四、最期の倭寇


「汪直は、おぬしを信じたればこそ、帰順したのだ」

 余香斎は旧知の蒋洲を介して、汪直処刑後の胡宗憲に面会し、つめよった。

「汪直はつねに新安商人たらんと思って海上交易を営んだ。海禁を犯してはいたが、自らは武装せず、海賊行為を憎んでいた。自衛のために警固の兵を雇い、海賊から沿岸地帯を守ることはあっても、かれらと結託し略奪に手を貸すなど、ぜったいになかった。悪質な海賊は討伐し、なんども地元の官憲に突き出した。官憲が手柄を横取りしたため、中央に伝わらなかっただけだ。その見返りが斬殺刑では、向後、帰順するものはなくなる」

 朝廷内部の互市派のなかには、汪直を擁護するものも少なくなかった。胡宗憲はそうした勢力があればこそ、汪直を誘って投降させたのだった。ただ、結果的に裏切ったいまとなっては、じくじたる思いは拭いきれない。

「汪直は密貿易を認め、新安商人として正しく生きたかったと帰順の理由を語った。故郷くにを誇りに思うその気持は、同郷のじぶんにはよく分かる。海賊退治への協力は評価できるし、倭寇の略奪行為のすべてに汪直がかかわっているとまではいわない。ただし、一部にせよ汪直集団が犯した略奪なら、汪直にも管理責任がある。責任がある以上罰しなければならない。しかし、たとえ官位を与えてでも海上秩序の安定のためには、汪直の力を借りるべきだと、じぶんは思っていた」

 信を失った胡宗憲に往時の説得力はない。繰りごとにしか聞こえない。

 業を煮やした余香斎は、明の悪法をなじった。胡宗憲の本音を糾したのだ。

「汪直は日本でも、倭寇の取締りを諸大名に説得していた。豊後の大友宗麟は勘合貿易の復活を希望し、朝貢が保証されるなら武装勢力を排除すると明言していた。汪直も自由な互市を望み、その実現のためなら海防の弱い朝廷にかわってじぶんが私設の警備組織を作ってでも、海上の治安維持につとめたいと考えていた。だからこそ帰順を決意したのだ。汪直は倭寇などではない。正当な海上交易を望むまっとうな海商だ。ご貴殿はそれを承知で帰順を促し、互市を認めると約束したのではなかったのか。むしろ諸悪の根源は海禁の令にこそある。いかに禁じようが貿易は必要だから、隠れてでも行なう。治安が悪ければ自衛のために武装する。いさかいが生じれば武力で解決しようとする。交易にことよせ海賊が跋扈する原因がここにある。いわば明朝廷の悪しき旧法が海賊を生み、天下万民を苦しめている」

 余香斎は舌鋒鋭く、ことの本質に迫った。ようやく胡宗憲は真相を口に出した。

「海禁か互市かを問うまえに、恭順の是非が問われた。倭寇王・浄海王・徽王、人がいったにせよ、汪直は王といわれて否定しなかった。この尊大な態度は朝廷をないがしろにするもので、謀反人・売国奴として厳罰に値するという処刑派の主張が朝議を制した。互市派もさすがにこの主張は覆すことができず、汪直に死刑の判決が下った」

 大明国はあくまで朱元璋を太祖と崇める朱家一族のものである。人から王と呼ばれること自体が明王朝を貶めるもので、秩序の紊乱者びんらんしゃにほかならない。正義は朝廷のためにある。

 もはや議論の余地はない。胡宗憲は押し黙った。余香斎は腕を組んで、瞑目した。


 汪直の刑死後、老母は牢内で衰弱死した。妻と幼い実子は奴隷に落とされ、買われたさきの消息は途絶えた。明朝の仕打ちに怒った汪直の残党は武力による抵抗をはかったが、集団内の合意は得られなかった。武装商人を否定した汪直の考えは、浸透していた。

「われらは海商である。五峰船主も海賊行為は憎んでおられた。明朝にたいする抵抗は商いの道でこそするべきで、いまさら海賊のまねをして沿岸を荒らしたところで、弱いものいじめでしかない」

「抵抗するなら、官軍を武力攻撃すべきだが、海商のわれらに、そんな力はない」

 思い余って、かれらは余香斎に助けを求めた。余香斎は汪直の信念をくりかえした。

「警固衆の助っ人は、海賊退治になら出せるが、明朝相手の戦に人は出せぬ。それに明朝軍とことを構えるなど、とうてい汪直の本意とは思えぬ。たとえ密貿易であっても、商人は交易でもって朝廷に対抗すべきだ。にっくき海賊はわしが成敗する。おぬしらはあくまで商売に励め。もし寇賊のごとき所業に及べば、おぬしらといえど、わしが手勢で葬り去ってくれる」

 結局、汪直亡きあとの集団は分裂し、一部の武闘派が沿岸を襲撃するにとどまった。大部分はそれぞれの本拠地へ引き上げ、静観した。非汪直系の武装商人が寇賊と化し、倭寇と組んで中国東南部沿岸の海陸に跋扈した。


 余香斎が戚継光に『影流之目録』を渡し、影流兵法を伝授しはじめたそんなころ、

余香斎は、北京から来た長刀を持つ武人の訪問を受けた。

錦衣衛きんいえいの隊士で趙仁毅どのといわれる。わたしが『影流之目録』を入手した経緯いきさつを知り、ぜひ貴殿にお会いしたいと、たっての仰せゆえわたしがあいだに立った」

「錦衣衛といえば御林軍中、特務を司る部門と聞いておるが、わしになんの御用か」

「一手お手合わせを願いたいとの由である。わたしも興味があり、拝見したい」

「ならばご随意に。ご所望は猿飛えんぴの術であろう」

 いうなり無造作に立ち上がった余香斎は、すたすたと中庭にむかって歩いていった。

 ろくに挨拶も交わしていない。趙仁毅はあわてて余香斎のあとを追った。

 とつぜん余香斎は立ち止まり、振り向いた。

 一丈五尺余(五メートル弱)離れていた間合いは、半分ほどに縮まった。

 余香斎は頬を膨らませるや趙仁毅の顔面めがけて、ぷっと息を吹きかけた。

 すわっ、含み針か。趙仁毅は両手で顔を覆うた。胴がいた。一瞬、飛び込んだ余香斎は、抜いた腰刀の切っ先を趙仁毅の心臓に突きつけた。もとより含み針は偽態である。

「虚で先をとり、素早く相手のふところへ飛び込み、武器を封じる。華々しい斬り合いなどせぬ方が双方の身のためだ。錦衣衛の来意が影流の修得にあるなら、ぜひ戚家軍に加入されたい。向こう三年間、倭寇を絶滅するまで、わしは実戦で影流を戚家軍に伝授する」

 余香斎の顔色がんしょくにみるみる生気が甦った。皮膚に張りがもどり、白髪が黒く染まった。汪直が処刑されたあと、気落ちして一気に変貌した老いの兆しが、ものの見事にかき消えた。

 その夜、余香斎は十年ぶりにお衛を抱いた。お衛も十年まえにかえって、それに応えた。


 辛酉の年、舟山列島を交易の場とする密貿易船から、主だった護衛の日本人侍が姿を消した。いずれも槍や長刀の遣い手だった。浙東・江北の倭寇が平定されたのは、同じ年だった。

 さらにこのころ、太子太保(皇太子補佐)にまで立身した胡宗憲が、頼るべき厳嵩・厳世蕃父子の政治専断の罪に連坐してとらわれ、数年後、獄中で急死した。


「たとえ密貿易船であっても、交易を業とする船舶の救助のためなら全力で戦う。われら日本の水軍警固衆はこの考えで、日本や明国の民間交易船を海賊から護ってきた。しかしいまや事態は異なる。交易に名を借りた武装商人が倭寇と称して侵入し、略奪殺傷、ほしいままの悪行に及んでいる。われらはいま、大明王朝の朝命をもって海賊退治にむかう。影流の極意を戚家軍に伝授して天下無双の軍団に仕立て上げ、海賊ばらを完膚なきまで打ち砕くのだ」

 余香斎は三十名の侍をまえにして、檄を飛ばした。面々は戚家軍に加わり、教練を開始した。この時期、戚継光はすでに兵書『紀効新書』の草稿をまとめつつあった。『紀効新書』は実戦に勝つことを目的に、武術・軍陣などを記した軍事訓練の教本マニュアルである。

 この兵書に影流の刀法を加味し、強化するのだ。倭寇との戦闘を前提にしている。

「軍事訓練は実用を第一と考える。美辞麗句はいらない。見た目の美醜や体裁も考慮する必要はない。実際に使って勝てる訓練の方法を追求し、調練してもらいたい」

 戚継光は実用を重んじ、訓練であっても勝敗にこだわり、あいまいな指導を嫌った。

 余香斎もその意を汲んで、刀法の稽古においても日本流の精神論をいっさい排した。三十人の教練には、口先だけの指導を禁じ、自ら演武し体現して見せるよう指示した。

 新参の若い教練は、そんな余香斎の日本での噂を耳にしていた。

「たいしたものだ。日本一の兵法達人で、日本にいれば一国一城の主ともなれるお方が、なにを好んで倭寇まがいの警固衆に甘んじておられるかと、陰流宗家の愛洲元香斎さまが嘆いておいでだった。余香斎さまを知る人はだれも皆、今様仙人よ、と敬っておられる」

 はなしを聞いて喜んだのは、お衛だった。余香斎が話さないから、お衛は日本での余香斎についてほとんど知らない。歳を聞いても、還暦をすぎたら赤子に戻るとはぐらかされている。なるほど、仙人に歳はいらない。

「国や城は夢でも、仙人なら百歳や二百歳はふつうよね。たんと長生きしてください」

「そんなものわしが望むものか。わしは水軍警固衆が天職と心得ている。親の歳八十七に近づいて、ようやく親の気持ちが分かってきた。わしもそうであったが、移香斎も若いころは警固衆の名で海賊働きをしていた。海賊というのは人として恥ずべき悪業だ。だからわしに会おうとしなかった。同じく海賊の真似事をしてきたわしも、若い義弟を避けてきた。あわす顔がなかったからだ。だがいま父と同じように、明国の兵士に影流を伝授している。戚家軍の兵士を鍛え、無道な寇賊を根絶やしにするのが、せめてもの罪滅ぼしだ。後悔はない。剣を振るえるかぎり、やり遂げたい。ただ、ひとりではつまらぬ。お衛には一緒に居てほしい。わしより先に逝くな」

 いずれ、剣を持てなくなる時期が来る。余生は、お衛頼みだ。仙人の境地にはほど遠いが、倭寇討伐の目途は立った。あとはいかにして汪直の無念を晴らすかだ。

 余香斎の老いの一徹は、影流の伝授に鬼気すら漂わせていた。


 倭寇といえば、「胡蝶こちょうの陣」と「長蛇ちょうだの陣」が世に知れわたっている。

 整然と行進中、敵がくると散開して隠れ、軍扇がひるがえるや草陰からとつぜん蝶のように舞い上がり、二刀を頭上にかざして光に反射させ、きらびやかに攻めかかる「胡蝶の陣」。

 一列縦隊の先頭と後尾に強兵を置き、頭を撃てば尾が、尾を撃てば頭が、巧みに反転し逆襲する「長蛇の陣」。くねくねと進み、ときに跳ね上がる。攻撃の手を休めたらたちまち反撃される。

 これにたいする戚家軍は、「鴛鴦えんおう(おしどり)の陣」をもって嚆矢とする。

 弓・鉄砲・槍にこん(棒)・藤牌とうはい狼筅ろうせん・刀(腰刀)・叉鈀さはなどを武器に持つ。藤牌は藤で編んだ楯、狼筅は枝葉を残したままの竹竿。筅は茶筅の筅、小さな竹箒のことだ。叉鈀というのは、三叉みつまた馬鍬まぐわといった卑近な道具を武器にしている。戚継光が開発した。

「弓・鉄砲の攻撃のあと、藤牌・狼筅などで装備した小隊で突撃する。基本は六人、先頭をゆく藤牌が小隊長だ。腰刀を帯び、投げ槍二本を小脇に、藤牌で敵の攻撃を防ぎながら指揮をとる。小隊長の存在は絶対だ。小隊長を失うと全員が死刑になる。続くふたりの狼筅が藤牌を援護する。尖端に刃をつけた一丈五尺の竹竿を前方にかざす。枝葉が無数に茂ったままだから姿が隠れる。野獣の勢いで敵を威圧し、防禦する。そのうしろにふたりの長槍・棍が控え、狼筅を護る。叉鈀が殿しんがりをつとめる。この小隊がふたつ並んで『鴛鴦の陣』を組む。狼筅手が前面に立つ『三才陣』もあり、状況を見て臨機に陣形を変える」

 水面に見立てた陸の戦場で、つがいの鴛鴦おしどりが緩急自在、前後左右に動き回り、ときに潜り、跳ねあがる。柔軟で大胆な鴛鴦の動きが敵を撹乱し、勝利の執念において敵を圧倒する。

 戚継光は「殺敵必勝」を、戦法の第一にかかげた。武器にこだわり、武術を重視した。一丈七八尺ある長槍などの長兵(長い武器)を刀などの短兵(短い武器)と組み合わせ、実戦において効果のある陣立てを考えた。むろん、余香斎は見抜いている。

「だから影流の刀法にこだわったのだ。猿飛えんぴの技を修得すれば、短兵でも長兵に勝てる」

 猿飛の技―「懸待けんたい表裏ひょうりは一隅を守らず」。敵と打ち合えば、待ったはない。変わり身で幻惑し、途切れることのない太刀遣いを「猿飛」という。柳生新陰流では「燕飛えんぴ」と書く。「猿」や「燕」の動き、俗にいう「目にもとまらぬ早業」のことで、体さばきの基本がこの技に凝縮されている。

「あいにく倭寇の側も、そのあたりは承知している。にわか仕立ての刀術はひと目でわかるから、弱いと見ればかさにかかって攻めてくる。丁寧に教えている暇がないなら、実戦で覚えてもらわねばならぬ。ならばわしらも鴛鴦の陣に加わり、戦場いくさばで教えようではないか」

 異を唱えるものはいない。戚継光に建策し、藤牌兵の補助にあたる。腰刀の助っ人だ。


 若い教練が補助に回った。藤牌を楯にした小隊長を先頭に七人が陣形を組み、進むうちに敵の姿を前方に捉えた。小隊長は走りながら槍を二本続けて投げ、敵を牽制する。双方はぶつかった。敵の先鋒は長槍だ。小隊長は藤牌で身を隠しつつ腰刀を抜き、突進した。

「危ない、狼筅が出ろ。長兵には長兵だ。藤牌を投げろ。楯は体さばきの邪魔になる」

 教練は身体ごとぶつけて小隊長を長槍の刃先から外し、かわってじぶんが標的に立った。敵が槍を繰り出すや半身はんみでかわし、するすると敵の手元に入り、槍もつ指を断ち切った。

「敵の状況に合わせ、臨機に陣立てを代えろ。体さばきは理屈じゃない。身体で覚えろ」


 嘉靖四十一年(一五六二)、戦場は浙江から福建に移り、副総兵の戚継光は六千の兵をひきいて福州北方・寧徳海上にある倭寇の巣窟・横嶼おうしょを壊滅した。

 翌年、福建総兵に昇進、平海衛の戦役で兪大猷と合流、大勝した。斬った賊軍の首級二千二百余、拉致された領民三千余を救出、興化城(いまの莆田ほでん)を回復した。

 両軍とも略奪をしない官軍として民衆の支持を得た。ことに戚家軍が『鴛鴦の陣』中でみせる影流の迅速な刀法が「神妙の太刀」と評判を呼び、伝説に近い存在となった。

 こののち戚継光と兪大猷は、福建・広東の沿岸各地を転戦し倭寇の残党を討伐、ともに抗倭の名将と謳われたが、剛毅で鳴らす戚継光も品行において兪大猷に及ばなかった。

「わしはこれが女房にばれて、尻にしかれているからな」

 戚継光は小指を立てて、おどけてみせた。大らかで隠し立てがない。皆はどっと笑った。


 嘉靖四十五年(一五六六)、倭寇を平定、明代の抗倭戦争は四十余年を経て終結した。そしてその翌年の隆慶元年、明朝は国初以来の海禁の令を一部緩和し、民間の対外交易を許可した。一港だけという制限つきだったが、福建のしょう月港げつこうの開港に踏み切ったのだ。

 しかし日本は貿易の対象国から外された。

「汪直の悲願も道なかばか。戚将軍あれば、倭寇の再来、怖れるにたらずと見くびられたか」

 余香斎は憮然として戚継光を見やった。賊を討っても心は晴れぬ。戚継光は苦笑した。

「日本の船が大量に入港すると、一港では間に合わなくなる。明朝にそのつもりはないから、当面、日本は先送りしたのではないか。もっとも、交渉しようにも相手がいなかった」

 日本は戦国末期。信長・秀吉の天下統一まで、まだ若干の期間を待たなければならない。

 ただし日本の商船は密貿易の海上取引でしのいでいけるから、実質的な支障はない。

「汪直さんらのために、わざと仕事の場所を残しておいてくれたのではないかしら」

 お衛なら戯れて軽口を叩きそうだ。一方、戚継光は危機感を捨てきれない。

「統一したあとの日本は軍事でも貿易でも、手ごわい相手になる。明朝は姿勢を正し、官民一体の自由かつ公平な国に変わらねばならぬ。倭寇以外にも問題はある。つぎは北虜対策だ。モンゴルのアルタン・ハーンが馬市ばし(公認の民間交易)の開設を求めて、北の辺境で暴れている。成敗せよと、わたしに転戦命令が下った。兪大猷将軍にも声がかかったが、高齢の故をもってご辞退された。わたしは戚家軍をひきつれて北へむかうが、貴殿はどうされる」

「三年のつもりが、倭寇の討伐に五年かかった。この老いぼれ、足手まとい承知で同行したい。まだやり残しがある。教練の三十人も連れてゆく。戚家軍に影流刀法の真髄を伝授し、モンゴルを長城の外へ追いやってくれる。新たな武器として仏郎機ふらんき(大砲)を加える」

 戚家軍は倭寇相手に連戦無敗の軍団に成長した。しかし騎馬軍団で攻め寄せるモンゴル軍には、新たな戦法で立ちむかう必要がある。それが大砲の導入だ。戚継光に異存はない。


 このころ日本の愛洲元香斎は伊勢を離れ、兵法指南をもって常陸の佐竹義重に仕えている。百名の家臣団をひきつれての大移籍だ。伊勢神宮の密命を帯びての北進だが、戦国の生き残りを賭けた深謀が読み取れる。神宮の宗教界とて例外ではない。やがて伊勢水軍は熊野の九鬼水軍に吸収され、三重県南伊勢にあった愛洲本家の五箇所城は織田信長傘下の北畠氏によって攻められ落城する。戦国の荒波は、余香斎の身辺にも影響を及ぼしている。


「倭寇は滅び、日本の水軍も役目は終えた。もはやわれらに帰るべき故郷はない。かつて水軍警固衆は、海賊衆ともいわれた。いわば倭寇の魁だ。次は華北に戦場を移す。長城をこえて侵入するモンゴルの寇賊を退治し、倭寇の汚名を晴らしてくれる。日本の長刀を振るうわれらは、相手のモンゴルにすればまさに倭寇だ。元寇の因縁もある。このうえは真正倭寇となって、この世にあった最期の証を、中華の国土に刻みつけてやろうではないか」

 警固衆三十人はひとりも欠けることなく、戚家軍に溶け込んでいる。いわれるまでもない。帰るべき故郷があれば、とうの昔に帰っている。余香斎の檄を受け入れたかれらは、汪直の生前から誼を通じてあるマカオで購入した仏郎機砲を積み込んで、海路北上した。薊州けいしゅうをめざす。いまの天津薊県だ。 


 余香斎はお衛を伴った。日本に帰る気はない。華北をついの棲家にするつもりでいる。のち、錦衣衛の武術師範となって北京に住んだともいわれるが、消息は詳らかでない。

 しかし、海を渡った影流は、しっかりと中華の大地に根を下ろしていた。


 北辺の守りについた戚継光はこの後十六年間、屯田部隊をひきい、長城を修築、モンゴルや満洲女真の侵攻を撃退、民族英雄と称えられた。長城の要所に千十七個所の空心敵台という四、五十人が駐在できる砦を新設し、今日の姿にしたのも戚継光だ。


 秀吉が朝鮮に侵攻したのは、戚継光が六十一歳で病没した四年後である。

 日本勢十六万にたいし明から援軍が派遣された。そのうち浙江籍の「浙兵」数百人は整然と進軍し、長刀をひるがえして堂々と日本軍に対峙した。

 その太刀筋を見て、心得のある日本の武将は驚いた。

「これは、陰流の刀法ではないか」

 武将は、戦いを避けて兵を退き、全軍に略奪を禁じた。略奪すれば倭寇と同じになる。「浙兵」を、伝え聞く戚家軍の後身と判断し、伝説の「神妙の太刀」に敬意を払ったのである。

邪悪よこしまな倭寇は、戚家軍に完敗した。われらも倭寇のてつを踏んではいかん」


           (完)

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倭寇外伝「影流、海をわたる」 ははそ しげき @pyhosa

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