カタチなきもの


夕日は落ち、夜空が広がる。あたりには誰もいない。私と優斗だけが静かにベンチに腰をかけていた。優斗は私の話を、ただ黙って聞いていた。

「それで、お兄さんは……、何て言ってるんだ?」

「一度だけ、厄病神って言われた。それきりは兄の気持ちは聞けてない」

「あの光一さんが……? そうか、そんなことまで」

優斗が驚くのも無理はない。兄は今でこそ私や父を突き放されているが、昔は本当に優しかった。たぶん兄と仲が良かった優斗からすると、信じられないのだろう。

「兄は私のことを、絶対に許さないと思う。私は、身勝手だった」

「そうか……、確かにあの様子だと、怒りは相当だろうな……」

私は無言で頷く。

「ごめんな、こんなこと聞いちまって……」

「ううん、むしろありがとう。本当は、誰にも言えなくて辛かったから。ごめんね、こんな話、聞いてくれて」

「いや、結衣は悪くないって。こっちこそ本当にごめん。でもさ、話してくれて嬉しかった」

「そう……?」

「ああ。結衣の抱えてる悩みが聞けてよかった」

「優斗……」

「俺にはさ、そういう経験がないし、本当のことはよく分からないけど、何か、難しいよな。どこまでが自分のためで、どこからが他人のためなのかってさ」

どこまでが自分のためで、どこからが他人のためか。確かにそんな気がする。

「でも、俺は結衣の取った行動が間違っていたなんて思わないぜ?」

「え……?」

「だって結衣はお母さんの願いを聞いてあげたんだろ? 結衣の行動が誰かを傷つけたとしても、結衣のお母さんは結衣に感謝してるぜ、きっと」

私は目線を落とす。そうなのだろうか。そうであってほしい。

「人はさ、誰だって自分が一番大切だろ。だけど、誰かのために何かをしてあげることがものすごい大切なことだって分かってる。だから、迷うし、時には身勝手とも思える行動にも出てしまう。でも本人は心から他者を思っていたりするんだよな。他者にはそれが理解できなくてもさ」

優斗は遠くを見ながら少し微笑んだ。

「俺さ、今の聞いてちょっとあの人の気持ちが分かった気がしたよ。あの人には、あの人の考えがあって、少なからず、楠田家はあの人に助けられている。だから、少しだけあの人に近づいてみようと思った。結衣が『父さん』って呼んだみたいにさ」

そう言うと、優斗はこっちに向きなおって笑顔を見せた。

「大切なのは、人のためとか、自分のためとかの線引きなんかじゃない。本当に大切なのは、互いに分かり合おうと努力すること、寄り添い合うことなのかもしれないな」

優斗は再び、遠くの景色を眺めるように、そっと言った。その表情は、何かを悟ったようにすがすがしく、澄んだ表情だった。

確かに優斗の言うとおりだ。私は、誰かの気持ちなんて考えられないと思いながら、本当は誰にも目を向けてこなかったのかもしれない。

「優斗……、実はさっき栞と話した時なんだけど……」


私は、栞を先ほど泣かせてしまったことを正直に話した。私が栞と似ている気がするということも話した。それは栞の優斗や父に対する愛と、私の兄や母に対する愛の類似だ。優斗は納得した上で、私のしたことにお礼を言ってくれた。「栞ならきっと分かってくれる」と優しく言った。

「でも、栞が、『俺』に対してそんな風に怒ったのか……」

「うん。たぶん、優斗にもっと見てほしいんだと思う」

「そっか。分かった。結衣のこの身体を借りて、今より栞のことを見てやるか。結衣とも仲良くなるし、一石二鳥だな」

「うん」

「さて、そろそろ帰るか」

「あ、少しだけ待って」

「どうした?」

 私たちはその後、屋上を出て、病院内に戻る。私は最後に、もう一度、栞のいる部屋へ寄ろうと思った。彼女に一言謝りたかった。

栞の部屋は明かりが消えていた。試しに部屋をノックする。栞の名前を呼んでみる。しかし返事は帰ってこない。いないのだろうか? 私は扉を開けてみる。鍵がかかっていない。扉の開いた隙間から部屋を覗く。

「もう寝ちゃってるね」

月明かりに照らされた部屋の中、栞はベッドの上ですやすやと眠っていた。身体は窓を向いていて表情は見えない。「帰ろう」と催促する優斗に、私は「少し待ってて」と伝え、一人、栞の病室へと入った。

 起こさないようにそっとベッドに近づく。ケーキの箱が開いている。中を見ると、中のケーキは無くなっていた。食べてくれたんだ。

「栞、ごめんね……」

私はそっと囁く。栞は眠っている。

「もっと見てほしい気持ち、全然分かってなかった……。自分にもあったよ、そういう気持ちが。でも、自分のことばかりで、全然分かってなかったんだって思った。今まで、ずっと迷惑を掛けてきたね。本当にごめん」

だんだん優斗のことなのか、自分のことなのか分からなくなっていく。

「これからはもっと、栞のこと、見るようにするよ。あと、ケーキ食べてくれてありがとうね。お休み」

私はそう言い、部屋から出た。優斗は廊下のずっと先の方で待っていた。私たちは合流すると、家路についた。

 扉が閉まった後、月明かりに照らされたその部屋で少女は一人、枕を濡らした――。


寒そうにする私を優斗は気にしてくれた。そう言えば咳き込むこともあった。もとの世界でもそうだったが、病気がちなのは身体のせいではなく、心のせいなのかもしれない。 それはともかく、私の胸の中は、思った以上にすっきりとしていた。優斗に話してよかった。

私たちはゆっくりと帰りの夜道を歩く。ここから家までは徒歩でざっと十五分弱。

「そうだ、優斗。聞きたいことがあるんだけど」

「何だ?」

「あのお守りって何なの? あと、どうして三月二一日に霊園に行ってたの?」

「あぁ? 二つのことを同時に聞かないでくれ。お守り?」

「優斗の部屋にあった『諸願成就』って書いてある藍色のお守りだよ。私さ、もといた世界で、優斗にあれを渡されて、それをお墓に返して、こっちに来たんだけど、あれって何か特別なものなの?」

「あぁ……。あのお守りか。あれはさ、もらったものなんだ」

「え? 誰から?」

「あ、それはさ、内緒だ。うん、内緒」

「内緒?」

「今はな」

「じゃあ、どうしてそれを私に? この世界では渡されてないけど、前の世界ではお守りは優斗から私の手に渡ったよね?」

「それは、その、何となく……?」

「は?」

「いやぁ、何て言うか、結衣が心配だったんだ。本当に! あの時の結衣は、本当に何もかも塞ぎこんでいるような感じだったからさ」

確かにそれもそうだったけど。少なくとも、今ほど周りに関心はなかった。

「じゃあ私たちが入れ替わった日に霊園にいたのはどうして? あの日、私たちは会う約束をしていたよね? それをドタキャンして霊園にいたなんて、怪しいんだけど」

「お前は、取り調べの警官か。別に、理由なんてない。何となく落ち着くんだ。ああいう場所」

「約束をドタキャンして行くほどの場所?」

「そういうものなんだって。今度どうだ、一緒に」

私は「嫌だ」と即答する。どこかで聞いたセリフ。そうだ。私が栞に嘘をついた時も、そんな嘘を付いた。一つも腑に落ちる回答はなかったが、今はそういうことにしておいてあげよう。

「ねぁ優斗、帰る方法ってあるのかな?」

「それが分からないんだ。一刻を争うっていうのに」

「一刻? そんな風に見えないけど」

「バカ言え! と、とにかく一刻も早く結衣は帰るべきだと思うぞ。家族だって心配してるはず」

「そういう概念ってフィクションにはよくあるけど、私たちの記憶は前の世界から引き継がれているだよ? 同時に別の世界が動いてることなんてあるのかな?」

「うーん、よく分からないな」

「最近、時々思うんだよね。このまま帰れなかったら、仕方ないなって」

私は優斗が助かってから、妙に安心していた。優斗が死なないなら、帰れなくても、幸せに生きる方法はあるのではないか。

「それはダメだ!」

「ど、どうして?」

優斗は珍しく声を荒げる。

「ダメなものはダメなんだ。今は帰れる方法を探すんだろ?」

「う、うん、そうだけど」

「ごめん、何か大声出しちまって。でも大切なことなんだ」

「ううん。こっちこそ、変なこと言ってごめん。そうだよね。ここはあくまで夢の中……」

夢の中――? 

そうだ、ここは、夢の中……。すべては、日常と乖離した非現実。じゃあ、私の心は、身体は? この世界には、この世のありとあらゆるものが存在している。それでも、ここは私のいた日常ではない。あくまで、『夢の世界』なのだ。

じゃあ、優斗は――? 本物? それとも、夢の中の存在? 優斗は現実では死んでいる。もし、この世界を非現実の夢の中と捉えるなら、優斗もまた、夢の世界の住人にすぎないのだ。帰るということは、夢から覚めるということ――。優斗自身の存在も消えるということだ――。

「優斗は、怖くないの……? 私が帰ったら、消えちゃうんだよ?」

「全然。もともと死んでんじゃん、俺」

「そ、そうだけど。でも……」

寂しいよ……。

「なに結衣がしょぼくれてんだよ?」

「うん……」

「まぁでも、ありがとな。そう言ってくれるだけでマジ成仏ものだよ」

優斗の笑顔に吹き出してそうになる。何だか、いつも優斗には励まされる。私が不安になっても、優斗は軽いジョークで返してくる。私はその度に助けられてきた。

でも、今回は不安を拭えない。私は本気で優斗との別れが恋しい。優斗にトラック事故で亡くなった時より、それを強く感じる自分がいる。今になってようやく彼の存在の大きさに気づいている自分が悔しい。

「優斗、色々、ありがとね」

「おう? 何だ何だ唐突に!」

「いつお別れが来るかも分からないから、一応」

「な、なるほど」

「私さ、ずっと、人の気持ちに無頓着で、本当にダメな人間だったよ」

「結衣……」

初めて自分の弱さを、受け止め、それを話した。肩の荷が下りる。

「自分のことだけ考えて生きてきた。それを自覚しないまま……。でも、優斗の身体に入って、人の気持ちが少しだけ分かった気がする。私さ、ずっと独りでいいって意地張ってたけど、本当は誰かと分かり合いたかった。この世界に来て、それを素直に受け止められたんだ。それが嬉しくて」

「おいおい、長いうえに、ちょっとグッとくるようなこと言うなって。それに俺は何もしてないよ。結衣ががんばったんだ」

「うん……、ありがとう」

私はこの世界に来て、少しだけ、人間らしくなれたのかもしれない。周りの人たちの知らなかった感情に触れて、初めて気付いたことがあった。

「ん、ちょっと待てよ……」

優斗が急に考え込んだように額に手を当てる。

「どうしての?」

「そうか……! そうだよ!」

「な、何、急に」

「帰る方法が分かったんだよ! いや、厳密には分かってないけど!」

「本当に?」

「ああ! ずっとこの世界に来た理由を考えてたんだ。何かをやらなければならないって。それで、結衣のさっきの言葉でピンときたんだ」

「私の言葉?」

「人の気持ちが分かったって言ってただろ? 俺たちは、互いに人との繋がりに悩んでいた。でもその答えは、俺たちの中にちゃんとあった。この世界で初めて気付いたことだろ?」

「うん……」

「つまり、それが俺たちのやるべきことなんだ」

「やるべき……こと?」

「そう! 俺たちは、人を見つめ、人と向き合う。そうやって繋がりを作っていく。そのために、この世界に来たんだ!」

「根拠が、分からないよ」

「結衣、俺を信じてくれないか?」

どうして、優斗はここまで自信を持って言えるのだろうか。

「それで、本当に帰れるの?」

「保証はできない」

「……」

「でも、今の俺たちにできることは、これぐらいだろ? 俺たちが入れ替わって過去に来た理由は、きっとそうならなければいけない理由があったからだ。それを自分たちで見つけ、解決していく。それしか方法はない」

「……そうだね」

優斗の言うとおりだ。私たちがここへ来た理由は必ずある。優斗はそれを『人との繋がりを作る』ことだと推測した。それが、やるべきことなのか確たる証拠はない。しかし、優斗の身体になって、初めて見えた『人との繋がり』もある。帰れる方法が分からず、今できることが限られているなら、全力でやってみる価値はあるのかもしれない。

「優斗、私、思いついたんだけど」

「え?」

とっさに頭の中に浮かんだことがあった。本当は昔から考えていたことだが。

「牧野家と楠田家で、バーベキューでもしない?」

私の提案に、優斗は目を開く。

「いいじゃん! そうだよ、昔みたいに集まろうぜ!」

昔みたいにか。母が亡くなる以前は、牧野家と楠田家の親交は厚く、家族ぐるみで一緒に遊ぶこともあった。

「でも、集まってくれるかな?」

「そこが一番の問題だな。光一さんと、『父さん』が来てくれるかどうか」

「優斗……、『父さん』って」

「恥ずかしいから指摘するな。俺たちのやることはさっき言ったろ? とにかくあの二人が問題になる。しかも二人とも俺には説得できない。結衣が説得しなきゃいけなくなる」

「そうね……」

優斗のお父さんはもちろんのこと、兄と話ができるのは、私だけだろう。

「できそうか?」

「やってみるよ」

「おう! じゃあ俺は結衣のお父さんを誘う。結衣は楠田家と光一さん、ちょっと大変かもしれないけど誘ってくれ」

「分かった」

もしかしたら、今まで実現しなかったことが実現するかもしれない。兄は乗ってくれるだろうか? 栞とは分かりあえるだろうか? 様々な不安が渦を巻くなか、期待という芽を顔を出していた。

 

その時だった。

ポケットに入れていた携帯が突然鳴りだす。誰だろう? 私はスマホの電源を入れる。メールが一件届いていたみたいだ。メールボックスを開く。

「うそ……」

「どうした?」


『優斗君 こんにちは。これから少し会えないかい? 牧野光一』


「お兄ちゃんからだ……」

「おいおい、言ってたそばからじゃねーか」

「どうしよう?」

「行ってこいよ。誘うチャンスじゃん」

「でも……」

「時間はないんだぞ?」

「う、うん」


私は優斗になり済まして、兄に返信した。兄からはすぐに返信があり、近くの喫茶店で少しばかり話すことになった。何を話すのだろう? どんな風に話すのだろう? もう何年も兄とまともに話していない。ちゃんと話せるだろうか? 不安で手が震える。

「心配するな、俺も付いて行ってやるから」

「本当に?」

「もちろん、バレないように遠くに座ってるだけだけどな」

「それで十分。ありがとう」

「もう運命共同体なんだから、これぐらい遠慮するなよ」

「うん、ありがとう。う、ゴホッ、ゴホッ」

「おい! 大丈夫か!?」

急に大きな咳が出る。

「平気だから。少し風邪気味で、心配しないで」

私たちはそのまま、近所の喫茶店へと向かった。途中、偶然兄と出くわしても大丈夫なように、お互いに離れて歩く。

幸い兄と出くわすこともなく、私は喫茶店までたどり着いた。待ち合わせまでまだあと五分はある。先に入って待っていた方が良さそうだ。心臓が高鳴る。大丈夫。私は今、結衣じゃなく、優斗なんだ。平然としていれば問題ない。バレることなんてあり得ない。振り返って優斗の方を見る。優斗は頷く。大丈夫だ。私は一人じゃない。深呼吸をすると、店内へと入った。


     10


 兄は私が店に入って、五分もしないうちに入ってきた。私に気が付くと、こちらに歩いてきた。兄はスーツ姿だった。優斗は隠れるように店内に入り、私たちの死角になる位置に座った。兄はいつも忙しそうだったが、今日は早上がりだったということだろう。

「ごめんごめん」と入ってきた兄。その姿は、普段の私には見せない、あの時の優しい兄だった。それが見られただけで嬉しい。もう変わってしまったのかと思ったけど、まだあの頃の兄はいるんだ。私は改めて、もう一度、あの頃の兄に会いたい。

「待たせて悪いね、今日は仕事が早く終わって、彼女と会う約束をしてるんだけど、まだ少し早くて。何か頼む?」

「い、いえ、お構いなく」

「なんだ、今日は固いな」

「そ、そうですか?」

自分の実の兄に敬語で接するなんて、何だかむず痒い。

「妹が、栞ちゃんに迷惑を掛けたみたいだね。本当に申し訳ない。今日はそのことで一言謝りたくて」

そう言い、頭を下げてくる。

「い、いえ、その、大丈夫ですから。軽傷で済みましたから」

「そうか。それは安心した」

「それに、結衣は……」

何もしていない――。そう言おうとしたが、結果的には私が栞を傷付けた。それは変わらない。

「あいつが……、どうかした?」

「い、いえ……」

「そうか。……情けないよ、本当にあいつは」

兄の表情が曇り始める。その顔は、『私』に向ける表情――。タイミングよくコーヒーが二つ運ばれてくる。私は何て言えばいいか分からず、固まるしかなかった。

「あ、あの」

「ん? 何?」

コーヒーを啜りながら、兄は答える。私は意を決して聞いてみた。

「光一さんは、どうしてそこまで結衣のことを憎んでいるんですか?」

コーヒーを啜る手が止まる。張りつめた緊張感。心臓が飛び出しそうだ。

「あれ、そのことを知ってるのか? 俺が話したか?」

「実は、結衣から少しだけ聞いたことがあって、気になっていたんです」

「なるほどな」

兄はコーヒーカップを置き、ため息混じりに話しだした。

「あいつは、一人じゃ何もできない。昔から俺にばかり甘えてた。俺が構わなくなった途端に、母に甘えだして、死に追いやるまでずっとくっついて……、それを何とも思っちゃいないんだよ」

胸が痛む。『何とも思っちゃいない』確かにその通りだ。兄の中の『私』は、人の気持ちなんてまるで考えない最低な人間。

伝えたい。私は今、自分を見つめ直そうとしていることを……。自分の愚かさに気付き始めていることを……。

「そんなことが。……それで、光一さんは、まだ、怒っているんですか?」

「当たり前だろ? 許せる訳がない。ただ身勝手に人に甘えて、他人には迷惑をかけていることすら気がつかない。そんな人間のどこを許せと言うんだ?」

「……もし、それが変わったとしたら、許せますか?」

「さぁ、どうかな……。あいにく、仮定の話は苦手でね。少なくとも、今の状態が続くようであれば、可能性はないだろうな」

「そう……ですか」

「ごめんな、こんな話、しなければよかった。そろそろ時間だ。栞ちゃんにお大事にって伝えておいてくれ」

兄はそう言うと、窓の外を見た。外には誰かを待っている女性の後ろ姿があった。

「おっと、もう来てたか。あそこにいるのが彼女だ。今度紹介するよ。さ、行こうか」

まずい、このままでは、せっかく会えたのに誘いだせない。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「どうしたんだ急に?」

「今度、牧野家と楠田家で一緒にバーベキューをするんです。それで、光一さんにも参加してほしくて」

「僕はいい。皆で楽しんできなよ」

「ダメなんです!」

思った以上に大声を出してしまい、店内の視線が集まる。

「お、おい、お店の中で大声を出すなって」

「光一さん、さっき言ってましたよね? 結衣との状態がずっと続けば、可能性はないって。俺は、そんなこと絶対に嫌です」

「これは、僕の問題だ。君は関係ない」

「関係あります!」

私は兄に食い下がっていた。今しかない。今しかないんだ!

「お願いです。光一さんと結衣に、仲良くなってほしいんです。それに、光一さんにも来てもらえば、もっと盛り上がると思います」

「しかし……」

「光一さんも、結衣との関係が直れば、嬉しいんじゃないですか?」

「っ……」

「結衣は、それを望んでいます。俺からの願いでもあります。どうか、来てください」

私は頭を下げる。兄は会計をしながら、溜息を吐いた。

「……楠田家は全員来るの?」

「これから誘います」

「……、少し時間をくれないか。後で連絡するから」

「ありがとうございます!」

兄は軽く微笑み、店を出ると、彼女を連れて歩いて行った。後は連絡を待つだけだ。よかった。誘うことができた。

後ろから優斗が背中を叩いてきた。「やったじゃねーか」と喜ぶ。私も思わず喜んだ。

 

兄の憎しみに満ちた表情を思い出す。普段の牧野家にいる時の表情だった。目の前でそれをもろに受けたのは辛かった。『身勝手に人に甘えて、他人には迷惑をかけていることすら気がつかない』。本当にその通りだ。これは氷山の一角だとしたら、私はいったいどれだけの人を傷つけてきたのだろう。私のした行動は兄を傷付けた。今は、それが痛いほどに分かった。


 私たちは一緒に帰り、互いの家で別れた。

家では小雪おばさんと二人きりの夕食になり、私はバーベキューの件を話した。小雪おばさんは喜んで了承してくれた。栞には小雪おばさんから誘っておいてもらえるようだ。

目の前で話すこの人が、時々、母に見えてくる――。あの頃の面影が、何度も脳裏を過ぎる。小雪おばさんだったら、私のしたことをどう思うのだろうか。

「ねぇ、母さん。変なこと聞いていい?」

「なーに?」

「母さんがさ、もし重い病気にかかって入院したら、看病に来てほしいよね?」

「なーにその質問?」

「いいから」

「そうねぇ。もちろん来てほしいわ」

小雪おばさんはご飯を食べながらニッコリと笑う。

「そうだよね……」

「あ、でもねぇ、来てほしくない、って思うかも。ちょっとはね」

「え、どうして?」

「だって、家族に心配かけたくないもの。看病に来る度に心配な表情を見るのは、辛いだろうし。だから、私のことを意識せずに、何かにひたむきに頑張ってくれている方が嬉しいかも」

「俺は、もしそうなったら、看病に行かないかも。……なんて」

「心配してくれるだけで十分よ。子どもは親の心配なんてしないで、自分のことを精いっぱいがんばればいいの。心配するのは親の役割なんだから」

「じゃあ、もしも母さんが死にたくても死ねなくて、俺が手を施せば死ねたとしたら、俺に頼む……?」

「もう、さっきからどうしたの? 変な質問ばっかり」

「いいから答えてよ」

「そうねぇ……、もしそうなったとしても、最後の最後までそんなことできないわね」

「最後の最後まで?」

「そうよ。いくら辛くても、自分の子どもに自分の死なせる手伝いをさせるなんて、したくないもの」

「じゃあ、もしそれしか手段がなかったら?」

「もしそうせざるを得なくなるほど辛くなったら、お願いするかもしれない。そんな悲しい状況になるなんて想像もできないけど」

「そう……だよね」

「でも、例えそうなってしまったら、最後まで笑っている気がする。少しでも、その人が罪悪感に陥らないように、ありがとうってね」

母を思い出す。あの時、最後まで母は笑っていた――。母は喜んでいたのか。きっと、そうだ。母は嬉しかったのだ。

頬を涙が伝った。涙が出る前の熱い感情も感じることなく、気づくと涙が流れていた。

「ど、どうしたのよ?」

「ご、ごめん、何でもないから」

私は慌てて涙を拭いた。


 食事の後、優斗のお父さんが帰ってきた。私は意を決して、玄関まで行くと、バーベキューのことを話した。開口一番に『父さん』と呼ぶと、優斗のお父さんは驚いたようにこちらを振り返った。優斗の分まで頑張らなくてはいけない。

優斗のお父さんは、私の提案に「別にいいぞ」とあっさり乗ってきた。あまりにあっさりとしていたため、拍子抜けしてしまう。その後、小雪おばさんも加わり、バーベキューの詳細を話し、優斗と決めていた四月十九日にしようと伝えた。優斗のお父さんはスケジュール帳を開き、「分かった」と頷いた。あまりにうまく行き過ぎて少し不安になる。

優斗に電話でそのことを話すと、驚いてはいたが、やはりどこか不安げな様子だった。


 そして、翌日、兄からメールが入った。『参加するよ』。その文面を見て、私は飛び上がりそうになった。やった。まるで、何かを成し遂げたような気分になる。良かった。本当に良かった。明日には栞も退院するそうだ。大丈夫。一昨日のことはしっかり謝って、仲直りをしよう。私と優斗は詳細を決めて、皆に伝えた。それぞれから了解の合図が取れ、私は期待と不安に胸が高鳴った。大丈夫。さぁ、今こそ踏み出す時だ。

 それからは、私は疲れ果てるように眠りについた。少し精神的に参っていた部分があったのだろう。そして、数日が経過し、私たちはついに四月十九日を迎えたのである。

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