由太郎君へ

山の下馳夫

第1話 由太郎君へ

新田にった君か、どうしてここに?」

 今日は幾らか涼しいという女中の言葉に感化され、治療を兼ねた散歩に出た私は、図らずも旧友と再会することになった。

「先生が御帰国されたと伺いましたので」

 駆け寄ってきた新田は封筒を抱えていた、どうやらこの邂逅を予期してなかったのはこちらだけのようだ。彼を自分の住処に案内することにした、封筒の厚さから推量するに、作品にしろ、研究にしろ、腰を落ち着けて見なければならない分量だからだ。

 未だ慣れない借家に帰宅した。新田は先にこちらを訪れていた為、女中を食事の用意で困らせずに済んだのは幸いだったが、彼女が私の病状を新田に説明したのではという考えが、ふと頭を過った。その考えに至った途端、なぜか言い知れぬ不安を感じた。

 新田の呼びかけで私のその考えは中断され、歓談と食事が始まった。たちまち、靄のような不安が消える。彼の食べっぷりを見ることや、友人の活躍を伝え聞くことで、私の中に活力が蘇ったらしい。気付けば今日は、食事も運動も、医者の言いつけ通りこなせていた。

 だが、このまま言いつけ通り休むわけにはいかなさそうだ。すぐさま新田の差し出した原稿に取り掛かかる(結局、その封筒には彼の詩と、論文が入っていた)。量は多いが、一回茶を啜る以外、彼の原稿から手を離すことはなかった、そこには、かつての私がいたからだ。

 反応を窺う新田に対して、一言二言感想を口にするかしないかで、私は、彼を書斎に連れて行く必要があることに気付いた。彼には私と同じように才能があった、過去の私のように努力もしていた、そして、何よりも、彼には寿命があった。突然の病が私から奪ったものを、彼は持っていた。

「大変、良かったよ――」

 思ったことの、大体を口にした。しかし、最初に抱いた、彼に日本へ持ち帰った本を見せ、必要があれば貸す、もしくは与えるという発想を実行することはしなかった。そのことを仄めかした時、どうにも新田の目が炯炯けいけいとして恐ろしく見えたのだ。私は、詩の方は次の号の雑誌に載せるという話だけをして、新田を帰宅させることにした。こうでもしなければ、先刻の不安が形を持ち、私にあらぬ言動をとらせていたかもしれない。

 彼を帰らせた後、一人灯りを持って書斎に入った。貴重な書物がそこには山積していた、米国への遊学で手に入れたものもある。もし人並みに生きることが出来たならば、いくらでも活用できただろう。しかし……。

 一冊を手に取り、表紙を見る。この本は私の肉の一部だと直感した、しかも病に冒されていない部分だ。いずれ病巣とともに腐り落ちるのは解っていても、人に渡すことは憚られる。それに、今日は幾分か調子が良かった、まだ望みはある。

 感情が高ぶったためか、咳き込んでしまった、口の中に苦いものが込み上げてくる。「汚してなければ良いが」と一人呟き、先ほど思わず取り落としてしまった本を取り上げた。


 表紙は、血で塗れていた。とうとう喀血してしまったのだ。

 汚してしまった本は、今は亡き師から授けられたものであった。呼吸を整えることもせず、口を押さえ、貪るように頁をめくる。本の中に救いがあるような気がしたのだ。

 そして、求めていた答えに辿り着いた。奥付の隣には、「由太郎よしたろう君へ」というサインが書き込んである、師が私に託してくれた証がそこにあった。

「先生……」

 呟いて気付いた、先人と同じように、そこに次の者の名を書かねばならないことを。震える右手を静め、私は、師の筆跡の横に、師と同じ形の文字を書き込もうとペンを掴んだ。

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由太郎君へ 山の下馳夫 @yamanoshita05

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