弁当屋ができる
不来方右京
前篇
タテヤマノブハルは、うつぶせに寝転んで通販カタログのページを繰っていた。最近越してきたこの部屋は広く、今までの家具では貧相すぎると思っているのだった。日は高く、空気の重たい夏の午後。ノブハルのいる居間の窓は開け放たれ、そして強烈にエアコンが効いている。妻のキヨコによると、こうすると不経済の代わりに、夏のまとわりつくような感触と快適とを同時に味わうことができるらしい。窓からは、近くの大学の運動部がトレーニングをしている声も侵入してくる。それは、遠くなったり近くなったり、ときに止んだりしながらしばし汗の匂いを撒く。キヨコは、塀にでも腰掛けるようにソファに浅く座り、背筋を伸ばして奇天烈な体操をしている。
「このテーブルじゃ大きすぎるかな」振り向きもせず問いかけたノブハルの声を抑え込むようにキヨコが重ねた。
「こんなことってないわ」
ノブハルはキヨコが何について言ったのか考えないまま、指でつまんだカタログから目を離さずに「うん」とだけ応じた。
「大体、おかしいっていったらないわ。まさか、お弁当屋さんの2階に住むなんて思ってもいなかったのよ」キヨコは、いかにもやりきれないといった様子で言葉を続けた。
「大問題だわ」
ノブハルはのっそりと起き上がり、足を胡坐に組み替えて向き直った。「休日の昼下がりに突然何を言い出すのかと思えば、何がそんなに気に入らないっていうんだい」未だ手元に注がれたままのノブハルの視線は、そのさまを冷ややかに見降ろすキヨコの沈黙を知らず、水彩絵の具が滲むように部屋は緊張で満ちていく。
「あなたはいつだってそうなのよ」キヨコは俄然調子を上げ、食ってかかるように言った。「真面目じゃないのよ。本当に不真面目だわ」
「ちゃんと聞いているとも。下にできる弁当屋が気に入らないんだろう?」やれやれといったように、やっと視線を持ち上げるとノブハルは言った。「だからって、何だってそんなに興奮しなくちゃいけないんだい?」
「何だってそんな、ですって?」キヨコは、本当にびっくりしたのを更に大袈裟に表現するように、大きく開いた両の掌を耳の横でヒラヒラさせながら言った。「さっきから言ってるじゃないの。下にお弁当屋さんができるのよ。そしてそれが問題だと言っているわ」
「じゃぁ聞くけど、何屋ならキヨコは納得するんだい? 大体、内見のときにまだあった健康食品のお店にだって、何だとかって言っていたじゃないか」
「何屋さんなら納得するかですって? 何屋さんだって納得なんかしないわ、絶対にね」
「お弁当屋さんであることがそんなに嫌な理由って一体何なんだよ。まったく訳がわからないじゃないか。それとも、下にお店があると何か一貫して不都合が生じるってことなのかい?」
「違うわ。私はお弁当屋さんの上に住むってことが問題だと言っているのよ、最初から」
「じゃあやっぱり、下にできるのがお弁当屋さんであることこそが問題なんだね?」
今度、キヨコは両腕を下に伸ばして拳を膝の上に並べ、ノブハルを上目遣いに見据え黙ったまま身じろぎもしない。
「わからないよ、全然。一体俺はどうすればいいんだい? 何で弁当屋が俺たちを不仲にするんだ?」
キヨコの目は少し潤んでいるようにも見え、ついにノブハルも態度を改めた証左とばかりに向き直った。「気に入らないって俺にぶつけたって仕方がないだろう。何か具体的な、こう、深夜営業がとか、衛生面がとか、何かあるだろう? その解決すべき問題の中心がさ? もちろん、できることとできないことがあるよ。もはやお弁当屋さんを追い出すわけにもいかないんだろうし、こっちだって入居したてで、どんなに気に入らなくったって、すぐに出ていくってわけには、現実的にはそりゃいかないだろう」身振り手振りを交えた大演説を終えると、ノブハルは「ね?」とばかりに微笑んだ。
その後、ふたりの沈黙は1分ほども続いたろうか。ノブハルの大演説をまったく受け止めることなく、しらけた空気の中にそのままぽつねんとしていたキヨコがようやく口を開いた。
「私は真剣に応えてほしいのよ」
「だから、まさに真剣に話しているじゃないか」
「それで?」
「そうさ」
「本当にそのつもり?」
「どう見たってそうじゃないか。弁当屋ができるとすっごく困る奥さんから、その理由をなんとか回収して、できるだけうまくいく解決法を探そうと本当に思っているんだよ」
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