三、衣冠の盗賊

 

 嘉靖二十六年(一五四八)、江蘇省出身の朱紈しゅがんが浙江巡撫じゅんぶに任命された。福建軍務提督を兼ね、浙江・福建の密貿易の徹底取締りにあたった朱紈は、妥協を知らない清廉剛直な官僚だったから、着任するや直ちに海上を取締り、二本マスト以上の大型船を拿捕して解体した。

 翌年、浙江・福建の軍を総動員して、密貿易基地である六横島の双嶼港を一斉攻撃した。天妃宮・教会・病院・役場など港の多くの公共施設が破壊され、六、七十人の密貿易者が捕まった。ポルトガル船はいち早く逃走した。逃げ遅れた商船二十七隻は焼き払われた。

 この取締りで許棟集団は離散し、逃亡した李光頭と許棟は、のちに捕われ処刑される。許棟集団の凋落は、からくも逃げ延びた汪直に、転機をもたらすことになる。

 密貿易集団を一掃した朱紈は、木石を埋めて港を塞ぎ、船舶の入港を不能にした。密貿易の巣窟として二十年間、裏の世界で繁栄してきた双嶼港は、壊滅した。

 当時、六横島には千戸の邸宅があり、諸国の基督キリスト教徒三千余人が住んでいた。うち千二百人はポルトガル人だ。かれらは島を追われた。

 食糧や生活物資を供給していた沿海民の仕事が失われた。朱紈にとっては、沿海民もまた海禁を犯す盗賊の片割れでしかなかった。

 双嶼港を壊滅しても、朱紈は勝者になれなかった。敵は外だけではなく内にもいる。

「外国の盗賊を追い払うのは易しいが、衣冠の盗賊を追い払うのはもっとも難しい」

 朱紈が自嘲気味に嘆じる衣冠の盗賊とは、密貿易を陰で支持する明朝政府の中央や地方の豪商・郷紳きょうしん・大官などだ。かれらは私腹を肥やす好機とみれば、密貿易者に取引を示唆し、海禁の令を犯させる。自らの手は汚さず、効率の良い投資利益を目論む。こういう輩が、双嶼港壊滅作戦の直後、こぞって反朱紈で結束した。

 弾劾をうけた朱紈は抗すべくもなく職を免ぜられ、北京に召還された。罪を得るのを恥じた朱紈は、獄中で毒を仰いで自決する。衣冠の盗賊らは自らの海禁の犯罪を摘発されるまえに、危険な告発者を抹殺したのである。

 弾劾される直前、朱紈は倭寇による「ある強盗殺傷事件」を上訴していた。

 事件は汪直にかかわりがある。

 浙江省餘姚よよう県の謝氏と外国商人とのあいだに立ち、密貿易の仲介をしていた汪直は、あるとき勝手に謝氏の商品を待ちだそうとした。謝氏は怒り、「官憲に訴える」と汪直らを脅した。そこで汪直一党は倭寇の仕業に見せかけ、謝氏の邸宅を襲い数人の男女を殺害したうえ商品を強奪し、邸に火をつけて逃走した、というものだ。

 朱紈はこれを、密貿易を助長する悪質な例として問題視した。密貿易者同士の内輪もめなら、謝氏も同罪だ。そこで身に覚えのある郷紳・大官は、「いずれ火の粉はじぶんにも降りかかってくる」と怖れ、朱紈の排斥運動に出たのだ。

 正義は朱紈にあるはずだったが、明朝上層の腐敗勢力は正義を踏みにじった。

 罪にこそ問われなかったが、悪名をしに使われた汪直も被害者だ。

「外国商人が国内販売を謝氏に委託したが、謝氏が約束の代価を出し渋りかえって脅しにかかったので、逆上した外国商人が犯行に及んだのだ。謝氏は通番商で、官憲・私商の双方に通じている。外国商人の弱みに付け込んで、よほど恨みを買ったのだろう。火付け強盗殺人などそんな海賊じみた悪行は、わしなら絶対にやらない。むしろ地方の官憲に協力して、実行犯をとらえて手柄をわたすかわりに、私市(密貿易)を目こぼししてもらう」

 

 双嶼港を追われた密貿易者らは、許棟の残党を中心に汪直を担いで結集した。近くの烈港に新たな拠点を構え、日本との交易に重点を置いたのだ。ポルトガル船も戻ってきた。早くも汪直集団誕生の兆しが見えはじめたが、双嶼港の轍を踏まないよう、汪直は慎重に行動した。不法な密貿易集団には違いなかったが、海賊行為には絶対手を染めない。これを集団の各員に周知徹底させた。

 朱紈が更迭されたあとの四年間、後任の巡撫は任命されず、野放しの浙江海域は無法地帯と化したから、所轄の官憲は汪直に海賊の討伐を相談しにくる始末だった。

 もともと汪直は新安商人を標榜し、密貿易に手は染めても、武装商人と呼ばれることを嫌い、自ら武器を手にすることはなかった。ただし無法海域で、丸腰でいるわけにはゆかぬ。防禦は必要だ。そこで余香斎に依頼し、伊勢水軍の警固衆を派遣してもらっていた。みな影流の遣い手で、商売には無頓着だが、海賊退治ならお手のものだ。

 ときに汪直はかれらの合力ごうりきで、杭州銭塘に侵入した廬七・沈九らの寇賊を捕えたり、密貿易仲間を妨害する海賊陳思盻ちんしけい集団を官軍と連携して襲撃したりした。汪直が「浄海王」の異名をとったのは、この時期のことだ。

 明朝廷に汪直集団の海上取締りの実力を見せつけ、私的な交易を黙認させるためだった。しかし陳思盻一派の残党までも吸収して膨れ上がった汪直集団は、いまや浙江海域最大の密貿易勢力となっていた。


 倭寇の跳梁はそのころからだ。烈港襲撃の前年から嘉靖四十二年までの十二年間に合計五百二十五回という記録がある。年平均四十数回、多い年では百回を越える。それ以前は年に一、二回だったから異常な増え方だ。

『明史』は汪直を「大奸(大悪人)」と決め付けた。

 このとき汪直とならんで「大奸」と名指された男に徐海がいる。汪直の年来の友、徐銓の甥にあたる。僧籍にあったが還俗し、叔父を頼って烈港にきた。徐海は日本人を押し立てて露骨な海賊行為を行ない、それが汪直の耳に入った。汪直は激怒した。

「徐海よ、おまえはわしの顔に泥を塗るのか。わしらはあくまで海商であって、海賊ではない。海商の本分を忘れ、海賊働きをするなどもってのほかだ。許しがたい」

 その場は徐銓が詫び、汪直も怒りを抑えた。しかし徐海は内心、敵意を抱いた。やがて徐銓は戦死し、徐海は別派行動に移る。南九州主体に日本人を誘い、浙江方面への海賊稼業に奔ったのだ。「倭の服を着用、倭の旗印を押したて」、これ見よがしに中国本土を略奪した。

 拠点が烈港の時代、集団を束ねた汪直に、驕りがなかったといえば嘘になる。

「浄海王」と呼ばれることに慣れ、謙虚さを欠いていた。官憲に代わって海賊を掃討し、浙江海域を浄化するのはじぶんだと豪語した。だから海賊退治の私設海上警察が評判になり、沿海の住民や名士さらには官憲までもが汪直を褒めたたえ、頼りにした。こうした風評は、黙っていても北京に届く。

「不遜にも『浄海王』とはなにごとか。聞き捨てならぬ」

「王」を自称するのは反逆罪にあたる。明朝廷は、海禁取締りの強化を厳命し、問答無用で実力行使に打って出た。

 嘉靖三十一年(一五五二)七月、僉都御史せんとぎょし王忬おうしょを起用し巡撫を復活、浙江・福建の巡視を再開した。翌年四月、名将兪大猷ゆたいゆうひきいる兪家軍ゆかぐんは、大挙して烈港を襲撃した。折からの台風にも煽られ、敗れた汪直らは六月、平戸へ逃げ帰った。

 平戸での汪直は領主松浦まつら隆信の庇護のもと、配下二千余人とともに豪邸に住んだ。つねに絹の衣服を身につけ、「徽王きおう」と呼ばれて王侯然と暮らしていたという。

 これが四年続く。

 平戸は国際貿易港として、汪直が呼んだ南蛮船や明船で賑わっていた。貿易の税収で潤う松浦領主にとって汪直は、さながら「福の神」に見えていたにちがいない。

 やがて「家族を呼ぼう」との想いが、汪直に生まれていた。しかし多忙にかまけ、一日延ばしになっていた。のちに汪直が「痛恨の一事」と悔やみ、帰順を決意する要因ともなる。


 烈港襲撃の同じ年三月、汪直集団は多くの倭人と結託し、大挙して大陸に侵攻した。汪直ひきいる倭寇の跳梁ぶりが、『明史』に詳しく記されている。汪直自身は否定しても、制御不能なまでに膨張した集団内過激派の悪行にほかならない。

「艦を連ぬること数百、海を蔽いていたる。浙東・浙西、江南・江北、浜海数千里、同時に警を告ぐ」。浙江・江蘇を執拗に攻め、略奪を続けた。さらにその翌年も、賊軍は「縦横に来往し、無人の境に入るがごと」き、傍若無人ぶりだったという。

 そのまた翌年も賊軍の侵入はまず、浙江省の要地で劫略の限りをつくした。官軍も奮戦し、賊軍の首千九百余をあげるが、倭寇の勢いは衰えず、蘇州・無錫むしゃくまで侵攻した。

 倭寇といっても、「真の倭は十の三、倭に従う者(中国人)十の七」と『明史』が注釈するほどの実態だったが、賊軍は捕虜にした官兵を先頭に駆り立てて攻めてくる。軍法の厳しい賊軍が死にもの狂いで戦ったのにたいし、官軍の方は「もと懦怯だきょうにして、いたるところ潰奔かいほんす」(もともと臆病だったから、戦うまえに総崩れ)という体たらくだった。

 同じ年、南京が危うく攻略されそうになった。倭寇の一派が杭州湾に上陸、略奪をはじめた。西にむかい、徽州のきゅう県を襲った。歙県は汪直の故郷である。任侠を重んじる王直集団なら絶対に襲わない。そのまま安徽省を北上し、蕪湖で長江に達した。南京は長江の北、九十キロ先にある。倭寇は長江南岸の町々を焼き払い、南京に迫った。赤い服に黄色い笠をつけた倭寇の軍勢は大安徳門を破ったが、官軍が押し寄せ敗退、四散した。この暴乱は、はじめ七十人程度の倭寇が数千里を席巻し、ほぼ四千人の官軍兵士を殺傷したあげく、八十日あまりを費やしてようやく終った。朝廷は驚愕し、対策に頭を抱えた。


 この年の七月、胡宗憲が浙江巡撫に任命され、翌嘉靖三十五年(一五五六)二月には浙江総督となった。異例の抜擢といえる。佞臣趙文華に取入り、中央の権力者厳嵩げんすう・厳世蕃父子から篤い信頼を得ていたが、それだけで人事は動かない。汪直と同じ徽州出身で生地の績谿せきけい県は歙県とは目と鼻の先の近さだったから、かれにも新安商人の血は流れている。

「ものをいうのは金と実力だ」

 出世も商売とかわらない。他を圧する付け届け(賄賂)と目を見張る功名が、高位高官につながる。権謀を弄してライバルを蹴落とし、術策を駆使して他人の戦功を横取りした。

「朱紈も王忬もことを急ぎすぎた。汪直にたいしては力でねじ伏せるのではなく、甘い餌で吊り上げて篭絡し、官位を与えて懐柔すべきだ。笑顔で接すれば人もなびく」

 非汪直の倭寇勢力数万を結集してその盟主となった徐海一味にたいし、こまめな離間工作で内部分裂させ、総督となった年にすべて討伐した。残すは汪直のみである。

 巡撫に着任以来、胡宗憲は論客蒋洲しょうしゅうを使者に立てて、汪直に明国への帰順をうながしていた。蒋洲は五島や平戸に汪直を訪ね、胡宗憲の意思を伝え、説得につとめた。

「同郷の誼で申し上げる。貴殿の母上・奥方・ご子息は牢より出され、無事に杭州でお過ごしである。みな、貴殿の帰国を待ち望んでおられる。貴殿が前非を悔いて帰順の暁には過去の罪は不問とし、解禁の令を緩和し、東南海上における交易を許可する用意がある」

 胡宗憲は汪直の弱みを握り、甘言を用いて帰順を誘った。

 痛恨の一事とはこのことだ。家族を思う望郷の念が、汪直の判断を誤らせていた。


「で、どうするつもりか。いっそ隠居して、日本に亡命するのもひとつの手だが」

 はなしがようやく核心に近づいた。すでに余香斎は、汪直の危うさを予感している。

 汪直が多忙だったこともある。「王」と呼ばれて汪直が得意だった時期、余香斎は意識して離れていた。人の成功をどうというのではない。歳とともに、余香斎にも隠遁の風が兆していた。忠告するなら、その時期にすべきことだった。

 いまは結論を聞くよりほかない。

「いいえ、日本の皆さまにご迷惑はかけられません。老母と妻子さいし、早く気付いて日本に連れてきておくべきでした。その家族を思えば、いまさら隠居などとうていかなわぬこと。明朝にたいし、あくまで互市ごし(公認の民間交易)の理を説き、海禁を緩和するようお訴えする所存です。幸い胡宗憲総督には海上交易ご許可の内諾や浙江海域の警備を委託する旨、示唆されています。かく明朝高官より格別のお計らいを得た以上、お断りなどできますまい」

 朝廷を説得する―汪直はすでに腹を決めていた。百害は海禁にある。海禁を解き、海上交易を開放すれば、民間が活性化し、国は富む。衣冠の盗賊は消滅し、国に正義が甦る。

「朝廷のそこかしこには、聞く耳持たぬ守旧派と既得権益にしがみついて離さぬ金の亡者があまた巣食うている。胡宗憲ごときの立場で説得できる柔な手合ではない」

 余香斎は、明朝守旧派の海禁論は動かないとみている。太祖朱元璋以来の祖法として百八十年余ひきついできた海禁の令には、大明帝国の威信がかかっている。そのじつ、背後には既得権益の存在がある。面子めんつと利権、このふたつが問題の解決を阻んでいるとすれば、汪直の処分は軽くすむはずがない。帰順を表明するまえにまず家族を救出すべきだと、余香斎は考えている。しかし新安商人を自認する汪直には、公認された交易にこだわりがあった。

「海禁が緩和され、天下にならびなき徽州の文房四宝、さらに景徳鎮の陶磁器、そのうえ浙江の絹織物を、大手を振って堂々と海外に交易できるのは、まさに新安商人の本望です」

 汪直は矜持に拘った。じぶんは海内かいだい一の海商だという自負心と誇りが優先した。

「海上交易が許可されるのなら、わだかまりを捨て、投降するにやぶさかではありません。もともと商人は笑顔が身上しんじょう。武器を手に強面こわもてで張り合うのは、商人の本分にもとるもの」

「かといって武器なしでことがすむほど、この海は平穏でない」

「さればこそ、要所は愛洲水軍に締めていただいております」

「わが水軍を、汪直如来の手のひらで躍る孫悟空にたとえるか」

「孫悟空こそ、猿飛えんぴの術の元祖にござりましょう」

 ようやくふたりは目を合わせて、かすかに頬をゆるませた。

 問うまでもない。汪直の家族を案じる思いと新安商人としての名誉への拘りが、葛藤の末に選んだ結論である。

 最期に汪直は、述懐とも遺言ともつかぬことばをいいおいて、余香斎を見送った。

「御師にはお詫びしなければなりません。『明国の海域を越え、四海(世界)に飛び出す海上商人となれ』。御師のおことばに反し、結局わたしは明国を越えた海商にはなれなかった。家族への思い同様、故郷を捨て切れなかったのです。投降し、たとえ殺されようと、心ある人には知ってもらいたい。わたしは卑怯な海賊行為を憎む。商人たるもの、商売で競うのが筋だ。わたしは新安商人であることを誇りに思う」

 嘉靖三十六年(一五五七)十月初、千名の配下をひきつれた汪直は舟山列島の岑港しんこうに入港し、互市を求めてひとり投降した。汪直は逮捕され、拘禁された。配下は成行きを見守った。


 胡宗憲は当初、汪直の要望をのみ、罪は不問に付すつもりでいた。刑部主事唐枢とうすうが、「ことは汪直ひとりの問題ではない」と胡宗憲を援護した。

「海禁の令はいまの実情に合わない。法が密貿易を生み、海賊の横行を黙認している。それをよいことに海賊は各地を略奪している。政府の海防工作は万全でなく、後手に回っている。一方、汪直には海賊討伐の実績がある。汪直を使い、『夷をもって夷を制する』ほうが得策だ。そもそも対外貿易を認めて課税すれば、経済が活気づき、税収も入る。その金を対策に回せば、海賊は討伐でき、治安もよくなる。朝貢貿易だけでは、民間の需要は満足できない。社会が発展すれば、民間には互市が必要になる。歴史の必然といってもいい」

 しかし海禁派と互市派に分かれた明朝廷は、最終的に海禁派の主張を朝議とした。肝心の胡宗憲に収賄疑惑がもちあがり、保身に回った胡宗憲が海禁派に寝返ったことにもよる。

 投降から二年後の嘉靖三十八年十二月二十五日、汪直は杭州の刑場で斬首される。

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