【完結】初夏の匂い

     22


 翌日、私たちにとって、運命の日がやって来る――。ゴールデンウィーク初旬。もう肌寒さも抜け、薄着でも平気な温暖な空気がこの病室にも流れていた。空は、これからの私たちの不安を暗示するかのような曇天。

 私はこの日、松木先生を呼び出し、余命を家族に伝えることを告げた。松木先生は「そうか」と胸をなで下ろした。その方がいい。松木先生は何度も私に頷いた。

その後、先生は、家族に電話をした。家族にとっては運命の電話だろう。もしかしたら、栞は立ち直れないかもしれない。優斗の両親はどんな反応をするだろうか。優斗にメールを打つ。『家族に電話がいった。父と兄によろしく』これで優斗も、私の家族に『優斗が余命数日』と伝えてくれるだろう。


 しばらくして、優斗の家族が部屋へとやって来た。栞、小雪おばさん、そして義人さんの姿もあった。皆顔が緊張している。「優斗、平気か?」、「どうしたの、優ちゃん……?」、「お兄ちゃん……」それぞれから声を掛けられ、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。この場にいられないほど、辛く、哀しい……。しばらくして扉が開き、松木先生は慎重な面持ちで部屋に入って来た。「息子に何があったんですか!?」突然の理由も分からない呼び出しに小雪おばさんは不安になっている。「楠田家のご家族の方々ですね?」松木先生が確認をして、皆一様に頷いた。外は雨がポツリポツリと降り始める。「落ち着いて聞いてください」松木先生の言葉に、私は目を閉じた――。


     23


 あの日から――、数日が過ぎた――。私はもう、病院にはいなかった。家族に余命が告げられ、私は残りの余生を家で過ごすという選択をすることになったからだ。優斗の家族は、絶望に暮れていた。私は何と説明すればいいか分からない。松木先生は、私が今まで黙っていたことを隠した上で、私の余命を告げてくれた。突然、家族の死を宣告された人たちの表情を私は見られなかった。

冗談だと、そこにいる誰もが思った。だがあまりの真剣さと、私の様子を見て、怒りだす。「いい加減にしてくれ!」義人さんまで声を荒げていた。でも、それは次第に悲痛な声となり、底のない悲しみを生んだ。栞はずっと私のことを放さなかった。そんな私は、ただ機械のように振る舞っていたかもしれない。なるべく感情移入しないように。残酷なことかもしれないけど、そうでもしないと、本当に呑まれてしまいそうな気がしたから。こんなことなら言わない方がよかったのではないか。何度も浮かぶその考えを振り払う。違う。たとえ底のない悲しみが生まれたとしても、家族にはそれを聞く権利がある。聞いた上で、余生を選択する権利があるのだ。だから、迷ってはいけない。


 病院にいる間、すぐに牧野家の人たちもお見舞いに来たが、そこに兄の姿はなかった。残念だと落ち込んでいた私に、一本の電話が届く――。

それは、病院から出て、自宅での生活が始まった日の朝、すなわち、先ほどの出来事だった――。

「もしもし、優斗君か?」

その声は、兄だった。

「光一……さん?」

私は、弱弱しい声で兄の名前を呼ぶ。

「君に会って、伝えたいことがあるんだ。お昼に時間、取れるかな?」

「え? 光一さん、大阪に行ったんじゃ?」

「帰って来た。だから時間を作ってくれ」

「は、はい……」

帰って来た? 余命だと聞いて、駆け付けてくれたのだろうか。

 しばらくして、約束の時間になる頃、家のチャイムが鳴った。私は、家族に自分が出ることを伝え、玄関を開けた。

「優斗君」

兄が立っていた。心配そうにこちらを見つめる。「どうぞ」家の中へと通そうとするが、二人だけで話したいと外へ呼ばれた。「立ちっ放しは疲れるだろう」と近所の喫茶店に行くことを勧められ、私たちは、喫茶店で話すことになった。


 「俺のことは気にしないで、何でも話してください。今日はどうして?」

私から切り出した。そうでもしないと、死を前にした人間に対して遠慮が出て、言いたいこともいえなくなってしまうと思った。

「驚いた……。その、先日、家族から聞いてね。君が余命だなんて……。それで、松木先生から連絡があったんだ。あの人が母の主治医でもあったって聞いて……」

兄は視線を落とす。

「結衣の言っていたことは本当だった……」

まさか……。兄がそんなことを言うとは思わなかった。

「俺は、母が亡くなったことをずっと受け入れられなかったんだ……。彼女の余命を知らず、助かると信じて疑わなかった。でも、それも全部幻想だったことに、気づかされたよ……」

「光一さん……」

「それで、色々と考えたんだ。ここ何日も、ずっとね。あの日、結衣と話した日からずっと……。もし、母の死を知っていたなら、どうしていたのかって……」

「どうしていたと……?」

「俺も……」

固唾を呑む。

「きっと、結衣と同じことをしていたかもしれない……。そう考えてしまう自分が、いつまで経っても消えてくれなかった……」

兄の言葉に、私は時が止まるような感覚に陥る。お兄ちゃん……。

「だから、結衣は、間違ってなかったのかもしれない……」

兄は、悲しい表情でうつむいた。兄は……、私を許してくれたのだろうか……。

「あいつのことをずっと憎んでいた俺は、結局あいつ以上に何も分かっちゃいなかったのかもしれない……。ひどい言葉も並べて……、本当に、最低だった……」

「光一さん……」

「結衣と優斗君のお母さんと三人で話した時に、つい感情的になってしまってね。その時、偶然居合わせた彼女に、ビンタをお見舞いされたよ」

兄は自分の頬を叩く真似をして苦笑いを浮かべる。そうか。あの時、店から出て行って兄を追いかけたのは、兄の彼女だったのか。

「じゃあ、結衣のしたことを……、許してくれるんですか?」

「許すだけじゃ済まない……だろうな」

その言葉だけで、充分だった――。絶対に叶うはずがないと思っていた私の夢は、突如として叶ったのだ――。

「光一さん。光一さんに最後のお願いがあります。聞いてくれますか?」

「ああ……、何でも聞くよ」

私は兄に微笑む。

「結衣のこと、よろしくお願いします――」

それは、母が優斗に言った言葉――。まるで、その時だけ、自分が本当に優斗になったような気がした。でもこれは兄に届けたい私の言葉。私が兄に言うなんて少し傲慢かもしれないけど。優斗の身体、借りさせてもらうね。

兄は凛とした表情で頷いた。

「優斗君、君には、本当に感謝してる。結衣のことを守ってくれて、ありがとう」

「いえ。こちらこそお世話になりました」

その時ふと、私の中でアイデアが降りてきた。

「そうだ、光一さん。ゴールデンウィークはまだありますよね。また、皆で行きませんか? バーベキューに」

兄は、優しく微笑んだ。

「勿論だ」

私はこの日、私たちのやるべき全てのことが終わりを告げたように思えた。無駄ではなかった。優斗、全ては無駄なんかじゃなかった。


     24


 五月五日、牧野家と楠田家のバーベキュー、第二回が開催となった。

外は、雲一つない晴天。まさに絶好のバーベキュー日よりだ。まさか、こんな展開になるなんて誰が予想していたことだろう。私は重たくなった身体を元気いっぱいに持ち上げる。優斗の家族は心配してくれたが、決して悲しみを見せなかった。今日は絶対に楽しむ。誰もがそう考えた。

あの時のように、牧野家の車が到着する。車にはしっかりと三人が乗っていた。運転席に父が、そして、後ろの席には――、私と兄が並んで座っていた――。

不意にこみ上げる涙を抑え、私は元気よく挨拶をする。父も兄も、いつものように振る舞ってくれた。車内はあの時より、ずっと盛り上がる。まるで一つの家族のように、私たちは冗談を言い合い、笑い合った。

「智久さん、少しだけ、寄りたい場所があるんですけど、いいですか?」

「え? 寄りたい場所かい? どこだい?」

私は優斗を見る。優斗もこちらを見て頷く。

「霊園に少しだけ寄りたいんです。結衣と一緒に。すぐに戻りますから」

「二人だけで?」と車内で冷やかされながらも皆から了解を得た私たちは、霊園で一旦降ろしてもらうことになった。

私と優斗は事前に約束していたのだ。今日のバーベキューの前に、霊園へ寄り、そこでお別れをしようと。優斗は嬉しそうな、切なそうな表情を浮かべていた。


 やがて車は霊園へと到着する。私たちは車から降りると、広い霊園を並んで歩いた。

思えば、全ての始まりがここからだった。私はお守りを返しにここへやって来て、気がつけば、私の意識は一年前の優斗の身体の中にあった。それから、一月半が過ぎ、私はこの身体で多くのことを感じて、多くのことを学び、多くのことを変えてきたのだと思う。

「結衣。俺さ、ずっと考えていたことがあるんだ」

優斗は歩きながら言った。

「考えていたこと……?」

「ああ。俺たちが入れ替わった理由」

私たちが入れ替わった理由か……。深くは考えなかった。

「俺たちは幼いころから、大人に人の気持ちを考えろって言われて育てられてきただろう? でも、それって簡単なようですごく難しい。それで、話は俺たちの目標になるんだけどさ」

「『人との繋がり』のこと?」

「そうそう。人と繋がるためには、まず人の気持ちを理解しないといけない。人を理解する一番簡単な方法こそが、『身体の交換』だったんじゃないかな。結衣は前に『優斗の身体に入って、人の気持ちが少しだけ分かった気がする』って言っていただろう? つまりそれこそが、入れ替わった理由なんだよ、きっと」

「なるほど……」

「勿論、原理も原因もさっぱり分からないけどな。ただもし、このお守りがそういう力で俺たちをこの世界に導いてくれたのだとしたら、感謝しないとな」

「うん」


そして、あの場所に到着する。優斗のお墓は、あの日と同じように建てられていた――。

「本当にあったんだね」

「嘘なんか付くかって」

優斗はそっと、お守りをポケットから取り出した。

「これで、ようやくお仕舞いだな」

「まだ、分からないよ。これでダメだったら、優斗がお兄ちゃんとお父さん、支えてあげてね。あと、栞ちゃんも」

「バカ言え」

優斗は思わず笑い出す。

「結衣、最後になるけど……、色々とありがとな」

優斗はまっすぐにこっちを見て言った。

「結衣がここに来て、見るもの全てが変わっていった。栞も、父も、そして光一さんも変わった。全てが良い方向へと変わっていった。でも、俺が一番嬉しかったのは、結衣自身がどんどん変わっていく姿だった」

「優斗……」

「俺が死ぬ前の頃は、何だか周りに壁作って冷めていたけど、この世界に来て、結衣は人のことを思える人間になったよ」

「そうかな……?」

「そうさ」

「だからさ、本当に、結衣に逢えてよかった。元の世界に戻ったら、栞のことよろしくな」

私は笑って頷いた。

「うん。私こそ、たくさんのことに気付いたよ。家族や優斗に支えられてたってこと。もう何一つ見落としたりしない。優斗、ありがとう」

優斗は微笑みながら、何度も頷いた。

「優斗、あっち見て――」

「え?」

私は遠くを指差した。優斗はそっちを振り向く。

次の瞬間、私は優斗のほうにキスをする――。自分にキスをするなんて変な話だが。でもそれでもいい。

「お、お、おおおい」

動揺している優斗が少しかわいい。

「お礼だよ」

「な、なるほどな」

「あと、この前の返事だけど、好きだから……」

「はい?」

「……。もう二度と言わない」

「ちょちょちょ、ごめん。もう一回だけお願い」

ため息が出る。まったく……。

「優斗、大好きだよ」

そう言った瞬間、優斗の表情が止まった。そして、それはゆっくりと微笑みに変わっていく。ポリポリと頭をかくと、恥ずかしそうに私を見る。

「ありがとう。最高の土産だ。結衣、俺も大好きだからな、忘れるなよ?」

私たちはお互いに見つめ合うと、小さく笑った。


「さて! 最高の土産もらったところで、そろそろいこうか」

優斗はそう言うと、お守りを私に渡してきた。

「これ、結衣が置いてくれ、何だか思い切りがつかなくてさ」

「一緒に置こうよ」

私はお守りを優斗に差し出す。

「そうだな」

私はお守りの右半分を、優斗は左半分を持った。私たちは向かい合う。

「結衣、元気でな」

「うん」

これを置けば、全てが変わるかもしれない。もう優斗とはお別れをしなければならない。

「優斗こそ、元気で」

「ああ」

私たちは、ゆっくりと、お守りをお墓に持っていき、それをそっと、お墓に供えた――。


 その瞬間――。

私の視界が――揺れ始める――。あの時と、全く同じ感覚――。ぐらぐらと地面が揺れていく。ああ。本当にこれで戻れるのか――。これでお仕舞いなのか? 

朦朧とする中、視界が急激に強い光に、包まれていく――。

「結衣、大成功だ――」

優斗は私を抱きしめる。私は朦朧とする視界のなか、彼の顔を捉えた。何て澄んだ笑顔をしているのだろう――。

「優斗、大好き――」

「ははっ、結衣、俺も大好きだ――!」

強い光の中で、意識が遠のいていく。私は最後の最後まで、優斗の笑顔を見続けた――。


     25


 私は夢を見ていた。よく知っている二人と一緒に、三人で道を歩く夢――。右には、よく知っている女性がいる。左にはよく知っている少年がいる。私たちは仲良く、話をしながら歩いていく。どこまでも、どこまでも。

だが、突然、道は二つに分かれた。どっちへ行こうか。私が迷っていると、二人は迷わず左の道へ進む。私もついて行こう。彼らの背中を追い始めた瞬間、二人は振り返る。

何? どうしたの? 私も行くよ? だが二人は微笑みながら、首を振る。そして右の道へ進めと指を指した。不思議と、私は何の疑問も抱かなかった。彼らが言うのだから、きっと私は右の道へ進むべきなのだ。

私は黙って右の道へ進んだ。歩きながら、左の道を見る。歩いていく二人はこちらに手を振っている。女性は、優しく微笑みながら小さく手を振り、少年は元気いっぱいに笑いながら大きく手を振る。私も、そんな彼らに微笑みながら、大きく手を振って歩いた――。

 

結衣――。結衣――。遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。幻聴? 結衣――。起きて――。結衣――! 歩いている道の先で、小さな光が、私を呼んでいる。分かった。今行くから、ちょっと待ってて。

左の道はもう見えない。さようなら。私は、その光に向って走っていった――。


     26


 視界がぼやける――。歪んだ世界に、私はいる。いや、そうではない。意識が朦朧としているだけだ。誰かが、目の前で私を呼んでいる? 誰だ? 

世界は徐々に彩りと音を取り戻していく。

「結衣――!」

ハッと顔を上げる。私の視界に彩りが戻り、目の前にいる人物の顔が鮮明に映る。そこにいたのは――。私の良く知る人物。

優斗――?

「どうしたの!? 大丈夫!?」

その人は私に呼びかける。どうやら私は完全に倒れてしまっているらしく、頭はその人の膝の上だ。私に呼びかけるその人は……、その人は……!

「優斗……!」

呼びかけた瞬間、視界に入るその姿が、ゆっくりと変化していく。優斗だと思ったその姿は、少しだけ伸びた髪を後ろで結んでいる女性へと変わっていく――。

「栞……?」

私はその人物に呼びかける。

「そうだよ……!」

栞……。そう、私を呼んでいたのは、栞だった――。

「こ、ここは……?」

私は辺りを見回す。たくさんの仏壇が置かれている場所……。そこは、私たちが先ほどまでいた霊園だった。

「霊園だよ! どうしちゃったの?」

次第に身体に力が入っていく。私は、その身体を持ち上げた。ふと自分の手が見える。

その細い手……。まさか……!

「栞、鏡ある?」

「え、うん一応」

「見せて」

「ええ?」

私は栞から鏡を受け取ると、何も考えずに自分の顔を映す。その顔、表情、目鼻立ち、口元、輪郭――、全てが、『牧野結衣』そのものだった――。帰って来た……のか! 数秒間、思考が停止する。

「栞、今っていつ?」

「え? 五月五日だよ」

「今年って、何年だっけ?」

「二〇一六年だよ。大丈夫?」

二〇一六年――。元いた世界ではないか……! 私は……、本当に帰ってきたんだ……!

「栞、優斗は……」

言いかけた言葉を止める。目の前に見えるお墓に刻まれた文字が目に飛び込んできたからだ。


『楠田家之墓』


優斗は、やはり、この世界にはいなかった――。

「お兄ちゃんとはお別れできたの? 皆待ってるんだから、もう行こう?」

「あ……。う、うん……」

私が立ち上がると、栞は私を支えてくれた。そのまま催促され、私はお墓を離れる。

 優斗――。さようなら――。


私はもう大丈夫であることを栞に伝え、二人で並んで歩いた。気になっているのは、栞が私に優しいという、元の世界ではなかった現象だ。

「ねぇ、栞、優斗のことだけど……怒ってない?」

「お兄ちゃん? 何が?」

「私のせいで優斗は亡くなったんだよね……?」

「結衣さん、大丈夫? お兄ちゃんは病気で亡くなったんだよ――」

結衣の発言に言葉が出ない。優斗が病気で? 栞に加えて、優斗の死までもが変わっている――。この世界は、もしかすると私たちが夢みた世界なのか――。

「ねぇ、これからバーベキューに行くんだよね?」

「違うよ。結衣さん、やっぱり病院に行く?」

「だ、大丈夫……。それで、じゃあどこに?」

「結衣さんが海に行こうって言ったんだよ? 皆と一緒に」

「牧野家と楠田家?」

栞は「うん」と頷く。そうか。この世界は先ほどまでの世界とは違うのだ。しかも、一年も誤差があるではないか。


 やがて、霊園の入口付近に止まっている車へと到着した。

「遅かったな。優斗君に会えたか」

ドアを開けると、兄が笑い掛けてきた。

「お兄ちゃん……!」

「お姫様二人がお帰りだ」

後ろから聞こえた声に驚く。優斗のお父さんもいる……! 優斗、見てる――? 

私は大空を見上げた。世界は、変わったのだ――。


 私たちの乗った車は走り出した。私は運転する父の隣に座る。後ろでは、皆盛り上がって話していた。

しばらくして、私はある物に気付いた――。フロントガラスの隅に、ぶら下げられている物――。あの小さな、お守り――。

「お父さん。そのお守り、どうしたの?」

父は運転しながら、そのお守りを見る。

「これは、母さんがお前にくれたものだろう? 忘れたのか?」

「え――?」

母が、私に――?

 その時、後ろで栞が歓喜の声を上げる。

「海だーー!」

「おお、綺麗だな!」

山道を抜けると、左手に大海原が見えた。たまらず、栞の歓喜に、兄も声を上げた。海は太陽の光を浴びて、キラキラと煌いている。

「これ、取ってもいい?」

私は海から目を逸らすと、そのお守りに手を伸ばした。

「もともとお前がそこに付けたんだろう? 皆が集まるここに付けたいって。外したいなら好きにすればいい」

私は頷くと、ぶら下げられているお守りをそっと外す。この藍色の布、そして『諸願成就』の字。何一つ変わらない、綺麗なお守りだ。これを、優斗にではなく、私に――。

それをそっと握ると、手にあの時と同じ感覚が伝わったきた――。クシャッと、中で薄い紙切れのように物が折れる音――。

 私はそっと、そのお守りを開いた。中には同じ紙切れが入っている。ノートの切れ端を二つ折りにしたような紙切れだ。それを優しく取り出す。

皆が海に夢中になっている中、私は、それをそっと開いた――。少し焼けた古い紙切れには、一言だけ言葉が記されていた。


『 ありがとう 』


その言葉の下に、それを書いた人物の名前が添えられていた。


『 母と優斗より 』


それを見た瞬間、紙切れを持つ両手に自然と力が入る。途端に感情がこみ上げてきて、目がしらに力を込めたが、涙はぽたっと零れ落ちた。歓喜の声を背中で聞きながら、私は人知れずそれをそっと抱きしめた――。


     *


 初夏――。広い病室に穏やかな時間が流れていた。太陽の光と、心地良い風がそこを包み込む。鳥が近くの木々にとまっては、戯れ、また飛んでいく。空は澄みわたり、太陽が天辺に登り始めていた。

「お母さん、これ、何?」

結衣は、ベッドに腰かけた千鶴から、ある物を受け取った。それは、小さなお守り。紐を持ち太陽にかざすと、藍色の生地が、光に照らされて綺麗に光った。

「それは、お礼よ」

千鶴は優しく微笑んだ。

「お礼?」

「結衣が強くて優しい子に育ってくれたお礼」

結衣は母親の顔を見る。その優しい表情を、ただただ見つめた。お守りをそっと握りしめ、頷いた。

「お母さん、ちょっといい?」

結衣はそっと、千鶴を抱きしめ、目を閉じた――。千鶴も結衣の背中にそっと手を回す。温かく、優しい時間が流れた――。

 ノックの音が聞こえ、結衣は、反射的に千鶴から離れた。千鶴が「はーい」と返事をすると、扉がゆっくりと開いた。

「結衣、ここにいたのか。さ、行こうぜ」

扉の先には、優斗が立っていた。

「栞も待ってる」

そう言い、親指をクイクイと指し示す。

「うん」

優斗は千鶴を見て「行ってきます」と手を振った。千鶴も笑って手を振った。結衣も千鶴に振り返った。

「お母さん、川で釣った魚、持って帰ってくるから、楽しみにしていてね」

千鶴は目を開いて喜び、「楽しみにしているわ」と手を振った。

彼らは太陽に照らされた初夏の道を、楽しそうに駆けていったーー。

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優しい難題 かとま @katoma

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