倭寇外伝「影流、海をわたる」

ははそ しげき

一、影流之目録

 

 みんの嘉靖四十年(一五六一)は、辛酉しんゆうの年である。

 倭寇わこう王と呼ばれた汪直おうちょくが、浙江総督胡宗憲こそうけんの誘いに応じて投降し、処刑されて二年たつ。

 統率者たばねを殺された密貿易武装集団は糸の切れた凧のように迷走し、大明国の東部沿岸各地を荒しまわった。報復との風聞もある。朝廷は躍起になって海賊退治に奔走した。

 そんなさなか討伐軍の参将戚継光せきけいこうは、浙江せっこうの陣上で日本兵法の伝書『影流かげりゅう之目録』を入手した。

 影流は陰流とみてよい。念流・神道流とともに日本の兵法三大源流のひとつである。

 目録とは、流派によってさまざまなのでいちがいにはいえないが、いわゆる免許状のことで、切紙・目録・免許・印可・皆伝など位階によって呼称を異にする。伝授し終わった太刀名と若干の解説が記される。図示されるものもある。最高位階は奥義であり、極意ともいう。ここまで到達すると秘伝・口伝がふつうだから、文書には残らない。

 戚継光は『影流之目録』を手にし、なかを開き、しばし凝視した。漢字仮名まじりの草書体だが、太刀名とおぼしき「猿飛」「猿回」「山陰」などは読み取れる。刀を構える演武者が図に描かれているから、刀法のあらましは察知できる。

「まちがいない」

 繰り返し目を通した戚継光は、真正の目録と判断し、ほっとため息をついた。

『影流之目録』をそれと確信できたのは、かねてより日本の兵法に強い関心をもっていたからだ。影流とは、かつて七十八年まえ、流儀の開祖愛洲あいす移香斎いこうさい久忠が明都北京の紫禁城で、近衛兵である「御林軍ぎょりんぐん」に伝授した日本の刀法だということを、かれは知っていた。憲宗成化帝ご上覧の流儀なら、私家軍団の戦闘技法として導入するのにはばかるいわれはない。倭寇相手に好戦したとはいえ、戚継光は日本の侍と日本刀の底知れぬ威力に、手を焼いていた。

 日本の侍は、胡蝶が舞うように転々と軽快に移動する。ましらのように一丈あまり(三メートル余)も跳躍し、光が閃くようにまっすぐ突いてくる。五尺(一・五メートル余)の長刀を構え、一丈五尺(五メートル弱)離れていても果敢に攻撃してくる。動きの変化が激しく、剣でも槍でも明兵は、防禦するだけで手一杯だ。片刃の日本刀は鋭利であり、両手で振るから斬り筋が正確で力強い。両刃もろはの剣で対抗する明兵の腕を斬り落とし、ときに兜ごと将官の首を刎ね飛ばす。侍が裂帛の気合とともに長刀を振り下ろすと、哀れな犠牲者は頭から二つに割られ、血潮を吹いて絶命する。だから明兵は侍の姿を見ると身がすくみ、腰がひける。武科挙で登用された戚継光は、自らも武芸をたしなむ。戚家軍せきかぐんと呼ばれる三千人の私家軍団を持ち、兵士にも日ごろの鍛錬を怠らない。それでいて、この体たらくだ。

 ――神業かみわざのごとき日本の兵法に学んで戚家軍を鍛え直し、倭寇を撲滅するのだ。いまこそ夷をもって夷を制する千載一遇の機会ではないか。

 おのが思念を見定めた戚継光は、立ち上がって周囲に呼ばわった。

「この兵法目録、いかにして得たるや」

 間髪を入れず側近の兵が、明確に呼応する。

「倭寇の投降兵が身に着けておりました。ぜひ戚将軍にお渡し願いたいとの由にて――」

「そのものをこれへ」

 戚継光のまえへ引き出された初老の男は、悪びれる様子もなく、姿勢を正して、虚空をにらんでいる。いかにも日本の侍を彷彿とさせる顔つき、身のこなしである。敵とはいえ、ひとかどの武人に相違ない。興味を抱いた戚継光は、単刀直入に糾した。

「その方、倭寇なるか」

 男は静かに首をよこに振って、否認の意思表示をした。

「ならば、この目録にある刀法を、わが戚家軍兵士にも伝授できようか」

「わしにとってはやすきこと」

 男は流暢な現地語で応えた。

「ことばができるのか」

「わしは北京で生まれ、十二の歳まで北京で育った。日本へ行ったのちも武術修行のかたわら軍船や商船に乗って江東や江南へは絶えず往来していたから、このあたりはわが中庭のようなものだ。ことばに不自由はない」

 江東は長江下流域、三国の呉の旧領だ。江南は長江の南、江蘇・安徽あんき南部・浙北をさす。

「ご尊名をお聞きしたい」

 意外な展開に、三十四歳の戚継光は口調をあらためた。歳からいえば、じぶんの倍ほどもあろう。長上の礼をとったのだ。

愛洲あいす余香斎よこうさい和通ともうす。愛洲移香斎はわが父である。わしは伊勢水軍の警固けごしゅうをもって任じている。その目録は影流宗家移香斎より賜りしもの」


 伊勢水軍は、平安時代の海賊に起源を発する。陸の悪党が領地を固め、戦国大名にのしあがってゆくのと同様、海賊もまた徒党を組んで集団化し、警固衆や海賊衆と呼ばれて怖れられた。川や海の一定の流域を占領し、航行する船舶の安全管理を名目に私的な海上せきを設け、帆別銭ほべつせんなる通行料を強要するのだ。支払いに同意すれば水先案内となって、他の海賊から積荷と船客を守る。不同意ならば自らが海賊となって、法外な通行料を強奪する。

 もっとも伊勢水軍は、海路訪れる神宮参拝者の案内警護という誇らしい神事の一端を担っていた。周知のとおり伊勢神宮には、国家鎮護の最高神「天照大御神」が祀られてある。

 平安末期、西行法師は伊勢神宮の信仰意義を、和歌に託して詠じてくれている。


  なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなきに 涙こぼれる


 ちなみに伊勢愛洲氏は南北朝のおり、南朝の隠れた勤皇家で知られ、一族の男子はみな水軍の警固衆に身を投じる習いだった。ただの荒くれではない。さらに数十年来、室町幕府の遣明船の運航にかかわっており、移香斎も警固衆として遣明船に乗り組んでいたのだ。

 応仁元年(一四六七)に勃発した応仁の乱は十一年続き、やがて幕府の権威は失墜し、日本は下克上(下のものが上のものをしのぎ倒す)と呼ばれる戦国時代に突入していた。

 鎧兜で馬上弓を射る騎馬武者の一騎打ちから、敵味方入り乱れる白兵戦のなかで刀や槍を手に、複数相手の接近戦を制して生き残りを賭ける時代へと、戦の仕方も大きく変わっていた。

 兵法が生まれた由縁がここにある。そして兵法者愛洲移香斎は明の成化十九年(一四八三)十二月、第二期六次の遣明船で堺を出航、寧波ニンポーを経て、翌年十一月北京に入り、御林軍に影流を伝授している。移香斎が帰国したのは成化二十二年七月四日だから、北京の滞在は実質一年半に満たない。しかしこの時期、紛れもなく日本の刀法は大明国近衛軍の精鋭に伝えられ、片刃の日本式長刀が中国軍隊に導入される端緒となっていたのだ。


「その日本水軍の警固衆ばらが、なにゆえわが明国の海禁の掟に背き、倭寇となって寧波の港に潜みおるや」

 いわゆる倭寇の跳梁はふたつの時期に分けられる。十四―十五世紀の朝鮮半島から中国沿海に出没した元末明初の時期と、十六世紀の東アジア全海域を荒らし回った時期のふたつだ。そのうち汪直と海禁に代表されるのは、十六世紀の倭寇にほかならない。

 海禁とは「下海通番の禁」をいう。交易は朝貢貿易のみを認め、民間の通番―海外活動を禁じたのだ。朝貢船以外の外国船の入港も禁じている。国内同士の海上取引すら認めなかったから浙江・福建・広東など東部沿岸各地で違反者が続出した。海に頼って生活する沿海の漁民や商人が、舟でひそかに海に出て交易し、ときに海賊行為に及んだのだ。

「これはしたり。もともと海に仕切りはない。わが大八洲おおやしま同胞はらからは、いにしえより海人かいじんとして東シナ海を自由に闊歩しておった。貴国が勝手に禁制をしくなら、われらもまた勝手に往来するのみ。武力でこれを禁圧するなら、われらもまた武器を持って対抗するまでのこと」

 戚継光の訊問にたいし愛洲余香斎と名乗った男は、余裕をもってやり返した。

「ところでわれらをして倭寇と称されるは、はなはだ迷惑である。先ほどもわしにたいし倭寇かと訊ねられたが、もともと倭寇とは日本が他国にあだなすこと、日本人の海賊行為をいう。考えてもみられよ。当節、十の倭寇に日本人は二、三もいない。貴国明人の寇賊に、多少の日本人が加わっているにすぎぬ。これを称して倭寇とは、片腹痛い」

「おぬし、なにがいいたい」

 男の抗議は真を突いている。さては、なにかしらの意図をもって投降を装ったか。

戚継光は慎重に問い直した。余香斎も相手の人物を推し量りながら、存念を語った。

「じつは願いが三つほどある。先年、処刑された汪直にいささかゆかりがあるのだが、できれば彼奴きゃつの思いをかなえてやりたい。倭寇発生の根源たる海禁の縛りを、すべて解かぬまでも多少は緩和して、民間の交易を認めてやってもらいたい」

 倭寇とおぼしき男が、ご定法に異を唱えている。無視してとうぜんだったが、戚継光はそうしなかった。余香斎の主張に一脈通じるところがあったからだ。

「かの汪直をご存知か。汪直の件については、当初の約定をたがえて刑に処したること、わしとて遺憾に思っている。ただことが朝議で決せられた以上、なんともなしようがない。浙江総督胡宗憲どのにして叶わなかった。わしのごとき若輩の武辺者にできる手立てはない」

「いますぐにとはいわぬ。倭寇がついえ、治安が回復しさえすれば、おのずと道は開けよう」

「いったい、いかにして」

「されば辛酉の刀法をもって、このわしがける」

 余香斎がはなからそのつもりであったと知り、戚継光は膝を打った。

「影流刀法をご伝授いただけるなら、当方に異存はない。お受けしたい。で、二つめは――」

「わしもかつてそうであったが、警固衆たるわが影流の一門が、あまたの民間交易船に乗り組んでいる。交易船が倭寇に変身するまえに、通告して下船させたい」

 倭寇の武力の多くは警固衆の侍に負うている。かれらが抜ければ力は半減する。

「願ってもないこと。承知した。して、三つめは――」

「下船した侍を、戚家軍の教練として任用してもらいたい。人数にして、ほぼ三十人」

 こともあろうにきのうまでの倭寇の尖兵を、倭寇討伐軍の武術教練コーチに据えようとの提案である。さすがの戚継光もあきれたが、いまはなににもまして戚家軍の強化が優先する。

「よかろう。すべてご貴殿に一任する。このうえは戚家軍を最強の軍団に育てて欲しい」

「軍団を調練し、三年で悪質な海賊を根絶やしにするから、そのころまでに海禁を緩和し、民間の海上交易を認めてもらえばよい。さすれば倭寇は二度と現れない」

 いかなる算段によるものか、余香斎は力強く断言した。

「さしあたり、武器弾薬、馬匹兵糧をいそぎ調達されたい。武器は日本刀に火縄銃、各部隊の員数分揃える。とくに火薬の原料、硝石と硫黄はしっかりと押さえておく」

 はやくも戚継光陣営の輜重兵から悲鳴が上がった。

「すべてご禁制の品ばかりではないか。密貿易者を相手に戦っているいま、どこから、どうやって調達するのだ。われらに密輸をせよというか」

「そのことよ。汪直ならば、二つ返事で引き受ける。北虜南倭のいま、国の大事に待ったはない。知恵を絞って探しだせ。日本刀は過去、なん十万本も輸入されている。火縄銃も仏郎機フランキ(ポルトガル人)を使えばマカオから国内調達できる。火薬はもともと中国が発明した代物だ。千年まえから存在している。道はある。おのれが汪直となって汗を流すのだ」

 余香斎は大方の調達ルートに通暁していたが、みずから動いたのでは教育にならない。反発覚悟で叱咤し、あえてうそぶいてみせた。まず全軍に危機意識をもたせることが先決だ。

 ――もと警固衆だった影流の達者三十人が、総がかりとなって影流刀法を戚家軍に伝授し、倭寇を撲滅する。

 余香斎はいま、戚家軍にじぶんのもてるすべてをつぎ込む覚悟でいた。

 かつて、手ずから汪直を育てたように――。

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