
小さな獅子の異名をとる茜が、赤紫色の長い毛をぶるっと振るわせた。前方の蒼い狼犬はその場にうずくまった。攻撃を放棄し、茜に身をゆだねた恰好だ。
――これは、葵か!
そのじつ、ヤスケは葵を知らない。
――そうだ。これが葵の四代目だ。
葛徳が心言で教えた。
茜も葵も、互いにはじめての出会いだ。それにもかかわらず、前世の
老方士葛徳は韋洸をともなって、同じ騎田嶺の山上、隋軍の側にいる。
「見られたか。赤紫の犬が冼夫人、蒼い狼犬がおそれながら楊広さま。かくすれば、天下は安らかに治まります」
のちに葛徳は、冼夫人に説いている。
「かつて韋洸の先々代が、漠北の戦場で葵の二世を捕獲し、中原に連れ帰ったそうです。さらに二世代を経て、いま葵は嶺南に戻った。茜もおなじ四世。縁というより、まさに神の引き合わせというべきではありませんか」
「
「高凉のみならず、嶺南すべての民というべきでしょう。隋朝も元をただせば、北の胡族。われら南の蛮族とかわるところはありません。さらにいえば漢族とて、黄河と長江流域のあいだに割拠する、雑多な諸部族の融合体にすぎません」
――人民の生活をこそ考えるべきで、部族を盾にとって争うべきではない。
天下の南北と嶺南の実情を知る、葛徳ならではの主張だった。
「南北の統一はなったばかりだ。これ以上、戦闘を拡大してはならない。武力侵攻は最後の手段だ。冼夫人を説得し、嶺南の安撫を条件に、隋朝に帰順させるのが上策ではないか。和議の談判が済めば、隋軍は速やかに兵を引くべきだ」
葛徳の主張は、大局を見通している。隋の文帝は、戦線不拡大を命じていた。
「嶺南と事を構えず、平和裡に帰順させよ」
武力を封じられた韋洸は、葛徳の説得に応じた。
嶺南とて、各州郡の部族集団は、けっして一枚岩ではない。帰趨をめぐって、帰順派と抗戦派が拮抗していた。しかし各地の部族連合は、一貫して冼夫人を盟主に推戴し、嶺南各州郡の安全保障を前提に、冼夫人に判断をゆだねていた。
葛徳の意を受けて、ヤスケは広州へ戻った。茜について、葵もしたがった。
馮魂らは陳朝政府の残党がこもる広州に入城し、城内を制圧、広州刺史を拘禁した。広州に集結した嶺南各州郡の将領は、各々の異見を封じて、冼夫人に決着を託した。まず、嶺南全体の社会秩序の安定を優先したのだ。
さいごに冼夫人は決断し、ひとり城の外に立った。茜と葵をつれただけだ。
韋洸がやはりひとりだけで、それも
茜が葵をうながした。葵は前へ出て、韋洸の裾をくわえて、冼夫人の方へ引き寄せた。韋洸は葛徳からことのしだいを知らされている。立ったまま膝に手を置き、冼夫人に黙礼した。冼夫人もあいさつを返した。ふたりは城門をくぐった。
隋軍は城外に留まり、軍事力による威嚇をすることなく、穏便に広州城を接収した。高齢の冼夫人を代理して、ひまごの馮魂が立ち会った。
「新たに広州を接収管理したばかりで、土地の事情にうとく、民心もまだ安定していないので、ぜひにも馮魂どのをお借りしたい」
韋洸は、冼夫人に要請した。
武力衝突を回避した冼夫人は、馮魂を城に残し、高涼へたち返った。嶺南各州郡の矛盾は、仮に鎮まったにすぎない。これから時間をかけて各地の領袖をひとりずつ説得し、和解させてゆかねばならぬ。己が寿命との競争になる。
――せめて三年ほしい。
冼夫人は葛徳に延命を請うた。
――民族間の矛盾は三年では解決できぬ。ひとのいるかぎり、永遠につづく。ならばあなたのいのちも永遠であればよい。
葛恩同様、
「よもや南蛮炎熱の地に、冼氏のごとき、まれなる
戦を回避し、対等の立場で帰順した冼夫人の姿勢を聞いて、文帝は称賛した。
ちなみに「巾幗」とは、往時、女性がつける髪飾りの頭巾のことで、婦人をさす。巾幗英雄とは、女性の英雄をいう。また「譙国」とは大所高所から国を見つめ、意見することだ。さしずめ、「天下の女性ご意見番」という役割だろうか。
冼夫人は、民族の自決に力をつくし、ことに民族間の融和の面で多大な貢献をし、諸民族の人びとに敬慕された。九十一歳で天寿を全うしたその事績は、千数百年を経たこんにちなお「冼夫人文化」として讃えられている。
嶺南各地にとどまらず、東南アジア・ヨーロッパ、さらにはアメリカなど全世界の華僑・華人に、「聖母冼夫人廟」として祀られ敬われている。
冼夫人亡きあと、高凉俚人は五色のブチ犬を神犬と仰ぎ、代を重ねた。
(完)
漫画原作版「神犬伝」 ははそ しげき @pyhosa
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