優しい難題

かとま

こだまする雨音


 一年前の今日も、こんな風に季節はずれの雨が降っていた。気だるそうな表情を何とか抑えながら、牧野結衣は集まっている人たちに軽い会釈を交わした。

 楠田家式場。優衣はお寺の前にある看板を見ると、受付に顔を出した。

「あら、結衣ちゃん。優斗のためにわざわざ来てくれてありがとね」

優斗の母親である楠田小雪が、結衣の姿を見て表情を変える。一年前と変わらない。とても優しそうな出で立ちだ。身長は結衣より低いが、スタイルが良い分、遠くから見ると見た目以上に背が高く見える。

「いえ」

私は目をそらすように軽く礼をする。

「結衣ちゃんが来てくれて、優斗もきっと喜ぶわ。さぁ入って」

どことなくぎこちない会話の後に、小雪は結衣を手招いた。


 小雪おばさんの後をついて歩く。彼女の背中からは何も読み取れない。悲しみ、辛さ、きっとたくさんの思いを抱えているに違いない。しかし、私にはそれが分からない。

「もうすぐお坊さんの読経がはじまるわ、空いてる座布団を使ってね」

私は軽い会釈をして、空いている座布団に腰を下した。小雪おばさんはその場を去っていった。私がここへ来た時にいた受付に戻ったのだろう。

私の来場に、その場にいた何人かの人たちの会話が途切れる。少しの間をおいて、優斗の親戚と思われる人たちが、私を見てひそひそと会話をし始めた。嫌なものだ。何とも居心地が悪い。……本当は、来たくなんてなかった。しかし、便宜上、私はここへ来ないわけにもいかなかった。

 目のやる場に困っていると、一番前の座布団に座っている女の子の姿が目に入った。中学校の制服を着たその姿は、間違いなく優斗の妹である栞だった。短めの髪を後ろで縛ったポニーテールの装いだ。一年前に比べると髪が伸びている。正直言うと、もう会いたくない間柄ではあったが。

 一年前のあの日以来、私と楠田家の間には溝ができてしまった。いや、私が勝手に楠田家に対してそういった感情を抱いているだけかもしれないが、あの事故があってからというもの、どんな顔をして彼らに顔を出せばいいか分からない。しかも、優斗とは幼馴染だったこともあり、昔から楠田家とは縁があったのだ。しかしそれも、めっきり無くなってしまったと言っていい。

 お坊さんが部屋に入ってきて、読経が始まる。皆が真剣な表情でそれを聞いている中、私は聞くことはおろか、その場の雰囲気すらまともに感じていなかった。早く終わらないだろうか。そんな思いが脳をかすめる。最低だと思いながらも、心の中では心底退屈な時間を過ごしていた。

 正面には優斗の遺影が華やかな装飾の中、笑っている。

優斗――。

心の中で彼に話しかける。しかし、その表情は微動だにしない。ずっと笑顔をうかべたままだ。一年前と何も変わらない。

 優斗。ごめんなさい。私は、あなたにちゃんと感謝できていない。

 こんな私でも、助けてくれた?

 今となってはもう聞くことはできない。私の中で釈然としない思いが渦を巻く。

一年前、優斗は私をかばって亡くなった。トラックによる追突事故、彼は即死だった。私は気を失ったまま、彼の死に立ち会うことはなかった。幼馴染で昔はよく一緒に遊んだ仲だった。中学に入ってからは、互いに自然と口を効かなくなった。しかし、中学三年でクラスが同じになり、再びあの頃のように少しだけ親しく会話もするようになった。友達の少ない私にとっては、それはささやかな喜びだった。そして、私たちは偶然に同じ高校へと進学することになったのだ。私の中にかすかな光が射したような気がした。

しかし、それは無情にも、入学式から一月も経たないうちに、光は闇へと葬られることとなった。そう、丁度一年前の今日、彼は交通事故で亡くなった。私をかばって。


ざわざわとした雑音にふと意識が向くと、すでに読経が終わり、皆が動き出していた。

「あんた、来てたんだね」

横から声をかけられて、私は振り向く。栞だ。

「まぁ来ないと、本当に最悪な人間になっちゃうもんね」

こちらをさげすむような目。

「こら、栞、なんてこと言うの……!」

近くで聞いていた小雪おばさんが栞を注意する。

「だってそうじゃん。お母さんだってそう思ってるんでしょ? こいつがお兄ちゃんを死なせたんだって」

「いい加減にしなさい!」

ビンタが栞のほうにもろに入り、一瞬その場が凍りつく。栞は今にも泣きそうになりながら、私を睨みつける。

「お兄ちゃんを返してよ……。私許さないから……」

そう吐き捨てると栞はその場を去っていった。

「結衣ちゃん、本当にごめんなさい。あの子があんな失礼なことを……」

「気にしていませんから。こちらこそすみません」

小雪おばさん申し訳なさそうに頭を下げる。いったいどんな気持ちなんだろう。本当は栞の言ったように私を怨んでいるのだろうか。おばさん。おばさんはどう思うの? 私を本当は憎んでいるんじゃないの? 

 私は重たい足取りで部屋を出た。外はこの数十分の間にすっかりと晴れ、生ぬるい春の匂いが立ち込めていた。手に持った傘がなんとも手持無沙汰で仕方ない。お寺を出ると、喪服に身を包んだ人たちがばらばらと歩き出していく。次はお墓参りへと向かうのだ。

 少し遠くに栞の姿があった。なるべく距離をとろう。私は歩くペースを遅める。そういえば、楠田家の父親の姿が見受けられない。というより、私は優斗の父親にほとんど会ったことがないのだ。本当に生きているのか? 離婚? まさかね。

 優斗が眠る霊園はお寺からすぐ近くにあり、ほどなくして到着する。仏壇の前ではお坊さんが再びお経を唱え始め、何人かの人は手を合わせてじっとそれを聞いている。小雪おばさんもその中にいた。栞はただ黙って表情のない顔で仏壇を見ていた。私は集団とは少し距離を置くように遠くから見守っていた。私は手を合わせることもしない。なんて無情なのだろう。しかしありもしない気持ちで祈るより、あるがままで居続けた方がいい。誰もみな、偽善的に振る舞っているだけにすぎないのだ。

 栞が耐えきれずに泣き始める。小雪おばさんは栞を抱きしめて慰めた。私は見ていられなかった。何だか、それを見て冷静でいられる自分が嫌になったからだ。ごめん、本当に。早く終わってほしい。心の声が聞こえる。彼を悼むべき会場でそれを感じるなんて。私の中には、彼の死を冷静に俯瞰してしまう自分と、それを最低だとさげすむ自分が入り乱れている。どっちが本当の私……?


 お経はすぐに終了し、軽い食事会が開かれることになった。しかし、私は当然その会には参加しなかった。小一時間で終わる食事会で皆と何を話せと言うのか。みんなの前で謝罪でもしてみる? 私は優斗にかばわれて生き残った牧野です。そんなバカな。自分の自己紹介を想像して、苦い笑いがこみ上げる。

 帰る途中、楠田家の前を通る。幼馴染だった私たちの家は道路をはさんで斜めに向かい合ったすぐそばだった。嫌気がさして、目をそらす。今日の出来事を思い出す。目頭を押えて泣くのを必死にこらえる栞の姿が目に浮かぶ。あんな風に泣けるのか。自分を心底冷徹だと思ってしまうが、私は誰かを思って泣くという行為自体、ほとんど縁がない。悲しくないと言えば嘘になる。しかし涙を流すという行為に制御がかかってしまうのだ。そもそも人の気持ちが分からないのに誰かのために涙を流すなんて、おかしな話だ。私は悲しんでなんかいないと、そんな自己暗示がかかっているのかもしれない。

「ただいまぁ」

返事はない。玄関にまで大音量の会話が聞こえてくる。また映画でも見ているのか。私は廊下を進み、リビングの扉を開ける。

「お父さん、ただいま」

私の呼びかけに、びっくりとした表情をした父が「おーおかえり」と手を挙げた。

「どうだった? 優斗君に会えたか?」

大音量で見ていた映画をストップして聞いてくる。

「お父さん、やめてよ。そういう言い方」

キッチンの冷蔵庫を開けながら言う。

「でも、まぁ、会えなった、かな」

おっと。この野菜、賞味期限が近いな。

「そう、か。でも大切なんだぞ。しっかり人を思うってことはな」

「じゃあお父さんも会いに行けば良かったのに。映画なんて観ている暇があったらさ」

父の言う奇麗事にはもううんざりしていた。いつも理想論というか、いかにも良い行ないが生きるためには大切みたいなさ。もう、嫌なんだよ、そういうの。父が一周忌の集まりに参加できなかったのには理由があった。最近になって坐骨神経痛に悩まされ、外出を控えていた。仕事もここ何日か休暇をもらって家で安静にしていなければいけない。それを分かっていながらついむきになってしまった。私にも理由があればね……。

「ごめん……。夕飯、七時でいい?」

「おう、頼むよ」

会話が終わると、父は再びリモコンのスイッチを押す。うるさい外国語の会話が部屋中に流れ始める。この音量が映画を楽しむためには必要なんだと。見ていないこっちからしたらうるさいだけだ。

 夕飯の支度を終え、リビングから和室へと移動する。

「ただいま、優斗に会ってきたよ」

襖を開けて和室へ入る。そこに置かれた小さな仏壇に手を合わせる。

「居心地は良くなかったよ。何だか、辛いのに、涙は出てこなくて。優斗に逢えたらなって、少し思ったよ。そっちで優斗に会ったら、よろしくね」

仏壇の中央には小さな写真立てが二つ飾られている。一つは、家族四人、両親と兄と撮った写真、もう一つは優しく微笑む母の写真が飾られている。母の笑顔を見る。彼女が亡くなってから、もう三年が経つ。遠い過去のような、昨日のことのような気持ちだ。あの時でさえ、私は、泣かなかった。我慢していた気もするし、そうじゃなかった気もする。あの頃から、私は自分の感情、心の不確かさを感じている。

「優斗は私を助けてくれたけど、私はまた一人になったよ」

心の声が目の前の仏壇に投げかけられる。思わず振り向くが、誰も聞いていない。リビングからは相変わらずの大音量が聞こえてくる。ホッと胸をなで下ろした。

 優斗に助けられた瞬間の映像が頭に流れる。目の前に迫る閃光、そして耳をつんざくクラクションの音、すべてがスローモーションの中で、身動きがとれない私、そして次の瞬間、目の前の閃光が何かに遮られた。私はトラックにはねられるまでの一瞬で、それが優斗だと認識した。彼が私を抱きしめたことを知った。

 私には理解できない。誰かをかばって死ぬなんてこと。私は自己中心的だと言われたとしても、自分のために生きて、自分のために死にたい。優斗は私をかばった。だから私はここにいる。だがそこは、思った以上に息苦しく、後ろめたい場所となった。栞は私を許さないだろう。私はどうなれば良かったのだろうか。本来であれば優斗が家族と生きているはずだった。

 私はこれから、どう生きれば正解なの?

 優斗、教えてよ……。正解は何? 

近づいてくる足音にハッとする。そして和室のふすまがすっと開かれた。

「結衣、そう言えばこの前言ってた映画のことで……」

「え? 映画? ち、ちょっと待って」

危なかった。もう少しで陰鬱な雰囲気を見られてしまうところだった。軽い咳ばらいをしてごまかす。動揺して本当にむせてしまった。

「おいおい大丈夫か? インフルエンザとかはやめてくれよ」

「大丈夫だよ。ただの咳」

再び仏壇に手を合わせる。

「それじゃあ、もう行くね。おやすみなさい」

母の写真にお別れを言うと、そのまま和室を後にした。


夕飯の時間になり、私は父と二人、食卓に着く。

「今日は光一は来ていたのか?」

「さぁ、どうかな」

ダイニングにある大きめのテーブルに親子二人と、寂しい風景の中、テーブル中央のお新香をつまむ。

「お前なぁ、その他人に興味がないところ、どうにかならないのか?」

「お父さんだってそうでしょ」

部屋にはテレビの音も車の音もない。ただ食器と箸の音だけが響く。

「あいつは、今何をしているのかな」

「お兄ちゃんのことだから、バリバリ仕事こなしてるんじゃない。心配いらないよ」

「あいつのことだからな……。確かに心配は無用だな」

私の兄・牧野光一は私と十歳も年が離れている。成績優秀の秀才肌で、大学も就職先も超一流街道を歩んできた。私とは大違い。そんな兄とも、もうしばらく会っていない。

昔は兄と私は仲が良かった。一方的に私が甘えていただけと言われればそうかもしれない。だが、三年前に母が亡くなって以来、ほとんど絶縁状態になっている。

「なぁ、結衣」

「ん?」

「光一は今でも、その、なんだ、俺たちのこと……」

「分からないよ。お兄ちゃんに聞けば?」

「……」

「別にお父さんのせいじゃないよ。悪いのはたぶん私だから。ねぇ、この話やめよ」

父は目を落として、黙って頷いた。兄が家を出て行ったのは三年前、母が亡くなって間もない頃。就職が決まったことをきっかけに一人で暮らすことを決意したという呈だが、この家で暮らすことに嫌気がさしたのだと思う。去年、優斗が亡くなった日から数週間の間だけは出張の関係で我が家に戻ってきたが、ほどなくして帰っていった。

 だから、今、この家に暮らしているのは父と私の二人だけ。家事は私がしている。正直、この暮らしはもう嫌だった。家庭のアンバランス、幼馴染との別れ、その遺族とのアンバランスの中、綱を渡っている気分だ。一瞬でも気をそらしてしまえば、私は真っ逆さまに落ちていってしまいそうだ。


 しばらくして、夕飯も食べ終わる頃、父が質問をしてきた。

「そうだ、結衣」

「なに?」

「優斗君が亡くなる前にもらったって言ってたお守りはどうした?」

「ああ、そういえばあったね。すっかり忘れてたよ」

優斗が亡くなる前に彼からもらったお守りのことだ。本当なら今日のお墓参りの際にこっそり仏壇に添えて返そうと思っていた。私が持っているより、楠田家の人が持っている方がずっといい。

「今度、お墓に戻してくる」

「楠田さんの家に直接帰してきたらどうだ?」

「無理だよ今さら、栞には合わせる顔もないし」

「まったく……。栞ちゃんか、あの子は元気だったか?」

「うん、制服姿で中学生って感じだった」

「何か話したのか?」

「ううん、何にも」

因縁をつけられたことは言わないでおこう。栞が私に抱いている感情を父は知っている。楠田家とは昔からの親交があったため、小さなころから私たちの関係については見てきている。

「昔からあの子はお前と優斗の関係に焼いていたからな」

父の発言にむせかえりそうになる。

「え? ちょっと笑わせないでよ。ただ嫌われていただけだよ。厄病神って言われたこともあるんだから」

父はハハハと笑った。笑いごとではないのだが。

「そうかぁ、俺には嫉妬してるように見えたけどなぁ」

「もういいって。ごちそうさま。食器片すよ」

私は席を立つと、食器を流しに運ぶ。

「あの子はさ……、私を今でも憎んでる」

タオルでテーブルを拭きながら、小さな声で呟く。本当は言わないつもりだったけど。知らないうちに声に出ていた。

「本当なら、優斗が生きているはずだったんだから」

父は何も言ってこなかった。私のした発言はタブーだ。分かっていても、言うものではない。テーブルを拭きがてら、ちらっと父を見ると、無言で私を見ていた父と目が合った。思わず目線を落とす。

「ごめん、忘れて」

「結衣は、どうして優斗君がかばってくれたと思う?」

「え?」

テーブルを拭く手が止まる。

「分からない、けど」

「もし立場が逆だったら、優斗君のことをかばったか?」

私は、たぶん、彼をかばえない。きっと身体が動かない。人の心配より自分の身の安全の方が何倍も大切、私はそう思ってしまう。

「無理、だよ。怖いし……」

「そうだ、誰だって怖い。でも優斗君は助けてくれた。今みたいな発言をして、優斗君が報われると思うか?」

「……。言うべきじゃなかったね……。ごめん」

私が謝ると、父は大きく息を吐く。

「優斗君は、結衣に生きてほしいと思ったんだろう?」

「分かってる……」

本当は分かったつもりになっているだけ。私は何一つ理解していない。

「もっと人の気持ちに敏感になれ。でないと、大切なものを見落とし続ける人生になるぞ?」

「うん……」

分かってる。そんなことは分かってる。でも、どうすればいいか分からない。だって、私は私で、優斗じゃない。優斗の気持ちなんて、分かりっこないんだ。

みんなそうだ。口では「わかる」なんて誰にでも言える。本当は分かっていなくてもだ。その場しのぎの回答に決まってる。うんざりなんだ、そういうの。

でも、父の指摘は的を得ている。私に問題がないと言えば嘘になるのだ。時々、自分が人間として大切なものを持ち合わせていないんじゃないかって思う。そういう時だけは、周りにいる『人思いな人間』を羨ましく思う。何が正しいのか分からない。全く分からないよ。優斗に助けてもらったのに、何も感じていない自分がいる。私は非情な性格なのかな?

私は食器を洗い終え、その場を後にした。その日はもう父と言葉を交わさなかった。大音量の映画の音はもう聞こえてこなかった。


 それから時間は流れ、数週間が経過した。父とはあの後溝ができることもなかった。しかし、私の日常は淡々と過ぎっていった。優斗から預かったお守りは押し入れ内の段ボールの中に見つかった。少し埃をかぶったそのお守りには『諸願成就』と記されていた。埃を払うと、きれいな藍色の生地が顔を出す。『諸願』の意味が分からず、携帯で調べてみると、『色々な願いが叶うこと』という説明がされていた。珍しいお守りだと思う。どうして優斗はこれを私にくれたのか、皆目見当もつかない。

お守りは、中学三年の最後の春休みに優斗から渡された。「これ、持ってて」みたいな軽い感じだった。彼は、それを渡した後、何かを言っていた気がする。何を言っていたのかはよく聞こえなかった。私は聞き返さなかったし、彼もその後は何も言わなかった。


 五月五日、世間はゴールデンウィークで浮かれているが、私にとっては何も変わらない。父が家にいる時間が長引くぐらいしか日常は変わらない。至って退屈な休みだ。一応、入っているテニス部も、機能していない。顧問不在(居ていないような存在)、経験者不在。無法地帯のうちの部活はただのたむろする部活と化していた。だから私はいわゆる帰宅部。そして帰宅部にはゴールデンウィークにやることもない。父は完全にインドア派だし、遊ぶ友達も私にはいない。他人に興味を示さない私に、友達と呼べる存在はいないに等しい。幼いころから人間関係が苦手で、友達は私にとって面倒な存在だった。いや、本当は、友達が欲しかった。でもどうすればいいのか分からなかった。空気は読めないし、場を白けさせることに関しては天下一品。次第に、苦しむぐらいなら現状維持で十分。そう思うようになった。だから、私にとって友達と呼べる存在は、優斗だけだった。彼の存在に、私は救われてきたと思う。彼といると楽しかった。私の人生で数少ない、貴重な感情だった。だがその感情は一年前の事故と共に失われた。私はまた、一人になったのだ。


 晴天の中、一人、霊園を歩く。広い霊園を歩き、優斗のお墓へと向かう。途中、掃き掃除をしているお坊さんに会釈を交わしながら、優斗のお墓の前に到着した。

ポケットに入ったお守りを手に取る。これを返してしまえば、優斗との関係が全て亡くなるような気がした。でも、それでいい。もう忘れてしまおうと考えていた。冷徹な自分と、それを咎める自分との間で苦しむぐらいならいっそのこと全てを忘れて楽になった方がいい。さようなら、優斗。

 お守りをお墓に置こうとした手が止まる。握りしめたお守りに違和感を感じた。クシャッと中で何かが音を立てた。紙? もう一度、握りしめると、確かにクシャリと紙のようなものが折れ曲がる感覚がした。しかもそんな頑丈な紙ではなく、ノートの切れ端のような柔らかい材質。どうして今まで気がつかなかったのだろう。少し罪悪感を感じつつ、私はお守りの紐を解き、中を覗いた。

やっぱりだ。中には罫線の入ったノートの切れ端が二つ折りにされて入っていた。そっとそれを掴み、取り出して見る。なんてことない、ノートの切れ端。何だろう? 私は、二つ折りにされたそのノートを、そっと開いてみる。

『辛い時は、これを俺だと思って! 優斗』

何だこれは。思わず少し笑ってしまいそうになる。「これを俺だと思って」だなんて、面白いことを考えたものだ。少し晴れやかな気持ちになる。最後の最後にこんなメッセージを受け取るとは思わなかった。まさにサプライズ。分かった、その気持ちは受け取っておくよ。

ノートの切れ端だけ、私はポケットにしまい込んだ。しかし、自問自答が始まる。何を考えているんだ私は。せっかく全てを忘れるためにここへ来たというのに。やはり、私自身、どこか拭いきれない気持ちがあるのかも知れない。最後のサプライズを見逃さなかったのも何かの運命。最後のチャンスではある。だが、次の瞬間には、私はポケットにしまったはずのノートの切れ端を再び握りしめていた。もう、終わりにするんだ。その紙切れを二つに折りたたみ、お守りの中に戻す。楠田家の人がこれを回収すれば、お守りが私への贈り物だってことがバレてしまうけど、そうなっても構わない。最後に優斗の存在を感じられただけで充分だ。もっと早く気付いていたら、ここへは来れなかったかもしれない。気づいたのが今で、よかった。

「気持ちだけ受け取っておくよ。これは返すね」

お守りをそっとお線香の隣のスペースに置いた。そう、これでいいのだ。

 さようなら、優斗――。

 引き返そうとした、その時だった――。

 不意にめまいに襲われ、私はその場でバランスを崩し、倒れてしまう。何これ? どういうこと? 何かの病気? ぐるぐると回る視界の中で、助けてくれる人を探すが、広い霊園に人の気配はない。もうダメ……。朦朧とする意識の中、視界がぼやけていく。そして、強い光が視界を覆い尽くした。

なに……、これ……? その光の中で、意識は次第に薄れていき、私は完全に意識を失った――。


     2


 遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。結衣、結衣、と誰かがしきりに私のことを呼んでいる。私を呼んでいるのは誰? 懐かしい声のような、最近聞いたような声。私の意識は暗闇の中。ここはどこ? 意識がはっきりしない。結衣、結衣。呼ぶ声は続く。誰の声なのか、分からない。ただしきりに私のことを呼んでいる。そろそろ返事をしてあげないと。もう少し待ってて。今行くから。

 意識は急速に覚醒へと向かい、私の意識はこの世界へと帰ってくる。ぼんやりとした景色は次第に鮮明に彩られていく。ここは、どこ? いったい何が? 目の前にいる人物が私に向って何かを話し掛けてきている。しかし寝ぼけているのか、頭に何も入ってこない。ここは、見慣れない景色? いや、よく知っている景色? 私はなんでここにいるんだ? 私は……。

 そしてぼんやりしていた思考は絡まった糸がほつれるようにスルスルと解けていった。私は、優斗のお墓にお守りを返しに行った時に気を失った……!

 そう認識した瞬間、目の前の光景との繋がりが見え始まる。目の前にいるのは、私よりも年下の女の子。この子の名前は、楠田栞。栞だ。彼女がどうして私を? そうだ、きっとゴールデンウィークのお墓参りに来たとき、倒れている私を発見して、ここに連れてきたんだ。じゃあここは、どこ? 虚ろな意識で、辺りを見る。そうだ、ここは懐かしい場所。優斗の家ではないか。2階が吹き抜けになっている広々とした内装。ログハウスのような一軒家、天井に取り付けられて回っている羽、ここは間違いなく優斗の家。そして、ここはリビングルームだ。ということは……。

 栞は私が意識を取り戻したことが分かると、リビングを出ていった。後ろ姿をまじまじと見る。あの栞が、私を助けた? こんなことも、あるのか……。去っていく彼女の後ろ姿に違和感を覚える。どこかで見た時と違う。もうすぐそこまで出かかっている。そうだ、ポニーテールじゃない。少し髪を切ったようだ。私はソファに横たわっていたようだ。身体を動かすと、あちこちが痛い。ゆっくりと起き上がる。

言いようのない、違和感が身体に走る。思ったように動かない。妙に重たいその身体を持ち上げ、ソファに腰掛けようとしたその時だった。

「え……?」

身体を起こす際に、置いた右腕が視界に入った。またしても違和感。これは、何? 言いようもない気持ち悪さに吐き気を催す。右腕、これは……、私の腕? いや、違う……。 よく見れば見るほど、その腕はごつごつとしていて、血管がところどころ浮き上がり、私の良く知る私の腕より一回りは大きい……、まるで男の人の腕のように……。言葉が出てこない。これは、いったい何なの? 左腕を見る。全く同じ違和感。

それは、私のものではない誰かの腕だった――。

 廊下をドタドタと駆けてくる足音、開く扉。再び栞がリビングに入ってくる。栞、これはいったい……。

「お母さん、ほら目を覚ましたよ」

栞が廊下を振り向くと、今度は小雪おばさんが心配そうな表情でやってきた。そして駆け寄ってくる。

「優ちゃん! 大丈夫だった? 良かったぁ、目を覚まして」

え――? 今、何て言った――? 思考が停止する。よく聞こえなかった。小雪おばさんは今何て言った――?

「お兄ちゃんはそんなに軟じゃないって」

お兄ちゃん――? 言葉が出てこない。この人たちはいったい何を言っている。違う、私は、優斗じゃない。あなたのお兄ちゃんでもない。うそだ、うそだよ、違う……!

全身を見る。肩、胸、脚、足――。一瞬の間に、彼女らの言っていることの意味を把握する。きっと、この時の私の表情はすごく怖いものになっていたに違いない。

 反射的にその場を立ち上がる。

「どこいくの?」

小雪おばさんの言葉なんてほとんど耳に入ってこない。廊下をドタドタと音を立てて歩く。もう何も考えられない。

「ねぇ、どうしたの?」

「顔を洗いたいの」

自分の声じゃない。これは、この声は……。もう頭がおかしくなりそうだった。

「洗面所はこっちだよ。やっぱりおかしいよ。頭でも打った?」

栞の言うことを無視して、示された洗面所へと直行する。入るとほぼ同時に照明を付け、鏡に向き合う。スローモーションのように、一蓮の動作が流れる。部屋が眩しく照らされ、私の表情、身体、すべてが反射され、私の目に飛び込んでくる。そこに、映し出された姿は、間違いなく――。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

鏡に反射した栞と目が合う。きっとものすごい形相をしていたのだろう。栞の不安そうな表情がひしひしと伝わってくる。

「お兄ちゃん……?」

栞の声など、届いていなかった。私は、私の姿を見ている。でも、そこに映っているのは私ではなかった。この人は、誰なの――? 

そこに映っていたのは、紛れもなく楠田優斗だった――。私は? 牧野結衣はどこ?  恐る恐る、顔に触れる。この骨格、この肌ざわり、何もかも違う。そんなはずはない……。夢? そうだ夢だ。夢で夢と気がつくことは珍しい。よく気付いた。さぁ、頬をつねるんだ。手の僅かな震えを抑えるように、人差し指と親指で思い切り頬をつねる。

「っつ……!」

頬は私の期待とは裏腹に、痛みを発する――。バカな、そんなバカな。反射的に、顔を両手でひっぱたく。覚めて! 夢なら覚めて! 早く! これでもかというほど、何度も自分にビンタをくらわせる。だが、無情にも張り裂けそうな痛みだけがいつまでも残った。

「お兄ちゃん! どうしたの!? 止めなって!」

栞に腕を抑えられる形で何とか動きが止まる。両方の頬にヒリヒリとした痛みが走る。鏡には頬を赤くは腫らして涙を流す、哀れな『優斗』の姿が映し出されていた。

 私は栞に支えられるようにしてリビングへ戻った。その足取りはまるで、死刑台に送られる罪人のように重く、絶望に満ちたものだった。

私こと牧野結衣は、さっき目覚めた瞬間から、楠田優斗の身体になっていた――。私の身体は正真正銘、誰が見ても『楠田優斗』その人だ。私の心があっても、私は存在しない。そして、一年前に亡くなったはずの優斗が、生きている……。

そして、思考を超越したこの世界は、夢ではなかった――。


午後六時半――。目覚めてから二時間ほどが経過した。この二時間、私は誰とも口を利かなかった。一人にしてほしい。そう優斗の家族に伝え、広いリビングで一人、一人きりにさせてもらった。

あれから、色々なことを考えた。どうしてこうなってしまったのか。ここはいったい何なのか? 現実なのか、夢なのか、あるいは妄想なのか。しかし、考えれば考えるほど、思考が空回り、やがて停止に至る。頭がおかしくなりそうだ。既に頭がおかしくなっているのかもしれないとさえ思う。だから考えるのをやめた。これ以上考えれば、きっと本当に頭がおかしくなってしまう。いまここで起きていることだけを淡々と、あるがままに受け入れることだけを考えよう。

私は、なぜか優斗の身体の中に入っている。しかも『優斗が生きている』という、あり得ない状況の中でだ。そして、最もショックだったのが、これが夢ではないということ。先ほど、栞を止められるまで、ずっと自分のほうを叩いた。あの痛みは本物。ここは紛れもない現実として成立している。

他にこの世界を判断できる材料があるとすれば、外の景色だ。桜がところどころに舞っている。ということは、今は春先、ということだろうか? おかしな話だ。私がいたのはゴールデンウィーク。桜なんてとっくに散ってしまい、夏に向けて木々は緑を育てている頃のはず。意味が分からない。だが、なぜ桜が舞っているのかということはあえて考えない。ここは私が知っている現実ではない。だから、桜が舞っていようが、雪が降っていようが、今さら関係ない。考えすぎてはいけないのだ。

コンコンと廊下の扉からノックがあった後、キィとゆっくりと扉が開いた。

「お兄ちゃん、もう大丈夫?」

扉の隙間から栞がこちらの様子を窺ってきた。私は必死に笑顔を作って頷いた。きっと笑顔という笑顔になっていなかっただろうけど。

「本当に大丈夫?」

「平気だよ」

喉の奥から脳に響くこの声は、私のものではない。完全に優斗の声。自分が自分ではない感覚とはこのことだ。というより自分ではないのだが。

「栞、聞いていい?」

「ん? なに?」

丸い目をこちらに向けてくる。こんな何の憎悪も抱いていない、純粋な表情の栞を初めて見た気がする。ああ、優斗にはこんな風に接していたのか。

「なによ、そんなにまじまじ見てきて、気持ち悪いなぁ」

恥ずかしそうに苦笑いを浮かべている。少しだけ微笑ましく思えた。

「いや、その、私……、じゃなくて、俺に何があったの?」

危うく自分の言葉で話してしまうところだった。おかしな言動をしすぎれば、冗談抜きで精神科に送られてしまいかねない。今は優斗になりきらなければ。

「何も覚えてないの? お兄ちゃんは霊園内で倒れてたんだよ?」

「本当に……? それで、どうやってここまで?」

「霊園に来てた人が警察に連絡してくれて、警察から連絡が来て、お母さんが車で向かいに行ったんだよ。顔色もそんなに悪くないから、家で様子見ますって」

どういうことだ。ますます分からなくなって来る。だって、霊園にいたのは私のはず……。

「それで、霊園で何してたの?」

「あ、ああ。何かちょっと軽い散歩したいなと思って」

とっさに嘘を付く。そんな理由、こっちが聞きたいぐらいだ。

「散歩を? 何でお墓で? 頭おかしくなっちゃった?」

「そうじゃなくてさ、意外とお墓のある場所って心が落ち着くっていうかさ」

「え~、なにそれ」

「そうだ、今度一緒に行かない?」

「あたしは絶対に嫌だよ」

「そんなこと言わないでさ」

「もう、いやだってばぁ……! お母さん、お兄ちゃんがー……!」

栞は逃げるようにリビングから出て行った。なんとかごまかせたようだ。優斗は霊園に倒れていたのか。ということは、『私』は?

『私』はこの世界にいるのだろうか。手掛かりはないだろうか。そうだ、携帯……! ポケットに手を入れる。しかし、優斗のズボンのポケットには何も入っていない。この世界にいる『私』は……。もはや自分の存在すら疑わしくなる。私はこの世界に存在しているのだろうか? 牧野結衣の存在をいち早く知りたい。彼女は、いや、自分は今、どこで、何をしているのか。

すぐさま、廊下へ出ると、階段を見つけ駆け上がる。優斗の部屋は二階にあるはずだ。そこに彼の携帯があれば、それを頼りに私の所在が分かるはずだ。廊下で小雪おばさんと栞と出くわす。

「優ちゃん、もう大丈夫なの?」

「聞いてよお母さん、お兄ちゃん散歩しに霊園に……」

「ごめん、夕飯後で食べるから、置いといて」

「え?」

二人を交わすように階段を駆け上がる。下から心配そうな二人の会話が聞こえてくる。しかし今はいち早く『私』の存在を特定する必要がある。そして自分自身と会わなければならない。二階の部屋を片っ端から開けていく。ここは違う、ここも違う。そうこうしているうちに、優斗の部屋らしき部屋が見つかった。扉を開けたとたんに見えた勉強机、勉強道具や漫画の束、スポーツ選手のポスター、趣味でやっているギターが立て掛けてある。きっとこの部屋で間違いない。私は部屋に入り、鍵を閉めた。そうだ。初めからここへ来るべきだった。深いため息がこぼれる。ようやく一人きりになれてホッとする。携帯はどこ? おそらく机周辺にある。私の直感通り、机の携帯ホルダーの中に立て掛けてあった。

 携帯の電源を入れる。パスワードの設定はされていない。危ないところだった。トップ画面から電話帳へと向かう。電話帳を下にスライドさせていき、「あ行」が流れ、「か行」、「さ行」と、ゆっくりとスライドさせていく。そして「ま行」に入る。

「あった!」

『牧野結衣』は「ま行」の一番最初にしっかりと登録されていた。よかった。私はこの世界にも存在する。一早く会いたい。『私』自身に会って、私がここにいることを伝えたい。いや、本当にそれが伝わるだろうか。それこそ、精神的な病気の疑いをかけられるかもしれない。でも今は迷っていられない。電話か、メールか。悩んだ末にメールを打つ。土壇場で怖気づいた。さすがに電話は怖い。メール画面を開き、アドレスを探そうと切り替わる画面を見ていた時、飛び交う文字の違和感に、動かしていた指を止める。受信ボックス。相手は牧野結衣。私からのメール文だ。

『遊べなくなったの? 春休み最後なんだから、都合付けられない?』

この文には、覚えがある。これは確かに私が優斗に送った文。そのメールを送ったのは、一年前――。中学三年最後の春休みに二人で遊ぶ約束をしていたのだが、優斗は約束の二日前にドタキャンをしてきたのだ。理由は全く教えてくれなかった。

受信日時は、二〇一五年三月二一日。そう、この日だ。この日……? おかしい、受信日時には『一昨日』と記されている。それを見た瞬間、意識が遠のきそうになる。

このメールを私が優斗に送ったのは一年も前のこと。それなのに携帯の受信履歴には一昨日と書かれている。ということは……。途端に私の手は、生気を失ったかのように、力が入らなくなり、携帯は床に落ちた。

桜の舞う景色、髪型を変えていた栞、生きている優斗、一年前の三月二一日のメール文――。全てがリンクする。私は、一年前に、彼の亡くなる数週間前に、来てしまったということだ――。


 私は『私』にメールを送った。『大丈夫?』と短いメールを一通だけ。何と送ればいいか分からず、そんな文を打ってしまった。とりあえず返信が来るのを待つことにして、私は部屋中を見て回ることにした。内心、悪いと思いながら、分かる範囲で情報を収集したかった。ごめん優斗。しかし、少しばかり部屋を物色してみたが特別発見できたことは何もなかった。やはり分かることといえば、今いるこの世界が私のいた世界の一年前であるこということだ。カレンダーは一年前の『二〇一五年』のものだ。この世界が一年前と同じであるなら、優斗は今から数週間後、四月一二日の日曜日に、トラック事故に巻き込まれて亡くなる。私が彼の中にいるということは、彼の死が、私自身の死を意味しているということになる。それだけは何としても避けなくてはならない。あの日、外出をしなければ事故も起きないはず。大丈夫だ。

 目の前の携帯が振動し出した。メールではないようだ。着信? 『私』からか? 携帯画面を見ると、『牧野結衣』という文字が表示されている。私だ……! どうする? 出るか出ないか。着信は止まらずに鳴り続けている。どうする? 出てどうする? 何をどう話せばいい? 怖い。プッシュアイコンを押そうとする指が震え、あと数ミリのところで指が動かない。もう少し、あともう少しだけ待って、あと一〇秒間鳴り続けたら出よう。スマホを持ったまま、心の中でカウントする。一〇、九、八、七、……、数えながら流れる時間が短いような、とても長いような、何とも説明のつかない緊張感に包まれる。五、四、三,二、一……。私の心配をよそに、携帯は鳴り続けている。もう一分近くなり続けている。まるで私が出ることを分かっているかのように。仕方がない。恐る恐る、プッシュアイコンをタッチする。スマホを耳にそっとあてた。

「……もし、もし」

耳の向こう側、電話の反対側には私がいる。牧野結衣がいる。『私』はどんなことを話す……?

「もしもし? 優斗……?」

電話の向こうの『私』が聞いてくる。ぎこちないしゃべり方だが、これは紛れもなく私の声だ。背筋が凍るほど、緊張する。どうする……?

「うん……」

「本当に……?」

「え……?」

「本当に、優斗なのか?」

「ど、どういうこと……?」

携帯を持つ手が冷や汗で滑る。どういうことだ……。『私』が私の正体を知っているのか……? いや、まさか……。

「笑わないで聞いてほしいんだけどさ」

「うん……」

一拍の間をおいて電話の向こうの『私』が口を開いた。

「俺は、楠田優斗なんだ――」


 まさかの展開に開いた口が塞がらない。『私』は自分を優斗と名乗った? でも、私だったら、何があってもそんな嘘を言わない。しかもこのタイミング。ということは本当に……?

「それで、君は本当に、優斗なのか……?」

この話し方は、私ではない。懐かしい口調が蘇る。

「違うよ……。わたしは、結衣……、牧野結衣なんだ」

「え……? 本当か……!? お前、結衣なのか!?」

自分の声なのに、優斗の口調だ。少しおかしい。

「……う、うん」

「嘘だろ!?」

こっちが聞きたい。本当に優斗なの……!?

「う、嘘じゃないって。そっちこそ嘘ついてないよね。『私』じゃないの?」

「違う違う! 正真正銘の俺だって!」

信じられない……。何だろう、この感じ。自然と笑みがこぼれそうになる。しばらくぶりのこの感じは何だ。頭がおかしくなりそうな状況だというのに、何だか懐かしい。そしてストレスに揺られていた心が、少しだけ治まる。声は私なのに、そこに優斗がいる――。

あり得ないことが起こっている。到底信じられない。でも、それでも電話越しに感じる彼の息遣いに、私は、安堵と嬉しさを感じずにはいられなかった。

「ねぇ、これから会えない? 分からないことが多すぎて」

「そうだな、俺も今の状況が全く分からない。よし、こうしよう……」


私たちは近所の公園に集合することにした。小さい頃、よく遊んだ公園。徒歩三分とかなり近場にある広い公園だ。優斗との電話を切ると、身自宅をせずに階段を駆け降りた。早く会いたい――。その一心だった。ねぇ、優斗、どうして生きてるの? この世界は何? 次々に浮かんでは消える疑問。優斗はそれに答えをくれるだろうか。

時計は七時を過ぎていた。リビングでは食卓の和やかな雰囲気が伝わってくる。栞の笑い声、そこに小雪おばさんの笑い声が重なる。優斗の日常はこんな和やかだったのか。ナイキのスニーカーを靴べらを使って履き、つま先をトントンと叩く。ずいぶんと大きい靴だと思ったが、私の足がそもそも優斗のサイズなのだから、そのスニーカーもぴったりと足に合った。

 玄関の扉に手を掛けようとした瞬間に、ドアレバーがタイミングよく下がった。扉が開き、スーツ姿の男性が玄関に入ってくる。

「おう、優斗、どうした? どこか行くのか?」

「え、あ、うん。ちょっとそこまで」

この人は、優斗のお父さんか?

「なんだせっかく早く帰ったんだから、一緒に夕飯食べないか?」

「すぐ帰るから」

「つれないなぁ」

私は彼を振り切って足早に外へ出た。今のが優斗のお父さん。あまり見たことがなかったけど、何となく面影が優斗に似ている。うちの父に比べてすごく若々しく見えた。今日は日曜日なのに、スーツ姿だったということは、仕事? 優斗のお父さんのことはあまり聞いたことがなかったけど、忙しい人なのかもしれない。 

 私は早歩きで公園に向かった。優斗が待っている。一年前に亡くなったはずの彼が目と鼻の先にいる。あれは『私』の演技なんかじゃない。優斗が『私』の身体の中に入っているんだ。原因も方法も全然分からないけど、とにかく優斗に会える。今はそれだけでいい。

三月の肌寒い夜の道をひたひたと歩く。夜桜が街頭に照らされて儚げに散る中を、一歩一歩踏みしめて歩いていった。

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