第餐襲傘話:ファフロツキーズ
Hu-mmm
完璧な機械だけが発する蜜蜂の羽音に似た振動。
「あー、I am a HQ administrator at NineKnowledge.
This HQ is located in the city of Kryugaya.
My name is Fine Jacquelin.」
声紋認識と静脈認証。十二桁の日々変わるパスコード。
『This acceptance is valid.Hi,Jacquelin.』
ぼくの声に反応して律義にスクリプトを軽やかなそれでいて温かみのあるテノールで返してくる。
雰囲気が大事。これ重要。ぼく以外が話しかけてもすぐには口を開かない。
さてと、
読者諸氏にいたっては同様の経験をして今も面食らっている方々も多いだろう。聖ノデンス病院には人が溢れているという。現在交通機関は機能不全。あるいは先輩が間に合ってなければとゾッとする。ぼくもかろうじて助かり、凍傷を免れた指で震えながらこれを執筆している。
一報は幸か不幸か
十月も中頃にさしかかろうかと、けれどまだ灼熱の暑さで喘ぐ霧生ヶ谷市に竜巻が巻き起こったのだ。突如、ぶわあんぶわあんと蚊柱が沸き立つように、霧生ヶ谷市から式王子ヶ谷山系補陀落山に向けて、正確には霧生ヶ谷市中央区から霧谷区を横切り式王子港市へと、十三キロメートルに渡ってそれは進んでいた。
竜巻は積乱雲に伴う強い上昇気流により発生する激しい渦巻きのことで、たいていの場合、漏斗状または柱状の雲を伴う。 海水面で生じた場合、海水を吸い込んで生きた海棲生物を吸い込みそれが遠くに運ばれるという現象もあるにはあるんだけど。
見上げた宙から突然に。
何が降ってきたら人は恐怖するか。
先輩の目の前に降ってきたのは氷結した
今となってはシシャモにとってのカペリンのように、秋刀魚の代替魚として目新しくもなくなった魚とはいえ、ミクロネシアのポナペ島沖深海域に棲息するディプシーラがどうやって地上から沸き立つように現れた竜巻から降ってきたんだろう。
そもそも霧生ヶ谷特有に空はかすみこそすれ、にわかに積乱雲など微塵もなく兆候も影すらなかったのだ。当時の気象状況は精査済み。
思い浮かべてみてほしい。
生息域が深海千メートルあたりと、水族館でも見かけることのない長大魚が剛直かつ鋭利な白銀の槍先のように降ってくる。
かと思えば、霧谷区では奇しくも「天の御使い」で堕ちてきた女性と同じ旅客機に搭乗して消息を絶った、ドッグ・タグのみを身に着けた男性が、あたかも子供が無邪気に粘土細工を振り回してはこねくるように引き延ばされねじられ叩き潰されたかのような、それでいて今さっきまでも息をしていたかのように、何か恐ろしいものを視たかに瞼があらんかぎり大きく見開かれて、睫毛の先まで凍てつき、眼球は最初からなかったかに抜け落ち、身体は水分が抜けきったのか、かさかさになって堕ちてきていた。
運動エネルギーは速度の二乗に比例するのに遺骸が地上まで無事だったことも奇妙なことだと思うのだけれど。
ぼくは凄惨な映像から一時眉根を寄せ机に突っ伏す。そのあと仰ぎ見るようにモニタを見上げた。瞼の上から眼球を揉む。落ち着けとばかりにほんのりとスパイシー感のある透き通ったサンダルウッドの香りが漂ってきた。サルサラは如才ない。
「サルサラ、どうなの」
真霧間科学研究所からのデータ、当時の気象状態、先輩からの報告とスマホで撮った映像を取り込ませ、データを打ち込むというよりも話す。フォークロアとは古来より口述と相場が決まっているものだから。
「ヤヨイ、霧生ヶ谷市民局の付近で最初のダウンバーストが観測されています。これにはfalls from the skies、いわゆるファフロツキーズ現象は確認されていません。が瞬間風速二十五メートルの大きな風のうねりにより街路樹のプラタナスが横倒しにされています。看板が飛んだとの報告も」
ファフロツキーズ。空からの落下物。怪雨とも呼ばれる。
一定範囲に多数の物体が落下する現象だ。
なぜ降ってきたか原因がつかめない。
明確な共通性はないが、水棲生物の落下が目立ち、それも単一種であることが多い。日本では元慶八年、
「ナトリの遭遇したディプシーラについてですが、ファフロツキーズが発生した当時、東区上空には貨物を輸送していた航空機は存在せず、事故報告もありません。そのことから飛行機原因説は除去します。また深海棲息のディプシーラを一般的な海鳥類が捕食することは不可能なので鳥類原因説も除去します」
ぼくが見つめるモニタに飛行機原因と鳥類原因の論拠と消去事由が計算され描画されては消えていく。熱帯低気圧、つまり台風による気象現象も削除されていく。
サルサラの軽やかで温かみのあるテノールがぼくの沈黙をゆるりと見守る。ぼくが黙考している間、サルサラはランドサット衛星のGaiaEngineにアクセスする。レーダー観測画像、耕作地の環境データ、飛蝗現象、鳥の群れ、降雨、気温や地表温などの気候記録、植生、人口分布からマラリア感染者数まで識ることが可能で適切な状態でぼくに差し出せるように。霧生ヶ谷市から式王子港市までの地表面を七百兆ピクセルの高精細でモニタに描画していく。
「単一種という範疇からは外れますが、興味深い映像が見つかりました」
サルサラが、当時名取先輩を乗せて走行していたバス周辺ルート六号の交通監視カメラシステムから拾った映像から画素の解像度をあげて提示してくる。
奇怪な――ディプシーラでも追っていたのだろうか。
それを登校途中だろうか、やんちゃざかりの中学生らしい一団がぐるり取り巻いている。サルサラが時間を早送りする。モニタの映像が白い防護服の一団に移り変わる。何者かの腕らしきものが回収されていく。名取先輩とのやり取りを行っているのは真霧間科学研究所の収容回収班だろう。お姉さまの姿は見当たらず。
「画像分析によれば、
……ダゴンという単語からポナペ経典、アケターブルム写本が検索されました」
「ポナペ、ディプシーラの棲息域ね。サルサラ、ポナペ経典、アケターブルム写本で検索して」
「ピラフティリからすでに回答あり。共有サーバーにアップされているアケターブルム写本を展開します」
写本をスキャンした画像と翻訳文がモニタに映る。ダゴンを狂信する深きもの、というおぞましき存在がいたこと。ポナペ島沖海域は一九四七年に原子爆弾の投下により悲惨な惨状になったことなどが当時の航空写真とともに表示される。サルサラのテノールに少し陰りが見えたように思えた。パラドスィックマシンはウィットに富んでいるがウェットでもある。
「深きもの、聞いたことはあったけど、よもやよもやその腕が降ってくるとはね。つるかめつるかめ。今回のファフロツキーズには時間を遡行したものが多分に含まれている。スーパーナチュラルな現象として捉えるべき?……」
ぼくが思考に陥り眼球を揉んでいる間にもモニタに様々な描画が現れ、そして消えていく。サルサラが取捨選択しているのではなく、ピラフティリが、真霧間科学研究所で精査し不要と断じられたものがバックグラウンド処理に回されているのだ。
「ナトリの脳波からシータ波の活性が認められました。ノルアドレナリンの分泌あり。軽い恐慌状態です。ヤヨイ、心拍数が百四十に上昇。過呼吸、過緊張からのテタニー症状が認められます。休憩を進言します」
一呼吸置くために、コーヒーサーバーから、マグカップにコーヒーを注ぎ入れに立つ。挽きたてのジャマイカ産ブルーマウンテンの豊潤な匂い。血液成分と化しているカフェイン。こくりと啜って動揺を鎮火させる。
「オーケー、続けて。ちょっと落ち着いた」
「それでは新しいデータをご覧ください」
ぼくは顔を上げた。
式王子ヶ谷山脈の峠付近に散らばっていたものをサルサラがランドサット衛星画像から拾い上げる。幸いダウンバーストによる負傷者はいなかったけど異様な光景が映されていた。それらをピックアップ、スキャニングしたのち、三次元立体画像にしてすみやかに描画するサルサラ。
「うげー」
丸みを帯びた白い乳房の乳首があるべき場所から口吻らしきものが生えている。
褐色の肉塊から足が伸びているが本来であれば曲がるはずがない角度で折れ曲がっており、筋繊維が裂けたところから桃色の内臓が覗いている。
頭部とおぼしき扁平な塊には目鼻がない代わりに異様にばかでかい耳朶が垂れ下がっており、男性器らしきものがぐんにゃりと二股三股に分かれて伸びている。
女性らしい臀部の割れ目から覗くのはぎょろりとした眼球で、これらのどれもが欠損した体の一部ではなく独立した組織塊に見えた。
地上に現出した悪夢ではない証拠に、ランドサットの時間軸を早送りすると防護服の収容回収班が現れて路面を洗浄した後速やかに去っていく様子が映し出される。
ファフロツキーズ。怪雨。一体これはなんだっていうの。
「ヤヨイ、ランドサット衛星から竜巻の進行状況を映したもの」
「ヤヨイ――」
映像がモニタに現れるや禍々しい痕跡が思考遅延をもたらす。
思い違いをしていた。
ダウンバーストが進行方向に移動して被害をもたらしているのではなかった。また竜巻と思われたものはそもそも竜巻の形さえその体をなしてなどいなかった。
おそらく最初のダウンバーストでなにものかが顕現したに違いない。
数十メートルおきに、まるで人知を超えた何かしら不可視で巨大なものが風を纏い、あるいは風に乗って、ヒトのように二足歩行しているかのごとく、その足跡、奇妙な模様とでもいうべき、
大地を
霧谷区を横切り式王子港市へと、十三キロメートルに渡って歩いていたのだ。そして病葉に触れた箇所にはほとんどの場合ファフロツキーズ現象が発生し、何らかの痕跡を遺していた。色づくには早いイチョウの木が病んだ色の葉を散らしている。
大いなる穢れだ。ぼくは急激な悪寒に襲われた。サルサラが管理している空調システムがイカレでもしたのか、歯の根が合わないほど寒く、酷く心細かった。
「「ヤヤァヨヨォイイィ」」
サルサラが新たな映像を映し出す。
その声は軽やかで気持ちの弾むテノールからほど遠くて。猛吹雪のさなかのように抑制を失い、怒りを孕み、歪んだ邪悪な原初の言語に思えて。
ありえない。
一対の巨大で赤く、禍々しく光る光点がモニタ越しにぼくを視ていた。
あの目が、赤い目が、
お前を視ていると。
サルサラが勝手に画像をズームする。赤い目がぼくを視ている。
さらに画像がズームされる。モニタ一杯に目が映し出されている。
やめろ、やめてくれ……お願いだから。
フッとモニタが落ちた。サルサラの能力に過負荷がかかりすぎたのだ。
助かった――。
刺すように冷える手指をこすり合わせ、コーヒーの入ったマグカップの取っ手を掴むと霜が降りている。途端に背骨が凍てつき動けなくなってしまった。
外宇宙のアルデバランのごとき
アハハハハハハハハハハハハハハハハハ。
誰だ。なんのことはない。
ぼくは笑い声をあげていた。ぼくをさらいにきたのだ。極北へと奴が。
窖の外から
ああ、オールトの雲から覗くのは一対の、正気を摩滅させんと禍々しく睨む赫眼。名状しがたい不可視の触腕が……なにものをも呪う遠吠え。凍てつく荒野……指先の感覚が……風に乗りて歩む死……幻聴が……何かがぼくの肩を……。
【クトゥルフ連作短編集】邪神耳袋 甲斐ミサキ @kaimisaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。【クトゥルフ連作短編集】邪神耳袋の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます