後篇

 暑くて涼しかった昼下がりの居間は、差し込む日光の角度を大分斜めに変えていてまるで別の空間になったよう。運動部員たちの声もいつの間にか聞こえない。キヨコがリモコンを手に部屋の設定温度を少し上げると、ボタンを押す度に鳴る電子音が白けた空気をさらに小馬鹿にした。


「優しくないのね」


「俺が? ずっとキヨコの不満をちゃんと理解しようと向き合ってるだろう?」

「・・・」キヨコは無言のまま、視線を斜め下に落として目を伏せた。

「弁当屋、弁当屋だろう? 弁当屋、弁当」ノブハルは、繰り返しつぶやきながら問題になりそうな点について頭の中に列挙する素振りを継続している。そのさまをじっと見ていたキヨコは、一度瞼にぐっと力を入れて目を閉じ、その後ゆっくりと開きながら眼差しをノブハルにはらりと向けた。


「優しいのね、きっと」


その表情は柔らかで、少し微笑んでいるようにも見える。澱んでいた空気を溶かすように、キヨコの表情にはすっかり落ち着きが戻っている。応じてノブハルはますます不可解な顔をして言った。「キヨコ、何を言ってるんだい? 俺が優しいとか優しくないとか。弁当屋さんの大問題はどこに行っちゃったの?」

「いいのいいの、もういいの。もういいわ、ごめんなさい。ねぇ、気付くともう結構いい時間じゃない。そうだわ、何か美味しいものを食べに行きましょう。そうしたらきっとうまくいくわ。あなただって、そう思うでしょう?」キヨコはノブハルの反応などお構いなしに場の空気を踏み固めるように畳み掛けた。「えぇ、きっとそう。」


ノブハルはまるで面食らって一瞬ひるんだが、翻り気を取り直して言った。「あ、あぁ、それもいいかもね。きっと何かもやもやしたようなものがスッキリするんじゃないかな」そして早速ノブハルの言葉は諦めのトーンを纏い出す。「それで、キヨコは何が食べたい?」怯えるというほどではないものの、ここでまた新しい問題を発見されては敵わないと慎重に言葉を続けた。


「タイ料理かカニのどちらか」

「すごい即答だね」


ノブハルは、タイ料理屋でワタリガニを注文すればパーフェクトなのかという提案をぐっと飲み込み、この部屋と空気から逃れたい一心で「思いついたら即実行」と独りごちると、早速出掛ける準備とばかりに立ち上がる。


「あなたはどっちが食べたい?」後ろから問いかけるキヨコ。

「う〜ん、俺はどっちでもいいかな。キヨコの好きな方で。」ノブハルは、脱出への流れが澱まぬよう動作を止めずに応じたものの、肝心の回答はしっかり保留した。


結局ふたりは隣駅までほぼ無言で歩き、幾度か訪れたことのあるタイ料理屋に落ち着いた。カニ料理屋か否かの議論はなぜか行われなかった。客がちょうど入り始める時間帯で、にわかに周りが活気づいてくる。第一弾の注文を済ませタイ産のビールで喉を潤すと、キヨコは懐かしむような眼差しを手元のグラスに落としながら口を開いた。


「ねぇ、さっきはごめんなさい」

「何が? 俺の方こそ、何かこう、力になれなくって」

「私のこと、嫌いになってない?」

「なってないよ、全然。 何にも気にしてないよ」

「そう、よかった。お弁当屋さんのことは、私もう大丈夫だから」


それからは不思議なほどに会話が弾み、他人から見るとまるで付き合い始めのふたりのようにも見えたろう。キヨコはいつも以上におどけ何にでも同意するノブハルに笑いが止まらない様子で、ノブハルは嬉しそうにするキヨコの姿に安心しきった表情を隠しもしない。ひとしきり盛り上がり追加の注文も平らげたが、料理の印象はどれも薄かった。ワタリガニは食べたのかもしれないし、食べなかったのかもしれない。


 デザートは満腹でもう入らないとキヨコが会計を済ませると、ふたりはスパイスで火照ったままの口中をそのままに店を出た。ノブハルはひどく上機嫌で、前ばかり向いて家路を急ぐ。「こっちの方が近いかも」などと、大して成果に結びつかない試行錯誤を重ねている。キヨコは「ま、いっか」といった小さな溜息を漏らしたのち、ノブハルには聞こえない小さな声で言った。


「ずっと一緒にいようね」

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弁当屋ができる 不来方右京 @naoyuking

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