2. わたし らしさ




「自分らしさ」、そういうの、ヘドが出る。


 将来の夢だとか、ありのままの姿とか、自分らしい人生だとか、そんなことばかりを先生は尊そうに話すけど、そんな形のないものをどうやって探せばいいのかってことには全然触れない。

 小学3年生のとき、生徒をクレヨンに例えた教師がいた。

「あなたたちはそれぞれの個性という色を持っています。真っ白なキャンバスに32色のクレヨンで素敵な絵を描きましょう。」と新学期早々そんなことを言うから、子どもながらに辟易して、今すぐ教室から飛び出して家に帰ってソファでゴロゴロしたかったし、「ソファでゴロゴロするのが私らしさなんです」と教師に言い放ってみたかった。

 そんな教師のことを長らく思い出すこともなかったのに、今朝の出来事は良くなかった。

 私は高校まで毎朝電車で通学している。

 今日もいつものように駅のホームで電車を待っていると、「すみません」と後ろから声をかけられた。

 振り返ると、学生服を着た同年代くらいの男の子が立っていて、ハンカチでも落としたっけ、と寝ぼけた頭で思っていると彼が差し出したのは一通の手紙だった。

「ずっとあなたのことを見てました。もしよければ、お返事ください。」

 突然のことに驚いていると私の鞄のポケットに手紙を突っ込んで、彼は人が溢れるホームの人混みの中に消えていった。

 そんなドラマみたいな展開に少しドキドキしたけれど手紙を読めば読むほど、彼は私を不機嫌にさせた。


「いいじゃん、好きって言ってくれてるんだから、受け入れちゃえば」

 放課後、商店街にあるチェーン店のドーナツの店で、友達のミズキに例の手紙を読ませたのだが、彼女は私が望む反応とは反対の感想を述べた。

「えー、キモイじゃん!話したこともない私のことを、好きだ、とか、思い込みだっての。特に、老人に席をゆずる姿はあなたらしい優しさを感じた?とか妄想だから!私らしいとかないから!目の前におじいさん立ってたら気まずくて席譲るし」

「まぁ確かにストーカーっぽい文章にも思えるけど…でも電車の片思いって素敵じゃん!少女マンガみたい!」

 ミズキは自分の腕で自分を抱きしめてウネウネと体を悶えさせる。

私はミズキの手から手紙をとってぐしゃぐしゃに丸めて空の皿がのったトレーの上に放った。

「ちょっと!ひどいじゃん!」

「どうせ返事も出す気ないし…」

「って、もう帰るの?塾は?」

「体調不良って言っといて」

 トレーを持って2階から1階に降りる。紙ゴミやコップに残っていた氷を捨てながら、私は今朝の彼に「あなたが思う私なんかいません」ということを伝えてやりたい気持ちになっていた。

「すみません」

 後ろから声をかけられて振り向くとグレーのストライプのパンツスーツ姿の20代の女の人が立っていた。

「これ、落としましたよ」

 女の人が持っていたものは、私がさっきくしゃくしゃに丸めたラブレターだった。

「あ、はい」

 間抜けな返事とともにそれを受け取って鞄の中に突っ込んだ。

人にラブレターを拾われるなんて、こんなに恥ずかしいことはない。思わぬ出来事にドキドキしていると「情熱的なお手紙ですね」と女の人はからかうように笑って、私は耳まで熱くなって顔から火が出そうになっていた。まさか中身を読まれてたなんて、最悪だ。

「違うんです!これ、ほんとにただの勘違いで。こんな男、興味ないし。私らしさとか意味わかんないしそんな私いないんです。」

 羞恥で頭が沸騰したようにぐらついて、私はお姉さんにたいして何故か言い訳のような言葉や今朝の彼に対して言いたかったことをペラペラと喋っていた。


一通り喋り終えると待っていたのは気まずい沈黙だけで、お姉さんの顔を見れるわけもなくただ足元を見ていた。お姉さんの黒のパンプスにはゴールドの長方形のアクセサリーがあしらわれていてとても高そうだった。

店には学校帰りの学生や大学生風のカップルやドーナツを買いに来た親子で賑わっているのに、お姉さんと私の沈黙は無限に拡がっているようだった。その沈黙を破ったのはもちろん私じゃなくて、お姉さんのあったかい手だった。お姉さんは、私のうなだれた頭をふんわりと撫でて「私らしさなんかそんなものどこにもないのにね」と笑ってくれた。


それが私とお姉さんとの出会いで、はじめて私の言いたいことに共感してくれた人との出会いでもあった。

 そのあとお姉さんは私の愚痴をたくさん聞いてくれて、連絡先を交換して、何度か食事に行って、お姉さんの家に遊びにいくようになってから、なし崩し的なセックスをした。

 一人っ子の私にとってお姉さんは本当の姉のような存在だったはずなのに、むしろこれが自然な状態である、というかのように私とお姉さんはセックスをする関係になっていた。男の人を好きになったことはなかったけど、それは単に周りに素敵な人がいないだけだと思っていて、まさか女の人とこんな関係になるだなんて考えたこともなかった。

「悪いことしてるみたいだね」と、私とはじめてセックスをしたときお姉さんは言ったけど私はその悪いことがたまらなく嬉しくて、お姉さんに体を触られて幸せで 「私はこの人が好きなんだ」と実感した。


 お姉さんは猫みたいな人だ。

自由きままで、つかみどころのない人。

会社帰りにふらっと私の前にあらわれたり、部屋に呼び出したと思えば大量のポップコーンとともにふたりで夜通し映画を見たり、突然海外に行くと言って二週間姿を見せなかったり。

何ものにも縛られない生き方を見ていると、これがいわゆる、「自分らしさ」というものなのかもしれない、と考えたりした。あの頃の私はこんな日々がいつまでも続くと思っていた。


「もう、ここには来ないでくれるかな?」

 学校帰り、いつものようにお姉さんの家へ行くと、そんなことを言い放たれた。

「え?どうして」

「ごめんね、私、結婚するんだ」

 お姉さんは申し訳なさそうに眉をハの字にして笑った。冷蔵庫に買い置きしていた私のプリンを勝手に食べました、という軽さで。

「私たち、付き合ってますよね?」

「そうだね。付き合ってる。」

「なのにどうして。」

「私の母が、末期の癌なんだよね。余命半年。だから、母を安心させたいの。」

 大きな石で後頭部を殴られたような衝撃が走る。

お姉さんの母親が末期の癌だなんてはじめて聞いた話だった。そんな大事な話をなぜいままで一言も言ってくれなかったのか、という悲しさや、有無を言わせない理由を前に、私は下唇を噛んで自分の上着と鞄をもって玄関へ向かった。

黙って扉を開けるとお姉さんも黙って玄関に立ちつくしている。

「こんなの、お姉さんらしくないです。」

 混乱と怒りの中で私の口からでた負け犬のような言葉にお姉さんはまた困った顔で笑った。

「あなたの言う、私らしさ、ってなんなのかな。」



 あの日から頭の中でお姉さんの最後の言葉が反芻されて何も手につかないような状態になっている。

 塾通いは前にもましてサボりがちになり、それが親にバレて泣きながら怒られてしまった。親は私がグレてしまったと嘆くだけでそうなった理由なんかに興味は示さない。

すべてがどうでもよくなって学校にも行かずに、私は1人で昼間の公園を散歩していた。

 思えば私はお姉さんのことを何も知らなかったのだ。

お姉さんの家族の話も知らないし、お姉さんが商社の経理をしていることはしっていても、どんな仕事なのか具体的にわからないし、お姉さんの友人関係も知らないし、そもそもお姉さんの本名を何度か聞いたけど、なぜか今は覚えていない。

私は自分の思う理想の人をお姉さんに重ねていただけなのかもしれない。

それをお姉さんはきっとわかっていたのだ。最初から。

だから私を抱いたのだ。

だから私と恋人になったのだ。

お姉さんにとっても私にとってもそれはある意味自然な状態で、だけど長く続くものではなかったのだ。最初から。

 たまにスーツ姿のおじさんや初老のおばあさんが通るぐらいのほぼ無人の公園のベンチで、私はうずくまるように座り込んでしまった。

私が好きになった人はどこにいたんだろう。

私は確かにあのときあのひとを好きだ、と思った。

肌と肌が触れ合うのが幸せだった。

だけどきっとそれだけだった。


「肉まんいかがですかー?」

 頭上から明るい声が落ちてきて顔を上げるとミズキが立っていた。私と視線が合うとドッキリが成功したというようにニヤリと笑った。

「肉まん、買いすぎちゃったから」

 ミズキは私にコンビニの袋を渡すとそのまま隣に座った。

それきり私の方を見ることもなく、無関心そうにスマホのアプリゲームをはじめる。

私はいつの間にか目にたまっていた熱い涙を指で拭って手渡されたコンビニの袋をのぞく。肉まんが6個もギュウギュウに入っていて思わず吹き出す。

「ちょっと!肉まん、買いすぎじゃね!」

「だって美味しそうだったからさ」

 ふふ、と声をもらして笑うと、ミズキがスマホから目を離して私を見た。

「笑ってた方が、らしいよ。」

 ミズキはそう言ってくれたけど、私の心に暗い影が落ちる。

「…私らしいって、なんなのかな。」

 私の声のトーンに、ミズキは眉をひそめた。そして、うーん、と大げさに考えるジェスチャーをする。

「私らしさって、人の数だけ存在するんだよね。人の数って、その人を見ている人の数だけね。だって自分の後頭部って幽体離脱でもしない限り、自分の目で見れないでしょ?自分には見えていないところも友達からは見えてたり、友達からは見えていないところを恋人からは見えてたりするんじゃないかなぁ。」

 なんてね、とミズキは視線を空にうつして大きく伸びをした。

 その伸びは、この話題はおしまい、と言っているかのようだったし私はミズキの言葉を静かに飲み込んだ。

「ほら!冷めるから、食べて!」

 ミズキが私の膝の上に乗せた袋から肉まんを取り出して私に渡す。

少し冷めて蒸気で表面がべしゃっとしだしたコンビニの肉まんを大きな口でかぶりついた。

 肉まんの濃い味が口の中にじわっと広がって、私はまた一口、また一口とムシャムシャと肉まんを頬張った。

 ミズキは何も言わずにただやわらかく笑って私の隣で座っている。

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百合世界 岸辺 @mo-nanoka

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