重なる面影

     11


 二〇一五年、四月十九日――。私たちはついにこの日を迎えた。元の世界に帰るための優斗の提案を受け入れ、私は牧野家と楠田家のパーーティーを企画。本来であれば、優斗は亡くなり、私と栞が一緒に出掛けることも、私と兄が一緒に出掛けることもなかった。

本来であれば、私はきっと優斗の死に思いを巡らせながら、家でひっそりと過ごしていたに違いない。しかし、この世界における私は優斗の身体を持つ。もはや、私ではない。優斗として私は生き、優斗として気づき、優斗として学ぶ。それは私にとって、今までにない考えを与えてくれるものとなったのだ。そして私は、今日、もう一歩先へ、優斗の提案した、人との繋がりが待つ未来へ、踏み出す――。

 

 だが、その日、唐突な出来事が起きた。つい一時間前のことである。

「え? 仕事?」

「すまんな、懇意にしているクライアントから急な呼び出しがあって、外せないんだ」

優斗のお父さんの突然のキャンセル――。優斗の不安が的中してしまったのだ。しかもバーベキュー当日になってのいきなりの仕事以来だった。

私が朝起きて玄関に行ったとき、丁度、優斗のお父さんが玄関に向かうところだった。既に出勤する直前で、私には彼を呼び止める時間すらなかった。

どうして……!? やりようのない怒りが込み上げる。

「そんな、だって約束したのに……」

「また今度だ」

靴べらを皮靴に入れ、丁寧に靴を履いていく。

「そ、そんなの……」

「すまん、急ぐから、話はまた今度な」

その素気ない言葉に私はショックを受ける。この前の晩、『約束を取り付けた』と報告した時の優斗の不安そうな返事が頭を過ぎる。優斗はこうなることを初めから予測していたのだ。今まで何度もこんな気持ちを味わってきたのか。私のショックは次第に怒りへと変わっていく。

「ふざけないで……!」

優斗のお父さんは立ち上がりながら、こちらを振り向く。驚いたように目を丸くする。

「約束を破ったの何回目だよ。俺も、栞も、楽しみにしてるんだよ。毎回毎回。父さんは……考えたことあんのか!」

私はついに怒りを露わにしていた。何事かと小雪おばさんが玄関へやってくる。出掛ける準備をしている最中といった格好だ。栞は扉の影からその光景を見ていた。

「ちょ、ちょっとどうしたの?」

「優斗、外せない案件なんだ。分かってくれるな?」

優斗のお父さんは手なれた手つきで、頭をポンポンと叩いてくる。その仕草も、態度も、表情も、すべてに余裕が感じられる。そうか、優斗はいつもこうやってやり過ごされてきたんだ。優斗のお父さんは、そのまま玄関を出て行こうとする。

「待てよ!」

優斗の、言動、声。怒りは優斗のものだ。そして栞のものでもある。私の大声に、玄関先で優斗の父は振り向いた。これが最後のチャンスになる気がした。

「家に金入れてくるだけが、父親の仕事なのか? 楠田家の家族なのか、企業の家族なのか? どっちだよ!」

「ちょっと、優ちゃん……」

「なんだ、その口の利き方は?」

優斗のお父さんは再び玄関へと入ってくる。

「今日約束を破ったことを、絶対に許さないから」

優斗のお父さんは何かを言いたげだったが、やがて目線を逸らし、小雪おばさんに「いってきます」と冷めた口調で言い、そのまま家を出て行ってしまった。私は、呆然と立ち尽くすし、玄関から見える外の景色を見ていた。


 しばらくは楠田家に気まずい空気が流れたものの、小雪おばさんが明るく振る舞ってくれたおかげで、何とかその場は持ち直す。残された、私と、栞と、小雪おばさんは、出発の準備を再開した。

私はがっくりとうなだれていた。せっかくのチャンスが失われてしまった。どうしてこうなる……。優斗に何て伝えればいい……。きっと優斗は「だろうと思った」と冷静に答えるだろう。でも、本当は辛いに決まってる。他人の私でさえ、ショックを受けたのだから。あんなに冷静に、当たり前のように約束を破られていたとは知らなかった。

「優ちゃん、珍しくお父さんに怒ったわね」

「珍しく?」

「だって、最近は、お父さんに何も言わなかったじゃない? 私から言ってもダメで、優ちゃんから言ってもダメだって、ずっと悩んでいたでしょ?」

そうか。やっぱり。優斗のお父さんの手なれた言動や行動を見れば分かる。もう何度もああやって、優斗や栞の気持ちをないがしろにしてきたのか。確かにああいった態度を何度も何度も続けられてきたら、失望するだろう。母が生きていた頃の父は、確かにあんな風だったかもしれない。私はあまり関心を寄せてはいなかったけど、兄は、こんな気持ちだったのかな?

「怒らなきゃ分からないよ。本気でぶつかり続ければ、きっと何かあると思う」

「そうね。私も応援するわ。お父さんのこと、よろしくね」

「うん」

気を取り直して、準備をする。現在の時刻はすでに八時半を過ぎている。急がなくては。九時になれば、楠田家の前に迎えの車が到着する。牧野家を乗せて、父が運転する車が来るのだ。バーベキューは、市内にある大きな国立公園にあるバーベキュー場で行うことになっている。車で行けば数十分で行くことができるが、歩くと公園内をかなり歩かなくてはいけなくなる。そこで優斗に頼んで父に車を出してもらうことにしたのだ。

そばにはフットサル場、バスケットコート、芝のフリースペースなど遊ぶにはもってこいの環境が整っている。そこで皆で一緒に遊べば、きっと良い方向に流れてくれる。

 牧野家は大丈夫だろうか。優斗は今何をしているだろう? しっかり準備できているだろうか。兄がキャンセルをしたりしていないだろうか。不安は過ぎる。しかし、考えたところで仕方がない。連絡を取ろうとして手に取った携帯を再びポケットにしまう。大丈夫なはずだ。

「お兄ちゃん」

リビングで待機していた私に、栞は声をかけてきた。あの病院での喧嘩の後、私と栞はちゃんと仲直りをしていた。

驚くことに栞の方から私に話しかけてきたのである。「ごめん」と一言謝ってくれた。ケーキのお礼も言ってくれるとは思わなかった。私も謝り、今は普通に会話をするほどに関係は回復している。

「何?」

栞は私の近くに座る。

「さっき、何であんなにお父さんに怒ったの?」

「おかしいか?」

「そうじゃなくて、いつもはもっと、冷めてたから」

「そうだね。でも、やっぱり大切なことだと思ったんだ。本当なら大好きな人たちに無関心でいるなんて、悲しいことだから。だから、父さんには、自分がしたことで悲しむ人がいるんだってことを、何回でも言ってやるんだ。俺と、栞のために。あと、父さんのためにも」

私の発言に、栞は目を丸くする。

「なんか、お兄ちゃん、変わったね」

「そう、か? どんな風に?」

「ううん。別に。私も『変わって』あげてもいいよ」

「え?」

「何でもない」

栞はそのままどこかへ行ってしまった。栞の言った『お兄ちゃん、変わったね』という言葉が胸に残る。優斗ではなく私なのだから、多少性格は変わるだろう。栞にとって良い意味での変化であることを願う。それに、栞自身が『変わってあげてもいい』というのは、どういう意味なのだろうか。

栞も、優斗のお父さんがいなくなったことに対して、あまり驚いてはいないようだった。慣れてしまったのかもしれない。ずっと、優斗の境遇に幻想を抱き、私に比べたらずっと生きやすいのだろうと考えてきたが、私の見えない部分で色々と大変だったんだ。


 時計を見ると、もうすぐ九時になる頃だった。そろそろ行かなくては。準備ができた小雪おばさんと先ほど出ていった栞がリビングへと集まる。

「何だか久しぶりね、牧野さんたちと一緒なんて。少し緊張しちゃうわ」

小雪おばさんはしきりに鏡を見て、自分の服装をチェックしている。小雪も自分の身なりをチェックしてかばんの中身に忘れものはないかを確認している。私も何だか緊張してくる。大丈夫。きっと上手くいくはずだ。ここまでやってきたのだから。

「さぁ、行こうか。楽しもう」

私たちは、玄関で靴を履き、バラバラと外へ出て行った。


 玄関先で待っている私たちのもとへ、牧野家の車はすぐに到着した。窓の中に見えるのは三人。運転をしている父。助手席に座る優斗、そして、その後ろに座っている兄の姿が見えた。兄が車に乗っている――。それを見て、ホッとする。良かった。運転席の窓が開き、父が顔を出した。

「いや、どうもどうも。狭いですが、乗っちゃってください」

父に軽く挨拶を済ませ、その先の優斗の姿を確認する。優斗と目が合う。お互いに頷くと、私も車に乗った。私は兄の横に座り、その後ろに、栞と小雪おばさんが座った。

「いやー久しぶりですね。あれ、義人さんは、どうされたんですか?」

車を走らせる父は、バックミラー越しに話しかける。義人とは、優斗のお父さんの名前だ。

「それが、急な仕事が入ったみたいで、せっかく皆で集まれるのに、ごめんなさいねぇ」

小雪おばさんが申し訳なさそうに言う。優斗の表情が見えない。いったいどんな顔をしているのだろう。冷めた顔をしているのだろうか。

「いえいえ、仕事なら仕方ない。そうだよな結衣」

「あ、うん……」

「それにしても、優斗君が企画してくれたんだって?」

突然父に話を振られ、動揺する。

「え、ええ、そうですよ。久しぶりに皆で集まって楽しく盛り上がりたくて」

「ありがたいよ、何たって家にいたんじゃ、ずっと映画を見ちゃって、運動もしたかったんだ」

父はいつもよりテンションが高い。本当に楽しんでいるようだ。

車内は初めこそぎこちない空気を醸していたが、意外な盛り上がりを見せた。途中、栞と兄が楽しげに会話するシーンもあり、思いのほか、良いムードが車内には広がっていた。この調子であれば、順調にことは運んで、それぞれにあったわだかまりもなくなっていくのではないか? そんな期待が私の胸に広がる。


 車はすいすいと走り、ようやく目的のバーベキュー場についた。私たちはぞろぞろと降りバーベキュー場にある自分たちの貸出スペースへと向かう。父は先頭を歩き、小雪おばさんと栞はその後を追う。私と優斗もそれを追うようにして歩き、兄は最後尾をゆっくりと歩いてきた。

「優斗、ごめん、優斗のお父さん、今朝仕事が急に入ったって」

「ああ、そんなことかと思ったよ。まぁいつものことだから」

「それで、私、かなり怒っっちゃって」

「え?」

「仕事に行こうとしてるところを、もう絶対に許さないって、大声で……」

「結衣、中々すごいことするなぁ。サンキュー、そこまで言ってくれて」

「うん……。それで、お兄ちゃんの様子はどう?」

「光一さんか。別にいつも通りって感じ。ほとんど口は利いてくれてないけどな」

「そっかぁ」

「それで、縁りを戻す良い方法はあるのか?」

「特別な策は、ないかな」

「おいおい。でもバーベキューなら何とかがんばれそうだな。栞にも積極的に声をかけてみようと思う」

「うん、よろしくね」


私たちはさっそくバーベキューの準備に取り掛かった。材料を調理するのに、小雪おばさんが主体となり優斗と栞もそれに加わった。男のメンバーはその他の作業を分担することになった。

「結衣ちゃん、そっちの袋から材料取ってもらっていい? 栞は玉ねぎ切るの手伝ってね」

女性グループは小雪おばさんが主体となって、上手くやっているようだ。

優斗が栞の方へ玉ねぎを持っていって何かを言っている。その光景は、不思議だった――。目の前で、私と栞が近づいて話をしている――。その会話はすぐに終わったが、栞は拒絶反応を示さずに、『私』と会話をしているように見えた――。

小雪おばさんと優斗が笑い合うところも見られて、私は微笑ましくなる。何だか、昔のビデオフィルムを見ている感覚になる。私は『私』を見ている。私と母が楽しく話している風景を――。懐かしさに胸が締め付けられる。

だが――、その光景を冷めた目で見ている人物が一人、私の隣にいた――。兄だ。小雪おばさんと優斗の楽しげな会話を聞きながら、いったい何を思っているのだろうか。それは想像に難くない。決して良い感情ではないだろう。

「光一さん、どうしました?」

「あ、ああ、優斗君。何?」

「いえ、ボーッとしてたので、どうしたのかなぁと」

「ああ、別に何でもないさ。それより、このチャッカマンの火はちゃんと付いたかい? 何だかさっきから調子悪くてね。お、付いた付いた」

兄は動揺を隠すように、作業に取り掛かる。

「光一さん、今日は来てくれて、ありがとうございます」

「あれほど頼まれたら断れないよ。ところで、優斗君」

「はい?」

「結衣のことなんだが、あまり僕に期待しないでくれ」

兄は再び優斗のことを見て、すぐに目をそらす。期待しないでくれ、か。何だか先手を打たれた気分だ。やはり、そう簡単にはいかないのだろうか。

「違う違う、玉ねぎはこうやって、そうそう」

優斗が栞に玉ねぎの切り方をレクチャーしている。優斗は、もともと料理ができる男子だった。だから、入れ替わっても料理に関しては心配していない。栞はぎこちなく優斗の教えを聞いている。まさかとは思ったが、こんなにも早く二人が打ち解けるとは思わなかった。最も、本当に栞が『私』に心を開いているかは分からない。けれど、ああやって一緒になって何かをするということですら、私にとっては奇跡に近いのだ。栞が野菜を切っていき、優斗は「うまいねぇ」と褒める。何だか、本当に姉妹のようだ――。私も少し、間に入ろう。

「栞、順調か?」

「う、うん」

包丁で野菜を切りながら、栞はぎこちなく答える。

「おお、なかなかうまく切れてるね」

「ほんと?」

「ああ、中々だよ。これ、結衣に教わったの?」

「あ、う、うん」

栞は恥ずかしそうに答える。私と優斗は目配せをして微笑んだ。

「ちゃんと結衣にお礼を言うんだぞ」

「さっき言ってくれたもんねぇ?」

「うん。ピーマンはどうすればいいの?」

「おお、ピーマンはねぇ」

すごい――。まるで魔法を見ている気分だ。栞が『私』という存在に心を開いている。これを見られただけでも収穫があった。

「おーい、優斗君。女性メンバーの中に混じってないで、こっちを手伝ってくれぇ」

父の呼びかけに私は持ち場に戻ることにした。もっと二人の会話を見ていたかったけれど、仕方がない。

父はレンガを地面に並べていた。コンロがなく、会場にあるレンガで自分たちのバーベキューの土台を作らなければならない。そのため、離れたところからレンガを自分たちの場所まで運ばなくてはならなかった。すでに兄もレンガを運んでこちらに向かってきていた。私もすぐさまレンガ運びに協力して、難なくコンロ代わりの焼き所が完成する。

そこまでの運動はしていないはずだが、妙に息切れがする。身体の調子が悪かったせいかもしれない。

「あら結衣ちゃん、上手ねぇ」

「いえいえ、これぐらい手なれたものですよ」

優斗と小雪おばさんは楽しげに料理をしている。それを栞が勉強をしているような眼差しで見ている。女性のメンバーがうまくコミュニケーションを取れているだけでうれしくなる。

「さて、火を起こせそうだし、こっちの準備は大丈夫そうだな」

父が暑そうに、額を袖で拭う。

「優斗君、ずいぶん疲れているようだけど大丈夫かい?」

「大丈夫です。最近少し運動不足なだけで」

私は休憩がてら地面に座り込んだ。父に敬語を使うことがあるなんて思ってもみなかった。

「義人さん、元気? 仕事が忙しくて来れなかったんだって?」

「はい、来る約束だったんですけど、直前に仕事が入ったみたいで」

「そっかぁ、そりゃ残念だったね」

「残念なんてもんじゃないですよ」

私がむくれると、父はハハハと笑って見せた。

「どう思う? お父さんのこと」

「ムカつきます。すごく。今朝、少し喧嘩みたいになっちゃって」

「喧嘩に?」

「つい感情的になって、『許さない』って大声で。今思えば恥ずかしいですけど」

「そっか、それで、お父さんは何て?」

「『親に向かってその口の利き方は何だ』って、少し険悪なムードになっちゃいました」

「ははぁ、なるほどな」

父は苦い表情を浮かべる。

「なぁ優斗君」

「はい?」

「義人さんのこと、嫌いにならないでやってくれ。たぶん義人さんも必死になってるんだ。今はただ、見えてないんだよな、きっと。実は俺も昔は、義人さんそっくりでな。そのせいで、光一に嫌われちまった」

父は苦笑いを浮かべながら、兄に聞こえないように小声で言った。

「知っています。結衣から聞きましたから」

「おお、そうなのか。結衣は、俺のこと何か言ってたか?」

「今は普通で……、良い父だって言っていましたよ」

「本当に? あいつ、嬉しいこと言ってくれてるみたいだな」

「あ、でも、映画を見るとき、もう少し、音量を絞ってほしいって」

「あは、なるほど、な」

父は苦笑いを浮かべて頭をかく。優斗の身体だから、不満も言える。

「智久さんは、結衣のこと、どう思いますか……?」

智久とは、父の名前だ。間違えてもお父さんなどと呼んではいけない。変な誤解をされても困る。

「結衣は、母さんが亡くなってから、家事を一生懸命がんばってくれてるよ。本当に助けられてる」

聞いていて胸が熱くなる。父がそんな風に見てくれているとは考えもしなかった。そうだったのか。父はちゃんと、私のことを、見ててくれてるんだね。

「今度、結衣に俺から言っておきますよ」

「ははは、頼むよ」

「ところで、智久さんは、どうして、俺の父さんみたいな性格から、今の性格に変わったんですか?」

この質問は、聞いてみたかった。私から父には直接聞いたことがなかった。母が亡くなった頃から変わったとは思うが、その真意は知らない。

「妻が亡くなった時に、ずいぶんと反省してね。自分は家庭のことを見ていなかったって」

やはりそういうことだったか。

「その時まで、気がつかなかったってことですか?」

「気づいているつもりになっていたんだろうね。でも、それは大きな誤解だった。妻が亡くなった時……、詳しくは話せないんだけど、色々とあってね。家族に迷惑をかけていたことを何も知らなかった自分が情けなくなったんだ」

詳しく話せないこと――。それは――、きっと私がこの手で母を死なせたことなのだろう。

「妻を死なせてしまった原因は、結局のところ自分にあったんだって、今でも後悔しているんだ」

そんな……、違う。父は、何もしていない。

「違いますよ。……智久さんは、悪くない。結衣は、そんな風には思ってないと思います。だから、自分のこと、責めないでください」

父は少しだけ笑った。

「そんなことを言ってくれるのは、優斗君だけだ。ありがとう」

「いえ……」

「そうだ、今度、義人さんと話してみようかな。優斗くんと栞ちゃんのためにね」

「ほ、本当ですか?」

願っても無い話だ。

「ああ、こんな話しに乗ってくれたお礼だよ。まだ以前のアドレスも残っているし、後で連絡してみよう」

「ありがとうございます!」

やった、やったよ、優斗。少しだけ、優斗と栞の願いに近づけた気がする。打開策が身内にあったなんて考える由もなかった。


 そうこうしているうちにバーベキューは始まり、私と父の会話をよそに、すでに串に通された肉や野菜などが火にかけられていた。ジュージューという食べ物が焼かれる音、香ばしい香り、これぞバーベキューだ。

「優斗、焼けたから、食べていいよ」

目の前の優斗に『優斗』と呼ばれ、びっくりする。そうだ、ここではお互いをしっかりと演じなければいけない。私はわざわざ『ありがとう、結衣』と分かりやすく乗って、焼けた串を頂いた。冷ましてから一番上の肉を頬張る。うん、おいしい。

「栞も、これおいしいから食べて」

「ありがとう」

優斗が栞に串を渡す。どうやら、栞は『私』に対して完全に心を許しているようだ。何だか、涙が出てきそう。

「小雪おばさん、口のとこ、タレ付いちゃってますよ」

「え? どこかしら?」

「あ、ちょっと待ってくださいね。今取りますから」

優斗はハンカチで小雪おばさんの口もとを拭いてあげる。「ありがとう~」と小雪おばさんがお礼を言う。

私は嫌な予感がした。その嫌な予感は、不快な音と共に露わとなる。ペコッ!とアルミ缶がつぶれる音が近くで響く――。兄だ――。左手に持った、コーラの缶をこれでもかというほどに、握りしめている。その手はかすかに震えているが、私以外の誰も気づいていない。事情を知らない人にとっては、ただ缶を潰しただけにしか見えないはずだ。

兄の目線はまっすぐに、優斗と小雪おばさんのもとに向けられている。その目は、怒りに満ちていた。まずい……。優斗にこのことを知らせなくては。でも今伝えるのは難しい……。とりあえず、今やるべきことは……。

「光一さん、向こうにスリー・オン・スリー専用のコートがあるんですけど、バスケやりませんか?」

私は兄の気持ちを逸らすことにした。

「あ、ああ……、良いけど、今から?」

「あのコート、すぐ埋まっちゃうんですよ。だから行きましょう!」

私は串の残りの肉や野菜を一気に頬張り、無理やり兄を誘いだして、バスケットボールのコートへと向かった。

これで何とか兄の意識を逸らすことができる。私はテニスをずっとやってきたけど、中学校の授業でバスケットボールをしたこともある。同じ球技だし、何とかなるだろう。サッカーよりはできるはず。

「優斗君、バスケできたっけ? 習ってるのってサッカーだよね?」

兄はコート隅に置かれた貸し出し用のバスケットボールをドリブルしながら、聞いてくる。兄はバスケットボール経験者。当然うまい。

「お、同じ球技ですから」

「言ったなぁ?」

兄は不敵な笑みを浮かべてドリブルを左右の手でつき始める。本当に大丈夫だろうか。私は見よう見まねで、ディフェンスの構えをしてみる。こんな感じだろうか?

「お、何かディフェンスっぽいぞ」

「あはは」

褒められて調子に乗ったのもつかの間、兄のフェイントに引っ掛かり、反対側をドリブルで抜かれてしまう。

「ハハハ、どう? サッカーとはまた違うだろ?」

ゴールを見事に決めた兄は微笑みながら、シャツを少しめくる仕草を見せる。兄の笑顔が戻る。楽しそうで何よりだ。

「今度は俺の番ですよ」

「おお、来い」

ボールを渡された私は、見よう見まねでドリブルをつく。だが上手くいくはずもなく、私がボールに遊ばれるような格好になってしまう。ドリブルをするほど、ボールがどこかへ行きそうになる。兄はそんな私の姿を見て、笑っている。

私も一瞬ボールから目を逸らして、兄を見る。純粋に楽しんでいる表情。兄の笑うところなんて、本当に久しぶりに見た気がする。懐かしい――。こんな笑顔を間近でずっと見られたらいいのに――。そんなことを考えている間に、兄は私のボールをひょいっと取り上げる。

「ドリブルは、こうやって体を入れて、敵から取らせないようにするんだよ」

私は兄の手本を真似てやってみる。

「そうそうそう! おお、うまいな。さすが、普段からスポーツをやってると覚えがいいね」

私はそのままぎこちないドリブルを見せながら、ゴールへと近づいていく。当然ボールを取られてもいい状況だが、兄はディフェンスをしながら、私のドリブルを見守ってくれた。ゴールまで行くと、私はボールを放った。中学校の体育を思い出して放ったボールは運良く、ゴールに吸い込まれていく。

「やった!」

「おお! さすが!」

自然と笑顔がこぼれた。ゴールが決まったことよりも、兄と同じ空間で喜びを分かち合えていることがうれしい。この調子でもっと楽しもう。

フェンス越しに芝生の広場を見ると、小雪おばさんと栞、優斗の三人はフリスビーで遊んでいた。何とも楽しそうな光景だ。父は何をしているのだろうか。キョロキョロと姿を探すと、近くの木陰で一人、本を広げて読んでいた。車であれほど運動ができて嬉しいと言っていたのに。まあいいか。

兄は時折、フリスビーをする小雪おばさんや優斗のことを見ている時間があり、そのたびに私が声をかけて、意識を逸らした。それから、しばらく私は兄と一緒にバスケットボールで軽い汗を流した。その時間は、本当にあっという間に過ぎていった。時々、教えてもらいながら、兄と一対一で勝負して、すごく容赦してもらって、喜んだり、悔しがったり、そんな一瞬一瞬の営みが最高に楽しかった。途中、隣のコートの人たちを含めて、三対三の試合をするなど、予想以上に充実した時間を過ごした。


 三〇分ほど、経って一旦求休憩をすることにした。フェンスにもたれ掛かるようにドサッと座り込む。思った以上に体力を消耗している。息が荒く、何度かむせてしまう。

少し違和感を覚える――。スポーツを通した気持のいい疲れではない、身体の内側から来る気だるさ。何だろう、この感覚――。

兄が飲み物を買ってくると言って、コートを出たあたりで、私の気の緩みを付くような出来事が起こる。それは一つの叫び声からだった――。

「痛っ!」

寄りかかったフェンス越しに、小雪おばさんの叫び声が聞こえてきたのだ。何事だ! 私は疲れた体を起こして振り返る。見えたのは、転んで尻もちを付いた小雪おばさんの姿だった。そして、栞と優斗が駆け寄っていく姿が見える。何があったのだろう?

小雪おばさんは肘を抑えるように抱え込む。その肘から、出血していた――。おそらく、転んだ拍子に、肘を打ちつけてしまったのだろう。大丈夫だろうか。

私は立ち上がり、彼らのもとへ向かった。優斗が何やらポケット中から取り出す。絆創膏だ。それをやさしく小雪おばさんの肘に張る。

 私がコートから出て、彼らのもとへ行こうとした時、ふと視界の端に、兄の姿が見えた。ハッとする。まずい……。兄は両手にスポーツドリンクを持ち、呆然と立ち尽くしている。。急がないと、まずい……!

「光一さん! ありがとうございます!」

「優斗君……」

兄は私を見て、再び彼女らの様子を見始める。

私は兄の視界から優斗たちを隠すように立った。しかし、兄の視線は変わらない。そして、兄は私の良く知る曇った声で、そっと言った。

「悪いけど、俺、先に帰るわ……」

「え、ど、どうして?」

くそ、そんな……。

「あいつ……、何でだよっ……!」

突然の兄の発言に、私は自分が言われたのかと驚いた。しかし、兄の目線は遠くを見ていた。その兄の向ける視線の先で何かが……。私は恐る恐る振り向く。

小雪おばさんは、優斗の頭を、『私』の姿をした優斗の頭を撫でていた――。ああ。あの時、優斗に言っておくべきだった……。

「これ、皆で飲んでくれ。俺はやっぱり駄目みたいだ……。それじゃあ」

「あ、ああの……」

掛ける言葉も見つからない。兄が行ってしまう。私は、その場に立ち尽くし、兄の背中をずっと見ていた――。


 その後、私は皆に兄が帰ってしまったことを伝えた。急用で止む無く帰ったという理由を付けて……。皆は『仕方がない』と納得していたが、優斗の目は誤魔化せなかった。

しばらくして父も交えてフリスビーが始まった頃、私は優斗に呼ばれ、木陰で話すことになった。

「結衣、何があった?」

私はがっくりとうなだれる。

「兄が、優斗と小雪おばさんの仲良くするところばかり見ていて、何度も気を逸らしたんだけど、怒って帰っちゃった……」

「そんな、まさか……」

「ごめん、私が小雪おばさんに距離を取るように言っていれば……」

「結衣のせいじゃないって。それより、どうして光一さんはそこまで……?」

「たぶん、優斗が小雪おばさんと仲良く接している姿を見て、あの時のことを思い出したんだと思う。それで、母への甘えを小雪おばさんにしているんだと思ったんじゃないかな……」

「そんな、光一さんはそう言ってたのか?」

「言ってないけど、でも表情を見てれば分かるよ……」

「聞いてみなけりゃ、分からないだろ?」

「分かるの……!」

「結衣……」

「分かるよ……。ずっと見てきたんだから……、私のしたことにずっと怒ってる……。もう、お仕舞いかもしれない。もう、何を言っても通用しないと思う……」

「まだ、何も話してないだろ?」

「それは……」

「俺に良い案がある」

「え?」

「おーい! ちょっと皆、時間いいかな?」

優斗の呼びかけに皆がフリスビーを止めてこちらを向く。

「ちょっとこっちに集まって」

「優斗、どうする気?」

「いいから」

小雪おばさんも栞も、父も、「どうしたんだ」という面持ちで集まってくる。

「さっき、お兄ちゃんが帰っちゃったのには別の理由があるみたいで、皆にそれを聞いてほしい。遊んでるところ悪いんだけど、大切な話だから」

まさか、皆にそのことを話すのか? そんなこと話したら、どんな風に思われるだろうか。優斗はどこまで話すつもりだ。まさか、母のことまで……?

「実は、私のお母さんのことで、お兄ちゃんは怒ってて、帰っちゃったのはそれに関係してるんだ」

本当に話すの……? 優斗は私の目を見て、『大丈夫』と頷く。

「おい、結衣」

「お父さん、この機会だから、楠田家の人にお母さんのこと、話したいんだけど」

「しかし……」

「お兄ちゃんがずっと私のことに怒ってる。もう私たちの中だけじゃ、何も解決しないんだよ」

毅然とした優斗の言葉に、父は言葉を失くす。そして、溜息の後に「……分かった」と頷いた。


 優斗はポイントを押さえて話していった。『私』が、母を死なせてしまったことを。そのせいで兄が『私』を憎んでいるということを。そして、そんな『私』が小雪おばさんと仲良くする姿に、兄はただならぬ怒りを覚えてしまったということを。

父は目を閉じ、黙って腕を組んでいた。栞と小雪おばさんは、驚いた表情を見せつつも、真剣にその話を聞いてくれた。私はただ黙って、皆の表情を見ていることしかできなった。


しばらくして優斗は話し終えた。場の空気は、張り詰める。

「それで、結局それを話してどうしたいんだ?」

たまらず父が重たい口を開く。

「私はお兄ちゃんとの関係を修復したいと思ってる。でも今のままじゃ何もできない。だから皆に話すことで打開策が生まれると思ったの」

「だが、やはり人様に聞かせるような話ではなかった……。すみません、こんな話を聞かせてしまって……」

父は頭を下げた。その時――。

「わ、私、結衣さんのこと、助けてあげたいんだけど……」

栞がその空気を断ち切る――。栞が、『私』を助ける……!?

「い、今まで色々あったけど……、今度は力になりたいなって。さっき、料理とか、教えてもらったし」

「栞……!」

優斗は栞に目を向ける。栞は恥ずかしそうに目を逸らした。栞の『変わってあげてもいい』という言葉を脳裏を過ぎる。そういうことなのか……!

「俺も、結衣の思いを叶えてあげたいんだけど」

私も優斗になりきって賛同する。

「栞ちゃんに優斗君まで、そんな……」

父は申し訳なさそうにたじろぐ。

「智久さん、さっきうちの父さんと話してくれるって言っていましたよね。それなら、楠田家だって牧野家を助けます」

「そ、そうね。少し驚いたけど、私でよければ光一君と話してみてもいいわよ?」

小雪おばさんも話を分かってくれた。

「本当ですか?」

「ええ、だって、悲しい話じゃない? 兄弟なのに。ねぇ優斗、この前私に聞いてきたことってこのことだったのね?」

私は静かに頷く。小雪おばさんが病気で入院して、看病に来てくれたらうれしいか、死ぬ手伝いをさせるかなどの質問のことだ。今の話を聞いて、思い出したのだろう。

「お兄ちゃん、お父さんと話してくれるって何のこと?」

「ああ、結衣のお父さんが、俺たちのお父さんを説得してくれるんだって。家族を大事にしろってさ」

「え? 本当に?」

「僕にできることは義人さんと話すことぐらいだからね。是非やらせてもらうよ」

それを聞いた栞は嬉しさに飛び上がった。微笑ましくなる。本当にお父さんのことが好きなんだな。優斗もびっくりした表情を見せている。優斗もこの件を今知ったのだからそれは驚くだろう。二人の喜ぶ顔が見たい。

 栞は、何やら父を呼んで話し合い始めた。何かを頼んでいるのだろうか。私は小雪おばさんに向きなおる。

「それで、小雪おばさん、本当に兄と話してもらえるんですか?」

「ええ、勿論、後で電話してみるわ」

「あ、ありがとうございます!」

「話しずらいことを話してくれて、どうもありがとう。大変だったのね」

小雪おばさんは、優斗を優しく抱きしめた。優斗はそっと身を寄せた。そこにいるのは、『私』であり、優斗であり、そんな少し不思議な錯覚の中で、私は胸の中にあった濁りが無くなっていく気がした。

初めから誰かを頼るべきだったんだ。今になってそれを実感する。簡単なようで、私には難しかった。一人で抱える方がよっぽど楽だったから。でも何も変わらないことは分かっていた。分かっていながら、怖くてできなかった。目の前にこんなに力になってくれる人たちがいるというのに、私は本当に馬鹿だったな。

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