第5話 青年と穀象虫

 にもかくにも現状では、まず第一に、人生とは、やたら腹が減るということが実感であり、食うことが何をおいても大事であり、朝から何も食ってない自分は、米をかなければならなかったのである。


 一斗缶いっとかん米櫃こめびつのぞくと、白い米の中にあわてて黒いものがもぐり込んだ。いや、それは一ヶ月も前にあったことであり、その時に黒いものはすべて処理し、以後今日まで、コンビニの弁当ですましていたのだ。では、今の黒いものは何だろう、と心配になった自分は、こわごわてのひらに米をすくってみた。さらに、てのひらからこぼしてみる。何やら怖ろしいことが起こっているような不安……。さっそく、ベランダに面した床に古新聞を拡げ、その上に米をぶちまけた。


 一ヶ月ちょっと前に、久しぶりに四合飯よんごうめしいたとき、米櫃こめびつの中に穀象虫こくぞうむしいていた。口先が象の鼻のように長いが、ありよりも小さい虫。肝心かんじんなところで進化できてない馬鹿な虫。体が黒だから、白い米の中では、どこへもぐり込もうとすぐにわかる。保護色ってものがあるのにね、と同情しながら、米櫃こめびつの米を計量カップですくっては掘り起こし、あのとき残らず駆除くじょしたはずなのに……。


 今日はまた、少し様子が違った。外の日盛ひざかりの明かりに照らして、米を古新聞の上に薄くのばして注視してみると、銀色に粉をふいた米粒大の細長いはね、節足動物の脚などが、残骸となってまじっている。今まで、はねがはえた米や、脚のある米など見たことがない。だから、おそらく穀象虫こくぞうむしが羽化して、死んだものだろう、と判断する。


 おうおう、ひとの米をかすめ取り、食い散らしやがって、その挙げ句が、散乱するしかばねかい。


 だが、これも、人生か――と思う。


「俺の米櫃こめびつの中で、勝手に人生を送るな!」と、言ってやりたい。


 いや、いや、まて。人生とは(人の一生。人間が生きることである)と、現代版国語辞典は言っているのだから、違うか。まさか昆生とは言わないだろうし、そもそも昆虫に、人間でいうところの人生観などあるのだろうか──。


 しかし、米粒が二、三粒、くっついた状態であるのはなぜだろうか? 気がついた自分は、首をひねった。やっぱり、穀象虫こくぞうむしが羽化したのだ。そうして、羽化するのには、さなぎになり……と考えていくと──。


 おや、ちょっと待てよ、確か、モスラは卵から幼虫になり、それが東京タワーにのぼってまゆを形成し、はねのある成虫の蛾に変態を遂げたという、おぼろげな記憶がある。ということであれば、さしずめ同じ昆虫仲間である穀象虫こくぞうむしも、さなぎになるにあたりまゆを形成したと推察すいさつできる。じゃ、これまゆなのか? この繭玉まゆだまの中に、幼虫がいるのだろうか?


 さらに眼を皿のようにして凝視すると、そんなのが、そこかしこにあって、自分はそれを、指で弾き飛ばした。ところが、どうやらそれだけではなかった。それこそ十分の一ミリもあるかないかの、白い粒つぶが新聞紙の黒いインクの上をおおっている。何万という数の卵。卵? おそらく穀象虫こくぞうむしの卵なのだろう。


 自分は、なるほどな、と考えた。米は炭水化物だが、穀象虫こくぞうむしの卵はやっぱり蛋白質たんぱくしつだろう。一緒に炊き込んで食ってしまえば、それなりに栄養になるのではなかろうか……。いや、まて、まて、はやまるな。卵ではなくてふんとも考えられる。やっぱりくのは米だけにしよう、と米粒だけを炊飯器のかまに選り分けていると、ふと思った。


穀象虫こくぞうむしの生涯」


「ちっぽけな人生」


米櫃こめびつの中の人生」


 いったい、何が楽しいんだ。暗い米櫃こめびつの中で、生命を営んでいる。おそらく、米櫃こめびつの外の世界を知らないのだ。だが、もし知っていたとして、そこに何の希望があろうか。食い物を探し求め彷徨ほうこうしなければならない外界へ出るよりも、食い物に埋まって生きてゆける幸せ。彼らには、米櫃こめびつの中の方が天国なのだ。


 抜けるような蒼穹そうきゅうも、甘露かんろに蜜をたたえた花も、たわわに実った果実も、彼らには、まったく意味がないのである。


 知ることは、罪なりや。


 自分は、己の外の世界を知っている。闇が、心に不安を抱かせること、その不安を朝日が、払拭ふっしょくしてくれること、草花をで、小動物に心あたためられること……。だが、知っていながら、この有り様。自分には、欲というものが、ほかの人よりは、ずいぶん少ない。ただ、富裕な人間の世界が存在することを知っている。そこが、穀象虫こくぞうむしと、ちょっと違う。


 そう思うのであるが、現在の自分の人生は、他人から見れば、穀象虫こくぞうむしの人生に見えるかもしれない。でも、今日からは違う。二十六歳の夢多き青年――思ってから、ぽっと顔が赤らむ。


 自分は、かまに水を満たし米をぎながら、あれだけ注意深く選別したにもかかわらず、それでも時々浮き上がってくる、はねの残骸やくっついた米粒を取り除き、炊飯器にセットすると、アパートを出た。とりあえず、飯のおかずになるようなものを買ってこようと思ったのだ。 


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「こんなんでました!」って感じの12の笑変小説集 銀鮭 @dowa45man

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