第4章 民族自決

12.


 新設された高州刺史に選任されたのは、陳覇先のライバルと目される李遷仕りせんしだった。高凉太守馮宝の管轄する高凉郡は、高州の従属下にある。

 この高州の南方海上に、南海に浮かぶ孤島・海陵島がある。馮宝は、海陵島を海上交易の拠点として開発することをもくろみ、高凉郡の飛び地にくわえるよう、陳覇先を通じて上書していた。高凉俚人の海人としての技量はすでに知れわたっている。かれらに交易船をもたせ、遠洋航海に従事させれば、密輸取締りや海賊征伐といった余分な公務が不要になるだけでなく、西方貿易の利によって大きな富が期待できる。広州刺史蕭映は朝廷の要路に話をつなぎ、海陵島を高凉の「飛び地」に認めさせた。

 馮宝は冼夫人と図り、ワスケとお玲に島開発の差配を任せた。港を整備して大型外洋帆船などの建造基地とするのだ。古代から手つかずの森林資源は、島内に満ちている。船大工など専門技術者を呼び寄せ、島人を養成して作業させた。海の男の伝統を持つ海人の末裔たちだ。かれらは勇躍して古老に学び、外来の技術者に師事した。


 高凉郡の治所・陽春への撤退をまえに、馮宝と冼夫人は帆船を仕立てて島の港に立ち寄った。陣中見舞いだ。ワスケとお玲が出迎えた。そのうしろには、にこやかな笑みを浮かべた葛徳が立っていた。人の再会に先立ち、五匹の犬が同志を見出し、荒っぽいあいさつを交わしはじめている。茜と葵が船の接岸を待たず、空を飛んでシロと黄金丸、そしてクロのもとへ駆け寄ったのだ。鼻先で嗅ぎあい、上になり下になり転がってじゃれ、久しぶりの出会いを楽しんでいる。

「思えば、心をいつにした良き友を得たものよ。かれらも、われらも」

「そのうえかれらはその背後に、数百、数千の心を一にした仲間を擁している」

 先の戦でかれらは伝説の使命を全うした。馮宝が述壊し、葛徳が応じた。

「われらにも、心を一にした高凉俚人五十万人がおります。しかもその五十万の将来が、われらの双肩にかかっています。心して対処すべきです」

 冼夫人が唇を噛みしめて、決意を口にした。

「お英ねえさん、あまり思いつめないで。高凉俚人五十万人は、もはやしたがうだけの無知の民ではありません。みずからの意志を持つ、自立した人間です」

 高凉の奴隷解放に身をなげうって尽くしたお玲には、かれらの意識の変化が手に取るように理解できる。ワスケがお玲を後押しする。

「そうさ、天災や戦乱で故里の土地を追われるまえに、みずからの意志で行き場を求め、新たな大地を開拓するだけの勇気と智慧を、かれらはもっている」

「高州を追われても、陽春には鳳凰堡が健在だし、雲霧山中は隠れ住む仙境にこと欠かない。民族の血統を未来につなぐ道はいくらもある」

 馮宝の主張を消極論と見たワスケが、異を唱える。

「隠れ潜むだけの民族に明日はない。生きながらえるだけではなく、夢を育み、将来につなげることが大事だ。四海に広がる大海は、それを可能にしてくれる」

 ワスケの思いは四海同胞に集約できる。友を求め、世界に雄飛するのだ。

 冼夫人は大きく首を振って、うなずいた。

「そう、狗郎の民ならできます。神犬盤瓠は人語を解したではありませんか。われらには犬の気持ちが汲みとれます。ましてや広い四海で、人の気持ちの分からぬ道理はない。誠意をもってあたれば、かならず人の心は通じあえます」

「それがなぜこの国のなかでは、通用しないのでしょう」

 お玲にはそれが悔しくてならない。

「欲に目のくらんだ人が、この国にはあまりに多い。物欲、金欲、権力欲。はては仏法さえも欲の道具にしようとする人の驕りが、道を誤らせている」

 葛徳は道教の方士だが、儒教・仏教にたいする排他性はない。どのような宗教でも、強制された信仰でなければ、認めるにしくはない。排すべきは権力による強制であり、あるいは権力におもねり、私利私欲を満たそうとする亡者どもだ。

「高凉俚人五十万の大半は、やはり高凉を根拠地にして、生きてゆくことになる。おれとお玲さんは高凉の海人とともにこの海陵島を守り、四海へ雄飛する航海の前線基地にする。異国の物産を交易し、高凉に富をもたらす。異土の各地に友好的な港を築き、かつての海のシルクロードを再現してみせる。お玲さん、一緒にやってくれるね」

 ワスケの意気込みに、ためらいの気配も見せず、お玲がうなずく。それを見て、シロが黄金丸に鼻を寄せ、同意を迫るが、黄金丸はとぼけて身をかわす。

「はっきりしないか、黄金丸。ここぞと決めたら迷わず、シロと心を一にするのだぞ」

 ワスケの黄金丸に託したこのひとことは、お玲への愛の告白にほかならない。

 妹分のお玲の幸せは、冼夫人の願いでもある。深々とワスケに頭を下げた。

「ワスケさん。ありがとう。どうかお玲を幸せにしてやってください」

「わかっています。ふたりで幸せをつかみます。おれも黄金丸も、もとはといえばクロに助けられた命です。クロの恩、そして皆さんの情けは、こののちどこの国にゆこうと、終生忘れません。ありがとうございます」

 ワスケはいきなり土間に正座し両手をついて、皆に向かって辞儀をした。お玲も横にならんで、ワスケにならった。ヤマトの国の感謝の作法だ。


 やがて一同は、夜宴を催した。文字どおり、海陵島独自の「山海の珍味」が、ほどよい味つけで山盛りにならべられた。酒もある。俚人部族のありようを語りつくしたあとの静かな宴だ。このうえは実行あるのみ、人も犬も充足感でみちたりていた。

 この夜宴が、五人と五犬士が一堂に会するさいごの集まりになった。


13.


 梁帝蕭衍の仏教信仰は、度を越していた。老境に入るにつれ、信仰が深まり、一度ならず四度までも捨身しゃしんをくりかえした。捨身というのは、身を捨て、心を清めて、仏・法・僧、三宝の奴(奴隷)となることだが、かりにも蕭衍は皇帝だ。身を捨てるといっても、寺にこもり、経を念じ、雑役にしたがうていどの形式的修行にすぎない。ただし、そのていどであっても、皇帝に寺にこもられては、朝政はおぼつかない。身請け料を払ってでも、お戻り願うことになる。その額、一億銭という法外なものだ。朝廷が身銭を切るわけではない。その付けは追徴課税され、民百姓に振られるのだ。


 陽春の治所で高凉太守馮宝の口から、詔勅が告げられた。年貢の割り増し徴収と、仏寺の建立を厳命する内容だ。聴衆はどよめいた。

「冗談じゃない」

 最初に悲鳴をあげたのはお玲だった。たまたま海陵島から陽春に戻っていた。

 人々が骨身を削って育てた穀物を、身請けのかたに取られてはかなわない。

「じぶんから奴隷になりたいって、どういう皇帝?」

 好きで奴隷になるものはいない。もと奴隷だったお玲は首をかしげた。

「わたしも反対です」

 冼英は高凉俚人部族の大都老としての立場で、明確に反対の意思表示をした。

「誤ったご政道に、したがういわれはありません。寺に支払う身請け銭など、わたしたちにはまったく関りないこと。ましてやわが部族は盤古さまの末裔です。高凉の領内には盤王廟があれば十分で、仏寺なぞ建てる必要はありません」

 夫馮宝は高凉太守だ。卑官であっても地方政府の要職にある身としては、たとえ夫人の意見であっても、黙って聞き流すわけには行かない。

「ご政道に反対すれば、またも征討軍を派遣され、懲罰を受けることになる。多くの人が傷つき、殺される。これをふたたびくりかえしてもいいのか」

 葛徳が立ち上がった。

「お言葉ですが、いまの朝廷にはもはや、征討軍を派遣する余力なぞありません。陳覇先どのも征討軍の派遣には反対で、むしろ北上して王朝の危難を救うのが急務とお考えです。ここはことを荒立てず、静かにやりすごすべきでしょう」

 ことさら声高に反対表明することはない。放っておけ、というのだ。

 王都建康で不穏な動きがある。八十歳を越えた高齢の武帝蕭衍に往年の威信はない。後継の玉座をめぐり宮中で順番待ちの皇族連中が、あわよくばとばかり裏工作にしのぎをけずっていた。地方にかまっている余裕なぞなくなっている。

「南朝梁はすでに死に体です。放っておいても、危害はおよばないでしょう」

 葛徳はいいきった。むしろ、この機に乗じて正すべきことをやりきろう。

 いま王都で米価が高騰している。江南で飢饉があり、品薄の反動だ。

「当地の年貢米は、広州で商人に売り渡されます。広州刺史以下、各地の豪族や代官が、安値で徴収した米を高値で売り渡し、その米を都へ運んだ商人は、さらに利ざやを稼ぐため、売り惜しみし、値をつりあげているのです」

 都で「まいない」が横行している。賄賂わいろのことだ。官職についたり、大規模な取引を落札したりするための袖の下だ。

「では、大量の高凉米を都へ運んで、直接、物納したらどうなります」

 お玲が訊ねた。新造の外洋帆船の処女航海にふさわしい舞台を探している。

「どこの港にせよ陸揚げするまえに、政府高官と組んだ悪徳商人の手で安く買い叩かれるのがおちです。しかし品物が大量に出回れば値は下がりますから、売り惜しみはなくなり、しぜんに賄賂も下火になります。都で渡せば、物価高騰の歯止めになります」

 都はいま、空前の消費文化で沸いている。仏供養と称して、昼日中から宴会が催され、食べきれぬ料理が湯水のごとく捨てられている。その一方で、飢餓にあえぐ人々が、路上にしかばねをさらしている。まさに悪政の極みといっていい。

「こんな非道がいつまでもまかり通って、よいものではありません」

 葛徳のまなざしは、馮宝と冼夫人に向けられた。

「非道を正すため、いまなすべきことはなんでしょう」

「戦をおそれず、あえて正義を行動で示すこと、これであろうか」

 戦を好まぬ馮宝が、実力行使を示唆した。冼夫人の胸に、不安がよぎった。


14.


「米を回漕する。船を三艘、漠陽江の河口に着けてくれ」

 葛徳からの一報が入った。年貢米を広州で渡さず、建康の都で渡すことに広州刺史蕭映が同意したという。冼夫人も、正規の年貢米を上納するのに異存はない。ましてや都へ直接運び、米価の急騰を鎮め、贈収賄を抑えようというのなら、一石二鳥だ。

 ワスケとお玲は、新造船を漠陽江河口の港へ回し、葛徳の連絡を待った。シロと黄金丸が仲良く舳先に立って、岸壁を見つめている。やがて、二匹が吠えだした。それに呼応するかのように、岸壁からクロの遠吠えが響いた。

 米俵を積んだ荷車が列をなして、岸壁を埋めはじめた。葛徳が指揮していた。

「馮宝さまと冼夫人はどうされました」

 ワスケの問いに、葛徳が顔を曇らせた。

「馮宝さまのご容態がすぐれず、臥せっておられる。冼夫人も看病で来られぬ」

 朝廷の御用船として、はじめて航海を許されたのだ。高凉俚人の悲願ともいえる海人の伝統を蘇えらせる第一号船の就航に、立ち会えないほど重い病なのか。

「懐郷病(過度のホームシック)だ。ご先祖の呪いに悩まされている。外部の呪いなら、わしにも排除できるが、体内の呪いは容易に消せぬ――」

 ふだん快活な口調の葛徳が、めずらしく口ごもった。


 祖先の霊が故国回帰を願望し、馮宝の身に宿って心身を責めている。馮宝の故国は咸陽に近い陝西始平郡、北朝の版図にある。馮氏一族三十数代が望んで果たせなかった故国復帰願望を、いま馮宝は一身に背負っている。

「陳覇先ではなく、わしにくみし、北上せよ。天下を分け合おう。おぬしは北を取れ。わしは南を取る。ともに起って、中原に覇を競い合おうではないか」

 高州刺史李遷仕が、馮宝の心の隙につけいり、耳元でささやいている。もともと陳覇

先との黙契に、北上軍の派遣は含まない。冼夫人は祖法を盾に、五嶺は越えないと表明し、それを容認する陳覇先は、嶺南の自立を見返りに、後方支援を期待している。

 ――ならば、漢人の馮一族が五嶺を越えて、北を切り取ることは許されるか。

「五嶺を越えては、なりませぬ。ましてや北の侵犯などありえません」

 熱に浮かされ、妄想の募る馮宝の枕元で、冼夫人はきっぱりと否定した。


 飛奴フェイヌー(伝書鳩)の羽ばたきで、葛徳はわれに返った。「冼夫人からの伝言よ」、鳩を抱いたお玲の明るい声が、葛徳の懸念を吹き飛ばした。

「船の名は、『黒狗クロ号』とする。ワスケさんは高凉を代表して堂々と年貢米を回漕してきてもらいたい。葛徳さんには、これよく意味がわかんないけど、都で諸悪の元凶を抹殺されたし。葛徳さん、いいですか」

「ああ、こころえた」

 葛徳がもとの表情に戻って、がえんじた。

 舳先へさきに「黒狗号」と大書された帆船は、部族の象徴である「狗頭人身」の俚人族の旗印をたなびかせ、帆に風をはらんで、沿岸伝いに北に向かって進んだ。

 左に大陸の岸壁を眺め、南海から東海にはいる。やがて、広大な長江河口から、ゆったりと大河を遡行する。しかし都に近づくにつれ、岸辺の風景は一変した。焼き討ち跡の黒煙が上がり、破壊された街並が、船上からも見てとれたのだ。都から避難する難民の群れが、引きも切らずつらなっている。

 さらに長江を逆流し、国都建康に近い京口(いまの鎮江)に着き、そこで積荷の米俵を引き渡した。都まで直線距離で約70キロ、朝廷側から派遣された屈強な役人に護られ、米問屋の人足らが手際よく荷を積替えた。

 ――米を運んでいる。

 飢饉にあえぐ江南では貴重な宝物だ。ひと目見ようと、両脇に人垣ができた。

 地におちた米粒が白い点線を描き、やがてあたり一面に白くひろがりだすと、難民が目ざとく見つけ、役人の制止を振り切り、米粒を拾いはじめた。ひとりふたりのうちは役人も、黙認していた。しかし数が増えだすと、そうもゆかなくなる。手で払いのけ、脚で追い散らしていたが、めんどうとばかり、やにわに手にした槍を振り回した。最前列の難民が犠牲になった。群集がもみ合い、押し合うなか、怒号が絶叫をかき消した。

 作業が終った船着場の広場には、ぼうぜんとして立ちすくむ難民の群れが残された。槍で刺されてうごめく人の姿が、夕暮れの広場に影を落としている。

 血塗られた赤土を手で掬い、米粒を拾っては口に入れる母親がいる。赤子を抱いている。己が口中で米を溶かし、赤子に口移すのだ。たまりかねたお玲が駆け寄り、子を抱き上げた。愕然とした。子はすでに息絶えていた。

「われわれの米が残っている。せめてものことに、炊き出し、粥にして施そう」

 葛徳が提案した。反対する海の男はいない。


 いま南北朝の天下は、再編に向かっている。大乱の予兆は東魏から起こった。東魏の河南大将軍侯景こうけいが、兵十万を擁する河南十三州をひっさげて、梁に投降した。帰順に応じた梁武帝だったが、陰で東魏と和解した。侯景は梁武帝の翻意を疑い、謀反を企てた。わずか二千の兵で決起したのだ。王都建康を目指す進攻途上、侯景軍は兵を募り、数を増やす。長江を渡り外城に入城するころには二万人に膨れ上がっていた。

 仏の加護を妄信し、五十年の太平の夢に酔い痴れて首都の防衛を怠った平和呆けの梁朝は、もはや侯景の敵ではなかった。決起から二ヶ月、侯景は国都建康の城門を突破し、外城を制圧した。そして宮城である台城に籠った人びとと五ヶ月におよぶ攻防戦をくりひろげたすえ、ついに台城を攻め落とし、梁の武帝蕭衍を幽閉したのだった。


 葛徳はワスケらとともに小船で、さらに西へ向かった。クロと黄金丸が神妙な顔つきで、小船の片すみでうずくまっていた。二匹にとっても異常な体験だ。

 長江から秦淮水沿いに進み、朱雀航で上陸したかれらは、建康城の南門を北側に望んで、絶句した。かつて繁栄を誇った門外の市街地はことごとく焼け落ち、残骸のなかで食物を漁ってうごめく餓鬼の群れを目にしたのだ。

 城内は、さらに悲惨をきわめていた。悪臭が鼻を突いた。道ばたに人のしかばねが積み重なって放置され、腐って膿を垂れ流していた。見るに堪えない光景だった。クロと黄金丸も尻尾をたれ、人の後ろから隠れるようにして覗き見ていた。そんな葛徳らの動向を、藪の陰から飢えた野犬がうかがっていた。

 かろうじて雨露を防ぐだけの掘っ立て小屋に、人が重なり合って寝起きしていた。動けるものは朝から起きだし、口にできる食べ物をさがしあるいた。動けぬものは、ただ死を待つだけだった。餓死寸前の身で小屋を這い出たものが、野犬の犠牲になった。

 さいしょ異様に気付いたのは黄金丸だった。黄金丸は低く唸ると跳躍し、人を襲った野犬に喰らいついた。二匹はもみ合い、野犬は尻尾を巻いて遁走した。

 騒ぎに気付いた人々がむしろを挙げて外を覗いた。黄金丸を見た。痩せこけた野良犬とはちがう。肉の良くついた特上の獲物だ。人々は黄金丸に殺到した。黄金丸はぼうぜんとして身動きできなかった。じぶんが慣れ親しみ、信頼してきた高凉の人びととは、明らかに異なる人種だった。

 ワスケが駆けつけたとき、黄金丸は引きちぎられた肉塊と化していた。

「どうして、どうして逃げなかった」

 信じられない思いで、ワスケはつぶやいた。怒るまえに悲しかった。

「黄金丸は身を犠牲にして、己が肉を引き裂く人々に施したのです。畜生が神の心になって、畜生になった人に酬いたのです。人を責めることはできません。畜生にならなければ、生きのびられない。そんな時代に生まれた不幸を、だれが責められましょう」

 葛徳は一瞬、悲しげな横顔をワスケに見せた。しかし次の瞬間、葛徳の面貌から慈悲の面影は掻き消えていた。

「だが、ただ一人、あの男だけは許せぬ。この世の極楽と人をたばかり、無辜むこの民をかような地獄の奈落に突き落とし、はては悪鬼羅刹あっきらせつ化生けしょうせしめた、梁武帝蕭衍。素っ首刎ねて、冥土へ放ってくれる」

 梁の武帝蕭衍こそ、紛う方なき諸悪の元凶なのだ。

 葛徳のそばでクロは悲しげに、黄金丸の肉塊を手にする人々を見つめていた。

「人もまた生まれたときは畜生だ。成長するにともなって、智慧をつけ、友を見つけ、愛を知り、子を育てて、畜生が人となる。犬も同じで、人と深く接した犬は、人の愛情を享けいれ、己を人と思う。しかしクロよ、おまえには人の憎しみをけてもらわねばならぬ。さいごに畜生働きをしてもらう――」

 クロの頭をなぜながら、葛徳はゆっくりとクロに語りかけ、台城を見やった。

 そこに蕭衍はいる。張りつめた空気が、異様な緊張をかもしだしていた。


 葛徳はクロをひきつれ、台城へ入った。

 ワスケは黄金丸の首輪を形見に、若党をしたがえ、黒狗号へ立ち返った。

 シロはワスケが近寄ってもいつものようにじゃれて抱きつこうとしなかった。ワスケが手にした首輪をくわえると首を落としたまま、物陰にうずくまった。そして懐かしむように、首輪に鼻を寄せ、臭いをかいでいた。

「シロは黄金丸の子を孕んでいます。わたしたちのように」

 聞いてワスケは驚いた。あらためてシロの腹を見、お玲の腹を見た。


 台城陥落から二ヶ月、蕭衍は宮中淨居殿の臥床に身を横たえていた。夢とうつつの境がなくなっていた。八十六歳の老躯は骨と皮になり、餓死が目前に迫っていた。もはや空腹感は失せ、ただ口中の苦さだけが耐えがたかった。

「蜜じゃ、蜜じゃ。わしに一滴の蜜をくれ」

 過去の名声も、栄華の誇りも、蜜の一滴におよばない。朽ち果てる寸前の老人は、なりふりかまわず憐れみを乞うた。

「悟りの波羅蜜はらみつをこそ求めるべきに、このにおよんでなお現世快楽げんせけらくの蜜を求めるか」

 夢のなかで揶揄する声があった。ぎょっとして、蕭衍は夢から覚めた。

「たれじゃ。皇帝菩薩のわしを愚弄するは、なにやつだ」

「お見忘れかな、蕭衍どの。葛恩じゃ。もと同門の葛恩じゃよ」

 葛徳の顔が闇に浮かんだ。

「若いな。まるでともに修行したころの顔ではないか」

「さよう、いまは孫のからだを借りておるでな」

「はや、尸解仙しかいせんになりおったか」

「尋常に修行を続けておれば、おぬしとて尸解仙になっておったものを」

「――」

 短い会話はそこで途絶えた。暗闇のなかでクロの影が動いた。


 深更、台城に満月がかかっている。

 その満月に影が映った。西に向かい、長江めがけて跳躍するクロの影が映し出されたのだ。食いちぎった蕭衍の首をくわえていた。

 空腹で寝もやらず、餓死をのみ待つ多くの民が、満月に映るクロの姿を目にした。

「これは、神か仏か」

犬神いぬがみさまだ。噂に聞く、高凉の神犬ではないか」

「わしらに命を与え給うか」

 人々は影の神犬を伏し拝んだ。もう一度顔を上げたとき、雨粒が口に入った。久しぶりに降る雨は口に甘く、からだに温もりを与えてくれた。

「ありがたや。神犬が慈雨をくだされた。われらに生きる望みをくだされた」

 人びとは表へ出て雨をいただき、天に向かって合掌し、叩頭した。

 白い石畳の路面が雨に打たれ、たちまち黒く染められた。


 のちに葛徳は冼夫人に語っている。その実、葛徳の肉体を借りた葛恩なのだ。

「わしが手をつけるまでもない。蕭衍の寿命はすでに尽きており、結局、わしがさいごを看取ることになった。わしと蕭衍は若いころ道教の熱心な学徒で、江南の句曲山で修行をともにした同門の仲だった。そのころから蕭衍はたいへんな逸材で、そのまま修行をつづけておれば尸解仙しかいせんまちがいなしの折り紙を付けられていた」

 尸解仙とはしかばねを解く、つまり蝉が殻を抜けるように、魂魄が屍を抜け出て永遠の生命を得た仙人をいう。死んで葬られた己が肉体に替わり、他人の肉体を借りて生身の姿で転生する。天仙・地仙にならぶ仙人のことだ。

 これに反し、首と胴を両断された肉体から分かれた魂魄が、転生することはない。地獄ですら受入れを拒み、あの世とこの世のはざま、幽明のさかいを永遠にさまようことになる。

 だからこそ、首がふたたび胴に戻されることのないように、首をくわえたまま、クロは長江に飛び込んだ。沖合いに流れ、海底深く沈めるためだった。

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