夜明けに残るのは

     *1


 夏が始まってまだ間もない頃の話。楠田優斗は、総合病院の診察室を訪れていた。優斗の正面には松木先生が座っている。

「最近の調子は、どうなんだい?」

深刻そうな表情で、彼は優斗に問いただす。

「まだまだ平気ですよ」

そう言いながら、二の腕をポンポンと叩いてみせる。松木は苦い表情を浮かべた。

「そうかい。何かあればすぐに来なさい」

二人はいつものように面談を済ませる。帰ろうとする優斗を、松木は呼びとめた。

「優斗君、面会してほしい方がいる」

その言葉に、優斗はピンときた。何度か会っているし、あの人しかいない。優斗は二つ返事で了解すると、その人の待つ部屋へと向かった。

その病室から呼び出しがかかったのは何度もあった。病室は三階にある。優斗はその部屋が誰の部屋であるかを知っていた。その部屋の患者は、優斗のよく知る女性。彼女は、つい三週間前にここに来たのだ。優斗は松木先生からそれを伝えられて以来、彼女に呼ばれることが何度かあった。部屋の前まで来ると、軽くノックをする。返事が一向に帰ってこない。仕方なく、扉を開けながら声をかける。

 彼女は、ベッドに座りながら、外をぼんやりと眺めていた。優斗のしたノックには気がつかなかったようで、彼が部屋に入ると、優しく彼を迎えた。


19


 私は暗闇の中を、さまよい歩いていた。ここは、どこ? もうどれぐらいの時間、ここにいるのかも、どれぐらいの距離を歩いてきたのかも分からない。ただ、真っ暗な道をひたすら歩いている。この道はどこへ続くのだろうか。先が全く見えない。この先に道が続いているのかすら分からない。怖い、それに悲しい、そして孤独だ。

そう、私は、ずっと孤独だったのだ――。

この道は、そんな私の人生を表しているのかもしれない。

「結衣さん――」

誰かに呼ばれて振り返る。

そこにいたのは、栞だった――。栞どうしてここに? 話しかけようとしても、なぜか声が出ない。

「今まで、ごめんね」

栞は悲しそうな目でこちらを見る。そんなことないよ。栞は、間違ってない。謝らなければいけないのは、こっちの方だ。

栞に笑顔が戻る。次第に栞の身体は背景に同化していき、そのままゆっくりと消えていった。栞? どこに行ったの? 私は辺りを探す。しかし、いくら探せど彼女の姿はどこにも見当たらない。

「結衣――」

「結衣ちゃん――」

どこからかまた呼ばれる。今度は誰? どうして私を呼ぶの?

気が付くと、目の前に父がいた。その隣に、小雪おばさんと、義人さんの姿もある。三人ともこちらを見て微笑んでいる。

「結衣、よくがんばったな――」

お父さん、どうしたの、今さら。

「結衣ちゃん、本当にありがとう――」

小雪おばさんはそう言い、頭を下げる。義人さんもそれに合わせて礼をした。

三人は、栞と同じように静かにその場から消えていった。

皆、どこに行っちゃうの? 私を置いていかないで……。

私は不安に駆られ、走りだす。ねぇ、ここはどこなの? 私はどうすればいいの? 誰か……。誰か……。

「結衣、大丈夫よ――」

お母さん……。気が付くと、目の前に、エプロンをした、懐かしい母の姿があった。お母さん! 私は母に飛びつくように抱きつく。しかし、私の両手は母を通り越し、風を切った。お母さん……?

「結衣――」

背後から母の声が聞こえる。私は振り替える。

そこにいたのは、先ほどの母ではなかった――。病院にいた時の、患者の服装に身を包んだ、弱った母――。頑張って笑おうとしているが、目が虚ろだ。母は私に何も言ってこない。一歩一歩、母に近づいた。お母さん、ごめんなさい……。ごめんなさい……。

涙が零れる。お母さんは、辛かったのに、私は何も分かっていなかったね……。ごめんなさい……。母は彼らと同じようにゆっくりと消えてしまう――。

お母さん……! 声にならない声をあげる。しかし、そこには既に誰もいない。どうして……。涙がぽたぽたと地面に落ちる。

「俺の前から――」

その声に、ハッと顔を上げる。お兄ちゃん……? 

「俺の前から……、消えろ!」

兄の鋭い目つきから、私は目を逸らさない。うん……、そうだね……。身勝手に生きてきて、たくさんの人の気持ちを踏みにじってきた。甘かったなぁ……。本当に、甘かった……。こんなことで許してもらおうとしていた自分が悔しい。

兄の姿は、もうなかった――。

私はその場で、目を閉じる。もう、終わりにしよう。もう、疲れた……。疲れたよ……。私はその場に横になる。そうだ。これでいい。旅は終わりだ。もう休んでもいい頃だ。

 結衣――。

どこかから、聞こえてくる声。結衣――、起きろ――。誰? 誰なの? 声の主が分からない。私は目を開く。だが、あたりを見渡しても誰もいない。結衣――。声はまだ、私に呼びかけてくる。早く姿を現してよ。

結衣――いつでも、俺がそばにいるから――。

 その時、遠くに今にも消えてしまいそうな小さな光が見えた。あなたなの? 名前は分からない。でも、孤独だった私に、いつも手を差し伸べてくれた人。さぁ、結衣――、こっちへ―― 私を呼んでいる。

私は重たい身体を持ち上げて、一歩一歩歩き出す。そうだ――。もうすぐだよ――。

その瞬間、光は大きくなり、全ての闇を一瞬で吹き飛ばす。私は、眩しい閃光に包まれた――。


 気が付くと、私はベッドに横たわっていた。ピッ――、ピッ――、と心電図のような音が聞こえてくる。窓から差し込む太陽の日差しが眩しい。ここは……?

「結衣!」

ベッドの横にいた『私』……、ではなく、『私』の姿をした優斗が、目を覚ました私の横にいた。右手が温かい。その手は、ずっと優斗が握りしめてくれていた。

「良かった……! 無事で……!」

優斗は安堵の表情を浮かべながら、泣きそうな目をこする。

「優斗、ここは……?」

「総合病院だ。結衣は昨日の夕方、公園で倒れて、俺が手配を頼んでここに連れてきてもらったんだ」

ということは、今は四月二九日、ゴールデンウィーク初日ということか……。

「手配……?」

「ああ。そのことで、結衣にずっと黙っていたことがあるんだ……」

「黙っていたこと……?」

「うん、そのことなんだけど……」

優斗が、何かを言おうとした瞬間、部屋の扉が急にガチャッと開いた。優斗はそれに気がつき、一旦言葉を切る。

「優斗君! 目が覚めたのか!」

顔を覗かせたのは、私の良く知る医者、松木先生だった。かつて母の主治医として、お世話になったことがある。その松木先生が、どうして優斗と面識が……?

「良かったよ……。それで、君も分かっているとは思うが、伝えなければいけないことがある」

「何を……ですか?」

松木先生は優斗のことを見る。

「結衣ちゃんも、優斗君の事情を知っているみたいだから、ここに残ってもらうよ。いいね?」

優斗は頷いた。「はい、私はもう聞きましたから」優斗は毅然と答える。何をだ……?

「優斗君」

先生は私をじっと見つめる。そして大きく息を吐いた。

「君の身体は、もういつ朽ち果ててもおかしくない。つまり、いつ死んでもおかしくない状態まできているんだ――」

え――? 目の前が真っ白になる――。この人は、いったい何を言っているんだ? 私が、死ぬ――? いや、違う、『優斗が』死ぬということか……。

「すまない、余命期間はあと半年はあると、診断しておいて……。死期が早まったのは、おそらく君が抱えた疲れやストレスが原因だとしか言えない。本当にすまない」

余命が……、半年……、あった……。あまりの衝撃に、思考が追い付かない……。どういうこと? どういうことなの? ねぇ優斗……、どういうことなの?

「しかし、家族にまで黙っていた君が、結衣ちゃんには話していたなんて驚いた。これからでも遅くはない。しっかりと家族にも話してみないか?」

「え……」

言葉が出てこない。どういうこと……。少し落ち着いて考えろ。私の思考は猛スピードで回り出す。

優斗は、寿命だった――。

あの時にはもう、助からなかったということか……? 

 トラック事故に巻き込まれそうになった優斗は、私を守った――。あの時、既に優斗の身体は――。

「ゆ、優斗君」

私は微動だにせず、遠くを見つめる。

「少し時間を置こう……。何かあれば、私を呼んでくれ」

松木先生は静かに部屋を出ていった。部屋には、私と優斗、二人だけが残される。私は彼の顔を見る。

「優斗……」

「結衣、今までずっと言えなかったんだ。本当にごめん……」

思えば、今日まで、ずっと体調が優れなかった。身体の疲れや痛みが何日も続いた日さえある。だが、まさかここまでとは思いもしなかった。優斗が私の身体を心配したのも、それが理由だったのか。

「どうして、言ってくれなかったの……?」

「この世界から帰れる方法も分からないのに、君を焦らせたくなかったんだ……。無事帰れれば話す必要もない。でも、まさか、死期が早まっていたなんて……」

そうだ。優斗はいつも焦っていた。早く私を元の世界に返すって……。それは、常に私が死と隣り合わせだったからだったのか。

「じゃあ、どうしてトラック事故の前に言ってくれなかったの? どうして、ずっと黙ったまま、私をかばって死んだの?」

「家族や結衣、周りの人に迷惑をかけたくなくて……。言えば、悲しむ。俺は誰の悲しむ顔も見たくなった。ごめん……」

反論しようとしたが、言葉が出ない。私が何かを言える立場じゃない。私に、優斗を責める権利なんて、何もないのだ。

「お兄ちゃんは……、もう帰ったの?」

記憶では、兄はゴールデンウィークには、牧野家を出ていき、また一人で暮らし始める。それも、大阪の方まで行ってしまうのだ。

「あ、ああ。今朝、出て行ったみたいだ……。朝一の新幹線に乗ってね」

行ってしまったのか……。もう打つ手は何もない……。

「これで、お仕舞いだね」

私は失笑する。人は諦めると、最後の最後には笑いが出てくるのか。

「結衣……。まだだ、まだ決まったわけじゃない」

優斗の言葉すら、皮肉に聞こえてくる。

「もう決まったよ……」

「結衣……!」

「もう、決まったんだよ……! 全部……!」

涙がぽたぽたとシーツを濡らしてく。両手でシーツを思い切り握りしめる。

「私、見てたんだよ……!」

「え……?」

「昨日、お兄ちゃんと優斗が話しているところをさ……! 全然ダメだったね……! ダメかなって思いながら、見てたけど、期待した私がバカだった……! だからもういい……もういいよ……」

本当にバカだった。でも、これで分かった。願っても叶わないものもある。がんばったとしても、むしろ何かを失うことさえある。

「結衣……、俺は……」

「優斗、一人にさせて……。お願い」

「でも……」

「お願いだから……!」

彼を睨みつける。こんなはずじゃなかったのに。優斗はあまりの私の剣幕に成す術もなく、俯いた。

「お願い……、頭を整理したいの……」

私の必死の訴えに、優斗は「分かった……。一旦帰って、家族に説明だけしておく」と言い残し、病室を静かに出て行った。優斗の言う説明とは、おそらく家族に今のこの状況は教えず、嘘を通すということだろう。

しばらくして、病室の窓越しに、帰っていく優斗の姿が見えた。優斗、ごめんなさい。帰っていく優斗の背中を目で追う。私が、去っていく。牧野結衣が、私から離れていく。私はその面影を、見送った――。


 何もしないまま、夜がやってくる。私は何も考えていなかった。ただ暗くなる部屋で、一人、ずっと外の世界を眺めていた。携帯が何度か鳴っていたが、それを取る気にもならない。

この世界でも、やっぱり優斗は死ぬ運命だった――。『事故を回避すれば、優斗は死なない』という方程式は、通用しなかった。事故が起こった時、優斗は私をかばわなくても、数カ月以内の命だった。だから、私をかばったのだろうか……。優斗が私をかばったのは、先が見えていたからということだろうか……。

 私は、もう、いつ死んでもおかしくない。松木先生はそう言っていた。いったいこの身体のどこが悪いのだろうか? 詳しい病名は聞いていない。だが、確実にこの身体は崩れかかっている。そして死へのカウントダウンはもう終わりを迎えようとしている。運が悪ければ、私は昨日の夕方に倒れたきり、目を覚まさなかったかもしれないのだから……。


私が、消える――。いったい、どんな感覚なのだろう。元の世界からは、私は消えているのだろうか。しかし、『私』がここにいるだけであって、もしかしたら、違う私が今も生きているかもしれない。この世界でこうして生きていること自体が不思議なのだから、可能性は無限にある。

優斗は、私を元の世界に返すと約束してくれたが、果たして本当に帰れるのか。それにもう私には時間がない。残念だが、打つ手なしだ……。

「死ぬ前に、お兄ちゃんと話せてよかったぁ」

誰もいない真っ暗な部屋で一人呟く。当然誰の反応もない。

死ぬ時は、誰でも孤独なのか。帰り方も分からず、命の時間がないのなら、もうお手上げだ。

 私はようやくベッドから立ち上がる。足取りが覚束ない。身体が思うように動かない。死が近づいているのか? 私は部屋を出ると、そのまま廊下へ出る。

暗い廊下を一人、手すりを頼りに進む。行く場所はもう決まっていた。廊下を渡りきり、階段を上る。ゆっくりで大丈夫。今だけは無限の時間が流れているのだから。やがて四階へと到着する。あと少しだ。

 四階から伸びる階段を見る。その先に、夜空が見えた。なんて、綺麗なのだろうか。私は階段をゆっくりと上り、扉を押してみる。鍵はかかっておらず、扉は私を待っていたかのように音もなく開く。扉の先には春の夜風が吹いていた。


     *2


 楠田優斗は、松木先生の言う『面会してほしい方』の待つ病室へと向かい、彼女の待つ部屋へと入った。

 彼女は、ベッドに座りながら、外をぼんやりと眺めていた。優斗のしたノックには気がつかなかったようで、彼が部屋に入ると、優しく彼を迎えた。

「こんにちは。千鶴さん」

優斗は彼女に礼をする。彼女は、結衣の母、牧野千鶴。優斗が牧野さんと呼ぶと、『千鶴でお願い』と訂正されて依頼、『千鶴さん』と呼んでいる。

「どうしたんですか? 何か話したいことでも?」

優斗が部屋に入ると、牧野千鶴は手招きをした。

「良いものをあげるから」

まるで、誘拐犯のように、微笑みながら、手招く。優斗もなれたように彼女のもとへと向かう。

「手を出して」

優斗は言われるままに右手を彼女の前に出した。千鶴は何かを握っていたが、それを優斗に見せないようにしている。そして、優斗の手をもう片方の手で握ると、自分の持っているものを優斗に優しく握らせた。小さな布のようなもの――。優斗は握りしめた瞬間、そんな感覚を抱いた。

「見てもいいですか?」

優斗の質問に、千鶴は「どうぞ」と頷く。それを見ると、ゆっくりと握りしめた手を開いた。

「これは……? すごく綺麗ですね」

優斗が渡されたものは、藍色の小さなお守りだった。

「諸願成就のお守り? これを、どうして?」

優斗は、これのどこがいいものなのか、さっぱり分からなかった。

「優斗君、結衣のこと、好き?」

突然の質問に思わずせき込んでしまう。どうしたんだ急に。動揺しながら「はい」と答え、「友達として」と即座に付け加えてしまう。それを見た千鶴は少し笑った。

「諸願成就、色々な願いが叶うって意味よ」

そんな意味があるのか。

「私の願いは叶わなかったけど、優斗君には、希望がある。だから、大切にとっておいて」千鶴は優しく笑った。優斗にはその意味が痛いほどに分かった。お守りを握りしめ、頷く。千鶴はお守りにはたくさんの効果があることを教えてくれた。

「このお守りは、渡した人と渡された人を繋いでくれる。その人たちの大切な人たちも一緒にね。だから、私の思いは、優斗君に託すわ」

渡した人と渡された人を繋いでくれる――。素敵な効果もあったものだ。

「それで、最後のお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

千鶴の質問に、優斗は迷わず頷いた。何でも叶えてあげる覚悟は既にできていたから。

「結衣のこと、よろしくね」

千鶴の願いはそれだけだったが、優斗にはその意味が何となく分かった。

「はい」

優斗が強く頷くと、千鶴は安心したように笑った


     20


一歩一歩、前へと進む。屋上には他に誰もいない。よかった……。見渡す限り、小さな明かり、明かり、明かり――。その一つ一つが、小さな命のようだ――。その中の一つに私の家もある。優斗の家も。見ているだけで、自然と涙がこぼれそうになる。

目の前にある手すりに触れる。ひんやりとしたその手すりは、私にとっての境界線――。これを越えた先にはいったい何が待っているのというのか。そんなばかげた質問を自分に投げかける。

何もないことは、分かっている。それでもいっその事、越えてしまいたい。もう自由になりたい。もしかしたら、帰れるかもしれない。また『私』に会いに行けるかもしれないではないか。どうせ僅かな命しか残されていないのなら、そういう決断もありでしょう?

ごめんね……。優斗……。ごめんね……。皆……。ごめんなさい……。

涙はまた、頬を濡らす。私は腕に力を込める。この高さなら、簡単に乗り越えられる。さぁ、行こう。力を込めて足を持ち上げる――。

 

その時――。

私の身体は、背後から強い衝撃を受け、抑えられた――。

え――? 最初は何がどうなったのかさっぱり分からなかった。誰かが私の身体に手を回し、抑えつける。細い腕で、ガッシリと私を押さえつけるように――。

私は手すりから手を放し、その場に降り立った――。私に回されたその手は、私を抱きしめるように肩へと回る。その人の身体が、私の背中にくっつく。その温もりは、今までの、どんな温かさよりも温かく、私の全身を覆った。

「バカ野郎……!」

その人は涙声で言った。何でいるの? どうして?

「結衣……!」

その人は、私を呼んでいる。私は彼の腕に触れる。細くて、きれいな腕。

そうだ、いつもそうだ。いつもこうして私を守ってくれる……。だから、今もこうして助けに来てくれたの?

「約束したんだ……!」

約束……? 彼は私を放さずに言う。

「結衣のこと、守るって……! だから、絶対に一人になんかさせない……!」

彼の抱きしめる腕が強くなる。また、春の夜風が屋上に吹いた――。


     *3


 お守りが千鶴から優斗に渡って数週間後、千鶴は、亡くなった――。

優斗はただ、彼女から渡されたお守りを、握りしめていた。結衣のことを気にかけながら、特別何かをしてあげることもなかった。しかし中学三年生になると、結衣と同じクラスになり、彼女とも再び信頼関係が生まれていく。

この時期から、優斗はお守りを結衣に渡すことを考えていた。千鶴が自分に寄せてくれた思いも、自分の思いも、残念ながら叶うことはなさそうだと分かってきたから――。でも結衣にこれを渡せば、思いは繋がる。千鶴は言っていた。『渡した人と渡された人を繋いでくれる』と。だからきっと、このお守りは役に立つ――。

「結衣、これ、持ってて」

中学三年生、最後の春休み。お守りは優斗の手から結衣の手に渡った。それが千鶴からもらったものであることは、言わなかった。言ってしまえば、自分のことがバレる。千鶴が家族のために隠していたこともバレてしまう。だから、ただ渡すだけ。『結衣のこと、よろしくね』千鶴の声が聞こえてくる。

「いつでも、俺がそばにいるから」

優斗の言葉は、結衣には聞こえていなかった。でも、それでいい。

咲き誇る桜を見る。優斗はこれからもずっと結衣を守り続ける。そう誓った。桜は、綺麗に二人の上を舞った――。


     21


 「優斗……」

後ろから回された腕は、まだ、私を放してくれない。

「これ」

優斗は一旦左手を私から放すと、しばらくしてから、再び左手を私の前に差し出した。その手には、あのお守りが、乗せられていた――。綺麗な藍色をした『諸願成就』のお守り――。これは優斗の家にあるもの。どうして、牧野家にいる優斗がこれを……?

「栞が事故に遭った日、自分の部屋で、これだけ回収させてもらったんだ」

あの時、四月一二日。私がリビングで待っている間に、優斗は自分の部屋に行った。その時に回収したのだろう。でもどうして?

「これは、結衣のお母さん、千鶴さんにもらったものなんだよ」

「お母さんに……?」

母が、これを優斗に……?

「昨日の光一さんとの会話を聞いていたなら、俺の言うことも聞いたと思うけど、千鶴さんは、病院に来た時、余命宣告をされていたんだ……」

「どうして、優斗が知ってるの……?」

「俺はもっと前から身体が悪かった。とっくに少ない生存率を突き付けられていたんだ。俺も千鶴さんも、家族に内緒にしてくれって、松木先生に頼んだのさ。それで、千鶴さんは、俺にだけは自分のことを話してくれた。このお守りは、千鶴さんと最後に会った時にもらったものなんだ。『俺の病気が良くなるように』って。その時に、千鶴さんに頼まれたんだ……」

「頼まれた……?」

「『結衣のこと、よろしく』って、頼まれたんだ」

優斗は、また強く私を抱きしめる。その腕は痛いほどに、私の心に染み渡った。母はそんなことを……。涙が込み上げてくる。先ほどとは違う、温かい涙が頬を伝った。

「だから結衣 可能性がある限り、諦めちゃダメだ」

「うん……」

バカだった……、本当にバカだった……。大切なことをまた見落として、何も知らないまま、いなくなろうとしていたなんて……。優斗の顔を見る。彼も泣いていた――。ああ、またひどいことを……。

「優斗、心配ばかりかけて、ごめんなさい……。もう、こんなこと絶対にしないから……」

優斗は頷き、優しく私を放した。


「これはさ、『人と人を繋いでくれる』んだって」

優斗は屋上のベンチに座った私にお守りをひょいと見せて言った。

「これは、俺の勝手な解釈だけど、結衣がここに来たのは、俺たちと、俺たちの大切な人たちが幸せになる為だったんだよ。俺たちがここにいるのはさ、結衣のお母さんの『幸せになってほしい』っていう願いでもあるんだ。だから結衣の気持ちを聞いた時、俺たちがやるべきことは『人との繋がり』だと思ったんだ」

そういうこと、だったのか。母は、私たちを励ましながら、ずっとそばで幸せを願っていた。

「優斗、聞いてもいい?」

「何だ?」

「優斗がトラック事故に遭った私をかばって助けてくれたのは、余命だったから……?」

「……。そんな訳ねーだろ」

「じゃあ、どうしてそこまで、命を張れたの……?」

「理由がなきゃ、ダメか?」

「あるなら教えてよ……」

優斗は大きく息を吐く。

「結衣のことが……、好きだからだ」

思いもしなかった優斗の言葉に、正直驚いた。優斗が、私を?

「大切な人を守るのに理由なんかいらないだろ。どうだ? 満足か?」

 あっけらかんとした優斗の表情に何だか面白くて笑ってしまう。

「お、おい、笑うなんて酷くないか?」

「ごめん、ごめん。それなら理由もいらないね」

「結衣は、どうなんだ? 俺のことさ。返事ぐらい聞かせてくれよ……」

「無事帰れることになったら、教えてあげるよ」

優斗は「なるほどな」と苦笑いを浮かべた。そんな優斗を愛おしく見ている自分がいた。そして、私の中には、先ほどまでの私はもういなかった――。


屋上は誰もいない、二人だけの寂しい空間。そこで、私たちは最後の晩餐をするように、最後にやるべきことを話し合った。

「優斗、もう時間がないよ……」

「ああ、分かってる」

「帰れる方法はたぶん、優斗のそのお守りと、優斗のお墓にあるんだと思う」

優斗の持つお守りを見る。

「そうか、結衣は確か、このお守りをお墓に供えた時に、こっちに来たんだよな?」

「うん、でもこっちの世界では、まだ優斗は亡くなっていない。この前霊園を見に行った時も、お墓はなかった……」

あの時は、帰れる方法を試すことすらできなかったのである。

「それって、いつの話だ?」

「優斗が亡くなる予定だった四月一二日の少し前だったかな」

「ああ、なるほどな。それなら、今行けばあるぜ」

「え?」

「業者が俺のお墓をあの霊園に運んで来たのはつい最近だからな。そう言えば、この世界に来たのは、三月二一日だったよな? あの時、俺が霊園にいた理由、ずっと気にしてただろ?」

そう、その件もずっと気になっていたのだ。

「あれは、急に葬儀屋の手配で呼ばれてさ。お墓の設置場所を決めてほしいって言われて、行くしかなかったんだ。ごめんな。俺たちが入れ替わった後、結衣の身体になった俺は、優斗にお墓の件を聞いている呈で、彼らに話をつけておいた」

「そうだったんだ」

話はようやく繋がりを見せる。優斗のほとんど全ての行動は、彼の亡くなる前の準備として費やされていたんだ。

「こうなれば、後はやることが二つだな」

「二つ?」

「光一さんとの和解、そして……、俺の余命を家族に告げること……」

優斗は視線を落とす。

「この二つができれば、俺も結衣もやり残したことが無くなる。そうしたら、きっと帰れる。二人でお守りをお墓に返しに行こう」

「お兄ちゃんと和解なんてできるかな……。それに、本当に余命を告げるの?」

「以前の俺なら、言わなかっただろうな。家族に心配かけないって、一人で抱え込んでいたから。でも今なら、言えるよ。結衣のおかげだ」

「私の……?」

「そうだ。栞も、父も、母も、俺も、みんな結衣に助けられた。結衣は俺になって、俺の家族を変えたんだ。誰かを頼る、思いを伝える、分かりあう。それが大切だってこと、結衣が示してくれた。だから結衣が変えてくれた家族になら、俺は喜んで頼る。きっと、家族もみんな、話してほしいと思うからさ」

優斗は優しく笑った。

「そんなこと言ってくれて、ありがとう。もしかしたら、私のお母さんも自分のことを話してくれていれば、きっと違ったのかもしれないね。私も同じだよ。今まで、人の気持ちなんて考えてこなかったことを、この世界に来て何度も思った。だから大切な人のこと、もっとしっかり見て、しっかり思いを伝えないきゃいけないんだって、今はそう思う」

私たちは数秒間見つめ合う。きっと今、私たちの思いは繋がれたのだと思う。

「光一さんとは和解できなかったとしても、結衣の気持ちはもう伝わっているはずだ。それに、千鶴さんの余命や伝言のことも知った。だからきっと大丈夫だ。俺に作戦があるからよく聞いて」

「うん」

「明日、俺も含めて、牧野家と楠田家に俺の余命を発表する。その情報は、光一さんにもいくだろうから、それで光一さんに会えたら最後のチャンスだ。話したいことを全て話そう。もし、光一さんと会えなくても、お墓には行く。これでどうだ?」

優斗の目には迷いがなかった。私も、全く異論はない。

「いいね。じゃあ、そうしよう」

私たちは笑い合う。きっと大丈夫。優斗となら、きっと。


大丈夫よ――。


「え?」

私は誰かの声に思わず反応する。その声は……。

「どうしたんだ?」

「え、ううん。何でもない」

「そっか」

今でも私を見てくれているのかな。私は、何もない空間をしばらく見続けた。


私たちは、しばらくして解散した。明日、皆には松木先生を通して余命を告げる。なんて残酷な役なのだろうか。しかし、それは私に課せられた義務。凛として、臨もう。

本当に帰れるとしたら、優斗とはもう、お別れということになる。帰れなかったとしても、優斗の身体が無くなった時点でお別れになるのだが。どちらにしても、哀しい現実だ。いや、哀しい夢――? 例えどちらだとしても、この世界に来られたことを、今では嬉しく思う。優斗に、もう一度逢えて、本当に良かった。

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