弔いの花束を
たまき
第1話
死んだ彼女の話をしよう。
そこまで書いて、わたしは万年筆の手をとめた。真白い紙の一行目に、深い青色のインクが滲んでゆく。彼女の話をしよう、わたしの大好きな彼女の話を。
橙色に灯る手元の明かりが影を作る。わたしはこの不便ながらも暖かい色をした手元灯を好んで使っていた。木の机の上で書き出す文字は、わたしの中から零れ落ちる言葉たち。わたしの発する音しか聞こえない静かな部屋で、わたしはこの物語を書き上げるつもりだった。わたしの親友である彼女が、亡くなる前と亡くなったあとの物語を。
浅く長く、息をついた。すこしばかりの心構えがわたしには必要だった。彼女の名前は、夜久亜沙子。わたしの女学校時代の友人。
「ねえ、ご一緒しませんか?」
耳の奥で蘇るのはわたしの声。最初はわたしからだった。忘れもしない晴れた夏の日、わたしは友人たちと中庭でご飯を食べることを計画していた。当時のわたしは腰まで伸ばした黒々をした髪を真白いリボンで結わえるのが気に入っていた。その日も、わたしはお気に入りの白いリボンを揺らし、着物に袴、茶色いブーツを履いて仲の良い友人たちと供にゆったりした学校生活を楽しんでいた。
風呂敷に包まれたお弁当箱を軽く持ち上げながら、わたしは夜久さんに声をかけた。机の上に広げた本を読んでいた彼女はふわりと面を上げる。大きな瞳がわたしをまっすぐに見つめていた。その瞳の中に、小さなわたし。それ以上は見ていられなくて、すっと視線を避ける。その様子に夜久さんは微笑んで見せる。そして、いいえと答えた。編み込まれた髪がほつれ一つなくまとまっているのが、夜久さんの性格を体現しているよう。
その素っ気ない様子に、一緒にいた友人たちは「行こう」と視線を送ってきたけれど、わたしはまだ諦めきれなかった。
「また、今度ご一緒しましょう」
華菜さんがわたしの着物の袖を引きながら、笑顔で夜久さんに誘いかける。夜久さんは小さく頷くとまた本の世界へと戻っていったようだった。すこし剥れてみせるわたしに、華菜さんは呆れたような表情で告げる。
「夜久さんとそんなに仲良しでしたっけ?」
いいえ、とわたしは膨れたままで答えた。話をしたことは殆どない、ただ、わたしは彼女のことが気になっていた。同じ教室で学ぶ級友たちの中に如才なく溶け込みながら、それと同時に彼女だけは他の人と異なる空気を持っていた。わたしはその空気が気になり、夜久さんと知り合いになりたいを思っていた。
華菜さんはそんなわたしの胸中を知ってか知らずか、心配そうな瞳でわたしを見守っている。そして、時折猫のような印象を与える口で、深く息を吐いた。
「夜久さんのような性格のひとには、もっと少しずつお近づきになった方がいいと思うわ」
それ以上はなにも言わないと決めたように、真剣な表情で彼女は告げる。わたしはそれに、真面目な表情で頷いて応えると、そっと手を取る。そして、ありがとうと小さく告げると、先を歩く友人に追いつくように彼女の手を引いて急ぎ足をする。紺色の袴が歩くたびに音を立てるのが面白く思えて、華菜さんと顔を見合わせると、笑いあう。わたしはこういう時間をいっとう好ましく思っていた。
女学校で教えられるのは基本的に、家庭で必要になる知識。わたしたちは、花嫁修業の一環として、この学校に送られたのだった。その中で、夜久さんは学問的な知識を求めて勉学に励んでいた。先生方もそれを存じ上げていて、事あるごとにその興味の方向性を別の方面に向けられないかと度々努力をされていた。しかし、夜久さんの中にはそれ以外のことは忘却の彼方に置いてしまっているよう。何度か試みた先生もすでに諦めの境地へと変わっていた。
「夜久さんはどの分野に興味がありますの?」
偶然、図書室へ向かう廊下で一緒になったわたしは夜久さんに尋ねる。板張りの床の上を歩く二人の影が夕陽に照らされて廊下を伸びてゆく。コツコツ、と二人分ブーツの足音が響いていていた。腕に抱えていた数冊の本をかかえなおすと、二人の間に沈黙が流れる。しかし、わたしは夜久さんとの沈黙が嫌いではなかった。穏やかな静けさの中でわたしは夜久さんが口を開くのを待っていた。
「外国の文学を学びたくて、そのために英語を学びたいのだけれど」
その後に続く言葉は聞かなくとも想像することができた。女学校では最低限の知識しか得ることができない。女子として生まれた以上、わたしたちは結婚し、家を残すことが求められる。彼女が望むのはその道から僅かに外れる。
夜久さんのお父さまは貿易に関するお仕事をしていると聞いたことがあるのを思い出した。幼い頃から、外国の空気に触れて育った彼女はわたしたちとは異なる世界を見ているのかも知れなかった。
「けれど、ここで学ぶことだってとても大切なものであることは分かっているわ。だから、ここでの時間も大切にしたいの」
そう思いませんか、と微笑んだ夜久さんがわたしを優しく見つめる。彼女はわたしの気持ちを見透かしているようだった。今から思えば、わたしは彼女の姿に自由なその姿に、憧れを抱き、わたしもそちらの人間なのだと思いたいだけのような気がしていた。ただの、女学生ではない自分でいたかったのだろうと。
わたしはその時の彼女の表情とわたしの姿を思い出し、頭がくらくらとした。手元に広がる紙は、青い文字で溢れている。文字たちがわたしを飲み込んでしまいそうになるのを、手足を踏ん張って堪えているようだった。ふっと身体の力を抜き、椅子に背中を預ける。どれだけ力んでいたのかを、突きつけられた。
机の上をぼんやりと見つめると、耳元で囁かれたような気がした。
耳をすまし、その言葉を追いかける。
「ご結婚なさるのね、おめでとう」
彼女の声がぐるりぐるりと身体中をかけめぐるようだった。
わたしは再び、白い紙を用意すると万年筆を手に取った。
夜久さんとは図書館でよく一緒になるようになり、その内自然と教室内でも一緒になるようになっていた。悩みや秘密を打ち解ける仲にはなっていたけれど、愛や恋と言った話はあまりすることがなかった。夜久さんからはそのような話を聞きたくなかったこともあるし、わたしも言えずにいた。
夜久さんに言えないことは華菜さんに話をすることが多かった。そのせいか、わたしと夜久さん、華菜さんの三人は不思議な関係を築いていた。華菜さんは、誰にでも朗らかに接するひとで、夜久さんとも気が付くと仲良くなっていた。
そのような折、わたしは結婚することが決まった。相手は、父と友人関係にあるとは名ばかりの没落しかけた貴族の息子。父は、わたしを嫁がせることで貴族とのかかわりを持ち、会社を大きくしようとしていた。父にも、早からず遠からず、爵位が送られるだろうことは想像がつく。わたしは、相手の顔も知らぬまま、輿入れの日にちだけ教えられていた。
わたしは亜沙子さん――その頃は彼女を夜久さんから亜沙子さんと呼び始めていた――に結婚することになったと話をするか散々迷った末、中庭のロザリウムへと誘ったのだった。
ガラスで作られた小さなロザリウムの中は、頭上から太陽の光が差し込み、暖かい空気が二人を包み込んでいた。わたしたちはベンチに並んで腰掛ける。わたしはブーツの先の汚れを見つめていた。泥がひっかかったような汚れを見つめ、わたしはなんと言いだしたら良いのか考えていた。遠くから人の騒がしさが聞こえてくる。
そっと、亜沙子さんがわたしの耳元へ唇を寄せる。息が耳朶にかかり、背筋がぞくりを震えた。
「ご結婚なさるのね、おめでとう」
わたしは、その言葉にはっと胸を突かれた心地がした。彼女は全て知っていたのだった。わたしは弱々しく頷いた。
「もう、会えなくなってしまうのが、残念だわ」
亜沙子さんは、こつりを頭に頭を軽くぶつけ、そのまま動きを止める。あなたも、わたしを置いていってしまうのね、と彼女が小さく呟いたような気がした。わたしは、それは違うのだと叫び出したい心持ちになる。しかし、それをわたしの中の自制心が押しとどめる。はしたないことだと、誰かが告げる。
「手紙を、手紙を書きます。約束します」
わたしは明るい声で告げる。亜沙子さんは身体をわたしから離し、顔を覗き込むようにして、微笑みながらそうねと答えた。その表情にどこか儚い雰囲気を感じたけれど、わたしは約束するわともう一度力強く繰り返す。わたしにとって、亜沙子さんは強い意志を持って前へ進んでゆける、憧れのひと。それと同時に、わたしの大切な友人。だからこそ、その言葉は嘘にするつもりはなかった。
「ずっと、友人でいてくださいね」
そっと差し出した小指に、亜沙子さんの白い指が絡みつく。わたしたちは指切りを交わし、そしていつまでも大切な友人同士であると誓いあった。わたしはその後すぐに、結婚の準備で忙しくなり、きちんと別れの言葉を交わすこともできないまま、亜沙子さんと別れることとなった。
わたしは優しい夫と、時折失敗を繰り返しながらも、充実した毎日を送っていた。わたしは女学校時代の友人たちと手紙を交換していた。けれど、亜沙子さんからは一度も返事が返ってくることはなかった。わたしは、それに首を傾げながらも、返事のこない手紙を書き続けた。
第一子を産み落とした頃から、わたしが亜沙子さんに書く手紙の間隔は開くようになり、3ヶ月が半年に、1年になり、ある時ふつりを手紙を書くのをやめてしまった。もう、一方的な手紙を送ることに気持ちがついていかなくなってしまっていた。
「おひさしぶりね」
娘の梓の手を引きながらお世話になっている方への挨拶へと向かう途中、わたしは懐かしい声を聞いた。振り返ると、そこには同じように年を経た華菜さんがにこやかな笑顔で立っていた。和装のわたしとは対照的な明るい薄紅色の洋装姿で。わたしも嬉しくなり、華菜さんの手を取る。
「華菜さん、お久しぶりですね、お元気そうでなによりです」
梓に挨拶をさせると、一緒にいたお手伝いをお願いしている佐江さんに娘を預け、しばし華菜さんと近況を報告し合う。その時にふと気になって、亜沙子さんの尋ねた。華菜さんはどこか言葉を濁すようにしていたが、重い口を開きながら彼女の知っていることを話してくれた。
「亜沙子さんは、あなたが結婚した後、ひどく落ち込んで寂しそうな様子をしていたわ。その内、病気で休みがちになり、学校もそのまま辞めてしまって」
わたしはその話を聞いて、わたしの知っている亜沙子さんから想像はできないその様子に驚きを隠せなかった。
「その後のことはわたしもあまり詳しくないのだけれど。ただね、あなたが亜沙子さんに連絡を取るのは控えた方が良いと思うわ。亜沙子さんは、あなたが思っている以上に、結婚して出産することに対して憧れを抱いていたようだもの。きっと、学問の道を、と話していたのは、その思いの裏返しだったのでしょうね」
華菜さんのため息交じりのその話は、到底信じることができなかった。本当に、わたしには亜沙子さんが結婚することに対してなにも執着が無いようにしか見えなかった。
「あなたのことも、裏切られたように感じていたと、漏らしていたこともあったの。だから、彼女のことはもう忘れてしまって」
華菜さんの伏せた瞳に、まつ毛の影がかかる。洋装に身を包んだ彼女には、過去も未来もお見通しのように思えた。その反面、今聞いた話をにわかには信じることができなかった。
「亜沙子さんを忘れることなんてできないわ」
悲しげに首を振る華菜さんが苦しそうに告げる。
「では、彼女はもう病気で死んだのだと、そう思ってはどうかしら。わたしにはあの表情の亜沙子さんを見たくないの」
華菜さんの中にはわたしの知らない亜沙子さんがいる。わたしの中には、わたしの亜沙子さんが。わたしは大切なひとを苦しめることは本意ではなかった。
「分かりました、華菜さんの言う通りにしますわ」
その時、ぽつりと、わたしの手の甲が濡れた。雨だと気がついたわたしたちは、また再会することを誓い合い、暗い空気の中で別れを告げた。
わたしの中の亜沙子さんとの葬いのために書き始めた物語も、思い起こせば様々なものが抜け落ちていることに気がつく。けれど、今のわたしにはこれが精一杯だった。
机に散らばる、紙を集め、端を揃えると用意していた箱の中にそれをしまう。幼少の頃、綺麗なお菓子の箱に素敵なものを詰め込むのが好きだったけれど、素敵なものが大切なものに変わった分、おとなになった気がした。先日頂いた、洋菓子の箱には薔薇の装飾がされていた。その箱の中にこの手紙をしまう。
必要な時期が来たら、またわたしは亜沙子さんの物語を書き記す。
わたしの中の、大切な彼女の、死んだ彼女の話をしよう。
弔いの花束を たまき @maamey_c0
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