イニシャルG

道草屋

イニシャルG

ある晴れた日の朝だった。


いつものように出勤し、僕は給湯室でコーヒーを飲んでいた。


ティースプーン大さじ一杯分だけの薄っぺらい色と味を噛み締めていると、同僚が機嫌の悪い顔でやってきた。


「聞いてくれよ」


と、彼は独りでに語り始める。


「駐車場にじーさんがひっくり返ってたんだ」


思わずコーヒーを吹き出しかけた。


「どこでなに食ってんのか知らないけど、ブクブク太ってやんの。ありゃきっと、隣が飲食店だから寄って来たんだろうな。残飯目当てだよ」


「財産目当てみたく言うなよ……。それで、どうしたんだ?」


「は? 無視に決まってんだろ。あんな死にかけのじーさんなんて。朝から気持ち悪ぃぜまったく」


僕は同僚を押し退けて、店の外に飛び出していた。


死にかけのじーさんがひっくり返ってたって? それを放置しておいて、気持ち悪いだ?


なんて冷徹非道な! 人面獣心め!


浮浪者だろうがなんだろうが、手を差しのべないなんて、人間のすることじゃない。


憤りの勢いに任せてスマホを取りだし「119」をプッシュした、そのときだ。



僕は「じーさん」と邂逅した。



清々しい朝陽の下、脂汗でも掻いたかのように、そいつはぬらぬらと不気味にてかっていた。


同僚の言うとおり、丸々とした体躯の持ち主だった。


建物の壁に体を預け今にも息耐えそうな様子で手足を引きつらせている。





ゴキブリだった。





僕は埴輪のように虚ろな眼差しでそいつを見つめた。


なるほど、確かに「死にかけの(イニシャル)じーさん」がひっくり返っている。


数秒前、鼻息荒くいきり立っていた、その理由を思い出す。


――、手を差しのべないなんて、人間のすることじゃない。


「……」


僕はスマホを尻ポケットに押し込み、Gさんの前で膝を折った。


瞼のない双眼と視線が絡む。


ゆっくりと手を差し伸べると、Gさんの脚の一本が、救いを求めるようにぴんと張る。


一人と一匹の指先が触れるまで、あと、数センチ――――。







僕の手はそのまま空を切り、壁に立てかけてあった掃除用の箒を掴んだ。


「いやゴキとかマジきめぇ」


だって、人間だもの。




ゴキちゃんはそのまま、ゴミ袋にポイされましたとさ。

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イニシャルG 道草屋 @michikusa

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