光と影


 私は、病院のベットで目を覚ました。

隣には優斗が座っていて、私を見守ってくれていた。私が目を覚ますと「おう、お目覚めか」と少しやつれた表情を見せる。私は、あの悲惨な現場を目撃して、そのまま気を失って倒れてしまっていた。私は三時間ばかり、気を失っていたそうだ。

栞は、あの後、病院に緊急搬送されて、何とか一命を取り留めたらしい――。私は背負わされた無限の重りを下ろされた気分になった。良かった……。本当に、良かった……。栞は軽傷レベルで済んでいた。トラックが栞にぶつかる直前で急ブレーキを踏み、ハンドルを切ってくれたおかげで、もろに正面衝突をすることなく、大事に至らなかったそうだ。もしもドライバーが栞に気がつかなかったら、栞は間違いなく死んでいた。そう考えると、背筋が凍る。

 現在の時刻は一七時を回っている。優斗の亡くなる時間からすでに四時間が経過していた。

私たちは、運命を変えたのだろうか――? 優斗と私はトラック事故に遭わず、命を落とすこともなく、運悪くトラック事故に遭った栞でさえ、軽傷で済んでいる。そして、今こうして優斗と話し合っている。回るはずのない時が回っている。優斗の寿命は、こうして延び続けているのだ。もう、心配はいらないのか――?


 翌日、四月一三日、私も優斗も、生きていた。

 昨日の雨天とは打って変わって、天気は快晴。私は、学校の最後の授業(避難訓練)を早退して、栞の入院している病院へと向かった。栞は何て言うだろうか? 裏切り者? もう信じない? 頭の中であらゆる罵倒が思いつく。しかし、それをなぎ払う。

私は、ある決意をしていた。それは、彼女と分かりあうというもの。まずは、謝らなければならない。それを分かってもらった上で、牧野結衣を分かってもらうために話をしようと思った。

 もう一つ、私には考えなければならないことがあった。それは、この世界から帰る方法。私はある仮説を立てていた。帰るにはどんな方法があるのか。

一つは優斗を死の運命から救い出すこと。しかし、その仮説は昨日の時点で破棄されてしまった。優斗は生きているのに時間は流れ続けている。もう一つは、お墓にもう一度お守りを返すというものだった。しかし、この仮説も実は数日前には破棄せざるを得なかった。もう何日も前に、お守りは、優斗の部屋ですぐに見つかった。変わらない藍色の生地に、『諸願成就』と書かれたきれいなお守り。私はそれを持ってこっそりと優斗のお墓があった霊園に赴いたのだ。しかし、亡くなってもいない彼のお墓があるわけもなく、私はお墓が立てられる前の何もないスペースで呆然と立ち尽くすしかなかった。

 帰れないのではないか――? 一抹の不安が脳をかすめた。だが、そんなことはない。こちらの世界に来れたということは、帰る手段も必ずある。優斗の命を救えた今からならそれを考える時間はあるはずだ。


 病院に着いたのは、一五時過ぎだった。受付を通り、手には道中で買ったケーキ屋さんの袋を握り締めて、栞のいる三〇三号室へと向かった。

病院を歩いていると、昔の記憶がフラッシュバックのように蘇る。階段を踏みしめる感覚。廊下を突き当りまで見通す視界、窓から差し込む太陽の光――。呼吸が自然と荒くなる。三〇三号室の前には『楠田栞』というネームプレートが貼ってあった。この部屋で間違いない。

一旦、呼吸を整える。中から話し声が聞こえてきた。小雪おばさんの声だ。栞と楽しげに何かを話しているようだ。大丈夫。ここはあの日の病院ではない。

 軽くノックをして、私は扉を開けた。

ゆっくりと開かれる扉の先に――。急に視界がセピア色に染まる――。そこにいたのは、お母さん――? ベッドに座り、少しこけた顔でこちらに微笑む、懐かしい母の姿が――。

「優ちゃん?」

「お兄ちゃん……」

二人の声に、我に帰る。そこにいたのは、足と額に包帯を巻いた結衣と、隣で椅子に座っている小雪おばさんだった。

「し、栞、大丈夫?」

栞は「平気……」とそっぽを向くように答える。

「大事に至らなくて本当に良かったわ。数日もすれば退院できるって」

小雪おばさんが安心したように微笑む。

「出てってよ……」

栞がそっぽを向くようにつぶやく。

「こら、栞、何でそういうことを言うの?」

栞は何も答えずただ窓の外を黙って見ていた。

「栞、本当にごめん。別に、栞を悲しませようとしたわけじゃないんだ」

「……」

「それで、その、栞に話したいことがあって。聞いてくれない?」

一瞬だけ、栞がこっちに反応したのを見逃さなかった。

「少しだけだからさ、これでも食べてさ、話そうよ」

私は持ってきたケーキを見せた。

「何……?」

「それは話してからのお楽しみ」

栞に微笑みかける。栞に対してこんな風に微笑むことができるとは思わなかった。栞は拒絶の反応を示していない。これは話して大丈夫ということだろう。私はケーキを膝の上に乗せて、椅子に腰を下した。

「それじゃあ、お母さんは、夕飯の支度があるから先に帰るわね」

そう言うと、小雪おばさんは部屋を後にした。栞は一瞬引き留めたそうな顔をしたが、諦めたように帰っていく小雪おばさんを見送った。

私と栞は、部屋に二人だけになった。こんな機会、今までに一度たりともなかった。身体こそ優斗だが、私にとっては、嫌われていた栞と一対一で話す、またとないチャンスだった。

 気まずい空気が病室に流れる。どこから話せばいいのか。さっぱり分からない。栞は分かってくれるだろうか。

「それで、話したいことって何?」

まともに目を合わさずに聞いてくる。

「う、うん、まずは謝る。昨日は本当にごめん」

私の言葉に、栞はしばらく黙っていた。

「約束したのに……。家に呼ばないって。お兄ちゃんもそうやって嘘を付くんだね」

「お兄ちゃんも……?」

「お父さんだよ」

やはり栞の心の中にも、優斗と同じように父への期待と失望が少なからずあった。

「栞はさ、父さんのこと、好き?」

聞いた瞬間、栞は目を丸くしてこちらを見た。私と目が合うと、すぐに逸らしてしまう。

「その呼び方……」

「ああ、もう『あの人』って呼び方は止めたんだ。いつまでも憎んでたって仕方ないし。それで、父さんのこと、好き?」

「どうしてそんなこと聞くの?」

「大切なことだから」

「……好きに、決まってるじゃん」

「でも、栞との約束破ったり、俺との約束も破ってる。それでも、好きなの?」

「お父さんは、頑張ってると思うから……」

そうなのか。優斗とは少し考えが違う。失望はあっても、栞の方は、そんな父の姿を認めている。

「じゃあ、結衣のことは?」

栞は私を睨みつけた。

「嫌い……」

「どうして?」

私は固唾を呑む。

「あの人が、お兄ちゃんに危害を加えるから……」

「俺は、別に気にしてないよ?」

ここは優斗の気持ちを借りる。

「そうじゃない」

「そうじゃない?」

私が聞くと、栞は黙って下を向いてしまう。私は大きく息を吐いた。

「結衣の家でお母さんが亡くなったよね?」

栞は何も答えない。だが、栞を含め、楠田家の人なら知らない人はいない。

「結衣は、ずっとお兄ちゃんっ子だったらしいんだ。栞に似ている」

「……」

「でも、いつの日か相手にしてもらえなくなったらしい。そして今度はお母さんに甘え出したそうなんだ。でもその直後、お母さんは亡くなった。甘える人がいなくなってしまったんだ」

栞はびっくりしたように私を見る。

「栞には俺がいるし、父さんも母さんもいる。でも、結衣にはもうお母さんがいない。そして大好きだったお兄さんとも、喧嘩している状態なんだ。結衣にはもう取り戻せないものがたくさんあるんだ。結衣はそれを自分のせいだと反省し始めている」

栞は目を見開いたまま、私のことを見ていた。

「俺は栞を一人にしたりしない。もう、嘘もつかない。だからさ、結衣のことを、許してあげてくれないか?」

栞の境遇と私の境遇の接点。それは互いに大切な人を、好きな人を失ったこと、失う悲しさを知っていることに他ならない。私は栞に自分のことを打ち明けることで、彼女の心が変わってくれることを祈った。

「栞の気持ちも分かる。でもその苦しみは結衣も同じなんだ。だから救ってあげたい」

栞は私から目を逸らした。その表情は、全く読めない。理解はしてくれたと思う。でも、栞は何を思うのだろう。

「お兄ちゃんは……、私と結衣さん、どっちが大事なの……?」

私はその質問に面喰ってしまう。まさか……、そんなことを聞かれるとは思わなかった。

「どっちが大事とか、そういうことじゃなくて……」

「どっちなの……!?」

「だから……」

「私だって、私だって……!」

栞はそのまま泣き出してしまう。栞……。

「ずっと、我慢してきて……! お小遣いも、お父さんのために……! でもお父さんは忙しいし、お兄ちゃんは、あいつのことばかりで……!」

ポタポタとシーツに涙が落ちる。

「栞、俺は……」

言葉を失ってしまう。

「出てってよ……!」

「栞……」

「出てってよ!」

栞は泣きながら、私に背を向けるように横たわってしまう。ああ。最悪だ。どうしてこうなってしまったのか。

窓の外を見る。日が傾きだし、夕暮れが訪れそうになる。その夕日に目が染みそうになる。私は、やっぱり誰の気持ちにも踏み込めないということか。人の気持ちを動かすことも、理解することも、全くダメということだろうか。

 目の前で泣きじゃくる栞。「栞、ごめん……」栞はただ泣き続ける。私は知らないうちに彼女を傷つけたのか。優斗だったらもっと優しく出来たのかもしれない。かける言葉すら見つからない。持ってきたケーキの箱を握りしめる。それをベッド脇にそっと置き、静かに部屋を去った。


 扉を閉めた私は、やけに長く感じる病院の廊下を、力なく歩く。廊下は西日で橙色に染まる。不意に感情がこみあげてきそうになる。悲しいのは栞なのだ。私じゃない。ここで感情に身を任せたら、私はまた、自分勝手な人間になるだけだ。

長い廊下を歩き、階段を降りようと角を曲がろうとした時、誰かとぶつかりそうになり、私は身をかわす。

「結衣」

その声にハッとする。目の前には制服姿の私――、ではなく、優斗が、立っていた。

「優斗……!」

お互いに顔を見合わせる。全くの偶然だった。時刻はまだ午後四時半。時計を確認した私は、病院の屋上で話し合うことを提案する。優斗は二つ返事で提案に乗ってくれ、私たちは夕日に染まる屋上へと向かった。


四階建ての病院の屋上。そこはフリースペースとなっていて、誰もが訪れることができる場所だった。

優斗は、学校が終わり、真っ先に病院に駆けつけたのだという。もし私たちがまだ話をしていたら、部屋を訪れることも考えていたらしい。しかし、私の浮かない表情を見て、それを止めてくれたのかもしれない。

「ほら、買ってきたから、飲もうぜ」

ベンチで待っていた私に、優斗は自販機で買ってきた飲み物を手渡してきた。

「あ、ありがとう」

「ストレートティーで良かったよな?」

「うん、あ、ちょっと待って……」

ポケットから財布を取り出そうとする。

「ああ、いいよお金は。今日栞に会ってくれたお礼」

私は再び優斗にお礼を言い、もらったストレートティーを口に運んだ。あったかい……。緊張がゆっくりと解けていくみたいだ。

「ありがとな、栞に会ってくれて」

「うん……、でも勝手に行って、ごめん」

「別にいいって、結衣は今は『俺』なんだから。それで、栞は大丈夫そうか?」

「う、うん。包帯を巻いてたけど、軽傷だから、数日で退院できるんだって」

「そうか、そいつは安心だな。栞とは何か話した?」

私は、栞が泣く姿を思い出す。そうだ。私は栞を泣かせてしまった。これを言ったら、優斗は怒るだろうか。

「別に、大した話じゃないよ。ごめんって謝って、後はたわいもない話をしただけ」

「それだけ?」

「……うん」

優斗の目を見られない。声も弱弱しくなる。

「そ、っか。ところでさ、結衣」

「何?」

「お前、光一さんと何があったんだ……?」

「え?」

「だから、お前のお兄さんと何があったのか聞いてるんだよ。昨日から家に出張関係で戻って来てるけど、ほとんど話さないっていうか、ものすごい因縁つけられてるっていうか。今朝も話しかけたら、すごい目で見られたんだぜ?」

兄との関係を優斗は知らない。兄が家に帰ってきたら、優斗から質問が来ることは予想していた。

「兄とは、喧嘩してる」

「それは前に聞いた。どうして?」

このことを優斗に話すべきか。話さないべきか。ずっとこの件は黙っていた。家族以外の誰にも話すことはなかった。それを優斗に、ここで話すべきなのだろうか?

「優斗のお父さんのこと、聞かせてよ。話してくれたら、私も話していい」

「いいよ別に。状況が状況だしな。別に大した話じゃないぞ」

「うん」

「あの人は、前にも少し話したように、いわゆる企業戦士で、家庭のことなんか全く見ちゃいない。俺も栞も、遊んでもらった記憶なんてほとんどないんだ。こんなの企業と結婚しているようなもんだろ?」

「そう……だね。お父さんのこと、嫌い?」

「嫌い……とは違うな。もうどうでもいい、に近い感じ」

私は優斗のその言葉に少なからずショックを受けた。実の父親に関心もないなんて、それはもはや他人と同じではないか。それに、私は優斗を、どんな人も受け入れる人だと思っていた。少なくとも私を受け入れてくれたのだから、家族関係でうまくいっていないなんて思いもしなかった。

「栞は、お父さんのこと、好きって言ってたよ」

「栞は元々あの人のことが大好きだったって言ったろ? 俺はもっとフラットにあの人を見てきたから。子どもより仕事を優先して、母さんが困っても家事も手伝わない、それでいて家庭を支えているのは自分なんだって胸を張っている。家庭に金を入れさえすれば、父親なのかよ? それに引き替え、結衣のお父さんは羨ましい。結衣のことをしっかり見てくれてる気がする」

「あ、ありがとう。でもうちのお父さんだって、昔は家庭を顧みなかったんだよ?」

「マジか?」

「うん、それで、お兄ちゃんに嫌われて、今も話してないでしょ?」

「あ、ああ、そうだな。それで、どうやってあんな風に変われたんだ?」

「お母さんが亡くなってからかな」

「そう……なのか」

優斗は何て返せばいいか分からずに口をつぐむ。

「優斗のお父さんのことは何となく分かった。優斗のお父さんは今からでも変われると思うよ」

「そうか……?」

「うん、もっとお父さんに自分たちのことを訴えていけば良いんだよ」

「どうして?」

「うちのお父さんは、お兄ちゃんに嫌われたことを今でも後悔してるからさ。だから子どもたちの存在の大きさに気づかせてあげないと」

「な、なるほど」

栞が泣きだす時に言っていた言葉を思い出す。

「そういえば栞が、お父さんのためにお小遣いをどうとかって言ってたけど」

「あ、ああ。栞は毎月のお小遣いを貯金しているんだよ。いつかあの人を出掛けに誘ってあげるってさ」

「そう……だったんだ」

栞がそんなことをやっていたなんて驚きだ。私に比べたら、ずっと健気だ。

「話してくれてありがとう。今度は私の番だね」

「ああ」

もう決心は付いた。話そう、私の暗い過去の話を。夕日が傾き出す。あたりは次第に暗くなっていく。優斗の顔も次第に見えづらくなる。屋上にいた人も次第に病室へと帰って行った。今なら、話せそうだ。

「私のお母さんが3年前、いや、この世界だと2年前に亡くなった、のは知ってるよね?」

「あ、ああ。確か、悪い病気で入院していて、急に容態が悪化して亡くなったんだよな?」

「うん、そういうことになってる。でも、本当は違うの」

「違う……! じゃあどうして?」

優斗の視線が私にまっすぐ向けられている。私は遠くの夕日を見る。そして、天から聞こえてきたのかと思えるぐらい消え入りそうな声で、つぶやいた。

「私が、お母さんを殺したの」


     8


 夏休み。私は、病院の廊下を歩いていた。その日は母のお見舞いに行く約束をしていたため、早々と部活を切り上げて病院へとやってきた。病室は三階の三〇五号室。エレベーターを使うほどの距離ではない。歩いて階段を上っていく。踏みしめる足が、震えているのが分かったのは、二階に上がる頃だった。どうしよう……。頭の片隅に、このまま引き返すという言葉が何度もかすめる。駄目だ。ここまで来たんだから、今日はしっかりと顔を見せる。母が入院してもう一月半になろうとしていた。

その入院の長さは、明らかにおかしかった。早ければ一週間ほどで退院できると聞いていたにも関わらず、母は一向に退院しなかったからだ。

母は急に倒れ、意識不明だった。しかし、すぐに意識を取り戻した。母も笑顔で『大丈夫』と笑っていた。私はそれを信じ切っていた。だが、気がつけばそれが二週間に延び、一ヶ月、一月半と延びていった。『もう少し検査がかかりそう』という母の表情があまりに自然すぎて、当時の私は純粋に信じ込んだ。

 だから、きっといつかは母帰ってくる。そんな楽観的な考えで私は部活に励んでいた。いや、楽観的に考えようとしていた。時々頭の片隅をよぎる「母は帰らないかもしれない」という言葉を、部活に打ち込んで搔き消し、病院にほとんど顔を出さなかった。

入院している母を見ることが、嫌だった。また家に帰ってくるなら、その時に顔を合わせばいい。そう言い聞かせ、たびたび部活を理由にお見舞いに行かなかった。私とは反対に兄は母のお見舞いにしょっちゅう行っていた。毎日通い詰めいていたこともある。私が最後にお見舞いに来たのは、もう一月も前のこと。なんだか少しだけやつれたように見えた母を見るのが辛かった。早く帰ってきてよ。何度もそう思った。その時の母もまた、笑顔だった。

 そして、それから一ヶ月、母はどんな表情を私に向けるのか。『牧野千鶴』というネームプレートのある部屋に辿りつく。私は息を整えて、ドアをノックする。母の返事を待ったが、どれだけ待っても彼女からの返事はない。試しにもう一度ノックをするが、やはり返事は返ってこなかった。寝ているのか? 単純にそう思った私は「お母さん、入るよ」と声を掛け、ドアを開けた。

 その時の光景は忘れもしない。そこにいたのは、まるで母ではない誰かだった。横たわっていたのは母……。しかし、頬が前よりもこけ、腕や胸にたくさんの点滴をつけている……。そして、呼吸器も付けられていた。

 母は入ってきた私に微かに反応する。呼吸器の奥で何かを言っているのは分かるが、何を言っているのかは全く分からない。

「お母さん……」

私はよろめきそうになりながら、彼女に近づく。母の意識はしっかりとあった。表情もあの時と同じ、優しい微笑み。しかし目は微かに開き、声も曇っている。

「お母さん、これ……、何……」

どういうことか、全く分からない。母は大丈夫と言っていた。医者も早ければ一週間で退院できるって言っていたのに……。

「お母さん、大丈夫なの……?」

私の問いかけに、母はただ微笑んでいる。それが何を意味するのか分からない。

そこからの記憶は曖昧だ。私は自分を落ち着けるためか、母を元気づけようとしたのか、母の横でずっと自分の近況を話した。学校では勉強が難しくなってきたこと。部活の試合で緊張してうまくいかなかったこと。家族のこと。たくさんのことを話したと思う。話していないと、恐怖に押しつぶされそうだったから。母は微かにこちらを見て頷く動作をしていた。あの変わらぬ表情で。


 だが、母の容態は急変した。それまで、静かに微笑むだけだった母は、呼吸を荒げ、苦しそうな表情を浮かべ始める。私はただ事ではないことを感じ、すぐにナースコールを押す。身もだえる母を前に、私は駆けつけた医者によって、そのまま病室から出されてしまったのだ。

母は、帰ってこないかもしれない――。その時、ふとそう思った。兄に、母の体調が崩れて病室から出されたことを伝えると、よく起こることだと話してくれた。本当に? それなら心配ないのか? 私は疑問を抱かざるを得なかった。


 それから何日かして、私は再び母のもとを訪れた。母はあの時と同じだった。でも、笑顔は微かに無くなっている気がした。その日も、私はずっと話をしていた。

だが、話し始めて数分経った頃だった――。母の息遣いが荒くなり、呼吸器がそれまでよりも曇りだしたことに私は気付いた。母が私にしゃべりかけている。またか……? 私はナースコールを押そうと手を伸ばす。

しかし、母は顔を横に振った――。『やめて』と言っているかのように――。どうして……? 母を見ると、微かに呼吸器が振動しているのが分かる。母は私に何かを言おうとしている。

「何? お母さん」

ゆっくりと彼女の口もとに顔を近づける。母の声が微かに聞こえてきた。やはり何かを喋っていたんだ。でも聞き取れない。

「ごめん、もう少し大きな声で言って」

そう言い、耳を凝らすと、今度ははっきりとその言葉が聞こえてきた――。私は聞き違いではないかと耳を疑った。そして、何度も母にもう一度言うよう頼んだ。しかし、聞こえてくるのは同じ言葉だった――。

『こきゅうき とって』

母のかすかな声は、確かにこう言っていた。どうして……? 母の呼吸器を取る、それがどういうことなのか、中学二年生の私でも何となく分かった。母は今、死のうとしている――?

「そんな……」

意味が分からない。うろたえる私を前に、母の呼吸器はまた微かに振動している。耳を近づけると、母は同じことを訴えていた。『おねがい』。その表情は苦痛に歪む。母は自らの手を持ち上げるが、痙攣し上手く持ち上がらない。それを見た時に悟った。母は死にたくても死ねないのだ――。

 私は苦痛に歪む彼女の顔を見る。母が苦しんでいる……。そして、死にたいと私に告げている……。今、私なら彼女を楽にしてあげられる――。

今思えば、この時の私は異常心理だったのかもしれない。私は、母の最後の願いを叶えてあげたいと本気で思ってしまった。『母はもう帰らない』私はそう確信した。それならば、彼女を楽にしてやりたいと思った。とても身勝手な行動だと、考えることもできなくなっていた。もう苦しむ必要なんてないよ。

私は、母の呼吸器に手を伸ばした――。

「……いいの?」

私は異様なほど冷静に、母にそう聞いていた。そうでもしないと、迷いが生じてしまう気がしたから。母はあの時と同じ笑顔になる。私は喜んでいる――。私はそれを見ると、何も言わず、彼女に取り付けられた呼吸器をそっと彼女の顔から外した――。


 母は最後に言った。『ありがとう』。声は聞こえなかった。でも口の動きはそう言っていた。母は眠るように息を引き取った。最後の最後まで笑いながら。彼女の頬には涙が伝っていた。母は楽になれたのだ。私はただ冷静に、自分の中で何かが壊れぬよう、必死になってそれを食い止めていたと思う。

私は、母を自らの手で、死なせたのだ。自分で後悔しているか、していないか分からない。でも、少なくとも母はそれで幸せだったのだと思う。いや、そう思いたい。母の最後の笑顔は本物だったと信じたい。

 その後、医者が駆けつけ、父も、兄も駆けつけた。父は私を抱きしめてくれた。兄は、泣き崩れていた。そして、兄は私を発見すると、この世のものとは思えない憎悪に満ちた目で私を睨みつけた。この時、私はどうして兄が私にそんな目を向けるのか、分からなかった。それからしばらくして、兄は家を出て行った。私と父には口をほとんど聞かずに。

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