夏が来る。

 その日の朝は珍しく限りなく晴れに近い曇りで、多く生徒のが久しぶりに雨合羽なしの自転車登校をした。湿度が高いこの季節は雨合羽など着ると気分は最悪である。やってきた解放感に心は晴れるが、それもつかの間。天気予報は外れ、昼間からまた雨。降ったり止んだりと安定しない空模様だった。

 放課後、とりあえず収まった雨脚の中、裕也が自転車で下校していると、通学路の途中でまたしても大雨。びしょ濡れになりながら裕也はいつもの小屋で雨宿りをすることを考え、秘密基地に向かう。

「これしばらく続くかなぁ……」

 足元すぐまで地面を濡らす雨。小屋の奥に座って何気なく独り言ちる。今日は生憎雨合羽を持ってきていなかったために、降り出した雨に全身を晒すこととなってしまった。

「今は身体が熱持ってるからいいけど……あぁ、そうだ」

 彼が防水加工のエナメルバッグから何かを取り出そうとした時――

「ひえ~っ! もうびしょびしょだー! ……あ」

 駆け込んできたのは、同じようにびしょ濡れになった知春。

「お、おあ」

「やほ、裕也も雨宿り?」

 突然の出来事に裕也はたじろぐ。ずぶ濡れになった制服姿の女の子と二人きり、このシチュエーションは実にお約束的、誰かの言葉を借りるならベタそのものである。

「いやぁ、今日は降ったり止んだりだねぇ」

 そう言って知春は楽しそうに裕也の隣に座る。

 透けている。何がとは言わない。このまま横目で見ているのもいいのかもしれない。

 しかし、このベタ展開に立たされた偉大なる先人たち(主にラブコメ)がしてきたような行動を、やっぱり裕也は取るのであった。彼は鞄から何かを取り出し、ぶっきらぼうに知春に渡す。

「これ、今日体育休みだったから……。着ろよ、風邪引くぞ」

 体操服。受け取った知春は一度それをじっと見つめ、それから裕也の方を向き表情を綻ばせる。

「うぉおおう! いいねいいね! 最ッ高にベタだよプラス一万点! 台詞もカンペキだ!」

 知春は当然の如く、そのベタさに興奮する。そもそも秘密基地に裕也を見つけた時点で、彼女がシチュエーションに心躍らせていたのは言うまでもない。

「ポイント制なのかよ」

 裕也は照れくささを誤魔化すように笑う。

「ふふーん! 分かってるじゃないかぁ~。よし、じゃあ私も」

 役作りの準備なのか、知春は下を向き一呼吸をし、

「き、着替えるから……あっち向いて」

 と作り声で言った。役者志望なだけある。演技と分かっていても裕也は心拍数を上げる。単純なものである。

 着替え始めた知春を見ないように彼女に背中を向ける裕也。積み上げられた週刊漫画誌が目に入った。たまたま一番上に積まれていた号の表紙は、連載二周年を突破したお色気ラブコメ漫画だった。

「よし、おっけー」

「ん」

「これ、おっきいね」

 またしてもお決まりの台詞を言う。加えて彼女は体操服の匂いを嗅いで、

「あ、裕也の匂いがする!」

 と追撃。裕也はたまらずノックアウト。しかし彼女が取ったその行動が存外演技ではなかったということを彼が知ることはない。

 青柳、と苗字の書かれた自分の体操服をクラスメイトが着ているというのはそれだけで独特の興奮……もとい高揚感があるものであった。青柳裕也十七歳、人生初の経験である。

「ありがと、裕也」

 これもまた、彼女の本心からのお礼。決まり文句だとしても悪く思っていない男子が風邪引くぞと服を貸してくれること、純粋に嬉しいことであった。

「でもこれだと裕也が風邪引いちゃうねぇ」

 シチュエーションの勢いに思わず借りてしまったけれど、実際考えてみればそういった申し訳なさが知春の胸に湧き上がる。

「いいんだよ、こういうのは。男らしさ? ってやつだよ」

「ふんふん。じゃあありがたく借りておこう」

 知春はにっと笑った。つられて裕也も笑う。

「こういうのって実際起きたりするものなんだな」

 気恥ずかしそうに裕也が言う。

「ねー。私も初体験。こんな感じなんだねー」

 小屋の中で雨をしのげ、なおかつ座ることのできるスペースとなるとそんなに広くはない。高校生がその空間にふたり、ほとんど触れ合うくらいの距離で、彼らは雨の通り過ぎるのを待つ。

 ――いや、もうちょっと、降っていてくれてもいい。

 裕也はよこしまにもそう思っていた。

 彼の左肩が、わずかに知春の右肩と触れていた。湿度も高くお互いの体温も上がっているこの状況で、触れ合ったその肩は熱を帯びる。梅雨時の満員電車で体感するように、場合によっては不快とも感じるこの状況に、裕也は静かに胸を高鳴らせていた。

 この鼓動、気づかれてない⁉ などと、少女漫画のヒロイン的独白が彼の中で叫ばれる。

 少し身体を動かして座る位置と体勢を変えれば、なんなくこの熱源からは離れることができる。しかし裕也はそうしなかった。

 ――同じように、知春もまた、その肩を離そうとはしなかった。

 沈黙に、雨音だけが重なる。ここでもしどちらかが「暑いね」などと言ってしまえば、この肩はなんとなく、離さなければいけなくなってしまう。だからふたりは、降りしきる雨の中でちょうど良い言葉を探す。

「あ……えっと――」

 裕也が、昼休みに廊下で晴天祈願の舞を踊っているらしい創太の話などをしようかと思い立った矢先、雨音の中に混ざって遠くから何やら声が聞こえてくる。

 それに気づく裕也、遅れて気づいた知春が互いに顔を見合わせ耳を澄ますとその声はだんだんと大きくなり、そうしてふたりはその声が、叫び声であるのだと気づいた瞬間――

「うおおおおおおおおおお!」

「あああああああああああ!」

 二台の自転車が、目の前の水溜りに引っかかり派手に吹っ飛ぶ。

 二人の少年が自転車から放り出され、ぬかるむ地面にしっかりと受け身をとって着地する。

「「フゥウ~! きもち――――!」」

 馬鹿が二人、びしょ濡れになって高らかに笑った。


「うわ、馬鹿がいる」

 裕也が思わず呟く。知春はうわぁと目を輝かせる。

「これもう勝ち負けとか関係ねぇ! 俺たちがチャンピオンだ!」

 意味不明な台詞を発し、泥まみれの少年たちがやりきったという表情で小屋に向かって凱旋を始める。

「あ、先客いる」

「おお、裕也! 裕也じゃないか! お前も一緒に雨と戯れようぞ!」

「え、やだ」

 帰り道、下校中の多くの生徒と同じように通り雨に遭遇してしまった創太と和樹は、濡れていく衣服がだんだんどうでもよくなり、次第に普段なら有り得ない雨に打たれるという出来事に一種の解放感と興奮を覚え始め、そのまま小屋に向かう砂利道をノーブレーキレースしようなどという提案が行われ、そうして現在に至る。

「楽しいぞ、普段打たれない雨に進んで身を晒すということは!」

「ああ、これ、なんだか心が洗われるような気分になるよ……」

 何故か清々しい顔をして、創太と和樹は裕也を小屋から連れ出そうとする。

「なんで自分から濡れにいかなきゃならないんだよ」

「じゃあ私行くー!」

「……は⁉」

 ぴょんとひと跳ねした知春は小屋を飛び出し、創太と和樹に合流する。

「う、うぉ⁉ 知春ちゃん……⁉ ……フ、いや、歓迎しようじゃないか! 男でも女でも、犬でも猫でもなんでもこい!」

「いえーい!」

「和樹! 小屋から水鉄砲持ってきてくれ! 川で弾丸装填も頼んだ!」

「よしきた」

「遊ぶぞー!」

「おー!」

 ついていけない、と頭を抱える裕也に構うことなく、三人はさらに強さを増す雨の中を踊るように跳ね回る。

 裕也はそんな光景を見ながら、いつか観た映画みたいだ、と思った。その映画は、中学生の男女が梅雨時の鬱屈とした気持ちを台風の到来に合わせて解放する、というもので、そこには思春期独特の心模様と狂気が描かれている。そのクライマックス、大雨の中全裸になった中学生が躍るシーンはとても印象的であり、そうしてやって来る突き抜けんばかりの青空と、少しだけ成長する少年少女の姿に、どうしようもなく心が揺さぶられるのであった。

 三人を遠目にぼんやりと眺めながら、裕也はあの映画は大人になって観たらまた違った風に見えるのだろうか、などと考える。そもそも大人って、何歳になったら大人なんだろうな、二十歳? 三十歳? 間を取って二十五歳くらいかなぁ――――

「裕也!」

 そんな思考は、自分の名を呼ぶ声に途切れる。

 声がした方に目を向けると、そこにはひとりの少女。

 ほんの一ヶ月ほど前にこの場所で知り合った少女。

 文化祭で一緒のステージに立った少女。

 自分の体操服を着た、ずぶ濡れの少女。

「語り部気取り?」

 小屋の中でぼんやりしている少年に向け、彼女は右手を差し出し、悪戯っぽく笑う。

 そんな風に言われたら――

 少年は湿った自分の髪の毛を右手でくしゃっと掻いた後、ニヤついて立ち上がる。

 そして、心ごと、彼女のいる方へ飛び出していく。

 心が揺れる。傾いていく。少年は気づく。確かに思う。スローモーションのように長い長い一瞬の中で笑いながら、今自分は初めて、誰かを好きになったのだと、これが恋ってものなのか、と――

 大粒の雨を全身に浴びて、少年少女は笑う、笑う、笑う。

 そこにお互いがいるだけで、楽しい。何の意味のない行為であっても、そうしているだけで意味が生まれるような、理由の全てが後からくっついてくるような。衝動に身を任せて、後先など考えないで。



「……結局雨に濡れるんなら体操服貸した意味なかったじゃねーか」

「へへー。ごめんね、洗って返すよ」

 遊び疲れた四人は草原に寝転がり、弱まってきた雨粒を浴びる。

 その場限りの衝動に身を任せ、制服が汚れることなどお構いなしに戯れる。雨続きの日々の、身動きの取れなさに、反撃を加えるかのように。

 そうしてそのままぐったりと脱力していると次第に雨は上がり、ついには久しぶりの太陽が顔を出した。

 太陽が出ても四人はしばらく動くことなく、移り変わっていく空の色を眺めぼんやりとしている。

 先程までの、いやここしばらくの雨が、曇り模様が嘘のように、世界はきらきらと輝いた。雨上がりの水溜り、濡れた木々、草花たち。何もかもが、太陽の光を眩しく乱反射させる。

 ――そして、どこか遠くから、待っていましたと言わんばかりに、懐かしい、いずれ鬱陶しくさえ感じるようになる「あの音」が、四人の耳に届いた。

「あ……蝉、鳴いてる」


 彼らの町に、夏が来た。

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forever cream soda 蒼舵 @aokaji_soda

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