二、大海商汪直


 愛洲余香斎には、汪直にたいする深い思い入れがある。処刑以来二年たったいまでも、最後に平戸で会った四年まえ、投降直前の汪直と交わした会話が、頭のすみから離れない。

「腐れ縁とまではいわぬが、おぬしとのつきあいもずいぶんと長うなったものよ」

 酒を酌み談笑するなか、ふと顔を上げた余香斎の口から、思いがけぬことばがついて出た。心なし今生の別れを思わせる、しんみりとした口調だ。それと察し、汪直はむりに微笑んだ。汪直とて胸込み上げる感情を、ひっしにこらえていた。

「なにをおっしゃいますか、御師おんし。たかだか二十年たらずのおつきあいではないですか。このさき三十年、四十年と続けてゆきたいものです。思えば二十年まえ、わたしと徐銓じょせんが三十余にして塩の商いに失敗、自暴自棄になって無頼に成り下がっていたおり、命を救ってもらったうえ、海商の道へとお導きいただきました。深く感謝しております」

 ことさら思い返すまでもない。きのうのことのように覚えている。寧波の港での出会いが腐れ縁、いや奇縁の発端である。それ以来、汪直は余香斎を御師と呼び、師事してきた。

「わしは、そうよのう。いわばお伊勢参りの御師のようなものじゃ」

 機嫌がよいときの余香斎の口癖に由来している。御師とは全国津々浦々、神宮のおふだを配って信仰を広めた人たちのことで、信仰団体の伊勢講を組織し、参拝者を誘致した。檀家だんかの依頼に応じて祈祷や奉納寄進などにも携わった。伊勢神宮には「式年遷宮しきねんせんぐう」という二十年ごとに正殿を建替え神座を遷す行事があり、その資金獲得のため信者を増やす必要があったのだ。伊勢水軍の警固衆をつとめる愛洲一族は、おかにあがれば神宮の御師を兼ねていた。


 負けが込み、寧波の賭場で暴れた汪直と徐銓が、数人の用心棒に袋叩きにあい、簀巻すまきにされて海に放り込まれようとしていた。余香斎がひと声かけなければ、汪直のいまはない。

「もう十分であろう。その辺でやめておけ」

 静かに止めに入ったのだ。威丈高な風はなく、飄々とした感じの初老の男にしか見えない。腰刀こしがたなを提げた身なりからは、武人のようでもある。長めの杖を一本、突いている。

「なんだと、引っ込んでいろ。余計な口を叩くと、痛い目にあうぞ」

 色めきたったひとりが、押しのけようと、近づいた余香斎の肩に手を伸ばした。

 余香斎が軽く身を引くと、勢いあまった男は、前につんのめって転倒した。

「この野郎、なにしやがんでぇ」

 たちまち仲間が集り、匕首あいくちやら手斧やらを振りかざして、不意の闖入者を取り囲んだ。

「おまえもこいつらと一緒に、魚の餌食になりたいか」

 わっとばかりに襲い掛かった。一瞬、群れのなかから、余香斎の姿がかき消えた。

杖を軸にして身をひるがえし、頭上を飛んで後ろに回ったのである。

「痛い目にあうのは、おまえらの方かも知れんぞ」

 かえって背後から声がした。ふりむいた男たちの脳天に、火花が炸裂した。余香斎が仕込み杖の長刀を抜き、あたかも舞うように刀を振るって、峰打ちを喰らわせたのだ。

「倭寇だ。日本の海賊だ」

 簀巻きにした汪直らを放り出して、賭場の用心棒は遁走した。

 飛んで舞う超人的な身の軽さ、そして細身の鋭利な長刀は、まさに倭寇の代名詞である。


 当時、八十七歳で身罷った老父愛洲移香斎の訃報を、余香斎は回航先の異国の地で受けた。葬儀はすでに終わっていたが、跡目相続のことがある。知らせをもたらした使いの男は、余香斎に帰国をかせた。妾腹の身であってみれば家名は継げぬが、兵法流派「陰流」の継承が打診されていた。じじつ、それだけの技量と人望が、余香斎にはあった。

 しかし、余香斎は動かなかった。汪直はそのことを覚えていた。

「あのおり、結局、日本へは戻らず、寧波に居続けておられましたね」

「わしが動くと、小なりとはいえ、家中は二つに割れる。なにせ腹違いの弟・小七郎はまだ二十歳はたち。当時五十二のわしとでは、叔父甥ほどのひらきがある」

 だとすれば二十年後のいま、余香斎は七十二、いや汪直との会話は四年まえのことだから、辛酉の年には七十五、六になる。

「ずいぶんご高齢のお子でございましたね」

「義弟は父が六十七のときの子じゃ。兵法家というは達者なものよ。わしとて三十五のときの子。父が北京を去ったのちに産まれたから、産み育ててくれた明国の母には恩がある」

「お母君は、いまもご健在で―」

「いや、わしが幼少のころ、流行り病で亡くなっている。ひとりになったわしは、御林軍の撃剣指南役に引き取られ、武科挙ひととおりの学問・武術を教わり、十二、三ではじめて日本の土を踏んだ。父の国・日本を是が非でも見ておきたい。ただその一心で遣明使の帰国船に便乗し、日向ひゅうがで下りたのだ。日向鵜戸うど神宮には陰流の道場があり、わしはそこで愛洲の陰流を叩き込まれた。全国を飛び回っていた父の移香斎とは、直に手ほどきを受けたことはなかったし、親しく語った記憶もない。疎んじられていたのかと、思わぬでもなかった。そのせいもあってか、結局、わしは日本人にはなりきれなかった。やがて伊勢水軍の警固衆に加わり、船に乗り組んで日本各地を経巡り、御師のまねごともし、ときに明国の港に往き来した。だから、父とは疎遠のまま終わった。おぬしとの出会いは、そんな時期のことで、いずれ大商人に育ってくれよと願ってきたが、まさか倭寇王といわれるほどの大物になるとまでは思わなかった」

「倭寇王というは世間が勝手につけただけで、わたしのあずかり知らぬこと。なんといわれようと、わたしは海に出た一介の新安商人にすぎません。海の内外いずこであっても、商人が交易するは理のとうぜん。理にかなわないのは、むしろそれを禁じる側でしょう」

 汪直はいまの安徽省、黄山の南麓・きゅう県の出身だ。四百年まえ南宋の時代、首都は臨安(杭州)におかれた。徽州とは杭州湾に注ぐ水路で結ばれている。新安江・冨春江・銭塘江と名をかえて東流するこの水路は明国各地の港、いや世界の港に通じている。

 徽州は文房四宝―歙硯きゅうけん徽墨きぼく澄心堂ちょうしんどうの紙・汪伯立おうはくりつの筆の生産で著名だが、大商人を輩出する地としても知られている。それが徽州商人であり、新安商人である。

 若き日の汪直もまた、成功した先達にならい郷里を出奔、大商人たらんと塩の販売に手を染めたが、もとより零細な資本で成り立つ業界ではない。たちまち元手を食いつぶし、賭博におぼれて身を持ち崩したあげく、すんでのところを余香斎に救われた。

 余計なはなしだが、余香斎が汪直を救ったのは偶然ではない。そのじつ、余香斎も賭場に遊び、汪直と顔をあわせていた。わずかでもことばを交わせば、教養の程度は知れる。同席の客にポルトガル人がいて、汪直が片言で丁半博打を説明しているのも聞いている。儒学を多少かじり、外国語に前向きである。いずれ、使える――ばくぜんとだが思っていた。賭場の用心棒がふたりを連れ出すのを見て、あとをつけたのだ。


 余香斎は袋叩きにあったふたりを、女房どうようのお衛が仕切っている船宿に担ぎこんだ。寧波寄港時の定宿だが、日本に家を持たない余香斎にとってはわが家である。お衛は驚きもせず、てきぱきと処置した。幸い汪直と徐銓に骨折はなく、内臓に届く打撲もなかった。三日三晩して昏倒からさめたふたりの枕元で余香斎が説いたのが、海商の道だった。

「明国にいる限り、法の束縛から逃れることはできぬ。ならば海禁を犯し、明国の海を越えてみるか。人のできない、新たな道を拓くのだ。海の外には、稀少珍奇な価値ある物産がある。明国の絹や陶磁器と交換するのだ。海商となって交易せよ。南洋に渡り、仏郎機フランキに学べ。仏郎機が求めるものを先取りし、われらに利益をもたらすものを探り当てるのだ」

 仏郎機とはポルトガル人やスペイン人をさすが、仏郎機砲という大砲の名からきている。この時期、ポルトガルの進出で、東アジアに新たな国際貿易の芽が萌していた。

 夢うつつのなかで暗示を与えられた汪直は、傷が癒えるや寧波の東、浙江海上にある双嶼そうしょ港に赴いた。そこが大規模な密貿易基地で、南蛮船も入港することを聞いていたからだ。岸壁に係留するポルトガル船によしみを通じ、足繁く通った。かれらの風俗・文化を知り、渡来の目的を探り、交易する商品を確認した。ポルトガル人乗組員らと南洋マラッカでの再会を約束するころには、汪直のポルトガル語の語彙は、飛躍的に増えていた。

 その後、汪直と徐銓は広東にゆき、大型帆船を建造、硝石・硫黄・生糸・綿などを満載して、南洋へむかう。寧波での出会いから二年後、すべて余香斎の計らいによるものだ。投資者を募って大枚の資金を調達したのだ。「奇貨居くべし」と、余香斎が思ったかどうか。汪直は交易に専念した。もっともお衛にいわせれば、余香斎の気まぐれに近い。

「計算ずくなんかじゃないさ。よっぽど汪直さんが気に入ったんだろうね。汪直はどうしているか便りはないのかと、寧波に立ち寄るつど、ずいぶん楽しみにしておいでだったよ。ほんとのところできるものなら、じぶんでやってみたかったのではないかしら」

 汪直は日本・ルソン・チャンパ・マラッカ・シャムなどを往復し、交易した。各地の港で、軍船に守られた多くのポルトガル船を見た。かれらはインドのゴアを拠点に胡椒・香料のほか、中国の絹織物・硝石、日本の金・銀・銅や硫黄を大規模に商っていた。

 いくど目かの南洋行から帰還し、双嶼港に着岸した汪直は、余香斎の出迎えを受けた。

「仕事は順調か。海賊の被害はないか。必要があれば警固衆をつかわすぞ。して、土産ばなしはいかがかな。ことに仏郎機の動きが知りたい」

「仏郎機がつねに身につけ、離さぬもの。攻撃用としても強力な武器がございます」

「火縄銃か。持つに重く、弾込めに時間がかかり、雨が降ると火が消える。鳥獣を撃つにはまだしも、戦に用いるには実用的でない」

「それがいま、日進月歩の勢いで改良されています。比較的軽量のものも出ており、雨中でも撃つことができます。弾込めに時間がかかるのは、その分だけ銃の数を増やせばよろしいかと」

「改良か――」

 思案顔で余香斎は首をひねり、改良型の実物はあるかと、汪直に訊ねた。

「いえ、かれらは手元から離そうとしません。売り惜しんで、高値を吹っかけています」

「日本へ呼ぼう。最新型の実物を二丁持たせろ。日本で試し射ちをやってもらう」

 確信があるらしく、余香斎は落ち着いて汪直に指示した。

「汪直よ、日本に火縄銃を持ち込む。手配してくれ。ところで銃の利点はなにか」

 とっさのことで汪直は答えられない。余香斎は、かみ砕いて説明した。

「銃は戦の新たな武器となる。一丁二丁では心許ないが、大量に用いれば恐るべき破壊力を生む。百丁の銃が一斉に火を噴けば、射たれた敵は度肝を抜かれ、意気阻喪する。銃を構えて発射するには、弾丸の装填、火薬の点火が必要だから、撃つまでに間があく。だから、三丁そろって一組とする。三百丁の銃があれば、つねに百丁は途切れず撃ち射ち続けることができる」

 銃は多いに越したことはない。ならばじぶんで作ればよい。複製するのだ。

「二丁入手し、一丁を徹底的に分解、腑分けする。溶解して鉄の材質まで把握すれば、いくらでも改良できる。製鋼・鍛錬技術が必要だ。腕のいい刀鍛冶を集めておく」

 余香斎は汪直に、手順のあらましを語って聞かせた。かつてない楽しげな口調だ。

 試射すると音がでるから、すぐ噂になる。ひそかに試作するなら東シナ海の小島がよい。ポルトガル人を試作候補地に案内し、現地で地元の当事者に銃を実射してみせるのだ。汪直は自前の持ち船を用い、かれらを案内した。自らポルトガル語の通訳を兼ねる。日本語は漢文による筆談で足りる。

 このころ汪直は福江の領主宇久うく盛定の知遇を得て、長崎五島の福江に拠点を置き、五峰ごほう船主と呼ばれていた。五峰とは、五島に由来する号だ。

 最終的に鉄砲の製造基地が種子島たねがしまに決まったのは、初の南洋行から三年後、天文十二年(一五四三)のことだ。誘致を決断した島主の種子島時尭ときたか、ときに十六歳。「鉄砲伝来」の歴史に名を留めることになる。日本初の鉄砲鍛冶の栄誉を担うのは八板金兵衛、四十二歳。「関の孫六」で知られる美濃の関出身の刀鍛冶だ。まさに脂の乗り切った「たくみ」、あるいは業師わざしといっていい。試行錯誤の末、早くも一、二年後には数十丁の鉄砲国産化に成功する。

 余話がある。その後の量産基地は、種子島のほか堺(和泉)・国友(長浜)・根来ねごろ(紀州)などに置かれる。圧倒的需要が生産地を拡大し、品質とコストを競わせたのだ。鉄砲伝来から三十年、室町幕府が滅び、日本は織田信長のもと統一にむかう。このころまでに国産の鉄砲は、都合二十万丁に達したという。本場のポルトガルですら思ってもみない、奇跡的な数量といっていい。

「汪直よ、おぬしは弾薬を扱うのだ。日本で産出する銀と交換に、弾丸と火薬を商うのだ」

 消耗品の弾薬がなければ、鉄砲は鉄の管でしかない。ポルトガル商人の弾薬を仲買する一方、銃の量産に合わせ、自ら鉛の弾丸を鋳造し、中国の硝石を日本の硫黄・木炭と調合して黒色火薬を作った。鉄砲を購入した守護大名はあらそって買ったから、消耗品は継続して商売になる。周防の大内義隆、豊後の大友宗麟、薩摩の島津貴久などの有力大名が得意先となり、汪直は武器以外の商売にも手を広げることができた。

余香斎の口利きが背景にあることはいうまでもない。

 さらに余香斎の指摘のとおり、明国では税の銀納化が進んでおり、密貿易でも日本の銀は歓迎された。日本は銅銭が通貨だったから、日明間で銀の交換価値に差があったのだ。銀を扱うことで、逆に大きな為替差益が生まれた。


 のちに海商として独り立ちした汪直が、余香斎にことの真相を糾したことがある。

「鉄砲伝来とはいうが、そのまえから火縄銃は南蛮人や倭寇が日本へ持ち込んでいた。ただ、注目する人は少なかった。ところが種子島で試作に成功し量産の目途が立つと、にわかに注目されだした。これは御師、あなたがはじめから仕掛けたことではなかったのか。だとすれば鉄砲伝来の立役者はあなただ。わたしは御師の指示で動いたにすぎない」

 これにたいし、余香斎はきっぱりと否定した。

「なにをいうか。倭寇王汪直の汚名は返上しても、種子島の鉄砲伝来に明の儒生五峰の名は永久に残すべきだ。おぬしはおのれの意志で動き、鉄砲の伝来と大量生産で、日本に貢献した。わしはあくまで裏の介在でしかない。陰流は義弟の小七郎、愛洲元香斎げんこうさい宗通が継ぎ、わしは身を引いた。いまのわしは、伊勢水軍の影の総帥として影働きに徹している。陰流とは、暗に忍びを意味する。ただし忍びといっても他意はない。諸国を巡り、ひそかに世情を探るのが忍びの仕事だ。伊勢神宮のために陰で奔走し、成果はすべて神宮に収める。わしに名はいらぬ」

 余香斎の役割は、東シナ海を回遊する伊勢水軍の警固衆百人たらずを指揮する管理官に相当する。鉄砲伝来に例えると量産化情報が最大の機密で、陰流宗家を通じて伊勢神宮に報告すれば一件落着となる。情報をどう扱うかは、関与しない。同じ流れの柳生新陰流も、のちに「陰」を踏襲し、徳川幕府の隠密方として動くことになる。

 一方、軍事情報を入手した神宮は朝廷に建策し、要路を通じて堺の商人に流す。世は戦国、帰趨はまだ見えない。万遍なく対応しておくにくはない。堺の商人がその役目を担った。軍事情報の需要者は天下の覇権を狙う守護大名だ。乱世の収束、和平の招来こそが、伊勢神宮の最終目的だ。もはや天下一統は、近代兵器の用い方如何にかかっている。

 汪直は、日本では五島と平戸を拠点とした。中国では双嶼港を根城とする許棟きょとう集団に属し、日明貿易に専念した。双嶼港は寧波から外海にかけて千をこえる小島が群がる舟山しゅうざん列島のひとつ六横島りくおうとうの港だ。このころ双嶼港の元締めは李光頭りこうとうで、許棟がそれに次いでいた。

 許棟は同郷という以上に、汪直の侠気おとこぎと実直さを買っており、儒学の素養もあるが計数に明るいところから許棟集団の司出納しすいとう(財務方)を任せていた。汪直は博多・平戸の商人らと交流を深め、かれらを双嶼港に誘い、中国の私商や南蛮に通じる通番商との仲立ちをした。ポルトガル商人の信頼も篤く、多くのポルトガル船を五島・平戸・双嶼へ誘致した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る