手にした真実


     16


 ファミレスは平日だというのに、多くのお客さんで賑わっていた。もうお昼過ぎだというのに、意外と人の行動は分からないものだ。

そんな中、楠田小雪は、牧野光一を待っていた。時計を確認する。既に十分近く経っている。本当に彼は来てくれるのだろうか? 不安が頭を過ぎったその時だった。入口の戸が開く音が聞こえ、牧野光一がゆっくりとした足取りで姿を現した。

「光一君、こっちこっち」

小雪の手招きに、光一はすぐに気が付き、歩いてきた。一礼すると、少し広めのソファの反対側に腰をかけた。

「すみません、こんなに遅くなってしまって……」

「正直、もう来てくれないかと思ったわ。でも来てくれてよかった。何か頼むかしら?」

「そうですね。じゃあコーヒーを」

小雪がウェイターを呼び、コーヒーを二つ注文する。

「それで、お話とは……?」

光一の緊張した表情に、小雪は少し微笑んた。

「そのお話に入る前に、せっかくなんだから、リラックスも兼ねて、違うお話をしましょ」

光一の表情が少し緩む。

「そ、そうですね」

「光一君、いくつになるんだっけ?」

「今年で、二六になります」

「あら、もうそんなになるのね。子どもの成長は早くて困っちゃうわ。うちの子どもたちも、もう一七歳と一三歳で、あっという間に育っちゃうのねぇ」

「そういうものですか」

「そうよ」

二人の会話は小雪の質問で繋がれ、自然とした会話が成り立っていく。ただの会話、しかし光一にとっては、それは思いもしないことだった。

亡くなった母と話している感覚――。懐かしいあの頃の何気ない会話を思い出して、笑顔も自然とこぼれるようになっていく。


 楠田優斗はその会話を、聞いていた――。仕切りを挟んだ隣の席で一人、いつ会話の中に入るべきか窺っている。光一には全く悟られていない。今日、兄と直接対面することで兄妹のわだかまりを解消することが、優斗に与えられた使命だった。

必ず結衣を元の世界へ戻してあげなくてはならなかった。自分が消えることは必然。だから、結衣はここにいてはならないのだ。仕切りを挟んで、二人の会話が聞こえる。それは、緊張したものではなく、和やかで楽しそうな話し声だった。本当にこの状態から会話を切り出せるのか。しかし、自分のやることは決まっている。それをやるまでだ。入るタイミングは感を頼るしかない。大丈夫だ。


 「そうなのね。それじゃあ、今日はよくお休みで来れたのね?」

小雪は微笑みながらコーヒーを口に運ぶ。いつの間にか、コーヒーは飲みきっていた。

「うちは結果を出しさえすれば、いくら休んでも、問題ないですから。あ、コーヒーお代わりしますか? 僕が持ちますよ」

「悪いわよ」

「平気です。もっとお話ししたいですし」

光一は小雪に母の面影を見いだし、彼女と話すことを心底楽しんでいた。

「それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら」

「お構いなく、飲んでください」

「ありがとうね。それにしても、私みたいなおばさんなんかと話していて、そんなに楽しいかしら?」

「え、ええ。変ですか?」

「ううん、おかしくなんてないわ。ただ、何だか目がきらきらしていて、楽しんでもらえてるなら良かったと思って」

「そうでしたか。何となく小雪さんが、母に似ている気がして、ついはしゃいじゃってるのかもしれません」

光一は微笑しながら、もう残り少ないコーヒーを啜る。

「お母さん、亡くなってからもう二年かしら?」

「ええ、そうです。もう二年かって思う自分と、まだ昨日のことのように憶えてる自分と、両方いるって感じで」

追加のコーヒーが運ばれてくる。小雪はそれをもらって、新しいコーヒーを口に運ぶ。

「辛いかしら?」

「ええ……、とっても」

「光一君は、お母さんが大好きだったのね」

「そうかもしれません」

「そうよ」

少しにやりとほほ笑む小雪に、光一はつられて笑う。

「お母さんのどんな所が好きだったの?」

「母は、いつも笑顔でした。どんな時も。家事や仕事に追われてるのに、こっちが心配すると『大丈夫』って言って、常に笑っていました」

「そういう所が好きだったのね」

「はい」

光一は少しはにかんだ笑みを見せる。

「きっとお母さん、幸せだったわね」

「分かるんですか?」

「そりゃそうよ。同じ母だもの。私も子どもたちがそんな風に思ってくれてるといいなぁって思ったわ。きっと光一君のその気持ちに、お母さんは救われてきたと思うわ」

「そうだといいですけど……」

少しの沈黙。小雪はコーヒーを少しだけ飲んだ。

「でも、結局母は救われなかったんです……」

光一は、わずかに目を落として呟いた。

「……実は、母が亡くなる前、母は何度も僕に訴えてきたんですよ」

「訴えてきた……?」

「ええ、……『死なせて』って――」

小雪は唖然とし、言葉も出ない。動揺のせいか、そっと置いたはずのコーヒーカップが、カチャンッと音を立てる。

「僕には出来ませんでした。母が辛かったのは、重々分かってはいたんですけど……。母には生きていてほしかった。そのために、僕は何でもしました……」

光一は下をうつむいたまま、顔を上げようとしない。

「お母さんは、それで幸せだったかしら……?」

「それは……。でも幸せだったと僕は思ってます」

「どうして?」

「だって僕は、ずっと看病に来ていて、僕が来れば、母はいつも笑顔で迎えてくれた……。だから、母の力になりたくて、母が弱音を吐いても、勇気づけてあげたかったんです……」

光一は、まるで自らの母に言うように、言葉を並べていく。

「それは、光一君のエゴ、だったんじゃないかしら?」

小雪の言葉に、光一は顔色を変える。

「そんな、だって、家族を支えることが、家族の役割でしょう? どんな時も、力を与えてあげることが……」

「それでも、お母さんは、最後は結衣ちゃんを頼ったのよね? だから、お母さんは救われなかった、ということかしら……?」

「――っ。……それを、聞いていたんですか?」

「ええ。全部聞いたわ。お母さん、本当はあなたに、本当の意味で力になって欲しかったんじゃない?」

「それは……」

「あなたに言ってもダメだった。主治医の先生には当然頼めない。だから今度は結衣ちゃんに頼んだ。結衣ちゃんは、お母さんの願いを叶えてあげたんじゃないかしら?」

「違う……! だって、母は死なずに済んだんです。生きていられるはずだった……」

光一は両手にぐっと力をこめて、歯を食いしばる。

「お兄ちゃん、それは違うよ――」

その声に、光一は驚きのあまり目を見開く。そして、突然姿を現したその人物を、驚いた表情で見つめた。

「ゆ、結衣……!」

優斗は、満を持して小雪と光一のもとに姿を現した。静かに歩み寄り、小雪の隣に腰を下ろす。

「お前……。聞いていたのか……」

優斗は黙って頷き、黙って兄を見つめる。

「お兄ちゃん、よく聞いて」

「……っ」

光一は視線を逸らす。よほど聞きたくないのか。下手をすると、このまま帰ってしまう危険がある。優斗は思い切って言葉を発した。

「お母さんは、余命だった。もう助からなかったんだよ」


     17


 小雪と、光一。二人の会話をずっと聞いている人物がいた――。優斗ではない、もう一人の人物が――。気づかれないように身を潜めながら、二人の会話を近くで聞いている。バレないように深くフードを被り、ずっと光一のそばで彼の発言を聞いていた。

兄は、どんなことを言うのだろうか。牧野結衣は、そんなことを恐る恐る考えながらじっと客の一人に同化していた――。


 あの時、優斗にはこの話し合いに参加することを断った。しかし、どうしても兄の考え、言葉を自分自身で確かめずにはいられなかった。優斗に連絡しようとした手が止まってしまった。私は、兄に言われることを、優斗の前で見ていたくなかったのかもしれない。自分はここいはいなかった。何も知らないことにした方が、心穏やかにいられる気がした。そう考えたがために、優斗に連絡せずに、たった一人で、こんな風にこっそりと彼らのやり取りを聞きに来てしまったのだ。当然、誰にもバレていない。小雪おばさんにも、光一にも、優斗にも。

 そんな私は聞いていた。兄の考えを。まさか、兄も母から『死なせて』と言われていたなんて……。兄は母が助かると信じていた。そして、ひたむきに看病を続けていたんだ。だからこそ、母を死なせたくなかった。だから、私が母を死なせたことを、あんな風に憎んでいたのだ。

「お兄ちゃん、それは違うよ」

急な言葉に、思わずハッとする。この声は、優斗――。ついに兄妹が対面する。優斗は私の座る席をすり抜け、私の後ろの席まで向かった。そして座った音が背後から聞こえてくる。顔がバレないように背中を向けて座ったため、彼らの声しか聞こえてこない。この状況なら仕方がない。

「お兄ちゃん、よく聞いてね」

何だ? 何を言い出すのだ? 優斗、お願い……。

私は、上手くいくことを目を瞑って祈る。

「お母さんは、余命だった。もう助からなかったんだよ」

え――。優斗が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。母が余命……? 何だ、それ……? そもそも優斗がそんなこと知るわけがない。それとも作戦……?

「バカな……、はったりだろ?」

「はったりなんかじゃない。事実だよ」

ふざけないで、優斗。そんなこと言ってどうしたいの?

「ふざけるな、この後に及んで、よくもそんなことが言えたもんだな……!」

兄が怒っている。声で分かる。ああ、最悪だ。どうしてそんな嘘を。

「嘘じゃない。主治医の松木先生なら、本当のことを言ってくれるよ。お兄ちゃん、黙っててごめん」

「松木先生が……。そんな……」

「お母さんは、そのことを言えなかったんだよ。私たちにはね」

「私たちだ……? お前が言われたんじゃないのか……?」

「これは優斗から聞いた話」

「ふざけるな!」

ガチャンッという食器の音が兄の怒鳴り声と共に響き渡る。

「嘘を吐くな……! 全部俺を言いくるめるための罠なんだろう!?」

「お兄ちゃん……」

「この前からおかしいと思ってたんだよ……! 急にバーベキューをやろうだなんて、優斗君まで巻き込んで、俺を丸めこもうとしていたんだろう!」

「光一君……! 落ち着いて」

小雪おばさんは何とかなだめようとしているが、兄のヒートアップは収まらない。

「お兄ちゃん、本当のことを話して謝ろうとしただけなの。だから怒らないで」

「謝る? 何をだよ?」

「お母さんを死なせてしまって、ごめんなさい……。でもこれだけは信じて。お母さんはもう助からなかった。松木先生に聞いてもらえれば……」

「……っ。どうして、俺らに言わずに、優斗君にわざわざ自分が死ぬことを告げる……!?」

「それは……」

口ごもる優斗。途端に、兄からため息がこぼれた。

「時間の無駄だったようだな……」

「優斗から、お母さんの伝言を聞いてるの!」

立ち上がろうとした光一がその言葉に立ち止まる。

「『余命は言えなかった。でも看病ありがとう。家族と仲良くしてね』って……」

「……」

「あのね、優斗も意味が分からなかったんだって。私が余命ってことを言うことになったら、伝えてって」

「……お前」

光一は消え入りそうな声で呟く。

「……ごめんね、黙ってて。でも私、全然知らなくて、だから言うこともできなかった。でも、もし良ければ、これからは仲直りして……」

ダンッという轟音が響いた。兄が拳をテーブルに叩きつけた。周囲からの視線が集まる。

「いい加減にしろ! 全部、でたらめだろ? この後に及んで、母さんまで利用しやがって!」

「光一君……」

一瞬で店が静まり返る。駄目だ。私も優斗の言っていることが分からない。兄なら尚更そう思うだろう。どうすれば……。

「お兄ちゃん……、信じて」

「黙れ!」

そう言うと、勢いよくその場を去る。私の横をすり抜けて、入口へと向かう。

「お兄ちゃん!」

優斗は立ち上がって兄を止めに行く。私は正面で鉢合わせる二人を上目で見る。優斗に腕を掴まれた兄が勢いよく振り向く。その顔を見た私は凍りついた。その鬼のような形相は、母が亡くなった時、兄が病室にやってきて、私を睨みつけた時の顔だ……。

「俺の前から……、消えろ!」

その言葉、その表情、その雰囲気、全てが走馬灯のように、こだまする。まるで、ストンとその場が崩れ落ち、奈落の底へ真っ逆さまに落ちていく――。私は、今、繋がれていた唯一の糸を断たれた。大事に、切れないように守ってきたものが、音を立てて切れてしまった――。

「光一……さん?」

入口に佇む一人の女性。彼女は、心配そうに兄と、優斗を見る。

「な、奈緒子……」

兄は彼女を見つめる。その表情は、驚きと、悲しみが混じっていた。

「くっ……!」

兄はそのまま店を出て行ってしまった。窓越しに走っていく兄を目で追う――。行ってしまう――。走り去る兄は、泣いていた――。お兄ちゃん……。ごめんね……。

「光一さん!」

その女性は、兄を追いかけるように、店を飛び出していった。優斗は、呆然とその場に立ち尽くし、動かなかった。私は頭の中で鳴り響く兄の最後の声を、消えてしまいそうな意識の中で聞いていた。


     18


 『公園に来てくれ。優斗』

私は優斗から届いたそのメールを何度も消そうとした。あの騒動が終わり、夕方になった頃、優斗からメールが届いたのだ。私は、彼に会って何を話せばいいのか。優斗から今日の出来事を話されることは分かっている。わざわざそんなことをしなくても私はもう知ってるんだよ? もうお仕舞いだ。諦めの言葉が脳をかすめる。

だが、メールを消去しようとする指は、最後の最後で動いてくれない。くそっ……。どうして……。私にまた傷つけっていうの? 

どうして今まで兄と分かり合おうとして来なかったのかという後悔の念が渦を巻く。たぶん、罰なのだろう。そう、全ては罰なのだ……。私が、今まで人の気持ちも考えず、ただ自分勝手に生きてきた罰……。私はそれを受け入れなければならない。

そうでしょ? 優斗。

 私は気が付くと優斗のメールに従って、公園に向かっていた。公園に着くと、既に公園のブランコに優斗がいた。私は、なるべく心中を悟られないように彼に近づく。何だか足もとがふらついてしまう。いつもの体調不良? それとも精神的な動揺?

「優斗……」

「お、おう、結衣。来てくれたか。メールの返信がなかったから来てくれないかと……」

優斗はずっと俯いていた。私が話しかけるまで、私に気がつかなかった。私は何も言わず、優斗のとなりのブランコに座った。

「……」

「……」

何て切り出せばいいか分からない。優斗も黙ったまま、何も言いださない。優斗、もういいから、話してよ。

「今日、お兄ちゃんと会えたの?」

なるべく自然に話しかける。声も、表情も、仕草も。

「あ、ああ、会えたよ。小雪おばさんと三人でな」

「それで、どうだった?」

私は優斗の方を見れない。優斗もきっとこっちを見ていない。私は、夕焼けに染まる公園を眺めながら聞いた。

「光一さん……、怒ってた」

知ってる。知ってるよ、優斗。

「そう……」

「でもさ、でも……」

優斗がこっちを向いた。

「ありがとうって……言ってたよ。話してくれて、ありがとうって」

え――? 優斗は、嘘を吐いた――。

「そう……なんだ」

私は見てたんだよ。知ってるよ、優斗。

「ああ。結衣は、悪くないって。言っていた……。だから結衣は、もう何も心配しなくていいんだ」

優斗は必死に笑顔を作っている――。そんな優斗を見た時、私の中で、何かが込み上げた。

「そう……」

頬を熱いものが伝う。

「そんなこと、言ってたんだね」

涙は止めどなく零れてくる。私は少し笑いながら、ごまかすように涙を拭う。でも、拭えば拭うほど、感情の波は止まらない。

「結衣……」

「どうしてかな……」

哀しかった。悔しかった。惨めだった。でも、嬉しかった――。優斗が私のために嘘を吐いてくれたことが、嬉しかった――。私はブランコ座ったまま、泣き続けた。


 その時だった。

 地面が揺れる――。さっきよりも強い――。大地震? いや違う。揺れているのは私だけだ。私、どうしたんだろう――? 

「結衣……?」

優斗、大丈夫だから。何だか、最近、少し身体の調子がおかしくって……。

しかし、その揺れの感覚は収まるどころか、次第に激しさを増していく。何だ? 今日はおかしい。どうしたんだろう? 疲れたかな? ダメだ。

私はブランコにすら座っていられず、そのまま地面に倒れこんでしまう。

「結衣!」

優斗が駆け寄ってきて私を見る。大丈夫だって。心配しないで。そう言おうとしたが、なぜか声が出ない。あれ? 私、どうしちゃったんだろう? 

次第に意識が遠のき、視界の中で、優斗が必死に私を呼んでいる姿が、徐々にぼやけていく。結衣、結衣、そう呼ぶ声も聞こえなくなる。もうダメだ……。意識が急速に世界から離れていく。私は成す術もなく、瞼を閉じる。暗闇に落ちていく意識の中で、優斗に身体を支えられる感覚だけが、最後まで残っていた――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る