当たり前というナンダイ

     12


 『社会人は大変だ』世間は仕事に携わる人々をそんな風に捉えているかもしれないが、智久にとっては、その大変さこそ楽しみであり、生きがいであった。

しばしば家庭より仕事を優先してきた。それでも自分は家族を養っているという自負があった。だから、家族に何と言われようと、自分はたくさん働くことで、家庭は幸せになると信じて疑わなかった。

しかし、彼はその考え方を見直さざるを得なくなった。妻・千鶴の入院生活が長引き、彼女の容態が本格的に良くない方向へと向かっていることを薄々感じていた時のことだった。病院からの突然の電話に第六感が騒ぐ――。良くない知らせに違いない。そう思った。だが、まさか自分では想定もしていない事態に陥っていたとは予想すらできなかった――。


 四月二二日、バーベキューから三日が経ち、牧野智久は、再び仕事の現場に戻った。働けど、働けど、まだ週の真ん中、水曜日である。その日の仕事を終え、デスクで一息吐き、時計に目をやる。七時一五分、もうすぐだ。立ちあがり、オフィスの社員らに挨拶をして帰路につく。

「牧野さん、今日、一杯どうですか?」

「悪い、先客がいてね。また今度な」

「なんだぁ、残念。それじゃあまた今度誘ってくださいね」

智久は了解して、その場を去る。

ビルから出ると、小雨が降っていた。どうしてこう雨がタイミングよく降るのだろうか。やむを得ず、小走りをして待ち合わせ場所へと向かう。智久に対する会社からの評価は、一頃に比べて落ちた。会社の成績もあの頃に比べたら比べ物にならない。それでも、智久は満足していた。成績や評判が落ちた代わりに、自分を本当に慕ってくれる同僚や部下、そして家族が手に入ったのだから。

 小走りで走ること、五分。目的の場所へと到着する。オフィス街に佇む、飲み屋が何件も入ったビルだ。そこの二階に入っている安いバーで待ち合わせをしている。時計はすでに七時二五分を過ぎている。早くしなければ失礼だ。智久は、エレベーターを待たずに階段を上っていった。


 「義人さん、お久しぶりです。お待ちしましたか」

カウンターでメモ帳を広げていた楠田義人は、智久の声に気づき、「おう」と手をあげる。

「ああ、智久さん。いえいえ、丁度来たところですよ。ご飯食べられました? ここのカレー、すごく美味しいんですよ」

「ええ、お構いなく。僕は適当に飲みますから。義人さんも、何か頼んじゃってください」

「そうですか。それじゃあ、マスター。いつものよろしく」

義人の指示に、マスターは手際よくカクテルを作っていく。ほどなくして、きれいな青色のカクテルが差し出された。義人は「ありがとう」と言ってカクテルを口に運ぶ。常連なのだろう。智久はそのスマートな義人の振舞いに感心した。何を頼んでいいか分からず、自分も同じものを頼む。

「それで、急にお話があるなんて、どうしたんですか?」

「聞きましたよ、義人さん。子どもたちから。ちゃんと構ってもらえないって」

義人は意外そうな目をして、おどけて見せた。

「あは、もしかして話したいことって、そのことですか? てっきり、商談か何かの相談かと」

「義人さん、僕は真剣な話をしに来ています」

あまりに真剣な智久の表情に、義人はぎこちない反応になってしまう。

「それで、優斗や栞が、何か言っていたんですか?」

「お父さんと一緒に遊びたいって、怒っていましたよ。遊んであげてないんですか?」

カクテルを飲む手が止まる。

「最近は特に、約束を破ってばかりいるかもしれません。あいつら、そこまで怒っていましたか?」

「ええ、特に優斗君が。急に仕事が入って、約束を破られたって」

「そうですか……、あの日、珍しく優斗に怒られたんですよ。『絶対に許さない』って」

「それも、話していました」

「あいつが、あんなに怒ることなんて珍しくて、何か久しぶりにこっちもむきになっちゃいまいしてね」

義人は苦笑いを浮かべて、カクテルを口に運ぶ。

「そうやって、怒ってもらえるうちが家族としては最後の綱ですよ。優斗君と栞ちゃんのこと、もっと構ってあげてください」

「そうは言っても……」

「実は僕も昔、家族より仕事って時があって、息子の光一には口を利いてもらえなくなったんですよ」

「智久さんが……?」

カクテルを飲む手は止まり、義人は真剣に耳を傾ける。

「あの時は、自分ががんばることが家族の幸せになるって本気で信じていました。でも、全然違った。家族の中で、何かが壊れていくことに全く気がつかなかった」

「何が、起きたんです?」

智久は自分の前に置かれたカクテルに目を落とす。

「妻が命を落とす原因を、娘に作らせてしまった――」

「え……?」

「僕は何も知らなくて、病院からの電話で知ったんです。娘が妻の呼吸器を外したことで、妻が息を引き取ったことを。私は当時、忙しさにかまけて病院へはほとんど訪れていなかった。妻が、呼吸器をつけている状態すら知らなかったんです」

「そんな……」

「もし、しっかりと家庭を見ていたら、娘や息子のことに目を掛けていれば、あんなことにはならなかったって、今でも後悔してるんです」

義人は、何も言わずにカクテルを口に運ぶ。その手は、動揺を隠すようにかすかに震えていた。

「この前のバーベキューで、優斗君に同じものを感じました。彼は光一にそっくりです。それに栞ちゃんは、もっとあなたを必要としています。私が義人さんと話すと約束しただけで大喜びしていた。どうか、彼らのこと、ちゃんと見てあげてください。特にあの年頃の子どもたちはあっという間に成人しちゃいますから」

「……」

「働いてがんばることが彼らの喜びではありません。どうか、分かってあげてください」

智久はカクテルを飲みほすと、マスターに「おかわりをください」と頼む。義人は両手をカウンターの上で合わせる。その表情は自信を失っているように見えた。

「優斗に、玄関前で怒られた時に、ふと思ったんですよ。自分が当たり前のように、息子をなだめて、それに慣れてしまっていたことに……」

マスターは再びカクテルを入れると、静かに智久の前に差し出す。「どうも」と笑みを浮かべた。

「最初は……、あいつらのことも見てやるつもりでした。家庭と仕事を両立するつもりでね。でも、いつしかそれができないことが感覚的に分かっていって、家族のことを無意識に頭の中から消していました。それでも子どもは大人になっていく。ならば、その子どもたちのためにたくさん稼いでやるってね……」

義人は失笑気味に呟く。

「分かりますよ。僕もずっとそうでしたから」

「それで、……俺は、どうすればいいと?」

「簡単です。彼らと一日、どこかへ遊びに行ってください。家族で出かけたのはいつが最後ですか?」

「ここ最近はちっとも。最後に家族と出かけたのは、栞が小学校へあがる前、優斗が小学四年生の時の、キャンプです……」

「そんなに……?」

智久は改めて衝撃を受ける。もう七年も家族との貴重な時間を放棄してきたのか。優斗君や栞ちゃんの辛さが窺える。

「今週の土日は、空いていますか?」

「日曜は忙しい。土曜なら、キャンセルすれば何とか」

「じゃあ、ここへ行って来てください。都内から車で行けば近いですから」

智久は鞄から四枚のチケットを取り出し、それをカウンターに並べる。

遊園地の一日フリーパスチケット――。

「そんな、こんな良い頂き物、もらうわけには……」

「これは、優斗君と栞ちゃんからの贈り物です――」

「え……?」

「栞ちゃんは、毎月のお小遣いをずっと、義人さんと出かける時のために貯めていたんですよ。優斗君もこのチケットのために自分のお金を出してくれました。栞ちゃんから『お父さんによろしく』と伝えてほしいと」

「これを……俺に?」

義人はチケットを手に取る。

「彼らの心はまだあなたに向いています。今、あなたがそれに答えないで、誰が答えるんですか?」

義人はチケットを見ながら、微笑んだ。

「あいつら……。大したことをしてくれる」

義人はチケットをずっと眺めていた。まるで愛おしい存在のように。その目はさっきまでの義人のものとは違っていた。

「智久さん、分かりました」

智久は目を見開く。

「あいつらのこと、見てやることにします。こんなものを送られたんじゃ、仕方ない」

そう言ってチケットを嬉しそうにピラピラと振って見せる。

「義人さん……!」

義人はマスターに「もう一杯」と注文をする。

「智久さん、俺は、変われますかね? あなたみたいに」

智久はカクテルを飲み乾す。

「変りたいって思った時点で、もう変わっていると思いますよ」

その言葉に義人さんは笑った。吹っ切れたような、何か重い物が外れたような、そんな表情だった。

「このお礼は近いうちに必ずさせてもらいます」

そう言って、義人は深々と頭を下げた。

「お礼だなんて。僕はただの代理人です。お礼は、優斗君と、栞ちゃん、それから奥さんにしてあげてください。これは僕からのお願いです」

義人は何度も頷くようにして、了解をした。

智久と義人の話し合いはこれでお開きとなり、智久はそのまま帰路についた。義人はもう少しだけ、ここで飲んでいくと言い、カウンターに一人残った。義人は智久が去った後も、チケットにぼんやりと眺めていた。

時刻はもうすでに八時半を回っている。結衣が家で夕飯を作ってくれている頃だろう。光一は光一で、彼なりに過ごしているはずだ。智久自身も、これからもしっかりと子どもたちと向き合ってあげなくてはならない。そんなことを考えながら歩いていく。すでに雨は上がり、都心の夜はきれいに澄みわたっていた。


     13


 四月二五日、快晴。

この日、楠田家に取って、掛け替えのない時間が訪れた――。それは、優斗がずっと願っていたこと、そして栞がずっと願っていたこと。もちろん、小雪おばさんもずっと願っていたことだ。ずっと温めてきた思いが、今日叶うのである。彼らの思いを祝福するように空には一片の濁りもない。空は真っ青に澄み切っていた。

絶対に叶うはずがないその願いは、嘘みたいな世界で、本当のものとなった。優斗の死を乗り越え、彼らが求めていたことが実現するなんて、誰が想像できただろうか。父は、上手く優斗の父に説得をしてくれたのだ。私と栞のチケット作戦が功を奏した。あの日、 

つい三日前の二二日の夜、優斗のお父さんは夜遅くに帰宅してきて、まだ起きている私の頭を撫でた。それは、怒った私をなだめた時のものとは全然違った。

ありがとうな――。優斗の父はそう言った。その時は、優斗と入れ替わってあげたかった。翌日、優斗のお父さんが週末に遊園地へ一緒に行ってくれることを知った栞は、泣いていた。本当に、どれだけ待っていたのか、考えられない。私もそんな栞を見て、涙がこぼれてきた。自分が、人の喜ぶところを見てなくなんて思いもしなかった。この世界に来て、どれだけ人の思いに触れてきたのだろう。

優斗にそのことを知らせると、「信じられない」と驚きの表情を見せた。本当にそんなことが起こったのかと半信半疑だったが、詳しく説明すると納得してくれた。そして、自分もバレないようにこっそりと家族のことを見たいとチケットを購入していた。きっと私が同じ立場だったとしても、同じ行動を取っていただろう。身体を交換してあげたいけど、それはできない。だから、私は優斗のために楽しむことを決めた。


 楠田家は早朝から車を出し、遊園地へと向かった。栞も小雪おばさんも嬉しそうだった。優斗のお父さんは、まるで私の父を見ているようだった。仕事ではなく家族を思う父親そのものだった。

これが家族なのかな――。何度そう思っただろうか。普段何気なく過ぎていく日々の中で、こんなに一瞬一瞬が充実したのは初めてかもしれない。私は完全に優斗になっていた。優斗のお父さんと、小雪おばさんと、栞が楽しそうに遊園地を巡っている。私も我を忘れて楽しんでいる。一方で、もう一人の本当の自分が、その光景を眺めている。優斗のお父さんが普段見せてこなかった、純粋な笑顔、そして愛おしそうにじゃれる栞、それを見守る小雪おばさん――。こんなに幸せな風景があったんだ――。今、優斗はどんな気持ちでその光景を見ているんだろう? 泣いていたりして。仮に泣いていたとしても全然笑わないけど。だって、私が泣いてしまいそうだから。

 観覧車に乗って、遠くの建物を指さす栞、それを探して、説明する父、ジェットコースターで共に絶叫する親子。何枚も撮られていくカメラ。昼ごはんや、売店でのアイスクリーム。当たり前にありそうな光景の数々がこんなに愛おしく思えるなんて、想像もしていなかった――。


 一日があっという間に過ぎた――。気がつけば、あたりは夕日に包まれていた。「そろそろ帰りましょ」小雪おばさんの一声で帰ることに決まった。「もう少しいようよ」という栞のことを、私はなだめた。大丈夫、また何度でも来てくれる。私はそう確信していた。栞にもそれが伝わったのか、素直に頷いてくれた。

きっと今日、楠田家は変わった。たった一日、たった一日で世界は色を変える。この四月二五日という今日が、楠田家にとって大切になるんだ。これからも、ずっと。

帰りの車の中、眠る栞の横で、私は彼女の寝顔を見ている。まぶし過ぎる夕日が、彼女を照らす。どんな夢を見ているのだろう。良い夢でありますように。


     14


 帰ってきて夕飯を食べ終わった頃に、優斗からメールが届いた。


『話したい。公園に来れる?』


私はすぐに返信をして、公園に向かうことにした。思えば、こっちの世界に来た時も、公園で集合した。あれから数週間、まるで遠い過去のように思える――。外へ出ると、そこまで寒さを感じなくなっていた。季節は知らぬ間に移ろっていく。


 公園に着くと、ブランコをこいでいる優斗が待っていた。

「優斗、お待たせ。用事って?」

私は優斗のもとまで小走りに駆けて行く。私に気が付いた優斗はブランコをこぐのをやめて、立ち上がった。近づいてくる私を待つ。

そして、私が優斗のもとまでやって来た次の瞬間――、優斗は、私を抱きしめた――。

「ちょっ、優斗、やめてって……。恥ずかしいよ」

優斗は何も答えず私を抱きしめる。

「優斗……」

「結衣、ありがとう……」

「……うん」

優斗はしばらく黙ったまま、私を抱きしめた。


優斗の目は、わずかに腫れていた。きっと泣いていたのだろう。私はブランコに乗った。優斗も再びブランコに座って、こぎ始める。

「結衣は大丈夫だ。きっと帰れる」

「どうして?」

「分からないけど、今日、そんな気がしたんだ」

「何それ?」

おかしくて笑ってしまう。確かにこのまま順調にいけば、私たちの目標は達成できる。ただ、私には、一つだけ引っ掛かることがあった。それは、私ではなく……、優斗のことだ。それは……。

「後は光一さんだな」

「う、うん……。そうだね」

「小雪おばさんが光一さんと話す機会を作ってくれたみたいで、二八日に決まったって。光一さんがゴールデンウィーク前日に休暇取ってくれるみたいだよ」

「そうなんだ」

二八日、ということは、三日後か。ずいぶん早く決まったものだ。

「それで、俺が結衣の代わりに話そうと思う。とは言っても、俺が行くって言ったら光一さんは来なくなると思うから、頃合いを見て話しに加わるつもりだけどな」

「大丈夫かな?」

「大丈夫。俺に任せろ。今日のお礼は返させてもらうよ。それで、結衣も見に来るか?」

「私? 私は、行かないよ……。怖くて」

この後に及んで、私はまだ決心が付いていなかった。あの時の、バーベキューでの兄の目付き。私を怨んでいるその表情を思い出すだけで、辛くなる。できればもう、あんな兄を見たくなかった。話し合いを見に行けば、その辛さをまた味わうことになる。それは酷な話だった。

「そうか……、まぁ無理することはない。後で俺が報告するよ」

「ありがとう」


私たちはその後、帰ることになった。「帰ろう」とブランコから立ち上がろうとした時――、少しだけ身体に違和感を感じた。足にうまく力が伝わらない、棒のような感覚。そして、わずかに揺れる地面。おかしい。何かがおかしい。最近の私の身体は、何だか自分のものではない気がしてならない。もともと自分のものではないのだが。

私は何事もなかったかのように立ち上がり、優斗と並んで歩く。

「なぁ結衣」

「うん?」

「身体、平気か? 何ともないか?」

「どういう意味……?」

私の体調を見透かされたのか。

「いや、その、平気か?」

「う、うん。別に」

「そっか、それなら別にいいんだ」

優斗はぎこちない笑みを浮かべる。私は変な心配をされたくないと思い、とっさに嘘を付いた。この時の私は、その優斗の発した言葉の意味を理解することができなかった。


     15


 四月二八日、世間はゴールデンウィーク前日で、浮かれ気分になっている。牧野光一もその中の一人であった。大学院卒業後、就職してからもう丸二年が経った。光一の働きぶりは順調で、社内でもトップクラスの成績を上げている。自分にできないことなんて何一つ存在しない。そんな傲慢な考えすら浮かんでくる昨今、彼にも未だに拭いきれない後悔の念が一つだけあった。

それは今から二年前、牧野千鶴が亡くなったこと――。原因は呼吸停止による窒息、及び身体機能、脳機能の停止によるもの。そして、その原因を作ったのが、光一より十歳年下で、当時十四歳の妹・結衣だった。

あの日、光一は就職活動の面接を控室で待っていた。誰もが入りたがる超一流企業の最終面接。その企業は光一も入りたいと願った企業。自然と緊張感は高まっていた。

しかし、ポケットでしきりに鳴りだす携帯電話――。もうすぐ自分が呼ばれるかも知れないというのに、煩わしい。電源を切ろうと電話を手に取り、携帯の画面を見る。電話は、母が入院している総合病院からだった。嫌な予感が光一を襲う。電話に出ないわけにもいかない。担当の人に急な電話が入ったことを伝え、ブースを抜けて電話に出た。

電話の向こうからはナースの声が聞こえてきた。その声を聞いただけで、光一は良くない知らせが入ったことに感づく。

「至急、病院までお越しください」

無理だ。もうすぐ最終面接があるんだぞ?

「何があったのか教えてください」

光一の切迫した質問に、ナースは電話を代わるのでお待ちくださいと一言残し電話を離れた。ふざけるな、こんな大切な時に。苛立ちが募る光一のもとに、電話はすぐに代わりの人に切り替わる。

「状況をお聞きになりますか」

母の主治医を担当している人だった。まさか……。いや、そんなはずはない。落ちつけ。「お願いします」

消え入りそうな声で答える。「落ち着いて聞いてください」主治医の言葉に心臓が飛び出そうになる。止めてくれ、お願いだから、頼むから……。


「お母様が先ほど、お亡くなりになりました――」


持っていた携帯がするりと手元から落ちていく。極度のショックからか、強い吐き気が襲ってくる。壁にもたれかかるように何とか態勢を維持し、ハンカチで口を抑える。うそ……だろ。違う、聞き間違えに決まっている。光一はもう一度携帯を拾い上げる。

「光一さん! 光一さん!」主治医が心配して何度も呼んでいた。「はい」と声にならない声を上げる。

「もう一度、お願いします……」

聞きたくない。でも聞かないといけない。「お母様が……」主治医がそう言った時点でもう何も聞けなくなっていた――。

終わった……。何もかも……。母は……亡くなった……。あまりの衝撃に涙すら出てこない。世界がスローモーションのように感じる。自分は、今、何を、しているんだ……? 全身から力が抜け、生気が抜けたようにうなだれる。

 どうして……? どうして母は、亡くならなければいけなかったんだ……? どうして……!?

「どうして、母は亡くなったんですか……?」

力が尽きる寸前で、そのことだけが理解できなかった。

「それが、呼吸器が外れたことによる、身体活動の停止によるもので……」

何だ、それ……? そんなことで、母は亡くなったのか……? 死ななければいけなかったのか……!?

「どうしてですか!?」

抜けていた力は、怒りという負の感情によって再び呼び戻される。

「それが、誠に信じがたいお話なのですが……」

心臓が飛び出すほどに高鳴る。


「妹さんが……、外されたようです……」


頭を鈍器で殴られたように、気を失いそうになる。何だ……それは……! 結衣が、結衣が、母を殺したということか……?

「妹さんは、『お母様に頼まれた』と言っています。とにかく、すぐに病院へ……!」

主治医はそれだけ告げると電話を切った。

ツーッ、ツーッ、ツーッ。

その音だけが耳元でこだまする。一歩も動けなかった。母が、頼んだ……? 意味が全く分からない。どういうことなんだよ……!? 結衣…………!

 光一の胸に、煮えたぎる黒い感情が生まれる。妹は、母を殺したのだ――。理由が何であろうが、絶対に許さない――。


 光一は面接をすることなく、もつれそうな足取りで病院へと向かった。思考は既に停止していた。

携帯が再び鳴りだした。光一は携帯の画面すら見ずに電話に出る。

「牧野様の携帯でよろしいでしょうか」

その声には聞き覚えがあった。

「先日は最終面接にお越し頂き……」

よく聞き取れない。企業の人事の人だろうか。

「おめでとうございます。牧野様を採用します」

それは、先日光一が受けた一流企業からの採用通知だった。消え入りそうな声で、返事をし、電話切る。複雑に絡み合った感情が、胸の中で渦を巻く。嬉しいのか哀しいのかも分からない……。光一にできたのは、手からすり抜けそうな携帯を何とか支えることだけだった。


 病院に到着した光一は、覚束ない足取りで母の待つ病室へと向かう。階段を昇り、廊下に立つと、すぐに状況が分かった。何人かの看護師が出入りし、あたりは幾分慌ただしい様子を醸し出している。

ああ、本当に……。一歩一歩、歩を進める。まるで死刑台に上がるような感覚。そして辿りつく病室。中を覗き込むと同時に、強い向かい風が、光一に吹きつけた――。

その風に乗って、一枚の白い布が光一の足もとにひらりと舞い落ちた――。中にいた看護師や、主治医が光一の姿を見る。対照的に、光一はベッドに眠る『その人』だけを見た。そして、ゆっくりと、一歩一歩近づいた。

 母が眠っている……。安らかな表情をしている。本当に寝ているんじゃないか?

「母さん? 来たよ? 光一だよ……?」

母は何も答えない。いつもなら少しぐらい反応があるのに。そのまま肩にそっと触れる。温もりはある。肩を揺らす。

「母さん……、ほら……、起きてって。母さん……!」

次第に光一に力が入る。「光一君!」主治医が止めに入ろうとしたが、光一は止められなかった。

「さっき企業から電話があって、採用だって。ねぇ、母さん聞いてよ。ねぇ! 母さん!」何度揺すっても母は起きない。どうして!? どうしてなんだよ!? どうして……こんな……。

「止めるんだ! 光一君!」

光一は主治医に抑えられ、母から放される。そして、看護師の一人が先ほど舞ってきた白い布を母の顔にそっとかける――。

「母さん! …………!」

力なくその場に崩れ落ちる。ぼろぼろと涙がこぼれてくる。どうして、どうして……!?

 その時、光一は目に飛び込んできたのは――、部屋の片隅で父に抱きしめられながら、表情もなく母を見ている結衣の姿だった――。

こいつが……、こいつが……! 

憎悪の感情が再び渦を巻く。結衣は兄の目線に気が付き、目が合う。光一と視線が合った結衣の表情は、蛇に睨まれた蛙のように、恐怖と驚きに満ちていた――。


 ゴールデンウィーク前日の昼下がり、町は、社会人にとっては貴重な長期休暇前とあってか、既に大勢の人が私服で歩きまわる。

光一は約束の場所、近所のファミレスで待ち合わせをしていた。光一も今日から事実上ゴールデンウィークに入った。気分はすっかり休み気分である。しかし、今日はそんなに頭を休めるような気分でもない。

つい最近、一通のメールが送られてきた。それは楠田家の母・小雪さんからだった。『あなたの家族のことで少しお話をしたい』すぐに例の件であることが分かった。おそらく結衣が話したのだろう。きっと自分が帰った後で理由を聞かれ、おいそれと自分たちの間柄を話したに違いない。それで小雪さんが仲裁役を買って出た、といったところだろう。

正直、気乗りはせず、断ろうとも考えた。しかし、断わりのメールを打つ手が、なぜか動かない。そのまま、メール文を修正し、いつの間にか『分かりました』という返事を送っていた。

そして予定や場所を決めるまでに至り、今日、ゴールデンウィーク前日の午後、話をすることが決定したのだ。正直、自分としても、この一件についてはどこかでけりをつけたかったのかもしれない。何を聞かれるのか自分でも分からない。しかし、自分の思いは決して変わらない。

腕時計を見ると、集合時間を少し過ぎている。社会人なら、こんなことは許されない。正直、ここへ来るか、何度も悩んだ。迷いは思った以上に強かったことを今さらながら自覚する。光一はファミリーレストランの前で深呼吸をし、中へ入った。約束していた時間から既に十分が経とうとしていた。

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