六、仁式対平塚織斗、そして麗木司良の対峙

 不意に頭の中がクリアになって、司良はぱっと目を開けた。

 夢を見ていた、ような気がする。

 真っ赤な真っ赤な、そして熱い夢だった。

 あれは炎だろうか。

 ぐるりと顔を巡らせてみる。

 いわゆる掘っ立て小屋を少しばかり高級にしたような場所に、司良はいた。

 部屋の隅に置いてあるランプにはミルク色のランプシェードが被せてあり、灯りをぼんやりと柔らかくしている。

 普段使っている場所ではないのだろう、テーブルも何も無く生活感がまるでない。

 身体を起こそうとして、右足が何かに引っ張られる感じがした。

 見てみると、縄で右足と柱が括り付けられている。

 解こうと試みるが、司良の知らない複雑な縛り方で、どうも解けそうに無い。

「ああ、目が覚めたかい」

 縄と格闘しているとぞわりと地を這うような声がして、司良は振り返った。

 ダークグリーンのスーツを纏った。長い髪の。まるで蛇のような目をした、男がいた。

「あなたは……」

「私は平塚織斗。初めまして、麗木司良さん」

「どうして俺の名前を?」

 織斗はふふふと笑った。

「『邪喰い』に関することなら、私は何でも知ってるのさ」

「邪喰い」、というその響きが神経を逆撫でされるような不快感を伴って、司良の表情が歪んだ。

「俺なんか誘拐して、どうする気なんですか」

「もちろん、君には人質になってもらうんだよ。奴は私の仕事を邪魔し過ぎたから、そろそろ始末しないとね」

「始末って……俺なんかを誘拐しても、仁式さんは全然困らないと思いますけど」

「いいや、君で十分だよ。彼は今までずっと、人間を極端に遠ざけてきた。その彼の傍にいる人間なんて、弱点と言わずして何て言う?」

「どうして仁式さんをそんなに憎むんです」

「『邪喰い』なんていてもらっては、私達死神は仕事がし辛くなるんだ。死神は『生きすぎ』の人間の死にたい心を育てて、死んでもらう。それを喰われては、仕事の邪魔なのさ」

「仁式さんは、悪いことはしていないと思います。人生に生きすぎなんて、ない」

「煩いよ、君」

 どす、と織斗の蹴りが司良の脇腹に入った。

「君がどう思おうと、自然の理に反していることは変わりないんだよ。それは正さなくてはならない」

「そんなの、人の意思を無視してます! 理由もなく、心の底から死にたくなる人なんていません。生きたいという気持ちを曲げるなんて、あんまりじゃないですかッ」

「意思は関係ないよ。必要なのは、それが理に照らして正しいかどうか」

 司良は唇を噛み締める。

「そんなこと、ありません」

 ふう、と織斗は明らかに馬鹿にした様子で溜め息を吐いた。

「この世は理で動いている。理を破ると秩序が乱れるんだよ」

「理に適っていなくたって、それで心安らかに生きていける人達がいるんです。俺は、仁式さんのしていることを間違っているとは思いません! 仁式さんがしていることは、そちらの理とかでは間違っているのかもしれません」

 司良は仁式の顔を思い出した。

 司良を心配する表情、苦しそうに邪心を飲み込んでいく顔、証明だと言った時の複雑な笑み、眉間に皴を寄せた表情も邪心持ちの相手に対する優しい顔も。

 彼が、人を幸せにしていないとは、言わせない。

「でも、俺は仁式さんを尊敬しています」

「知らないよ、そんなこと。まったく、こうなるって分かっていたら、一緒に死なせておいたのに」

 司良は、首を傾げた。

「私はね、昔、『邪喰い』と会ったことがあるんだよ。知らなかったのかい?」

 小さく頷くと、織斗はにたりと嗤った。

「四年前、舞鶴市でバス転倒炎上事件があった。知ってる?」

「知り、ません」

「そうだろうね、ローカルニュースでしか流れなかったし。で、それを起こしたのが私」

「事故を、起こした?」

「起こしたんだ。そのバスに乗った人間の中に、『生きすぎ』がいたから、事故で死なせようと思って。簡単だったよ、ふいっと式鬼を見せたら、運転手はあっさり操作を誤った」

「それは、他の人が……」

「ああ、何人かは巻き込まれて死んじゃったね。まぁ、仕方がなかったんだよ」

 壊れてる、と司良は思った。

 この人の理論は破綻している、と。

 何よりも恐ろしいのは、織斗自身がその破綻を破綻と感じていないところだ。

 一人のために大勢を殺して、仕方ないと言えるなんて正気の沙汰ではない。

「『邪喰い』は……その時大学生だったかなあ。それとも卒業してたかな。友達だかとそのバスに乗っててね。生き残ったの。その友達が庇ってね。私が話し掛けてもぼけっとしてるばっかりだったなあ。当時は『邪喰い』の力に目覚めてなかったから放っておいたんだけど、失敗したよ」

 ふふふ、と笑って織斗は腕時計を見た。

「ああ、そろそろ良いかな」

 そう、独り言ちて、携帯電話を取り出す。

 スピーカー機能を設定していたのか、呼び出し音が司良まで届くほど大きい。

 そして。

「はい、もしもし」

 その声は、仁式のものだった。

「もしもし、私だけど」

「……平塚織斗か」

 仁式は声だけで相手を判別した。

 やはりあの話は本当だったのだと、司良は胃の辺りが重くなるのを感じた。

 鳥肌が立っている自分の腕を擦ろうとして、手が震えていることに気付く。

 織斗はそんな司良を見ることも無く、ただただ上機嫌で電話を続けていた。

「久し振りだね」

「……四年振りか」

「そうだね、活躍のほどは全部知ってるよ。随分と頑張ってるみたいじゃない」

「そんなことを言うために、今まで散々嫌がらせしてきたわけじゃないだろう」

「まあね。君があんまり頑固だから」

「うちの従業員はどうした?」

「傷付けてないし何も術を掛けたりしてないよ。ただ、ちょっと縛ってるけど」

「お前は俺が憎いんだろう? そいつを巻き込むな。そいつはただのバイトだ」

「でも、人間だよ。君は相変わらず馬鹿な子だね。君は人間とは違うんだよ、人間と上手くやっていけるわけは無いのに、自分で弱点になるようなものを抱え込む。そして、こうやって私みたいなのに付け込まれる」

「おい、」

 その声はずんと重く響いた。

「俺は人間だ。人間以外の何物でもない。今も昔もこれからも。そして麗木を弱点だと思ったことは無い。仕事でも、俺個人としても、とても助けられていると思っている。お前に付け込まれたのは、俺のミスだ」

「そんなこと、興味はないね。君がどう思っていようと、彼は君のアキレス腱になる。さてと、無駄話はこれくらいにして、私の要求を言うよ」

「ああ」

「『邪喰い』の力を捨てるか、さもなければ麗木司良は五体満足で家に帰ることは出来ない」

「そうだろうな」

「返事は?」

「その前に、麗木の無事を確かめたい。代われ」

「分かったよ」

 黙って二人の会話を聞いていた司良の目の前を、小さな四角い物が落ちていった。

 携帯電話。

 拾い上げて、耳に当てる。

「もしもし……」

「麗木か。無事なんだろうな?」

「はい、足を縛られてますけど、あとは大丈夫です」

「悪かったな、こんなことに巻き込んで」

「いえ……仁式さんが教えてくれたこと、全然役に立てられてなくて、スミマセン」

「お前が無事なら、それでいいんだ」

「あの、豆太さんは?」

「小林も無事だ」

「俺、帰れますかね……」

「大丈夫だ。お前に何か、なんて俺がさせない」

 緊張と恐怖で固まっていた司良の、身体の震えが止まった。

 電話越しの声は、今までで一番優しい。

 つんと目の奥が痛くなり、俯く。

「ごめんなさい……」

「謝るのは俺の方だ。それに、ここでお互い謝り合っていても仕方ない」

「……はい」

 声が震えるのを自覚したが、止められない。

「おい、泣くな」

「う、すみません」

 電話の向こうから溜め息が聞こえたが、それは安堵に似た。

「仁式さん、『邪喰い』、止めるんですか?」

「お前の命には代えられないだろ」

 柔らかな声は、その本気を物語る。

 止めなくてはと、思った。止めたいとも。

「仁式さん……お願いですから、『邪喰い』は止めないで下さい」

 どすっと蹴りが入り意識が遠退き掛けたが、司良は携帯電話を離さなかった。

「馬鹿言うな、お前に無事に帰ってきてもらわなきゃ、困る。うちの奴等も、俺も、お前のことはもう身内と同じだと思ってるんだから」

 呼吸が、止まるかと思った。嬉しい、そしてだからこそ。

「俺も、仁式さんや皆が凄く、好きです! だから、『邪喰い』を止めて欲しくないんです」

「腕一本無いお前なんか誰も見たくねえよ!」

「俺だってそんな怖いことになるのは嫌です! でも、仁式さんは、証明してるんでしょ! それを失くしたら、どうなるんですかッ」

「死んだ人間よか生きてるテメエだっ!」

「駄目です、それでも嫌です! 死んだ人をまだ忘れてないから仁式さんはそこにいるんでしょう!」

 とうとう織斗の手が携帯電話に伸びてきたが、司良は必死に喰らい付く。

「お前こそ死んだ人間忘れられないからうちにいるんだろっ! そのために酷い目に遭うなんて馬鹿らしいと思わないのか?」

「そうです、そうでした、でも仁式さん達が待ってくれるから、俺は生きていられます、忘れないで、生きていられるんです。仁式さんだけが『邪喰い』です、止めるなんて、ダメだ……っ」

 唐突に、しん、と沈黙が落ちた。

「にんしきさん?」

「止めるな、と言ったな?」

「はい」

「撤回する気も、無いんだな」

「ありません。お願いですから、違う方法を考えて下さい」

 仁式は、小さく我が侭な奴めと呟いた。

「分かった。それなら、俺がお前を助けに行く」

「は、え?」

 織斗が何を馬鹿なと言うのが聞こえた。

「だから、呼べ」

「仁式さんを?」

「……お前、ここで他の名前呼んでどうする気だ。助けに行くから呼べよ、お前の言霊を俺に寄越せ。それを使って行くから」

 織斗は司良から電話を取り上げようと引っ張った。

 しかし司良はそれに耐え、

「仁式さん……、助けて下さいっ」

 そう、電話に向かって叫んだ。

 それに、応えは無い。

 司良の背を嫌な汗が伝う。

「仁式さん」

 二度、

「仁式さんッ?」

 三度目。そして。

「何だ」

 存外声が近いところからして、司良ははっと携帯電話から手を離した。

 かつん、と電話が落ちる。

 光が、差し込んできた。そして黒い影が現れる。

「仁式、さ……」

「おう」

 影は軽く右手を上げた。

 それは確かに仁式なのに、司良にとってはどこか違和感を感じさせるものだった。

「どうやって、ここに?」

 織斗が悪鬼羅刹の形相で仁式を見た。

「電波に乗ってきた」

 あ、と司良は携帯電話を見る。

 そして、違和感の正体に気付いた。

「そう、その電波だ」

「仁式さん、まさか……身体、」

「置いてきた、流石に肉は電波に乗れないからな」

 くす、と織斗が笑んだ。

「それはそれは。馬鹿だね、剥き出しの魂を私に晒すなんて」

「そりゃどうも」

 仁式は小屋の中に這入ってくる。

 黒い袴の裾を捌きながら。

 織斗は仁式目掛けて拳を繰り出した。

 拳が赤い光を放つ。

 しかし仁式はそれを左手で受け流し、鳩尾に拳を捻じ込むと司良の前に跪いた。

「思ったより元気そうだな」

「はい、足と、腹を蹴られましたけど、それだけです」

「良かった」

 仁式は、喜色を浮かべた。

 そして司良の頭を一つ撫でた。

「仁式さん、俺、バス事故のこと……」

「分かってる。あいつが言わないはずが無いと思ってた」

 司良は小さく頷いた。

「友達が、仁式さんを庇って死んだって……」

「ああ、そうだ」

 その瞬間見せた仁式の表情を、司良は一生忘れまいと思った。

 嵐のような激情を強く抑え込んだ、泣き出すか狂うかと不安になるほど悲しい表情は。

「友達というのは、多分俺とあいつを表現するには相応しくはないだろう。あいつは、俺を『運命の人』だと抜かしたんだ」

 縄と格闘しながら、仁式は吐き出した。

「出会ったのが大学に入学した時だ。あいつは俺をずっと夢で見ていたと言った。どういう意味か知ったのは、あいつが死んだ時だ。俺を庇って死ぬ。それが、あいつが見ていた、自分の最期だった。なのに、俺が何と言おうと、俺の傍にいた。俺はずっと、自分が人間なのか分からなくて苦しんでいた。そんな俺は人間以外の何でもないと示してくれた。俺がどれほど救われたか、俺は、それを伝えられなかった、大馬鹿者だ」

 言葉が途切れる。次を探しているようだった。

「あいつは俺の傍にいなければ、長く生きられたかもしれない。けれどそうしなかった。運命に従ったんじゃなくて……」

 しゅるり、と縄が解けた。

「俺を、個人的に生かしたかったんだと。そうしようと決めていたと。それから『お前が生きろ』と抜かして、逝っちまった。だから、俺は生きている。そして、強さを極める道じゃなく、俺が持っている力で誰かを救える道を探すことにした。それがあいつの正しさを、証明することだと思ったから」

 そして司良の足首を叩き、腕を引いて立ち上がらせた。

 と、鳩尾に拳を喰らって僅かな間意識を飛ばしていた織斗が起き上がる。

「く、そ……っ、どこまでも私に逆らって……」

「逆らいたくて逆らってる訳じゃないんだが、俺とあんたでは方向性が真逆だからな。絶対に相容れられないんだろう」

 仁式がしれっと言うと、それが織斗の怒りに油を注いだ。

「黙れ!」

 織斗は胸ポケットから札を取り出すと、それを放り投げる。

 札は煙を出しながら、次第に形を取っていく。

 太い腕。縮れた髪。頭の角。それは鬼だった。

「式鬼か……」

 仁式が舌打ちした。

「麗木、数珠は持ってるか?」

 ジャケットのポケットを探ると珠の感触があった。

「あります」

「それ、握り締めてろ。絶対に離すなよ」

 二人が話している間にも、鬼はどんどん大きくなっていく。

 やがて天井を突き破った。

 小屋が瓦解し始め、仁式と司良は外に避難する。

 織斗も後を追って出てきて、小屋は完全に崩れた。

 小屋の外は、山だった。山の中腹の開けた場所にある小屋にいたことを、司良は初めて知った。

 ここが京都市、或いは京都府内なのかどうかすら分からない。

「おい、この小屋壊しちまって良いのかよ!」

 仁式が怒鳴るが、織斗は口元だけの笑みを浮かべ、

「交渉は決裂した。私はお前を殺すよ。幸い、今のお前は、魂だけの存在。ここで死んでも肉体が死ぬのは京都だ。私に嫌疑は掛からない。勿論、麗木司良君や、お前の所の妖怪共が何を言っても、だ」

そう、応えただけだった。

「……つくづく下種だ、お前は」

 仁式は、右手を開き、左手を閉じた状態で合わせた。

「目覚めよ、八咫烏」

 その声に反応して、仁式の背から真っ黒な翼が生えた。

「その血脈にして玉依の門番は、汝に目映き花を捧げ大きなる門を開けた。汝が力を実界に顕わし給え。天より高く、風より疾く飛び、その怨敵を撃墜せよ」

 ずるずると、頭、胴、三本の足、尾が仁式の背中から生えてきて、それはばさりと羽ばたいた。

 仁式は揺らぐことなく、天を睨んでいる。

 その鳥の羽ばたきに合わせて、金色の光が飛び散る。

 大きな神獣、太陽を象徴する八咫烏の姿だった。

 八咫烏の身体が宙に浮き、完全に仁式と分かれる。

 そして仁式の白く長かった前髪が、黒く染まっていた。

「馬鹿なことを、お前の力の源を解放するなんて、」

 織斗は、八咫烏を見ながら嘲笑う。

「力の源?」

 仁式も、笑い返した。

 司良は仁式の存在感が濃密になっていくのを感じた。

「俺の力の源は俺自身だよ。生まれた時から俺と八咫烏は一つだった。だから俺は本能的に自分の霊力を八咫烏の力にぶつけ相殺してきた。そうしないと、身体を取られて獣になっちまう。つまり、相殺の必要が無くなった俺は、」

 存在感が濃密どころか、圧倒されるようだ。

 司良の目にも織斗の目にも、仁式が銀色の光を放つのがはっきりと見えていた。

「ほぼ、霊力の塊だ」

 とんっと軽く地を蹴る動きを見せた一瞬後、式鬼が一体、地響きを上げて倒れた。

 体重ではなく霊気を乗せた蹴りを喰らわせたのだ。

 あまりにも早い動きに、誰も付いていけなかった。

 倒れたのとは別の式鬼の爪を避けて、もう一度後ろ回し蹴り。

 その衝撃で飛んだ鬼を追って八咫烏が突っ込んでいく。

 と、攻撃に全く加わっていない司良に気付いた式鬼が司良に向かってきた。

 しかし、司良が握り締めていた数珠がカッと光って、式鬼を弾き飛ばす。

 司良の周りには半球状の透明な膜が張り巡らされていた。

 結界というものだと、司良は理解した。

 式鬼は懲りずに向かってくる。

 司良は一生懸命思い出しながら

「オン・アロリキヤ・ソワカ」

 と唱えた。

 すると再び数珠が光り、式鬼を吹き飛ばす。

 司良は自らの術の威力に腰を抜かし、地面に手を着く。

 式鬼が司良に攻撃を加えたことに気付いた仁式は式鬼を蹴り飛ばし、反動で飛ばされるように地面に着地した。

 と思った次の瞬間、仁式はまた跳躍する。

 仁式・八咫烏と織斗・式鬼の戦いは、一進一退だった。

 人間同士ならば霊力、体術共に仁式が圧倒しただろう。

 しかしながら、式鬼の数が多いのだ。

 仁式と八咫烏が伸したのが二体。その他に四体で、それぞれ一体ずつに仁式と八咫烏が挑んでいるのだが、八咫烏は兎も角、仁式は魂を剥き出しにした状態にあって大きなダメージを受けるわけにはいかない。

 必然的に戦いぶりは慎重にならざるを得ず、そして人智を超えた動きができると言っても、所詮人間である。

 一撃一撃に、式鬼を完全に地に沈められるほどの重みが足りないのだ。

 踵落としを決めた一瞬の間を狙って、式鬼の爪が閃く。

 霊気を盾に受身を取るが、風圧までは防げず仁式は飛んだ。

 爪の風圧が仁式の頬や腕、袖を裂いていく。

 仁式の表情が歪んだが、それもすぐに消えた。

「仁式さん!」

「大丈夫だ」

 仁式は頬の血を拭って、腕を下ろす。

 所在無く佇んでいるように見えて、切り込む一瞬の隙を窺う、閃く目が。

 力強く、安堵する。

「仁式さん、負けないで……ッ」

 語尾が掠れた。

 けれどその声は仁式に届いていた。

 仁式は司良を見て、頷いたのだ。

 瞬間、その纏う霊気が膨れ上がる。

 司良は初めて、自分の言霊の力を自覚した。

 自分の言霊がこんなにも仁式に影響するなんて。

 ならば言わなくてはいけない言葉は、負けないで、ではなく。

「勝って、仁式さん、お願いですから、勝って下さい!」

 途端、司良と相性が良い、と言っていた仁式自身が驚愕するほどに光が膨らんだ。

 司良の言葉が仁式の力に影響を与えていることに気付いた織斗が司良を攻撃しようと式鬼を向かわせるが、逸早く気付いた仁式が飛び蹴りを喰らわせた。

 式鬼は身体をくの字に折り曲げて転がっていく。

「麗木、無事か!」

「はい、俺は大丈夫ですっ」

「絶対に二人で帰るぞ。じゃないと俺が文句を言われる」

「はいっ」

 仁式は、にっと笑った。

 そしてまた地を蹴って駆ける。

 仁式の攻撃が強くなったのを見てとった織斗は、司良を攻撃するよりも先に式鬼を増やそうとしてまた札を取り出す。

 しかしそれに気付いた司良は、織斗にそろりと近付き、後ろから羽交い絞めにした。

「なっ、何だ、離せ!」

「嫌だ、離すもんかあッ」

 滅茶苦茶に暴れる織斗に振り落とされないように、両腕に渾身の力を籠める。

「こっの……!」

 鳩尾に織斗の肘が入る。

一瞬吐き気が込み上げて来たが、それを堪えて司良は指先にまで力を入れた。

 織斗の呻き声がしても構わずに、とにかく札を投げさせてはならないと遮二無二しがみ付いていた。

「麗木、そのまま踏ん張ってろ!」

「はいっ」

 仁式が短く口笛を吹くと、式鬼を翼で打っていた八咫烏が仁式の傍に寄ってきた。

 何をするのかと司良が見守っていると、仁式は跳んで八咫烏の翼に着地する。

 八咫烏は翼を大きく羽ばたかせ、仁式を空高く飛ばした。

 黒い着物の仁式は、暗い空に溶け込んでしまって見えない。

「臨」

 大きく無いはずの声がはっきりと落ちてきて、織斗も司良も、式鬼達さえもが上を見た。

「兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前……怨敵調伏」

 或る一点を起点に、銀に光る網のような紋様が広がっていく。

 神秘的な光景だった。

 その光は段段と落ちてきて、光に包まれた式鬼達が叫びを上げながら札の姿に戻る。

 最後に光が消えると共に仁式が舞い降り、音も無く着地した。

「これでお前の手駒は無くなったな」

「まだだ! まだ、私は……」

「いい加減にしろ!」

 仁式は掌を織斗の胸に叩き付けた。

そして腕を引いた時、その手には赤い糸のようなものが巻き付いていた。

「な、何だこれはっ」

「分かるだろう?」

 織斗は止めようともがくが、糸の量は増えていき、野球ボールほどの大きさになったところで糸は出て来なくなった。

 赤い珠はぼんやりと柔らかな赤い光を放ち、仁式の手と顔を紅く照らしている。

「これで、全部だな」

「まさか、」

「その、まさかさ」

「やめろ、返せェェェェ!」

 仁式は無表情に、その赤い珠を持つ指に力を入れ、砕いた。

「あああああァァッ」

 織斗はその場に崩れ、全体重を掛けられた司良は耐え切れずに手を離した。

 それにも気付かず織斗は弱弱しく手を開いたり閉じたりしていたが、いよいよ何もできないと分かると獣のように絶叫しながら仁式に掴み掛かった。

「お前、私の力を、力をぉぉぉぉぉ!」

 仁式は織斗の手を襟から外す。

 そして何の感慨も無い、冷えた目で織斗を見据えた。

「命があるだけ感謝するんだ。あいつは、死んだんだから」

 仁式の指に付いた、織斗の霊力の欠片も落ちて、地面にぶつかって消えていく。

 そして全て消えたのを見ると、

「麗木、帰るぞ」

と仁式は言った。

 もう良いのか、と問おうとして、司良はそれがとんでもなく愚問であることに気付いて、口を噤んだ。

 殺したいほど憎んでも、仁式は殺しはしない。

 役目を終えたことを知った八咫烏が、仁式の背中に戻った。

 それに従って仁式の身体を包んでいた光は消えて前髪の黒い色が抜け、いつも通りの仁式になる。

「ところで、ここは、どこなんですか?」

「大阪」

「はあっ? 大阪? 仁式さん、道分かるんですか?」

「電波通ってきたから、おおよそな。悪いが急ぐぞ、置いてきた身体が心配だ」

 仁式は頬の赤い筋を擦り、破れかけた着物の懐に左手を突っ込んで歩き出す。

 司良もそれに並んだ。

 どうしても、今、仁式の過去を知った今、話をしたかった。

「仁式さん」

「何だ」

「少し、喋ってもいいですか」

「……ああ」

「俺、昔、恋人がいたんです」

「ふうん?」

「優しくて、でも、自傷癖がある子でした。家では両親と折り合いが悪かったらしくて、というか、虐待されていたみたいでした。暴力と、ネグレクト……仁式さん、ネグレクト、分かります、よね?」

「ああ、育児放棄のことだな」

「ええ、あの子、暴力を振るわれるか、もしくは無視されて、ご飯も食べさせてもらえない状態だったらしくて。でも彼女は、俺に何も言いませんでした。いつも傷だらけなのに、辛いとも苦しいとも、痛いとすら言わなかった。俺も、一生懸命笑う彼女に、虐待されてるかなんて聞けなくて。傍にいて、一緒に遊んだり食事したり、そんなことしかできなかった。彼女の苦しみをどうにかしてやりたいのに、分からなかった。彼女は首を吊って、自殺したそうです。俺は、葬式に行ったはずなのに、その間の記憶が全然ないんです」

 仁式は、何も言わない。

 司良が語るに任せているが、聞いているのは分かっている。

「あの頃、俺はどうすれば良かったのか。彼女に、知っていると言えば良かったのか。彼女の家に殴り込みにでも行くべきだったのか。今も分からないのに、彼女は俺にありがとうって、」

 胸が詰まる。言葉が詰まる。

 それでも、今、言いたいと司良は喉に力を込めた。

「俺と出会えて良かった、ありがとうって遺書を書いたんです」

 言い切って、涙が落ちた。

「俺は、ありがとうって言われるようなことは何も、できなかったんです。それなのに、ありがとうって。俺は、後を追って死んでしまいたいと思った。何もできなかったのにのうのうと生きていたくなかったのに、いざ死ぬのもダメな気がして」

 仁式は、ぽん、と司良の後頭部を軽く叩いた。

「前に、お前に言ったな。俺が『邪喰い』をする理由は、お前の死にたい理由に半分くらい似てるって」

「はい、覚えてます」

「俺も、何もできなかった自分が憎くて、いっそ死んでしまいたいと思ったことが、ある」

「その、人の?」

「ああ。何も知らないご両親があいつの死を悲しむのを見て、俺が死んでしまいたかった。だけど、できなかった。あいつの言葉を聞いて、あいつの最期の顔を見ちまってたから」

 それで、と仁式は司良を見る。

「お前はその言葉を疑ったのか?」

「え?」

「お前の恋人は、お前と出会ったことを感謝した。お前といた間は幸せだったんだろう。死にたくても、お前は特別だった。お前はそれを、疑ったのか」

 覗き込んでくる目は、回答を放棄することを許さない。

決め付けられて、かっと頭に血が上った。

「疑ったりしてませんっ!」

「なら、それでいいじゃねえか」

「でも、俺はあの子の一番近くにいて、あの子を救えたかもしれないのに……」

「でも、救えなかったかもしれない。かもしれない、を後悔してももう遅い」

 ぎくっと司良の肩が強張った。

 司良がぐるぐると回っている場所に、仁式は斬り込んで来る。

 そして司良を傷付けながら、目を開かせていく。

「お前は、その子を一生住まわせて生きるつもりなんだろう?」

 司良が頷くと、それでいいんだと仁式の声が落ちた。

「お前がその子を忘れたくないと思い、自分は何もしてやれなかったんじゃないかって思い悩むのは、駄目だとは言わないし、同じように生きてる俺なんかには言えない。でも、その子に、お前のせいで自分は駄目になったって言うつもりか?」

「だ、めに……」

「彼女のせいでいつも後を追って死ぬことばかり考えて、人間として駄目になっちまったって言うのか」

「言いません! これは俺が、前を見てないから……ッ」

「分かってるなら、そうしろ。できなくても、やるんだ。忘れる必要はない。でも、お前が一生自分に囚われて駄目になれば良いなんて、『ありがとう』なんて言える子が、考えるか?」

「そんなこと、考えるはずないでしょう! あの子は、はるこは自分の方が辛かったはずなのに、俺の心配ばっかりしてるような人だったんだから……ッ。だから俺は、」

「お前は?」

 問い返された司良は、驚いた。

 自分は答えを引き出されようとしている。目を逸らしていた答えを。そうしようと思いながら迷っていた答えを。

「……はるこの言ったように、精一杯生きなきゃ……はるこの気持ちに失礼だ……はるこを好きな俺にも、俺を好きでいてくれたはるこにも失礼なんだ」

 呟いて、俯いた。

 そして暫く俯きながら歩いていたが、やがて目を擦り、ぐっと上げた顔は晴れ晴れとしていた。

「さて、帰るか」

「はい」

 司良は、満面の笑みを、仁式に向けた。

 あ、と仁式の口から小さな声が漏れる。

「え?」

「初めて笑った」

 笑顔で指摘されて、司良の顔が赤くなる。

「照れるな、可愛いぞ」

「可愛いって! それ、あんまり褒め言葉じゃないんですよっ」

「ほう、それは悪かった」

 あまり悪かったと思っていない様子の仁式は、懐から煙草入れを取り出し、羅宇煙管に煙草を詰めて吹かし始めた。

 足音もなく山道を歩く仁式の後を、司良の怒鳴り声が追いかけている。

 空の端が青く明るくなり始めていて。

 夜明けはすぐそこだった。


                         終

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