静かな空間

 公園に到着する。広い公園には誰もいない。まだ優斗は到着していないようだ。目の前のブランコが懐かしく思えて、腰を下ろす。誰もいない日曜日の夜の公園。どの家族もみな食卓にいるのが普通だろう。良い静けさだ。私は昔から静かな空間が好きだった。皆がワイワイと話している空間も、騒音のする都会の雑踏も大嫌いだった。それ自体が嫌いなのか、そこに入れていない自分の願望の裏返しなのか。うまく自分では表現できないけど。こういった雰囲気は落ち着くのだ。夜空を見上げてみる。空は何も変わらない。この景色も、この空間も、何一つ変わったところはない。だからこそ、いま自分が優斗の身体となってここにいることが理解できない。

いったい、どんな科学を使えばこのカラクリを解けるというのだろうか。きっと全物理学者が血眼になって研究に身を投じるだろう。現実問題、私がおかしいと言われて精神科に送られて、変な新興宗教の材料として使われたり、オカルト研究家たちの間でもてはやされるのが落ちといったところだろうか。

 私は自分の身体を見る。この手、この足、すべて優斗のもの。服も、髪も、肌の感覚も、何もかもが優斗だ。まだ慣れない。まるで自分はテレビの外にいて、優斗というキャラクターをコントローラーで動かしているみたいだ。だが、ここはゲームの中でも夢の中でもない。痛みがある。心も痛い。三月の夜はまだまだ冷える。私の五感が機能している以上、私はリアルの世界にいるのだ。


 トタットタッと誰かが走ってくる音が聞こえてきたかと思うと、『待ち人』はようやく私の前に姿を現した――。その表情、しぐさ、恰好、あらゆるものが、私の最もよく知る人物そのものだった――。向こうも、こちらを見た瞬間、私と同じようなリアクションを取った。開いた口がふさがらず、まん丸く見開いた目を何度もこすっては、私を凝視している。

「久しぶりだね」

「お、おおう」

『私』はぎこちなくおどける。本当にこれが優斗……?

「本当に優斗なの? どう見ても私にしか見えないんだけど」

優斗は恐る恐るブランコに乗っている私に近づいてくる。その姿は自分自身。私って、こんな風に見られてたんだ。普段は絶対に見ることができない自分の姿につい見入ってしまう。

「見た目は結衣だからな。そっちこそ、本当に結衣なんだよな?」

「うん、信じたくないけど、私、牧野結衣だよ」

優斗の頬が緩む。私の言葉で本当に私が『牧野結衣』だと感じたのだろう。私も『私』を優斗であると確信した。しゃべり方も表情も優斗だ。まるで、ものまね芸人を見ている気分だ。見た目は違くても、しゃべり方、挙動が似てしまえば本人に見えてきてしまう。

「隣、座るぞ」

優斗は、平静に振る舞い、隣のブランコに座った。ゆっくりとブランコをこぎ始めた。

「で? これはいったい何なんだ?」

「私に聞かれたって、困るよ」

「どうしてこうなったのか、分からないのか?」

「そうだよ。気がついたら、優斗の身体に意識があったんだから」

しばらく考え込む優斗。私もブランコを漕ぐ。

「なぁ、結衣。おかしな質問かもしれないけどさ」

「何?」

「俺の記憶が曖昧なんだよ。結衣の身体になる前の記憶が薄いんだよな。俺と結衣は入れ替わる前、何をしてたんだ?」

「え?」

どう話せばいい。まさか、自分がトラック事故に巻き込まれたことを知らないとでも言うのか?

「優斗、もしかして、自分がどうなったとか知らない……?」

「え、そうだな、思い出せない」

自分が亡くなったことなんて誰も知ることはできないのかもしれない。

「じゃあ、順序立てて話すね。私は一年後の世界から来たの」

「え? な、何だそれ!?」

漕いでいたブランコを止めて優斗は唖然とした目で私を見る。

「正確に言えば、一年後の五月初旬から来た」

「どうして?」

「分からない。優斗のお墓参りに行って、優斗からもらったお守りを仏壇に返したら気を失って、気がついたらこっちの世界にいた」

私の発言に、優斗の表情が濁る。

「仏壇……?」

言い掛けた優斗は、何かを思い出したかのようにハッとする。

「俺は……死んだ、のか?」

緊張した表情を向けてくる。

「う、うん……。思い出した?」

人間は死を経験することはできないと聞いたことがある。死は世界との断絶を意味するからだそうだ。自分が世界からいなくなれば、経験という概念すらなくってしまう。だから人は自分が死んだことを認知できない。

「ああ。原因は、事故か……?」

「うん。私をかばってトラックにひかれたことが原因だよ」

「そう……か」

がっくりとうなだれるわけでもなく、優斗は地面を見つめていた。かける言葉も見つからない。私は何と言えばいい? 助けてくれてありがとうと言うのか? せっかく助けてくれたのに、私は感謝の一つもできないと言うのか? 分からない。私には何も言えない。


私と優斗はその後、互いに知っていることを話し合い、お互いの共通認識を増やしていった。時間は流れ、時刻は八時を回ろうとしていた。不思議だった。優斗ともう一度こうして話していることを、楽しんでいる自分がいる。緊急事態だというのに。信じられない現状の中で、私は冷静に、この世界で彼と話ができていた。もはや感覚の領域だ。何も臆することなく、純粋に今この時を、優斗との会話に注ぎ足すことができている。一年ぶりの優斗は、何も変わっていなかった。

「じゃあ、もうすぐ、俺は結衣をかばって死んじまうわけか」

「うん。高校が始まってすぐ、四月一二日の昼間」

「このまま行くと、結衣が死ぬことになるな」

「そう、なるね……」

「その日、俺たちは出掛けていた。なら、出掛けずに家にいよう。そうすれば絶対に事故に遭わない」

私は頷く。この世界とは何か、そこから抜け出す方法は何か。数多疑問はあるが、そんなことよりもまず優斗の死を回避しなくてはならない。何よりも私はまだ死にたくない。

「俺の提案だけど、どっちかの家に二人でいた方がいいと思うんだ」

「そうだね。私もそう思う」

「どっちの家に集合するかだな」

私は考えた。優斗に私の部屋はすでに見られている。もうそこに関しては仕方がない。ただ、あの日、兄が出張関係で久しぶりに家に帰ってくる日だった。私は合わせる顔もなく外出していたのだ。兄と私の間にできた溝のことを優斗は知らない。それを知られたくはなかった。

「優斗の部屋、楠田家に集合しない? その日は優斗の身体で外に出ること自体危ないわけだし、私の身体なら事故に遭わないだろうから」

「確かにな。分かった。当日、なるべく早く楠田家に向かう」

「うん」

 優斗との話し合いで分かったことは、二人ともどうしてこの世界に入れ替わった状態でいるのかを分からないということ。そして戻り方も今後取りうる行動も全く分からないということだった。


あの日、優斗が亡くなった四月十二日、私は家に兄が帰ってくることを分かっていて、居心地の悪さを感じ、優斗と遊ぶ約束を取り付けたのだった。午前中は雨が降っていたにも関わらず、優斗は誘いに乗ってくれた。優斗自身も丁度いいと言っていた。遊ぶといっても、テーマパークへ行くわけでも、ショッピングやグルメを堪能していたわけではなく、ただ単に地元をぶらぶらと歩いて回っていただけだった。

事故は何の前触れもなく起こった。お昼ご飯をファストフード店で済ませた後、優斗に会計を任せて私は先に店を出て、少し歩いていた。雨が上がり、太陽が雲の切れ間から顔を出していた。歩く私の目の前には青信号がついている。そこまで広くない見通しの良い交差点だった。まだ渡れる。でもさすがに渡ってしまうのは優斗が可哀想だと思い、待つことにした。だが振り返ると、優斗はこちらに駆けてきていた。これなら渡ってしまっても余裕があるだろう。『ほら、早く』私は優斗が近づくのを待って、後ろを振り向いたまま信号を渡りだした。振り向きざまに信号を確認する。信号はまだ青のまま、点滅すらしていない。余裕だった。しかし、私の視界には、トラックが見えていなかった――。

「結衣!」と叫ぶ優斗の声――。私は振り返る。そして、目の当たりにした。スローモーションのように私に向かって近づいてくる大型トラック。蛇に睨まれたように動けない私に、トラックは猛スピードで突進してくる。だが、最後の最後、ぶつかるコンマ何秒前に私の視界は遮られた。それが優斗だと感覚的に把握したのと、トラックが私たちにぶつかり、意識が途絶えるのは、ほとんど同時だった。

後で聞いた話では、ドライバーは居眠り運転をして交差点に入ってきていた。そのドライバーも、違法で長時間労働をさせていた運送会社も罰せられた。


 「優斗はさ、どうしてあの時、私を助けてくれたの?」

私はその質問を投げかける。もう二度と聞くことはできないと思っていた質問だ。それに、最初に会えたこの機会に全てを聞いておきたかった。

「どうしてって言われたって、あの時の記憶なんてほとんど憶えてないからな」

「じゃあ、私が今トラックにひかれそうになったら、かばってくれる?」

「うん、かばうと思うよ」

優斗のそのあっさりとした回答に私は驚きを隠せなかった。

「どうして? 死ぬのが怖くないの?」

「人を助けて死ねるなら本望だね」

毅然とした態度で優斗は言った。その目に濁りも迷いもない。彼は本心を言っている。

「ましてや、助ける相手が結衣だろ? 迷う必要なんてない」

その言葉に一瞬ドキッとする。

「そう、なんだ。優斗……」

「何?」

「ううん、何でもない」

私はそれ以上のことは聞けなかった。優斗にそう言ってもらえて内心嬉しかったが、それ以上のことを聞くのを止めた。助けられたことに対して、感謝というものをうまく持てていない自分がいることを悟られることが嫌だった。優斗に申し訳ない。彼は命の恩人なのに、何て酷いことだろうと思った。

公園を風が通り抜ける。寒い。思わず身震いをし、軽い咳が出た。

「もう遅いし、帰ろうぜ」

「そうだね」

 私たちはブランコを降りると、もと来た道へ引き返す。時刻は既に八時半を回っていた。ずいぶんと長く話していたようだ。隣で立ち上がった優斗が「痛てててっ」とお尻をさする。自分の身体を他人が触っている。もちろん自分で触っているようにしか見えないが。嫌だったけど、身体が入れ替わっている以上、自分の身体に触れられることぐらいで文句を言っていられない。長時間座っていたのだから仕方ない。それに引き替え、優斗の身体は、頑丈と言っていいだろう。長時間固いブランコの上に座っていたにも関わらず、全く痛くない。さすがだ。

「これから、どうしよう?」

私たちはすぐそこにある家を前に、ゆっくりとした足取りで歩く。

「そうだな、とりあえずはうまくやろう。帰れる方法を探しながら」

「うまくって?」

「演技に決まってるだろ? 二人して病院に送られたいのか?」

「そ、そうだね」

「それに……」

「それに?」

「それに、いや、何でもない」

優斗は何かを言いかけて止めた。優斗にも何か言いづらいことがあるのだろう。

「そう。分かった、それじゃあ」

「おう、連絡するよ」

私たちは手を振り別れた。別れると言っても、互いの家はすぐそこにある。危うく間違えて自分の家に帰ろうとしてしまった。私の今帰るべき家は牧野家ではなく、楠田家なのだ。鍵を差し込み、ひねる。わずかに違う、鍵の感覚。ここは私の家ではないけど、やるしかない。帰る方法が見つかるまで、演技を通してやる。私は扉を開き、楠田家に帰った。


     3


 母は昔から病弱だった。身体が弱いなか、家事を毎日こなしながら企業で働く、スーパーウーマンだった。毎朝、誰よりも早く起き、洗濯物を干し、家族の朝ごはん、お弁当、夜ごはんの支度をしてから仕事へ向かう。夜遅くに帰ると明日のご飯の下ごしらえをして仕事の準備をして眠りに付く。それを私が小さなころからずっと続けていた。その影響か、突然体調不良で倒れることもしばしばあった。母はいつも私に笑顔を向けては「大丈夫」と楽天的に振る舞った。私はそんな彼女の振舞いにずっと安心していた。しかし、三年前、私が一四歳の時に、母は病院に入院した。私は夏休みの真っ最中で、ソフトテニス部で汗を流していた。

いつものように練習に集中していた時、顧問の先生からまじめな顔で呼び出された。家族からの電話が入ったという伝言。職員室に呼ばれた私は汗だくの中、受話器を渡された。

「もしもし?」

「結衣、結衣か?」

電話の相手は父だった。声の調子で、何となく嫌な報告だと感じた。

「さっき、母さんが倒れて病院に運ばれた」

「お母さんが……?」

母が病院に? 倒れたって、どういうこと? いつもみたいに働き過ぎで倒れたの?

「落ち着いて聞いてくれ。まだ、母さんの意識が戻ってないんだ」

「え……?」

私の言葉に、職員室の空気が変わるのを感じた。

「そうと決まったわけじゃない。とにかく今すぐ病院まで来るんだ。父さんもすぐ行く」

母が、死ぬ? そんなこと考えもしなかった。当時十四歳の私には到底信じられなかった。

「結衣、結衣! 分かったか?」

私は消え入りそうな声で返事をする。その後、私は急遽、部活を早退して、市で一番大きい総合病院へと向かった。顧問の先生が車を出してくれることになり、私は一番先に病院に着いた。病院へ着くと、私は医者のもとへと連れていかれた。昔から懇意にしている松木という医者だった。顧問の先生は私を松木先生に引き渡すとそのまま学校へと戻っていった。

 しばらくして、スーツ姿の父と、大学院の研究室から飛び出してきた兄が病院に到着した。私たち三人は松木先生の診療ルームへと通された。そこでは、母の容態に関する松木先生なりの見解をずっと聞かされていた。私には難しい話がよく分からず、真剣に聞く父と兄の後ろでただ黙って座っていた。母の状態がよく分からなかった。先生は安静にすれば、一週間ほどで退院できる可能性もあると言っていた。

 しかし母は、それから二ヶ月も経たない晩夏の昼過ぎに、この病院で亡くなった。その原因は、私にある。


     4


 「優ちゃん、優ちゃん」

遠くで小雪おばさんの声が聞こえてくるような気がして、私はハッと我に返る。

「ん、何?」

「学校はどう?」

小雪おばさんは夕飯の支度をしながら私に声をかけてきた。

「どうって、普通だよ」

あれから少しの月日が流れ、私は優斗として、都立高校へ進学した。高校は同じだったため、優斗も一緒に進学した。学校では優斗も私も互いにぼろが出ないように無口な性格を通すことにして何とかやり過ごしていた。それが原因で全然友達ができないと優斗は嘆いていたが、そこは我慢してもらうことにした。

今は四月四日の土曜日、優斗が事故に遭う八日前だ。未だに自分が優斗であることを時々忘れてしまい、反応に遅れてしまったり、挙動がおかしくなることが多い。しかし何とか周囲の疑惑をかわしつつ今日までうまくやってきた。先ほど、私は軽い咳に悩まされ内科を受診しに行ってきた。専門医からは風邪と診断され、漢方を渡されて帰ってきたところだ。

「新しい友達はできた?」

「うん、そこそこはね」

「そう言えば、結衣ちゃんはどうしたの?」

自分の名前が呼ばれてびっくりする。

「どうしたって?」

「クラスよクラス、同じになったの?」

「いや、違うけど、確かあいつは四組だった」

なんとか優斗っぽい口調で話そうと試みているが、まだしっくりこない。優斗の真似をしている自分が恥ずかしくなるが、優斗以外誰も知らないし、状況が状況だ。仕方がない。

「そうだ、優ちゃん」

「あ、あの、いや、その呼びかた、止めてくれない」

「あら、どうして?」

「だって、子どもみたいで恥ずかしいし」

「だってこっちの方が呼びやすいし、優ちゃんは優ちゃんでしょ」

優斗の事とはいえ、恥ずかしくなっていた。でも、もう何も言い返せる気がしない。

「そうそう、この前の結衣ちゃんとのデートはなくなっちゃって残念だったわね」

呑みこもうとした唾液が気管に入り、ゴホゴホッ咳込む。

「デートじゃないって! 仕方ないよ、向こうが予定入っちゃったんだから」

「そう、残念だったわね」

小雪おばさんがニヤーっと嫌な笑みを浮かべながらこちらを見てくる。

「別に……」

そう、三月二十一日、私から誘った遊ぶ約束を、優斗は突然キャンセルしたのだ。予定が入ってしまったということで何も詮索をしなかったが、私がこの世界に来たのがその三月二十一日だ。優斗はその日、お墓を訪れていたという。世界がリンクしているのであれば、私がいた世界でも、優斗は同じ行動をとったはずだ。いったい何をしていたのだろう?

 相変わらず、ゴホゴホと咳が出る。漢方薬が聞くと良いのだが。

「大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」

いつもの間にか近くまで来ていた小雪おばさんは、私の額に手をあてた。反射的に私は身をかわしてしまう。

「どうしたのよ? ああ、もしかして恥ずかしいの?」

「もういいって、熱なんてない。ただの風邪」

戸惑いつつも、私はどこか安心している。何年ぶりだろう。この感じ。母がいなくなってから三年も経ち、母の温もりを忘れていた。この人は優斗のお母さんだけど、すごく懐かしい。全然違うけど、同じものを感じてしまうのはどうしてだろう。優しかった母。もう一度会いたいと何度思ったことか。それが、いまこういった形で実現していることが、ささやかながら嬉しかった。

「そうだ、父さんはどうしたの?」

「あら、珍しいのね。父さんだなんて」

「どういうこと?」

「もうどうしちゃったの、最近父さんだなんて呼んでいなかったじゃない? 何かあった?」

どういうことだろう? 優斗は自分の父をお父さんとか、そういった風に呼んでいなかったのか。もしかしてオヤジと呼んでいたのか?

「親父とか、そんな感じだっけ?」

「面白いこと言うようになったのね。何かあったでしょ? ずっと『あの人』呼ばわりだったのに、急に父さんだなんて」

あの人……? 優斗が自分のお父さんを『あの人』呼ばわりしていたのか……? 私は優斗のお父さんをほとんど知らなかったけど、喧嘩でもしているのだろうか。自分の家庭しか見てこなかったら分からないが、普通自分の親を他人のように呼ぶ子どもはいない。あるとすれば、悪い要素があるとしか思えない。

「う、うん、まぁそろそろね。呼び方を変えようかなって」

「本当にぃ?」

「本当だって」

「ふーん、お父さんは今日もお仕事よ」

「何の?」

「さぁ、お母さんにはさっぱり。優ちゃんの方が詳しいんじゃない?」

「いいから、分かる範囲で教えてよ」

「広告会社の仕事ってよく分からないのよねぇ。しかも外国とのやり取りなんかもしてるって言うから益々分からないわ。業界では一日二十五時間、週八日のつもりで働けみたいな空気があるって言ってたから、きっと今も大変なんじゃないかしら?」

「そう、なんだ」

知らなかった。優斗の父は、企業戦士だったのか。優斗は一切私にそんな話をしなかった。優斗のお父さんと玄関での鉢合わせたのは、日曜の夜だった。スーツ姿で帰宅してきた優斗のお父さんは、疲れを見せないほど元気なように見えたが。さすが企業戦士ということか。でも、どうして優斗は実の父を『あの人』だなんて。

「母さん、俺が父さんを『あの人』呼ばわりしたのっていつぐらいからだっけ?」

「いつだったっけねぇ。中学に上がってぐらいじゃなかった?」

親子でこんな会話が成り立つのか。自分の父の呼び名を、母に普通に尋ねているが。小雪おばさんは何とも思わないのだろうか。私は人の気持ちを考えるのが得意じゃないから、こういったことを考えるのも苦手だ。

「今日お父さんが帰ってきたら、そう呼んであげたら?」

「う、うん」

別に呼ぶことぐらいできる。私は楠田家の人間じゃないし、簡単だけど、優斗にとってはどうだろう。理由もよく分からないのに勝手に呼んでしまっていいのだろうか。

 その時、リビングの扉が開き、栞がひょこっと現れた。

「あ、お兄ちゃんいたんだ。丁度いいや」

「どうしたの? というかその恰好は?」

栞は休日だというのに、中学校の制服を着ていた。

「この制服かわいいでしょ? 着ちゃった~」

自慢げに振り振りと舞って見せてくる。確かにかわいい制服だと思う。私もこの制服を二年前まで着ていたし、なかなかセンスがいいと思っていた。

「どうして今着てるの?」

「だってかわいいんだもん」

分からなくはない。栞は中学校が始まって三日しか学校に登校していない。早く制服を着たくてうずうずしているのだろう。私も当時はそんな感じだった。

「それで丁度いいって、何のこと?」

「そうそう、これなんだけど、全然分からないから教えてほしいんだ」

栞は持っていたスクールバッグから新品の教材を取り出し、テーブルに広げる。懐かしい品々だ。もう私の頃の教科書とはデザインが変わってしまっている。

「もう、授業の宿題があるんだ」

「違うよ、あたしは意識高いんだから、予習ぐらいやっていくの」

えっへんと胸を張る栞。なんだか少し可愛く見える。私の前では絶対に見せない姿だ。

栞がまず開いたのは数学の教科書だった。教科書を眺めては首をかしげている栞に私は随所で解説をしていった。栞は私を褒めたり、手を叩いたりと大絶賛だった。これぐらいは当たり前なのだが、褒められると嬉しい。他にも私の要望で、たくさんの教科書を見せてもらった。国語、英語、理科総合、社会、どの教科も懐かしい。

私は勉強が苦手ではなかった。学年トップとはいかないまでも、そこそこの成績を残し、都立でもランクの高い高校へ進学できたのだから、中学校一年生の学ぶことなど、教えるのは朝飯前だ。もちろん優斗も同じ成績で、同じ高校に進学した。

「お兄ちゃん、やっぱり頭良いんだね~」

「栞だって、こんな時期からがんばろうなんて、将来が期待できるじゃん」

「いやいや~」

栞が照れ笑いをして手を横に振る。普段私には見せないその表情も仕草も愛おしい。こんなに栞と楽しく話したのは初めてだった。私もついテンションが上がってしまった。

私の家は両親と年の離れた兄の四人家族だったから、いつも下の兄弟が欲しいと思っていた。だから妹のような存在である栞と話ができることが楽しかった。不思議な気分だ。私は、いま栞と話している。外見は優斗だけど、話しているのは紛れもない私。例え仮の姿だったとしても、嬉しさは本物だ。

栞と話して気が付いたことがある。それは、自分と栞が似ているような気がしたということ。それが何かは分からないが、親近感が湧いてくる。栞と違う出会い方をしていれば、きっと楽しかっただろうな。

 栞に、四月一二日に結衣が楠田家に来ることを伝えるべきか。言えばどんな反応になるか分からない。それに良い雰囲気を台無しにしてしまうかもしれない。でも、今だったら話せるかもしれない。自分で自分のことを話してみて、どんな反応になるのか見てみたいという好奇心もあった。

「栞、あのさ」

「ん、何?」

教科書に目を通したまま聞き返してくる。

「牧野結衣のことなんだけど……」

「……」

「栞?」

「あいつが……何?」

やっぱりあいつと呼ばれていたのか。栞の態度の急変にゾッとする。ここまで言ったらもう後には引き下がれない。

「牧野がさ」

「いつもの呼び方じゃないんだね」

「結衣が……さ、うちに来るんだ、今度」

「……嫌だよ、そんなの」

「どうして?」

「嫌だったら、嫌!」

栞の大声にキッチンにいた小雪おばさんは驚いたように振り返った。

「来週の日曜日に、俺の部屋に少しいるだけだからさ」

「どうして? なんで、そこまであいつに構おうとするの!?」

胸が何かに刺されたようにズキズキと痛みだす。目の前で、私のいない場所でここまで言われるとさすがにきつい。

「ちょっとした用事だよ。迷惑はかけないから」

「そういう問題じゃない!」

「栞はどうして、結衣のことをそこまで嫌うの?」

優斗に軽く聞いたことはあるが、ここで本音を話してもらえれば、私が優斗の身体を借りて弁明できるかもしれない。

「あいつと一緒にいるから、お兄ちゃんはいつも不幸になるんだよ! 何度言ったら分かるの!?」

金槌で頭を思い切り殴られたような感覚。私は返す言葉もなく、固まってしまう。そうだ。その通りだ。私はいつも、優斗に助けられてきた。小学校の時も、中学校の時も、ことあるごとに優斗に救われてきた。そのせいで優斗が痛い目を見たことは何度もあった。栞はそんな私をどんな目で見てきたのだろうか。

あの時、一周忌の集まりで栞が私に対していった言葉、「お兄ちゃんを返して、絶対に許さない」。あの言葉はいかに深い憎しみから出た言葉なのかということが今分かった気がする。「あいつと一緒にいれば、いつも不幸になる」。私と一緒にいたから優斗は死んだ。まさにその通りになってしまったのか。

「あいつは、厄病神なんだ」

栞はそう言い残すと、教科書を鞄に乱暴に詰め込み、リビングを出て行った。私はただ、その場に固まっているしかなかった。「厄病神」……か。間違ってはいない。いつか誰かにも同じことを言われた。その不幸は、優斗だけでなく、優斗の家族にまで伝染する。私の存在が、栞にとっては、望ましくない存在だったのだろうか。

「優ちゃん、栞がまた結衣ちゃんのことで?」

小雪おばさんがキッチンから様子を見にきた。

「うん。母さんは結衣のこと、どう思う?」

「どうって、良い子だと思うけど」

「そう」

嘘でもそう言ってもらえて安心した。小雪おばさんは私の様子を窺うと、キッチンへと戻っていった。小雪おばさん、ごめんなさい。私のせいで優斗は亡くなる。私はしばらくその場を動けなかった。心のどこかでは覚悟していた。栞にとって私は厄病神のようなだということを。だが、兄の前でここまで露骨に嫌いだと宣言されるとは思わなかった。


小学五年生の時、クラスになじめず、いじめられそうになった私を、優斗はかばってくれた。優斗は見せしめにクラスからはぶられた。それは石を投げられるまでに発展し、優斗は額を五針も縫う手術をするはめになったのだった。学校中で大問題になり、当然そのことは二年生の栞の耳にも入った。家ではきっと胃が煮えくりかえっていたのだろう。どうして兄がこんな目に遭ったのか。それを考えれば、最後は私へと行き着く。そもそも私をかばう羽目になったからであると。あの頃から栞の私に対する目は、憎悪の感情を持ち始めたのだろう。

 栞にとっての不幸は続いた。中学一年生の体育祭でそれは起こった。体育祭の「騎馬戦」。私たちの中学では男女混合の騎馬戦が行われていた。優斗はサッカー部の新人戦を控えていたため、騎馬戦には出場しない予定だった。しかし、私が参加することになり、彼を無理やり誘う形で参加させたのだ。しかしそれが優斗を事件に巻き込むことになった。私は騎馬の上に乗る役割だったのだが、戦いの中でバランスを崩し、後ろで支えていた優斗にのしかかるようにして倒れてしまった。優斗はそれが原因で足をねん挫。サッカーの新人戦はおろか、その後のレギュラーすら掴み損ねてしまった。

 彼は一切私に不満を言わなかった。私はそれをそのまま受け取り、ただただ安心していた。『自分は別に悪くない。それに優斗は怒っていない』と。その向こうで栞が私を憎んでいたことも知らずに。


 私はその後、栞にもう結衣を招かないことを告げた。

 その日の晩、私は優斗にメールを送った。四月一二日、家に来ないで。そう短い文面を送った。優斗からの返信はすぐに帰ってきた。だが私はメールを開かなかった。


     5


 私の兄は、私より年が十歳も離れている。頭脳明晰、成績優秀。大学も最難関大学を突破し、大学院にまで進んで研究を重ね、現在は誰もが羨む一流企業で働いている。そんな兄に、私は幼いころから、甘えていた。「お兄ちゃん子」という呼び名にふさわしい女子だった。私が生まれた時は、兄はすでに小学校四年生。私が小学校に上がる時には、兄は高校生だった。兄は当時から優しかった。何でも教えてくれたし、どんなことでも味方になってくれた。今思えば、兄の表情、仕草に無頓着だったのかも知れない。兄が辛い時も、苦しんでいる時も、私は兄のことを考えずに、自分勝手に兄に甘えた。誰もが、私を無条件で愛してくれると、そう信じて疑わなかった。

 兄との関係が変化してきたのは、私が小学校二年生、兄が大学受験を控えた高校三年生の頃からだった。兄は受験勉強のストレスで、私に構ってくれなくなった。部屋を訪れた時に、あまりにしつこい私に大声で怒鳴り、私を締め出したこともあった。初めて兄の怒りを感じた瞬間だった。それを機に、私は兄に話しかけられなくなり、兄は兄で私に構ってくれなくなった。


 私が中学に上がるか上がらないかという頃を境に、母は体調を崩して、よく具合が悪くなった。あの頃、私は兄に構ってもらえない気持ちを、全て母にぶつけていたのかもしれない。母がどんなに疲れていても、いちいち世話を焼かせていた。その前々から、優斗がいじめられてしまう件などで、世話を焼かせていたのは言うまでもない。

 そして、母を亡くした時、私は兄に言われた。「お前は、厄病神だ」と。それ以来、兄とはほとんど会話という会話をしていない。兄は家を出ていき、私と父の二人暮らしが始まったのだった。


     6


 月曜日を迎えても、私は優斗の連絡を無視していた。無視したかったわけではないが、とても優斗に合わせる顔がない。学校に登校した私は、憂鬱だった。どんな顔で彼に会えば良いのか分からない。悩んでいる私をよそに、優斗は私に話しかけてくる。

「結衣、おい結衣、何だよあのメールは?」

「学校で結衣って呼ばないで。どう考えてもおかしいでしょ」

「ああ、ごめん。それより、あのメールの意味が分からないよ。説明してくれ」

「栞だよ」

「栞、あいつがどうしたんだ」

「結衣を家に招くって話したら、絶対に嫌だってさ。ついでに色々と言われた。だからもう家には呼ばないって約束したの」

「あいつが……、またそんなことを」

「だから、何か申し訳なくなってさ」

「別にいいんだって。お前は悪くない」

例え私が悪くなかったとしても、栞は傷付いているのだ。

「じゃあ、結衣の家に集まろうぜ? それなら問題ないだろ?」

「それは、ダメ」

「どうして?」

「それは……」

あの日は兄が帰ってくる日。その日に優斗と家で集まるなんて絶対に嫌だ。だが、次の瞬間、栞を思い出す。自分も栞と同じことを言っているじゃないか。私だって自分の都合で物を考えている。

「それは、言いたくない、けど、ダメなの」

「そんな、緊急事態なんだぞ?」

「分かった。こうしよう、優斗が楠田家に来て、待ち合わせして、近くの公園に待機する。これでどう?」

「……。分かった、分かったよ」

「ありがとう」

「分かったけど、一つだけこっちからもお願いがある」

「何?」

「無理に言えないことを言わなくてもいいけど、何か悩んでいることがあれば、俺に相談してくれ。この状況で、協力し合わないでどうやって生きていくんだ?」

「そうだね、分かった」

「それに、結衣の力になりたいから」

「うん」

「それでさ」

「ん?」

「ごめんな、栞のこと。あいつ、本当はそんな奴じゃないんだ」

「知ってる。優斗のこと好きなんだって思ったよ。私も栞みたいな妹が欲しかったなぁって思ったし。別に怒ってないから心配しないで」

「ああ、ありがとう」

その日から、私たちは一言も話さなかった。学校では互いのことがバレないように、また変な噂が流れないように、話すことは避けて過ごした。私も優斗も、無口なキャラを演じているため、幸いにも周りに関係ができることはなく穏便に学校生活は過ぎていった。


 『明日十時、楠田家前に集合』

 優斗から送られてきたメールを見ながら、私はリビングでその時を待っていた。四月一二日、午前九時四五分。いよいよ約束の時間がやってくる。失敗すれば、私は、死ぬ――。優斗の身体と共に、この世から消えて無くなる。携帯を握りしめる手が震えている。大丈夫、車道に出歩かなければ何も起きない。仮に歩いたとしても、車に十分に注意を払えば大丈夫なはずだ。しかし、確かなことは何も言えない。優斗の身体が一瞬にして消えてしまうことが頭の片隅から消えず、どうしても恐怖の念に支配されそうになる。こんなに胸が締め付けられるほど怖かった体験はない。

脳内であの日の記憶がフラッシュバックする。青信号――、私に向かって叫ぶ優斗の声――、目の前に迫るトラック――、私をかばう優斗――、その一コマ一コマが鮮明に見える。落ちつけ。落ちつくんだ。ここは『あの世界』じゃない。私は絶対に死なない。絶対に死なせたりはしない。

 天気はあの日と同じで、雨が降っている。優斗とは約束したが、公園で待機なんてできるわけない。私はそのことを想定していなかった。だが、朗報は数日前に舞い込んできた。栞と小雪おばさんに出掛ける予定ができたのだ。予定通り、先ほど家を出て行った。優斗の父は相変わらず休日出勤が続いている。

つまり、今この家には私以外の誰もいない。栞には悪いが、優斗には楠田家に来てもらうことにして、家の中で時間が流れるのを待つことにした。

 しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。時計は九時五八分。優斗が無事にやって来た。私が玄関を開けると、いつにも増して真剣な表情の私の姿をした優斗が立っていた。私は何も言わずに優斗を玄関に通すと、周囲を確認して扉を閉めた。優斗は何も言わずにリビングへと向かう。追いかけるようにして私もリビングへ向かうと、優斗は部屋を見渡すように佇んた。

「俺の家ってこんな感じだったっけ?」

「え?」

「いやぁ、何か、何日も家を離れてると、全然違って見えてくるって言うかさ。面白いもんだな」

緊迫した状況にもかかわらず、優斗はハハハと笑いながら楽しんでいる。

「優斗、部屋にいた方がいいんじゃない?」

「いいよ、ここにいよう、誰もいないんだろ?」

「そうだけど」

「大丈夫だって」

優斗は冷蔵庫を開けると、中にあった飲み物を取り出して飲みだす。ここは優斗の家だということは忘れてはいけない。さもないと、勝手に人の家の冷蔵庫を漁っているように思えてしまう。

「結衣、今日家に光一さんが来るんだってな」

「う、うん……、そうだね」

兄が家に来ることはバレていた。牧野家に暮らしている以上、当然耳に入ってきてもいい情報だ。

「だから結衣ん家に集まることが嫌だったのか?」

「……そう」

「何かあったのか?」

「実は……、色々と喧嘩しててさ。あまり会いたくないんだ」

「そうかぁ……、ま、それなら仕方ないわな。俺、光一さんと結構仲が良いのに残念だなぁ」

何とも軽い調子でソファにダイブする。

「結衣にも、色々とあるってわけだ」

優斗は寝転がりながら、降りしきる外の景色を見る。

「優斗は、ないの? そういうこと」

「俺? 俺にも、あるよ」

「例えば?」

「なかなかモテない、とか」

「あっそう」

「ごめんごめん。あるっちゃあるよ。……俺にも苦手な人がいるんだ」

優斗は相変わらず外を見ている。その表情からは優斗の感情を読み取れない。

「お父さん……のこと?」

「おう、何で知ってるんだよ? ああ、この家に住んでるんだもんな。知ってても不思議じゃないか」

「小雪おばさんに『父さん』って言ったら、驚かれたよ」

「ああ。『父さん』か、そりゃ面白いな。今度本人にそう呼んであげてくれ」

「え?」

「別に、俺が言うんじゃないし、あの人も喜ぶと思うし」

「優斗が言ってあげなよ。だいたいどうして、そんな呼び方なの?」

優斗の表情が曇る。

「俺は、あの人を父親として失格だと思ってる……。それに今さら『父さん』だなんて恥ずかしくて呼べないよ」

「そこまで……?」

「いや、大したことじゃないんだ。ただ、あの人はさ、家族のためとか言って、結局全部自分のために生きている。それが嫌なだけだ。俺が一方的に避けてる感じだよ」

軽く笑いながら言う優斗だが、表情は暗い。『結局全部自分のため』か。私にも当てはまるような気がする。何のことかはよく分からないけど、ズキッと胸が痛む。

「でも栞は、今でもあの人のこと、すごく好きでさ」

「栞が?」

「うん。昔はあの人にべったりだった。でも、あの人は栞の約束を何度も破った。だから、栞の構ってほしい欲求は俺に向いたんだろうな。ほら、よくドラマであるだろ? 日曜日に遊園地に連れてってもらえる約束だったのに、親に仕事が入って、子どもは約束を破られて、親が思っている以上にショックを受けるってやつ。あれと同じ」

「そんなことがあったんだ……」

栞の宿題を教えている時にふと、彼女が自分に似ていると感じた。『栞の構ってほしい欲求は俺に向いたんだろうな』その言葉はそっくりそのまま私にも当てはまる。兄への構ってほしい欲求は、兄に避けられてからは、母に向いた。寂しかった。私と世界を繋ぐものが無くなってしまう気がして。だから誰かに無理やり繋がっていたかった。一人占めしたかった。

「小学校の初めの頃には、何度裏切られてきたか。その頃から、栞は俺にべったり甘えるようになった。栞は俺を一人占めしたかったのかもしれないな」

「それで私を憎んでいたのね……」

「ごめんな。たぶん『兄を傷つける』存在が嫌だったんだよ。『また私から大切なものが無くなるかもしれない』ってさ」

「栞の気持ち、ようやく分かったかも。聞けて良かった」

「栞の気持ちが?」

「うん」

「理由があるなら聞かせてくれよ」

「また今度ね。その時は優斗のお父さんの話も、もっと聞かせて。力になれるかもしれないから」

「結衣……。そんなこと言うなんて珍しいな」

「そう……かな?」

「おう。でも、よろしくな」

私が誰かのために何かをするということは、確かに珍しいかもしれない。自分でも少し違和感はある。でもこの時は、純粋に相談に乗りたかった。優斗が悩みを抱えているとは知らなかったから。

不思議とさっきまでの恐怖心が小さくなっていた。優斗と話していると、安心できる自分がいる。どうしてだろうだろうか。

私たちはしばらく何も話さずに過ごした。私は優斗の死に関する話題を何も言わなかった。この状況下で不安を助長したくなかった。優斗は途中、自分の部屋も見ておきたいと、一人二階へ上がっていった。しばらくするとスタスタと戻ってきて、「何かすごく違和感ある」と笑っていた。

時間は意外にも、優しく流れた。何も起きないのではないかという淡い期待を抱いてしまうほどに。外で響く雨の音、その音すら心地良く感じる。このまま誰も傷つかず、平和に時は流れ、私は元いた場所に帰れるのではないか。そんな考えが広がっていく。


 すでに時刻は一二時を過ぎていた。雨が弱くなってきて、雲が薄く延び始める。あの時の天気と一緒だ――。

「俺が死んだのは、もうすぐか」

優斗が時計を見ながら口を開く。

「そう。確か、一三時前にお店を出て、事故に遭ったのは、そのすぐ後」

「なんか、緊張してきたな」

カップラーメンが出来上がるのを待ちながら、貧乏ゆすりをしている。その姿はもはや私ではない他人だ。

「何か話していなけりゃ、落ち着かなくなってきた」

「そうだね」

「何か適当に話していいか?」

優斗はニヤリとこちらを見てくる。

「何?」

「好きな人とかいないの?」

「は、はぁ?」

このタイミングで、なぜその質問なのだ。

「だから、好きな人だよ。いるかいないか」

「何で、い、今そんな状況じゃないでしょ」

「だからだよ。こういう時こそ、持ってこいの話題だろ?」

「どこが……。別に、いないって」

「本当にぃ~」

ニヤニヤとした憎たらしい目でこっちを見てくる。小雪おばさんの表情にそっくりだ。親子だな。何だか熱くなる私も憎たらしくなってきた。

「ゆ、優斗はどうなの? 好きな人いるの?」

「さぁ~、どうかなぁ」

出来上ったカップラーメンをすすりながら言ってくる。本当に、適当な時は適当な人間だ。

「じゃあ俺のことはどう思う?」

「ゆ、優斗?」

「そう。好き? 嫌い?」

「そりゃ、友達として、好きだけど」

「そう。じゃあ、恋人としては?」

「こ、恋人!? ないって、優斗が恋人なんて」

「えー、命を助けてやったのに~?」

「そ、それとこれとは違うって。助けてくれたのは嬉しいけど……」

嬉しい……? 私は嘘を付いている。本当は、助けられたことをどう受け取ればいいのか分かっていない癖に。

「それより、私を助けた時、怖くなかった?」

「話題を逸らしやがったなぁ」

「いいから……、教えてよ」

「怖くなかった、と言えば嘘になる。それで?」

「私はあんな状況に出くわしたら、人をかばえない。もしあの時、立場が逆だったら、きっと怖くて動けない」

「別にそれが普通だろ」

「え?」

「さっきも言ったけど、俺だって死ぬことが怖くないわけじゃない。尺度の問題だろ。もし天秤があって、自分の命と他人の命が一瞬で測れて、他人の命を助けた方が良いって瞬時に分かったら、身体が勝手に動くと思うぜ」

「自分の命が他人のものより軽くなる……、私には考えられない。どうしてそうなれるの?」

「さぁ、どうしてかな。まぁたぶん、その『理由』ってやつがなくても、答えは変われないけどな。まぁとにかく、あの時、結衣が助かってよかったよ」

優斗の言葉に胸が痛む。

「優斗、ごめん……。私、さっき嘘付いた……」

「嘘?」

「うん。助けられて嬉しいって……。本当は、どう受け止めればいいか分からなくて……」

優斗は何も答えない。何かを考えるように下を向いている。

「結果的に私は助けられたけど、代わりに優斗はいなくなった。優斗がいなくなって、栞も、小雪おばさんも悲しんでる。助けてもらったのに、素直に喜べない自分がいるんだ……。私、最低だよね……」

「素直に喜べる方が、どうかしてるって」

優斗は私に微笑む。

「それに、謝るのはむしろ俺だよ。ごめんな。勝手に死んじまって」

「優斗……」

「死ぬつもりなんて、これっぽっちもなかったんだけどなぁ」

苦笑しておどけて見せる。

「そうだ、俺も言いたいことあった。結衣はさっき、『私はあんな状況に出くわしたら、人をかばえない』って言ってたけど、何か府に落ちなさそうだったな?」

「うん……。何か、自分のことばかりで、非情な人間だなって……」

「自分のことを優先する自分が嫌いってこと?」

「嫌いというか……、そういう思考が、周りに迷惑を掛けているのかなって、思う時があるんだよね……」

「周りに迷惑を掛けているのか?」

「掛けてるよ。優斗にも、栞にも、兄にだって……」

「俺は迷惑だなんて思ってないよ」

「優斗……」

「それに、結衣の考えが立派だと思うけどな」

「立派?」

「それだけ自分を大切にできるってことだろ。よく言うじゃん。『自分を大切にできない人間は、他人も大切にできない』って。だから、仮に誰かに迷惑を掛けていたとしても、結衣の考えならきっと、いつか分かり合えるさ。栞ともな。逆に、俺は自分を大切にできていないから、命を投げ出せるんだよ」

「そう……なの?」

「今のは極端だけど、他人を優先する自分に嫌気が差す時もある。本当は自分のことすらまともに見れていないのに、『誰かのため』に生きようとすることで、今の自分を正当化しているのかもしれないってさ。まるで、家族のためとか言って頑張る方向を決めつけているあの人みたいだ」

優斗は自嘲気味に苦笑した。

「優斗は立派だよ。私は……」

助けてもらったことを素直に喜べないでいた私は、それで良かったんだ。助けてくれた本人は、そう言ってくれる。今はその言葉を信じよう。

「私は、今のを聞いて、あの時の優斗の感謝できたよ。助けてくれてありがとう。だから、自分を責めないで」

「結衣……。お前……、それって、恋愛フラグか?」

褒めたことを一瞬で後悔する。私は濁った目で優斗を見る。

「冗談だって! 嘘だよ、嘘」

「まったく」

「俺もさ、そう言ってもらえて良かった。もし帰れたら、悔いなく生きてくれよ」

「うん……」

優斗、ありがとう。話して良かった。


 一三時を知らせる時計の鐘がリビングに鳴り響いた。あの事故のことをつい忘れていた。一三時……。もうすぐか――? 外はすでに雨が上がり太陽が雲の切れ間から顔を出している。そして、私たちが待ち構えていたものは、突然私たちの前にやってくることになる――。あの時とは形を変えて――。


 「ただいまぁ!」

栞が帰って来た――。鍵の開く音、扉が開く音、そしてその声――。心臓が飛び出そうになる。私たちは、ほとんど考える時間も与えられることなく、身を構えるしかなかった。リビングの扉が開き、栞が、リビングへ顔を出す――。

「お、おかえり……」

私は必死に優斗を装って、笑顔を作る。栞は表情もなく、私たちを見ている――。その場から全く動かない。何を言えばいい。全く浮かんでこない。どうすれば!? どうすればいい!?

「どうしたのよ、栞。夕飯の準備……、あら、結衣ちゃんじゃない!」

小雪おばさん栞の後ろから顔を出す。

「栞、これは、その、雨で……」

栞の顔がみるみる憎悪に満ちていく――。それは優斗だけでなく、『兄』である私にも向けられていた。そして、栞の頬を、涙が濡らし始める。

「っ……!」

持っていた鞄を床に投げ出し、栞は泣きながら廊下を駆けていく。

「栞!」

「栞!」

二人同時に立ちあがり、彼女を追う。栞は家を飛び出して行った――。くそ、どうすれば!?

「ごめん、結衣……!」

優斗はそのまま靴を履くと、外へ飛び出した。「優斗!」と叫びそうになり、必死に抑える。どうする!? 今外に出れば、私は、危ない――。 でも、でも……!

 考えるより、身体が先に動いていた。まさか自分がこんな行動に出るなんて思いもしなかった。私は靴を履くと、外に飛び出す。すぐ二人の姿が確認できた。雨は上がり、水たまりに太陽が反射する。あたりを見まわす――。大丈夫、車はいない。私は全力で彼らを追いかける。思考は停止していた。もう何が起こるか、予想もできない――。

「栞、止まれ!」

遠くで優斗の声が響く。その方向には……。広い国道――。第六感が騒ぐ。このままでは最悪の事態が起こる。ああ、神様……、お願いだから、何も起きませんように。

もうすぐ追いつく、もうすぐ――。栞は広い国道に近づく。そこは片側二車線の国道。車も当然、スピードを出して走ってくる。お願い、栞、止まって……!

 追いつくまでもう数十メールと迫った時だった――。栞は、赤信号の中、国道へと足を踏み入れた――。栞――。一瞬で頭が真っ白になる――。

彼女はきっと泣いていて、前を十分に見れていなかったのだろう。周りの音にも無頓着になっていたに違いない。

「栞!」

優斗の声がこだまする。

栞はハッと立ち止まる。そして自分が今どんなに危険な状況にいるかをようやく理解した。彼女の目の前にトラックが接近して来ていた――。激しくこだまするクラクションの音――。振り向く栞は、優斗に手を伸ばした――。

「栞――!!」

「いやぁぁぁぁ!!」

トラックが彼女の数メートルまで接近したところで、私は思い切り目を閉じる。私は両耳をふさぐ形で、その場にうずくまる。うそだ、うそだ、うそだ、うそだ、うそだ……………! そんなこと、ありえない……! どうして、どうして……! ありえない、ありえない……絶対に、ありえない! 全身の震えが止まらない。足に力も入らない。何も聞こえてこない――。何も、何も……!

 栞が、栞が、トラック事故に、巻き込まれた……? そんなことあるわけない……。だって、トラック事故に遭うのは私なんだから……。歯がガチガチと震える。栞は死なない。絶対に、死ぬわけない……! 大丈夫、大丈夫だから、目を開けて、見るんだ!

 ゆっくりと目を開ける――。おぼろげな視界が次第に明るさと鮮明さを取り戻す。

「あ……」

遠くに止まっているトラック――、周りに集まる野次馬、その中央で倒れた誰かを抱えている優斗――。そして、倒れている栞――。その服にべっとりと付着した血――。

「ああ……ああ……あああ……!」

目が回り、意識が保てなくなる。うそだ……、栞が、まさか、そんな……! そんな、どうして、どうしてよ……。私が、また、また……!

私の意識はそのまま闇へと落ちていった。

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