ロージーとマリエール

甲斐ミサキ

【短編】ロージーとマリエール

 蛙軽井あかるい小学校にはろくな図書室がない。

 ママがそう断言して僕とマリエールを連れ出したのは六月の夕暮れ。

 五月の澄み切った茜空ではもはやない。空を見上げると、重くずっしりと濡れた大気の中で錆びた銅貨のように灰緑にくすんだ太陽が僕たち三人を照らしている。

 暑いねえ。なまっちろい顔を真っ赤に茹だらせながら僕に話しかけるマリエールに、そうだねと返す僕は繋いだ手からだらりとぶら下がって甘えるしぐさをする。

「お姉ちゃんなんだからロージーをしゃんとさせなさい」ママがマリエールを促して僕の腰あたりに発展途上の手を回させた。

 ろくな図書室がない、とする理由は理不尽なものだ。ママ曰く、

「あんな魔窟みたいなとこ」の一言に尽きる。

 ママはマリエールにはまだそれを分別できる脳味噌がちっとも形成されていなくて、なにか取り返しのつかない致死毒があなたの若い神経細胞ニューロンを痛んだもやしのようにどろどろに腐食させてしまうの、と熱弁を振るう。だから行ってはだめ。マリエールの同級生たちは放課後の図書室に競って通いつめ遅くまで家に帰らないっていうのにさ。

「本ならパパが山ほど買ってきてくれるでしょう」

 そうやってマリエールが読んで得たものは、雄蕊おしべ雌蕊めしべの仕組みや空を飛んだライト兄弟、ダイナマイトを発明したノーベルの一生。アルファベット、生活にまつわる数字の数え方、北極星の位置、マドレーヌの焼き加減、狐の嫁入りについて、野球とクリケットの違い、産まれる前に死ぬダニ、草で編んだ浮島で生活する人々のことなどだった。

 小学校に上がる前はシャルル・ペローの赤ずきんや、つむぎがが刺さり百年間の眠りについてしまった王女の話、そして竜宮城がいかに美しいかをパパやママが代わる代わる読んでくれたというのに。マリエールと僕がわくわくしながら同じ布団に潜り込んで眠たくなるまで耳を傾けていたこと、ママは忘れちゃったのかな……。


―――


 近年、蛙軽井町にモダンな鉄筋コンクリート構造で建築されたのが蛙軽井文庫だ。

 さる篤志家による私立図書館で、公立と異なり書架の内容が設立の際に「厳選」されているともっぱらの評判で、そしてこの図書館に大いなる影響を与えたとするのが滑川道夫である。

 彼は惡書追放運動の急先鋒だった。

 仄暗い駐車場の奥を抜けエスカレーターで日替わりで催される図書イベントのポスターが張り巡らされたエントランスに昇ると、とある書付が否が応でも目に飛び込む。


 青少年読物を健やかに 出版界への警告と民間勢力結集の提案 滑川道夫


「青少年を対象とする読物が一面において質的に向上を示しながらも、半面の俗惡娯楽書のハンランはひどすぎる。

 怪奇冒険探偵小説・活劇物語・空想科学小説・講談の類である。怪人・魔人・仮面・怪獣が出没し・原子銃がうなり、火星人が攻めて来る。土人が白人に殺される。がまんできない……」

 と、引用元である1955年に投稿された朝日新聞の記事を転写したものが引き伸ばされて添えられている。


―――


 当図書館ではけしからぬ、不健全な惡書をことごとく閉架し、もっぱら最近のはやりである怪魔物などは特に目の届かぬところにのけ、親御様にとって安心できる健全な児童図書室を皆様のお子様にご提供いたします。

 ちっとも分かってない。古臭い黒黴もののとんだ言いぐさじゃないか

 僕はすぐ憤慨しちゃったのに、ママはそうでもないみたい。うんうんその通りよ、間違いないとおとがいにまっすぐ伸ばした指を当て肯いている。マリエールは文章を噛み砕けずに眼をしばたたせていた。そんな様子に気づいたのかママが入りましょうとマリエールの背中をとんと叩く。僕もつられて入る。

 駅の改札口みたいなゲートを抜けた二階はすべて児童図書室になっていて、南側に大きく開いた窓のほかは三面、マリエールの背丈ほどに都合された木製の書棚がずらりと並んでいる。わああ、とマリエールが声を弾ませた。ママ、ママ分類案内があるよ!

「0番、辞書。1番、占い。2番、歴史、地理、伝記。3番、政治、経済、風習。4番、算数、理科、動物、植物、からだ。5番、ものをつくる、料理、手芸。6番、ものを育てる。7番、スポーツ、工作。8番、言葉。9番、詩、文学、俳句、児童研究、点字」

 声に出して分類を読むマリエール。

 日本のえほん、外国のえほん、赤ちゃんえほん、ちしきのえほん、むかしばなし、民話、かみしばい……グリム、イソップ、アンデルセン。

 ママ、お話の本棚がないよ。「怪傑モロモロ」とか「ファラオの恐怖実験」とかさ、分からないって? もうママったら、学校のみんなが読んでるものだよ。たとえば海野十三うんのじゅうざさんが書いた「金属人間」とか「ある宇宙塵の秘密」みたいなお話だよ! 知ってるでしょ?

 ママがもちろん知っていることを僕は知っていた。

「そういった物語はここには置いていないの」

 児童図書室なのに不思議なほどしわぶき一つ立たない深海水槽のように静かな空間を泳ぐようにして、いつの間にかおねえさんが僕たちの隣にいた。僕の頭を白い手袋が撫でる。そしてマリエールの目線に合わせるようにかがむともう一度言った。「ここにはないの」

 司書の証であるネームタグが紺色のジーンズエプロンの胸元に下げられている。さまざまな色のペンシルがポケット一杯に押し込まれて虹色の腹びれみたいだ。縁なしの眼鏡の奥にある瞳に見つめられて僕はなんだかそわそわした。どこかで見た気がするのなんだったろう。

 ママが言った。ここは健全ですね。最近は読ませたくても読ませられないものばかり。困ってしまいます。方針が素晴らしいと伺ってまいりましたの。

「当方の館長が決めたことです」

 口唇をきゅっと引締め僕の手を一層握りしめるマリエールに気付いたおねえさんは、お名前はと問うた。このこはロージー。あたしの弟よ。

 よろしくロージーとおねえさんが微笑む。よろしくと頭をぴょこりさせた僕におねえさんはおねえさんでいいわ、と三日月のように細めた目と三日月のように両端を釣り上げた口元でまた笑った。そうだチェシャー猫のにやにや笑いなのだ。

 しょんぼりとしているマリエールにおねえさんがこんな集会があるんだけど、興味ある? と一枚の紙を差し出す。


 図書館のお泊り会への招待状


 こんにちわ。蛙軽井文庫へようこそ。

 この招待状は皆さんが見たことのない図書館の裏側、夜の世界に触れてもらおうとしたためたものです。

 とはいえ、あなた自身は直接見ることは出来ません。触れることもできません。

 あなたのお友達を一人お招きしますので、都合を聞いてみてください。素敵なお土産も用意してあります。


 お友達だってさ! 弟でもいいのかな?

 マリエールの瞳がまあるく輝く。そして僕を両手で突き出す。

「もちろん、大歓迎よ」司書のおねえさんはチェシャー猫のようにまた哂った。ママは渋そうに表情をしかめた後、一人のベッドで大丈夫? と問いかけ、その質問に躊躇なしにもちろんっとマリエールが飛びつく。僕の意見はって聞いちゃいなかった。

 夜にはヒトコトバンクで実況中継しますから、とママにおねえさんが説明する。限られた文字数だけ一度に投稿することのできるインターネットのツールのことで、必要ないわとママがマリエールに禁止しているものの一つだ。またしてもマリエールにはまだ早いわと弄らせてくれないスマートフォンを使ってママがアカウントを登録している。今夜だけ特別ね。

 受け付けの後、なにしろ突然のことだったので、マリエールはおめかしが出来ていなかったのだけど、僕と一緒に澄ました顔でおねえさんに写真を撮ってもらう。夜の世界に入り込むための入館証明なんだって。あたしの代わりにたくさん見てきてちょうだいな。マリエールが僕の額に額をくっつけて念を押す。うん、任せておきなよ。


―――


 また明日とロージーに手を振りママと家路につく。パパはまた本を買ってくるのかな。学校の図書室にある面白い本だとありがたいんだけどな。実況中継が始まる前にご飯を食べなきゃと二日目のポークカレーをマリエールは急いでかきこむ。

 ママのスマートフォンがリリ、リリと鳴いた。


 一枚目:ちゃんとお泊り出来るかしら。

 真っ暗な児童図書室にシーツをかけられたロージーが写っている。ロージー以外にもマリエールのように招待状をもらったこどもたちの相方であるペンギンやイルカ、桃色のカピバラ、モログルミといったふわふわもこもこした仲間たちが一緒に横になっている。ヒトコトバンクに様子を記した一文が写真を飾る。


 二枚目:ねぐらへもぞもぞ

 一枚目とは別の角度で撮った写真。

 三枚、四枚と色んな角度で写された写真。


 五枚目:まだ眠れない……。


 マリエールはママにスマートフォンを借りロージーの代わりに抱えてベッドに潜り込んでいた。初めて行った蛙軽井文庫に気後れしていささか緊張していたのが今はそれが猛烈な眠気に取って代わっている。ホフマンが執筆した「砂男」に登場する不気味な老弁護士が目玉を奪うかの如く、眼窩Coppoに砂をかけたように瞼が重くくっつきそうだった。


 六枚目:あ、誰か起きてきた。

 シーツを跳ね除けたカピバラが他のみんなを見下ろしている。


 七枚目:こっちも起きてきた!

 八枚目:真っ暗だけど、どこ行くの?

 九枚目:「電気発見!」「つけちゃおう!」

 十枚目:図書館に住んでいるぬいぐるみたちからご挨拶。おねえさんも合流。

「本は好きなだけ読んでいいからね」「探検しちゃおう!」

 夜の吐息を吹きかけられて動き出すぬいぐるみたち。群れをなして図書館の中を練り歩いてゆく。

 十一枚目:お話会が始まります。真剣に聞いているのは安土萌あづちもえさんの「塔の中」

 博物館の塔に閉じ込められちゃうんだ。忘れられたらおしまいね。ミイラになってしまうかもしれない! そんな怖いお話。


 十二枚目:図書館のロビーにいつもいる、大きなくまさん。アッテンボロー。

「どんな本がいいの。探してあげよう」おねえさんとひそひそ話。


 十三枚目:三階にも行ってみたよ。難しい本がたくさん!

 一般書籍が開架されている書棚の前に群れ成すぬいぐるみたち。


 十四枚目:本の貸し出し、ピッピッ。今夜は特別あなたも司書さん。ピッピッ。

 図書のバーコードを読み取っているイルカ。


 十五枚目:ぞうさん、破れた本、直すぞう。


 十六枚目:何かな何かな、立ち入り禁止。ええい鎖を潜っちゃえ!

 クレタ島の地下迷宮のように広がる図書館の裏側。

 アッテンボローを先頭におねえさんが「閉架書庫」の扉を開く。その場所に到るまでの道のりは写真ではまるで分からない。

 月棲獣の生乳を搾り圧し固めたかにつややかな大理石には幻夢に潜む動物誌が浅浮彫りされている。数えるならそれが七十段の階段であると気付いたろう。

 デジタル写真には黄金虫の背中みたいに金属光沢を放って幾つものオーブが飛んでいる。決して舞い上がった塵芥が照り映えているのではない。マリエールの背丈を倍にしたって届かない高さの書棚が所狭し、放射状に広がる五十二本の廊下に整然と並び、収められた書物が呼気を放出しているのだった。

 もしかしたら。マリエールは目を瞑り、そしてゆっくりと落ちていく。


 あたしは亡国のお姫様、マリエール。あなたはロージー、弟で救国の王子様。

 本の世界で二人は遊ぶ。世界のしくみを探るために。

 あたしは雌蕊。あなたは雄蕊。ライト兄弟の飛行機は冥王星までひとっとび。ダイナマイトは世界の壁を破壊する。アルファベットは昏い神話の道標。数を数えて時間を紐解き呼ぶのは猟犬。北極星で大いなる星の暦を読むのは太古の占い。ふんわりマドレーヌの決め手はとろりと甘い秘密の秘密の蜂蜜酒。狐の嫁入り、稲荷のお社。海の底にも大きな神殿。野球とクリケット、二つは違う。似ていて違うの。私たちの知る神話、宇宙が識る神話。産まれる前に死ぬダニは命を育みまた死んで死骸を食べてはまた産むの。この世界の果ての果て。白い帆船。船の甲板。あごひげの男。草の浮島に住む人は世界の門を守ってる……。


―――


 滑川道夫が志した惡書追放を標語の如く掲げている蛙軽井文庫。その意味は読書世界からの抹殺では実はない。

「……官僚的な統制や禁止による安易で危険な方法は避けなければならない。困難ではあるが、青少年に自主的な判断力を育成する教育と民間の民主的な世論によって是正していくしかない……」

 そもそも所蔵しない、ではなく閉架、というのは……。


―――


 ??枚目:ぶあつい本がこんなにいっぱい!

 マリエールに招待状を渡したおねえさんが、古樹の皮のような剃毛した獣革のような材質の分からない乾いた書物の表紙をぬいぐるみたちに披露している。


 ??枚目:国会図書館にはあるかしら。

 がっぷりと食入るぬいぐるみたちはいまや血肉を宿しすっかり怪魔へと豹変していた。ペンギンはでっぷりとした巨魁を揺らす。イクチオサウルスのようにばりばりと甲殻類を噛み砕くことに適応した歯を幾千本も剥き出したイルカ、毛むくじゃらの獣面を明らかな人の相貌に歪めるカピバラ。口髭を鞭のようにしならせ手指へと進化した足鰭でデジカメを構えた人物に掴みかかろうと身を躍らせるモログルミ。

 その諸々は全て一冊の物謂う書物が齎した怪異。

 惡書が俗惡娯楽書とは限らないのだ。


 ??枚目:おうちでまってる あのこのために。

 薔薇色のテディベアが魔宴の中で名状しがたいおぞましい知識を貪っている。傍にいるおねえさんの表情は暗闇がうねってはっきりと写ってはいない。


―――

 五十枚目:楽しかったあ。おやすみな……さい……zzz

 夜明けの曙光を浴びながら王様ペンギンやイルカ、桃色のカピバラ、モログルミなどのふわふわもこもこのぬいぐるみたちが身を寄せ合いシーツにくるまっていた。もちろん熊のロージーも。


―――

「茉莉絵にもそろそろどうかと思って」

 パパが買ってきた本はエドモンド・ハミルトンの「暗黒星大接近!」という、キャプテン・フューチャーと仲間たちによる八面六臂の活躍が描かれている空想科学小説で、茉莉絵はその時、ロージーが選んだのよと司書さんがお迎えの際に貸し出してくれたファーブル昆虫記に掲載されている詳細なスジハナバチの巣の図版を熱心に眺めていた。

 物言いたげに見上げた茉莉絵の手元に気付いたパパが「お姫様ごっこは卒業なのかい」と造作もなくカーペットに転がっていたロージーを抱え上げぽんとはたく。

 長い睫毛の影が落ちた黒目がちの瞳はやけに狂熱を帯び、ロージーに伸びた指先が震えている。興奮が収まらない様子の茉莉絵に「帰ってきてからずっとこう」とママ。

 ロージーと共有した途方もない、それこそママが「ろくなものじゃない」と評する空想的なお話を茉莉絵は話そうかどうしようかと考えあぐねていたのだった。

 パパに促されるままに口を開く。

「あのね、ロージーがこう謂うの。

 あと少ししたら、太陽よりずっと遠くから原始地球より旧いものがくるって。

 まどろみから目覚めるって、深い海の底からも、途轍もなく力強い何かが、

 足元のずっと下のマグマ溜まりからも、遥かな時間の彼方からも。

 星がぐるぐる一巡り。そうしたらもう勉強しなくても構わないんだって。

 あたしどうなっちゃうんだろ。ドキドキする。あたしの中からも」


(了)

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ロージーとマリエール 甲斐ミサキ @kaimisaki

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