【短編】No.69

紙男

【短編】No.69

 雑然とした部屋から鍵を見つけた。小さな鍵で、色褪せたプラスチックのタグが付いている。RPGで古びた屋敷を探索して見つけたのとは訳が違うが、少しだけワクワクした。

「なにサボってんのさ?」

 声がして振り向く。恵美が不機嫌さを露にして、ドアの縁に寄り掛かっていた。

「サボってたわけじゃないよ」

「じゃあ散らかしてたの? やめてよねぇ仕事増やすの」

 俺の周りには物が散乱している。花瓶、ワイングラス、ボール、レンガ、地球儀、空き缶、帆船の模型、水差し、脚立、流木、メスシリンダー、目覚まし時計、小型の扇風機、牛骨、金槌や鋸などの工具、誰かのジャージ、派手な柄の布が何枚も。とにかくモノで溢れている。そのせいで荷物の雪崩に飲み込まれそうになったり、ロッカーの上にあった工具などが入った段ボール箱が目の前に落ちてきて、肝を冷やした。

「仕方ないだろ? 一旦出して確認しないと整理も何もできないんだ」

「なんでこんなにガラクタばっかりなのよ」

「ガラクタ言うなよ。これは全部大切なモチーフだ」

「その可哀想な屍も?」

 恵美は埃を被ったカンバスを指差した。卒業生が残した遺産の数々だ。教室前の廊下にも何十枚とある。コンクールで受賞した作品もあれば描きかけのものもある。

「これはさすがにガラクタか……。明日、まとめて解体しておくよ」

「何でもいいからとっとと終わらせてよね」

「そんなに言うなら君も手伝ってよ」

「私の仕事は流しをキレイにすること。で、君の仕事はここの整理整頓。自分の仕事はキチンとこなしなさい」

「手伝ってくれたら早く終わるよ?」

「私の方が終わってないんだから手伝えるわけ無いでしょ」

 そっちもサボってんじゃん、とは言わなかった。

「そう言えば、三組は学祭何やるの?」

「お化け屋敷的ななにがし」

「何よ、なにがしって。ハッキリ教えなさいよ」

「まだハッキリ決まってないから言いようがない。八組は?」

「ウチらはねー、ふふふ、メイド喫茶」

「マジで? それ選考通るの?」

「ま、そこまで萌え萌えな感じにはならないだろうけど」

 恵美がメイド服を着た姿を想像する。うん、中々いい感じ。

「今変なこと想像したでしょ」

 話題を変える。「そう言えばこれ、恵美の?」

「何それ?」

「鍵。整理してたら出てきたんだ」

「知らなーい。何なの、その『No.69』ってタグ?」

「どうでもいいけど、『69』ってエロいよね」

「馬鹿なの? 早く終わらせてよね」

 恵美が準備室から立ち去っても、しばし片付けには着手ぜずに鍵をボンヤリ眺めた。鍵の大きさから考えて、小さめの金庫とかロッカーとかのそれだろうが、美術室にも準備室にもそれらの類いはない。

 69……69……69……。何の数字なんだろう。何か覚えがあるような、ないような。……駄目だ、あれしか思い浮かばない。まぁいい。とっとと片付けを済ませよう。

「創太ぁ、まだ終わんないの?」

 また恵美の声が聞こえた。ちょっかい出しに現れたのかと思い、振り返る。ふと目に入った外の景色は茜と群青の美しいグラデーションに染まっていた。随分と時間が経っていたことに気づく。

「あ、もうこんな時間なのか」

「あんたってホントトロいよね」

「なんだよ、トロいって。放課後の時間で終わる量じゃないだろ、これ」

「デッサンも油絵も、ウチの倍の時間かけて描いてんのに私より全然遅いからだよ」

「時間かけて描いて何が悪いんだよ」

「悪くはないよ。でもそんなで芸大いけると思ってんの?」

「後一年で何とかするよ」

「馬鹿なの? まぁ、いいわ。んじゃ、ウチはもう帰るから」

「手伝ってくれないのかよ!」

「手伝ってあげないの~。彼氏待たせてるしね。じゃ~ねぇ~」

 ヒラヒラと手を振りながら、恵美は姿を消した。

 部屋は七割程度片付いた。しかし僕自身は片付ける前よりもごちゃごちゃとした心持ちだ。

 何であんな奴に彼氏がいるんだよ。何で俺には彼女がいないんだよ。何であいつが俺の彼女じゃないんだよ。何であんな奴好きになったんだよ。何でもっと早くアプローチしなかったんだよ。そしたら、もしかしたら――。

 自分に嫌気が差し、太股を一発殴る。が、何か固いものが太股に刺さって、予想以上の痛みに襲われた。ズボンのポケットに何かが入っていたのだ。取り出して、思わず舌打ちが出た。お前かよ『69』。

 今度は溜息が出た。もういい疲れた。今日は帰って、続きは明日だ。

 鍵のことも、明日斎藤先生に聞くとしよう。ついでに最近短髪になったことを弄ってやろう。髪を切った理由はおおよそ見当がつく。

 よっこらせとジジ臭く立ち上がった。刹那、まるでケーブルに電気が繋がって電球が灯ったように閃いた。そう言えば……。

 ベランダに出た。窒息死しそうな熱い空気に包まれる。

 スマホのライトで辺りを照らして、周囲を見渡す。そして見つけた。

 ベランダの片隅、土埃に塗れたロッカーがある。この高校が共学化する以前に使用されていた物らしい。スチール製の立方体の箱が四つ、横に二つ、縦に二つで一セットになっている。

 その一つのネームプレートに『69』という字が書かれている。いや、これはナイフか何かで掘ったものだ。出席番号にしては数が多すぎるから、単なる通し番号か、それとも何か意味があるのか。他のロッカーも見てみたが、汚れが酷くてまるでわからなかった。

 鍵を差し込むと、予想通り開錠できた。中に何か入って――


 気づけば視界がとても明るくなっていた。照明の類の明るさではなく、太陽の明るさだ。おまけに息苦しい蒸し暑さが一転、肌寒い風に晒されて鳥肌が立った。

 世界は昼間だった。驚いて立ち上がり、ベランダから外を見降ろす。グラウンドの周囲の桜は、今朝見た時は新緑が茂っていたはずなのに、今は薄紅色の花が堂々と咲き誇っていた。

 何だこれ、何が起こったんだ。

 ガチャっと音が聞こえた。慌ててそちらを見る。

「おぃ新入生君、そろそろガイダンス始めるから、中に入りなさいな」

 斎藤先生がドアを開けて立っていた。紺色のジャージを着て、長い髪を後ろでまとめている。

 斎藤先生は首を傾げる。「君、何で半袖なんだ? さすがにまだ寒いだろ」

「先生こそ、何で髪長いままなんですか? おまけにそのジャージも前着てたヤツだし」

「髪? 髪はもう何年も切ってないけど」と言った後、斎藤先生はジャージの襟を引っ張る。「それにこれは先日新調したばかりだ」

「へ?」

「まぁとにかく中に入りな」

 鍵を回収し、斎藤先生に続いて室内に入った。

 教室には去年卒業した先輩方が居た。そして恵美をはじめ、知らない同級生の姿も。皆ブレザーを着てる。

「衣替えには早すぎない?」

 恵美の近くに座ると、彼女は僕にそう話しかけた。嘲いを含む微笑みだったが、嫌な気分にはならなかった。

「ウチ、茂成もなり恵美。クラスは五組。よろしく」

 どうして今さら自己紹介を? それに恵美は八組のはず。五組だったのは――

 まさか。いや、そんなことって……。

「体調悪いの?」

「えっ? いやっ、元気だよ、大丈夫」

「そう? で、君の名前は?」

星陵院せいりょういん創太。クラスは六組」

 この仮説が確かなら、恵美はその後「『清涼飲料水』みたいな名前ね」とか言ったはず。

「せいりょういん? 初対面で言うのアレだけど、なんだか『清涼飲料水ソーダ!』みたいな名前ね」

 仮説は確信に変わった。僕は今、約一年前の、高校一年の一学期早々にいる。あのロッカーを開けたせいで。

 入部についてのガイダンスは滞りなく終わった。教室から出たばかりの恵美に声をかける。

「ねぇ途中まで一緒に帰らない?」

「口説いてるの?」

「否定はしない」

 恵美は鼻で笑った。「まぁ今日は特別に許してあげよう」

 内心でガッツポーズをした。

 雑談しながら歩き、あっという間に駅へ到着した。しかしまだ時間があるということでミスドに入った。

「清涼飲料水君はどうして美術部に入ろうと思ったの?」オールドファッションを食べながら恵美は言った。

「ちゃんと名前で呼んでくれたら教えてあげる」

 恵美は少しムッとしたが、その後咳払いをした。「創太様は何故なにゆえ美術部に入部なさるのでしょうか?」

「大した理由じゃないよ」とミルクティを一口飲む。「昔ある人に『絵描けるなら美術部に入れば?』的なことを言われたんだよ」

「そんな理由?」恵美はコーヒーにミルクを入れる。「その人そこまでマジで言ってない気がするけど?」

 君が言ったんだよ、とは言わないでおこう。加えてその後「ホントに来たの?」と驚かれたことも。

 僕が美術部に入部するのは、本来なら一年の二学期の時だ。夏休み(といっても夏期講習中に)、文化祭の準備のためにノコギリを借りようと、美術室を訪れた。その時、恵美と初めて会話をした。

 クラスは違っていたが、恵美のことは知っていた。選択科目で同じ美術の授業を受けていたからだ。それまでは彼女に対し「絵上手いんだなぁ」くらいの意識しかなかった。しかし美術室を訪れた時、汗だくになりながらも真剣に作業する彼女を見て、思わずドキッとしてしまったのだ。

 教室は机を教室の後方へ片付けた状態だった。授業中とは違うその光景は新鮮に感じた。その中央で恵美は作業をしていた。いくつもの発泡スチロールの塊に囲まれながら、それをコードが繋げられた器具を使ってカットしていた。後に知ったが、これは文化祭の時に体育館のステージのバックに掲げる装飾を作っていた。三年生を除く部員が恵美一人だけだったので、一人で黙々と取り組んでいたのだ。

「借りるならそこのホワイトボードに書いてってください」

 恵美の言葉はほとんど抑揚がなかった。何人も相手にしているから適当になっているのだろう。

 生返事をした後、恵美をチラ見しながらホワイトボードに向かった。前例に習って、学年と学級と名前、借りたい物をそこに書く。

「ああ!!」

 恵美が突然声を上げたものだから「創」の字の最後の一画がやけに長くなってしまった。

「その名前!」と恵美は指差す。「課題提出の名簿とか見てて、ずーっと何て読むか気になってたんだよねぇ。ねぇ何て読むの?」

 僕は答え、あの言葉を彼女から言われた。さらにその後「マジでない言葉」も言われた。

 ポン・デ・リングの最後の一欠片を頬張る。「恵美、さんは、やっぱり絵描くのが好きだから入ったの?」

「それもあるけど」恵美はコーヒーの最後の一口飲んだ。「私、ちょっと体弱くってさ、激しい運動できないんだよね」

「えっ、そうだったの?」

 それは初耳だった。

「まぁ大したことじゃないよ。体育の授業を休むことがあるくらいで、日常生活にはさほど支障ないし。――そろそろ行こうか」

 返答に困っていることを悟られたのだろうか。恵美は間もなく椅子から立ち上がった。


 雨の季節が過ぎ、暑さが本格化してきた頃、僕は恵美に告白をした。放課後の二人きりの美術室で文化祭の準備をしながらだ。ムードもヘッタクレもないと恵美は不満を口にしたが、結局はOKしてくれた。

 それからの毎日は本当に楽しくて、あっという間に過ぎ去っていった。

 

「あ、先生髪切ったんだ」

 放課後、恵美と美術室に来てみると、ショートカットの斎藤先生の姿があった。腰にかかりそうなほど長かった髪が、スポーツ刈りに近い長さまで短くなっていた。

「変か?」

「いや、やっぱりそっちの方が似合ってますよ」

 刹那、尻に痛みが走った。恵美に思い切り抓ねられたのだ。

「もしかして彼氏さんと別れちゃったんですか?」

「まぁそんなところだ」と斎藤先生は淡白に言った。「あ、そうそう。君たち、美術室と準備室の大掃除、来週中にやっておけよ」

「えー面倒臭い」

「そんなんだから新入部員が入らないんだぞ? 今年の文化祭はステージバック以外にも校門に飾るアーチも作るのに、どうするんだ?」

「先生入れて三人いれば何とかなりますって。去年だって、実行委員の手伝いやりつつも余裕で完成できたんですし」

「星陵院、君の彼女はどうしてここまで楽観的なんだ?」

「僕に対しては悲観的なところが結構ありますけどね」

 斎藤先生は鼻で笑った。「まぁとにかくやっておいてな」

 生返事をして、その場をやり過ごした。 

 部活の後、恵美の誘いで帰りに書店に寄った。駅の近くにある老舗デパート内にある、この辺りでは一番売り場面積が広い書店だ。恵美はまっすぐに『美術』のコーナーに向かった。てっきりフェルメールとかゴーギャンとか、そのあたりの画集などを物色するのかと思っていた。

「『幻想生物百科』?」 

「面白いんだよ、これ」

 横からページを覗く。二匹が互いの尾を飲み込んでいる龍、ウロボロス。巨大な烏賊の怪物、クラーケン。頭が三つある地獄の番犬、ケルベロス。額に美しい一角を携えた馬、ユニコーンなどなど。ファンタジーの世界ではお馴染みの空想上の生き物たちが、濃厚な内容の文章と重厚なタッチの挿絵によって解説されていた。

「こういうの好きだったんだ」

「うん、中二病臭くて好き」

「へー意外」

「そう? いつもフツーにゲームの話とかしてるじゃん」

「確かにそうだね。――もしかしてこういうイラストとかも描いてたりする?」

「描いてないけど、描きたいなーとは思ってる。できたらペンタブとか使って」

「家にそれ系の本あるから、貸そうか?」

「えっ、ホントに?!」恵美は目を輝かせた。「さすが持つべきものは彼氏だな!」

 調子いいなとは思いつつ、素直に嬉しかった。


「分担どうする?」恵美は軍手をブラブラさせながら言った。

「二人で一緒のところやらない?」あの時と同じ提案をしてみる。「その方が早く終わりそう」

「オッケー」

 同じ返答じゃなくて安心した。

 まず流しの掃除から始める。こびりついた油絵の具や水垢を丁寧に落としていく。蛇口のところも入念に。集中した甲斐があって、一時間強でピッカピカになった。

 そして続いては準備室の掃除だ。ここは一筋縄では攻略できない。

「うぁあ、改めて見るとキッタネー」恵美は顔を顰めた。「このカンバスとかもう使わないよね?」

「ないね。枠組みもガタガタで布の張りも甘いし。明日、僕がベランダで解体しておこうか?」

「あ、いい? じゃあ運び出しは一緒にやるよ」

「ついでに他のものも一旦外に出そうか」

「りょーかーい」 

 やはり二人でやるのは効率が良かった。順調に作業が進んでいく。

「そう言えばさ」恵美は重なり合っているカンバスを一枚一枚引き抜きながら、訊ねる。「三組は学祭何やるの?」

「お化け屋敷とか、そういうアトラクション的なやつ」

「へー定番で面白そうだね」

「八組は?」

「ウチらはねー……って、あれ?」

「どうしたの?」

「何かが引っかかって! 上手く! 引き出せないぃー!」

「あ、あんまり無理しない方が――」

「きゃっ!」

 途端、カンバスは勢いよく引き抜かれた。恵美はその反動で数歩下がり、ロッカーに背中をぶつけた。

「危な――!」

 反射的に手を伸ばしたが、間に合わなかった。工具が入った重い段ボール箱が恵美の後頭部に落下した。倒れた床に、今まで見たきたどの赤よりも鮮やかな赤が、ジワジワと流れ出た。

 恵美は病院に急送されたが、間もなく息を引き取った。

 打ち所が悪かった。運が悪かった。君は悪くない。そんな言葉を何度も何度も言われたが、そんなものは何の慰めにも気休めにも、ましてや戒めにすらならなかった。

 僕が悪かった。僕が悪かった。僕が悪いんだ。

 あれからどのくらいの時間が経っただろうか。ずーっと部屋に引き籠っていたので、時間の感覚がまるでなかった。もうネクタイで首でも吊って死んでしまおうと思い、クロゼットを開けた。

 それはゴミ溜めに天使が降臨したような心持ちだった。そうだ、お前がいた!

 それを掴んで、部屋を飛び出す。薄暗い道を全力で走り、戸締りされる直前の学校に駆けこんだ。はやる気持ちを抑え、誰にも見つからないよう、美術室のベランダに到着した。

 道中ずっと握りしめていたそれに目を落とす。頼むぞ、『69』!

 ロッカーを開け、そして戸を開ける。


「ねぇ、分担どうする?」

 ベランダの入口に、元気な恵美の姿があった。凛として、だけど甘えん坊なところもあって、ゲームが好きで、面倒臭いのが大嫌いな恵美が。

「えっ?! ちょっと、何で泣いてんの!?」

「……ちょっと、目にゴミが入っただけだよ」袖で顔を擦る。「分担は別れてやろうか。僕が準備室やるから、恵美は流しやってもらえる?」

「う、うん……」

 準備室に入って、真っ先にあの段ボール箱を床に下した。叩きつけるようにやったため、恵美が驚いて駆けつけてきたが、平静を装った。二時間程度して恵美が様子を見に来たが適当なことを言って中に入れないようにした。

「創太ぁ、そろそろ帰らない?」

 恵美が少し心配した表情を浮かべながら現れた。ふと目に入った外の景色は茜と群青の美しいグラデーションに染まっていた。

「うん、帰ろうか」

「……」

「ん? どうかした?」

「ううん、何でもない!」恵美は笑顔で僕の手を引いた。「行こ!」

 蒸し暑い空気が立ち込めていた。昼間の暑さが居座り続けているような感覚だ。風がほとんど拭いていないことも要因だろう。

「まだ梅雨前なのにマジで暑いねぇー」恵美はYシャツの第二ボタン辺りを摘まんで、パタパタとした。「ねぇ、今年の夏休みも海行こうね」

「うん、行こ行こう」

「……」

「え?」

「やっぱり今日の創太、何か変」

「そうかな?」言い訳の言葉を考える。「改めて恵美の魅力に気がついたんだよ」

 恵美は怪訝な顔をしたが、ほどなくそれを解いた。「ま、そういうことにしておこう」

「海行くなら、ステージバックとアーチのデザイン、とっとと決めないとね」

「だね。あーあ、メンド臭ぁー」

 そこまで面倒臭そうに思っていない横顔に、胸が熱くなった。

 もうすぐ駅に到着するというところで、数m先の横断歩道の信号が点滅し始めた。

「走るよ!」

「! ちょ、ちょっと――」

 道路に飛び出した途端、僕の見る世界はゆっくりになった。すぐ隣にトラックがいたからだ。

 轢かれる。冷静にそれがわかった。これから楽しい日々が戻ってくるというのに、あぁ、残念だ。でも、恵美が死なずに済んだのなら、それで――

 鼓膜を劈くような、甲高いブレーキ音が聞こえた。背後から聞こえた。振り返ると、トラックが斜めに停車していた。恐る恐る、トラックが進もうとしていた方向に目を向ける。

 恵美が倒れていた。手足や首があり得ない方向に曲がっていた。面白半分にポーズを取らせたデッサン人形のようだった。――全身、真っ赤だった。


「まだ帰ってなかったの?」

 声がして、咄嗟に手を後ろに回した。ベランダの入口の縁に、斎藤先生が寄り掛かっていた。ほの暗い中で、斎藤先生の双眸そうぼうが鋭く光っているように思えた。

 斎藤先生は僕に近づいてきて、手を出した。「今隠したものを渡しなさい」

 こんなことは白を切ればやりすごせるだろう。しかし僕は斎藤先生の言葉に正直に従っていた。

 斎藤先生は鍵を見て、深く溜息をついた。「まさか合鍵があるなんて」

 どういうことですか?

「私もこれを持ってるってこと」

 斎藤先生はジャージのポケットからものを取り出し、僕の前に掲げた。『No.69』と同じ鍵だった。

「そしてもちろん、これがそこのロッカーの鍵で、開けると時間跳躍タイム・リープができるってことも知ってる」

 それじゃあ、先生も……。

「どうしても助けたかったんだ」斎藤先生は鍵を強く握る。「でも何度やり直しても、彼を生かすことは出来なかった。おまけに、その死に方はドンドン無惨なものになっていった。百回以上やって、とうとう諦めた。どんなに足掻いても、彼の死は免れないんだと悟ったんだよ」

 それで髪を切ったんですか。

「そしてこの髪型を見て、君は『』って言った。だからもしかしてと思ったんだ」

 ……先生、僕は――。 

「君が何回ループを繰り返してるかは知らない。だけど、もう諦めた方がいい。茂成のためにも。そして君の為にも」斎藤先生は僕に鍵を握らせた。「これが最後だ。運命を元に戻して来きなさい」

 少し考えて、僕はロッカーの鍵を開けた。


「創太ぁ、まだ終わんないの?」

「あ、もうこんな時間なのか」

「あんたってホントにトロいよね」

「時間かけて何が悪いんだよ」

「悪くはないよ。でもデッサンも油絵も、ウチの倍の時間かけて描いてんのに、私より全然遅いじゃん。そんなで芸大いけると思ってんの?」

「後一年で何とかする」

「馬鹿なの? まぁ、いいわ。んじゃ、ウチはもう帰るから」

「手伝ってくれないのかよ!」

「手伝ってあげないの~。彼氏待たせてるしね。じゃ~ねぇ~」

 ヒラヒラと手を振りながら、恵美は姿を消した。それを追って、急いで廊下に出る。

「恵美!」

「! ビックリした~。何よ、いきなり……」

 一旦呼吸を整え、ずっと言いたかった言葉を伝える。「また明日ね」

「え? う、うん、また明日」

 その夜、恵美は自宅で突然の心臓発作を起こし、息を引き取った。



「おー、星陵院!」

「あ、先生! 実は――」

「芸大合格したんだってな。やぁー、おめでとう」

「えー、今自分の口から報告しようと思ってたのに……」

「あっ、ゴメン……。それにしても、よく頑張ったな」

「努力した甲斐がありましたよ」

「向こうでも、ちゃんと絵描くんだぞ」

「はい、頑張ります!」

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