綺堂炬魂の雲行き
灯宮義流
序章「秘密」
夕暮れ時、廃工場郡の中を手ぶらの女子高生が息を切らせながら走っていた。
その後を、ライダースジャケット姿の男三人が追っている。男達は目を血走らせ、必死の形相だ。
少女は後悔していた。彼等に逃げ道を塞がれ、苦し紛れに逃げ込んだのがこの廃工場郡だったが、これでは第三者と遭遇出来ず、助けを求められない。
絶望感に苛まれながらも走り続ける少女。しかしそれは、少女が固い何かに蹴躓いて転んだことで終わりを迎えた。
「うっ……うぅっ」
彼女の制服は鼻血と泥で汚れ、とうとう身も心もボロボロになった。彼女にはもう、頭を上げる力もない。
「はぁ、はぁ……へへっ、綺麗なお顔が台無しにじゃねぇか」
先頭の男性が、野卑な笑みを浮かべながら近づいてきた。走る必要がなくなり、ガラクタを蹴飛ばす余裕さえ見せる。
「ま、すぐグチャグチャにしてやるんだから、関係ないんだけどよ」
その一言は、満身創痍の少女に追い打ちをかけ、恐怖心を倍増させた。
「やめ、て……私、何もしてないのに……」
そんな少女の訴えを無視し、男は凶器を探して周囲を漁り始めた。
追いついた残りの二人も、状況を理解したのかガラクタ漁りに加わる。
「運が悪かったんだなぁ」
屑鉄を適当に放りながら、男は言った。少女に返答しているというより、独り言のようだった。
*
「アキヒコ、コイツはどうだ?」
と、仲間の一人が凶器を投げ渡してきた。やや錆びてはいるが手頃な鉄パイプだった。
アキヒコなる青年は軽く片手で素振りをし、改めてトドメを刺すために少女を睨む。
「なぁアキヒコ。コイツよく見たら結構良い女じゃねぇか。せっかくだからウチに連れて帰ってさぁ……」
だが、そこに横槍が入り、アキヒコの額に青筋が浮かんだ。
「ヘマってコイツに死体見られたテメーがよぉ、何余裕ぶっこいてんだぁ?」
「え?」
そして、横槍を入れた仲間の顔面に、アキヒコは鉄パイプを薙いだ。歯が二本ほど宙を舞う。
「ぶぁっ!」
「そんなに逝きたいなら、一緒にしてやってもいいんだぞ? なぁ!」
そして、昏倒した仲間の背中へ、さらに三発蹴りを入れた。
「おいっアキヒコ、何やってん……」
すかさずもう一人が止めに入るが、アキヒコに思いっきり睨まれ、黙ってしまった。
「オメーもこうなりたくなきゃ黙ってろよ。なぁ?」
「わ、悪かった! もう邪魔しねぇから、か、勘弁してくれ!」
必死に拒否のポーズをとる仲間を見て、アキヒコは彼に対する殺意をひとまず収め、パイプを左手に持ち替えた。
「ああ、わかったよ」
「ふ、ふぅ」
「でも次、余計なことほざいたら」
「え? あぐっ!」
しかしアキヒコは、気を緩めた仲間の首を、空いた右手で締め上げる。
「代わりにお前を女二人と一緒にしてやるよ」
「ぐ……ががっ……」
「土の中で、な」
自分に対する恐怖心をたっぷり植えつけ、アキヒコは仲間を投げ放った。開放された仲間は、苦しさのあまり激しくむせる。
「わかったら、そこで気絶してる馬鹿を車に運んでおけよ。俺はこの女を殺しとくからなぁ」
「あ、ああ」
「ついでにアイツを持ってきてくれよ。ここで両方処分するからよ」
すっかり震え上がった仲間は、彼の言うとおりに気を失ったもう一人を抱え上げ、その場から離れた。
アキヒコの目も心も、もはや人の輝きを灯してはいなかった。
改めて地面に転がる少女を見る。このやりとりに怯えてか、彼女は恐怖で全身が震えていた。
「確かに、鼻血が出てなきゃ可愛いかもしれねぇ。少なくともあのクソ女はずっと愛嬌がある。アイツは死に顔も不気味だったからなぁ」
と、アキヒコは少女によって目撃された遺体の生前を思い返した。
「アイツのせいで、俺はこんな面倒くせぇことする羽目になって……ああクソ、腹立ってきたわ」
すると、足元にあったガラクタが、八つ当たりでアキヒコに蹴飛ばされた。それは近くの建物の壁に当たり、派手に部品を散らし破砕した。
「お前はよ、もうちょっとマシな顔で、死ねっ」
その勢いで、アキヒコは両手で鉄パイプを思いっきり振り上げた。
「うぎゃっ」
しかしそれが振り下ろされる前に、アキヒコの背後からうめき声と何かが倒れる音がした。
首だけ振り返って見てみると、遠くで仲間が二人仲良くぶっ倒れていた。
「あーあ、首締めすぎたか?」
まさかもう一人まで気を失うとは想定外だった。やりすぎたことを反省する彼だったが、その前にやることがある。
少女に向き直り、今度こそ頭を叩き潰そうと鉄パイプを構え直す。
「ってぇ!」
だが、突然それは弾かれたように手から落ちた。
アキヒコは痛む両手を擦り、すぐ原因を確認した。まるで指先を鞭で手を叩かれたみたいな鋭い痛みだったが、痣のようなものは見当たらない。
「くそっ、なんだ今のは」
アキヒコは痛みを払うように両手をバタバタと振りながら、視線を目前に戻す。
その時、彼は倒れていたはずの少女が見当たらないことに気づいた。
「なっ、どこ行った!」
予想外の出来事が連続し、アキヒコは焦燥に駆られながら周囲を見渡す。
そして、すぐに夕日をバックにして佇む人影を見つけた。
最初、アキヒコはそれが少女だと思った。だが、すぐにそれが違うことに気づく。
逆光で姿形はハッキリとしないが、明らかに少女より背が高い。立ち姿も、満身創痍だった人間の立ち姿ではない。
「……気絶した、か。でも、これで怖い思いをしなくて済むよな」
少年のような声がして、アキヒコは改めてその影の主が少女でないことを確信する。
少年は、誰かを両腕で抱えているようだが、それこそが少女なのだろう。
「だ、れだ……テ、メェッ!」
焦りを押し隠すように、アキヒコは凄んだ。
だが、相手は答えないどころか、何の反応も示さない。
「野郎っ」
少年は、抱きかかえていた少女の身体を、そっと建物の壁に預けた。
「こんなボロボロにされて……」
深い憤りを篭めて、少年はつぶやく。同時に、アキヒコに明確な敵意を向けたのがわかった。
「
「なんだコイツ……気味悪ぃ」
素直な感想がアキヒコの口から出ると、少年はそれに反応するようにゆっくりと立ち上がった。
危険を察知し、アキヒコは応戦しようとすぐさま鉄パイプを拾い直す。
「クソッ、お前からぶっ殺してやる」
「答えろよ」
「っ……!」
アキヒコは絶句した。
ようやくこちらを向いた少年の顔には、ライトグリーンのジグザグな紋様が輝いていた。
「お前達に痛めつけられる理由が、朱唯のどこにあったんだ……!」
少年は、ゆっくりとアキヒコに歩み寄ってきた。少年が一歩迫るごとに、夜の色が空を染めていく。少年の紋様は、不気味なほど夜闇に映えた。
「クソッ、なんだよテメーは!」
「僕は、朱唯の友達だ」
少年の眼光が鋭くなり、紋様がその輝きを増していく。
アキヒコの恐怖は、限界に達した。
「ガキが、死ねやぁぁぁ!」
アキヒコは駆け出し、少年に全力で鉄パイプを振り下ろした。
「ぐっ!」
少年はその一撃を左腕で受けたが、苦しそうに顔を歪めた。
アキヒコは拍子抜けした。相手は明らかにあまり喧嘩慣れしていない。
威圧してきたわりにたいしたことがない少年を見て、アキヒコは鼻で笑った。
「なんだコイツ。気味悪ぃだけじゃねぇか。見掛け倒しのクソガキが!」
威勢を取り戻したアキヒコは、少年の腹を狙って鉄パイプを突き出した。
怯んでいた少年は反応が遅れ、それをもろに食らい、大きく後ずさった。
「ハハハハハハハハ! ほら、一発くらい入れてみたらどうだぁ?」
腹を抑えて呻く少年を、アキヒコは挑発した。
もはやアキヒコは、人の形相をしていない。その高揚に任せて、人殺しを楽しんでいるのである。
面妖な少年よりも、それは酷く化け物じみている。
「……あや、まれ」
「あぁ?」
腹部を抑えながら、少年が苦しげに言葉を発した。
「朱唯に、謝れよ……」
「クッ……ハハハハ! 頭おかしいんじゃねぇのかぁ?」
頭を抑えながら、アキヒコは狂ったように笑う。
「謝って、くれないんだな?」
「そりゃぁそうだろ。すぐに必要がなくなるからなぁ。それとも、冥土の土産に欲しいのか?」
「……いや、もういいよ」
諦めたようにつぶやいた少年を見て、アキヒコはとうとう観念したのだと判断した。
ならば、また抵抗する気を起こさないうちに、永遠に黙らせるほうが楽だ。
「そんな土産はいらねぇか。だったら、とっとと死ねやクソガキィ!」
アキヒコが、鉄パイプを大きく振り上げながら距離を詰めた。狙うは、俯く少年の右側頭部。
ぶっ叩かれた少年の頭からは、弾けた水風船のように血飛沫が舞う……はずだった。
「あ、あれっ?」
アキヒコは、酷く気の抜けた声をあげた。そこに居たはずの少年が一瞬で消えたからだ。
まさか懐に潜られたのかと焦って視線を落とすが、姿はない。
「くそっ、どこに逃げた!」
『なら、地獄を見て後悔してこい……!』
背後から声がして、アキヒコは振り返りながら反射的に鉄パイプを薙いだ。
しかし、そこにも何もない。
その瞬間、アキヒコの視界がフラッシュした。
同時に彼の意識はプツリと途絶え、糸の切れた人形のように地面へ倒れた。
「ウッ、ギィィィヤァァァァァァ!」
そしてアキヒコは尋常じゃない断末魔をあげたかと思うと、その場でもがき苦しみ始めた。
*
「やめろやめろやめろやめろぉぉぉ! ガァァァァァッ!」
白目を剥き、虚空に向かって必死に抵抗するアキヒコを尻目に、少年は朱唯の元へ戻っていた。
既に顔から紋様は消え、代わりに脂汗が浮き出ている。
「ごめん、間に合わなくて」
泥と鼻血で汚れた朱唯の顔を、少年はハンカチで拭き始めた。
一緒に負傷の度合いを少年なりに確認していく。転んだ時の打撲など軽傷はあるが、命に関わる状況ではなさそうだった。
ひとまずの処置を終え、少年は深く息を吐いた。
「派手にやってるわね」
物陰から人の声がして、少年はすぐに身構えた。
しかし、聞き覚えのある声だと気づくと、警戒を解いた。
「……またそういう登場の仕方か」
声の主に、少年は呆れた様子で言い返した。
身を隠していた少女が、物陰から姿を現した。朱唯と同じ制服を着たおかっぱ頭の少女で、腕に細長いものを抱えている。
「妖怪の気を感じて来てみたけど、これは人間の仕業とは思えないわね」
高校生のわりに大人びた余裕を見せる少女は、妙なことを口走る。そしてわざとらしく周囲を軽く見渡すと、腕を組んでつぶやいた。
「うーん、これは悪い妖怪の仕業ね。なんて酷いことをするのかしら。すぐにでも退治しなくっちゃ」
と、少女は抱いていたものを持ち直した。抱えていたのはなんと、刀の鞘だった。
そして少女は、まるで時代劇のように、刃を今にも抜こうというポーズをとってみせた。
空気が張り詰めたのを察し、少年は息を呑んで身構えた。
「でも困ったわ、肝心の犯人がどこにも見当たらないじゃない。ねぇ、
名を呼ばれた少年……炬魂は、鬱陶しそうな視線を刀の少女に向け、バツが悪そうにそっぽを向いた。
「
「あら、そう思う? なら光栄な評価ね。狙ってたから」
刀を背中に戻し、肩にも届いていないおかっぱの髪をいじりながら、桃葉は微笑む。
「悪いけど、僕はそういう人間が苦手なんだよ。それじゃ」
炬魂は、ぶっきらぼうに吐き捨てて帰ろうとする。
「ふーん、で、せっかく助けたお姫様は置いていくの?」
「……」
「それじゃあ、王子様の物語も、格好がつかないんじゃないの?」
「うるさいよ、桃葉」
しつこく意地の悪い言い回しで桃葉は問いかけるが、炬魂は振り返らなかった。
「僕は、桃葉が可愛い後輩を見捨てて帰るような人だとは、思ってないよ」
「ならあなたは、見捨てるような人なの?」
「僕は、人じゃない」
炬魂は噛み締めるように言った。そして、額から頬にかけて右手の指でゆっくりとなぞる。乾いていなかった生暖かい汗が指に付着し、不快だった。
「僕は、半妖怪だ。知ってるだろ?」
今は普通の人間と何ら変わらない自分の顔。しかし先程のそれは、今目の前で気絶している朱唯には見せられない、いや、見せたくない姿だ。
自然と左の拳に力が入った。鉄パイプで殴られた左腕が痛み、炬魂は顔をしかめる。その苦しげな表情には、それ以上の暗い感情も篭っているようだった。
「鉄パイプで殴られて身体が痛いんだ。帰るよ」
そう言い残し、彼がまた立ち去ろうとしたので、桃葉ははぁと息を吐いた。
「半妖怪だから、こんなことをするのが正しいってこと?」
「じゃあ、僕はどうすれば良かった」
左腕をさすりながら、炬魂は聞き返した。
「中途半端な僕が友達のために出来ることなんて、これくらいしかないんだ」
自分に言い聞かせるように言い放ち、炬魂はまた歩きだす。
「朱唯のこと、よろしく。そこで倒れてる連中は、数時間もすれば意識を取り戻すよ」
「じゃあ、今回の件は一つ借りってことにしましょう。よーし、朱唯ちゃんにあなたの王子様っぷりを、あることないこと交えて教えといてあげるわ」
「やっぱり、僕はアンタが苦手だ」
苦笑いしながら去っていく彼の背中に、桃葉は急に真面目な顔になった。
「でも私は、いつかこの刀を炬魂くんに向ける日が来ないことを、祈っているわ」
「…………どうだろうな」
炬魂の力ない言葉は、彼の姿とともに闇の中に溶けるように消えていった。
綺堂炬魂の雲行き 灯宮義流 @himiyayoshiru
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