第8話 新しい夢プロジェクト

 高見沢と奈美は切腹したクローン、信長を本能寺の地下道に埋め戻した。そしてその後、幾ばくかの月日が流れた。

 サラリーマンの高見沢一郎は普段の生活に戻る。とは言うものの、株価の方は未だ将来への明るさが見えず、ますますの落ち込み状況が続いている。

 日本の株式市場は完璧な連続悲観相場なのだ。死に体状態で、そこからの脱出の兆候が全く現れ出てこない。


 そんな希望が持てないある日、高見沢はオフィスのパソコンの前に座って、ぼんやりと考えている。そして、あれやこれやの無価値な思考の果てに、溜息まじりの暗い独り言。

「あ~あ、もうどうしょうもないなあ」

 さらに呟きは続く。

「さっぱり景気が良くならない、このドン底、いつまで続くのかなあ。これこそ人類史上初めての究極連続悲観か。チャート的に言えば、今がまさに強気相場ブル・マーケットへの出発点であるべきなんだけどなあ。俺はそう信じたいよ」

 高見沢には明るさはない。中年男の悲哀を滲ませながら、どんどんとスパイラルに落ち込んで行く。そして最後に、やっぱり一番好きな株式格言を力弱く、呪文のように唱えるのだった。


【強気相場は悲観の中で生まれ、懐疑の中で育ち、楽観と共に成熟し、幸福のうちに消えて行く】


「強気相場は悲観の中で生まれるか。うーん、今がその時期なんだけどなあ」

 こんな高見沢の独り言を、部下の榊原さかきばらが横でじっと聞いていた。そして御丁寧にも、わざわざ高見沢にすり寄ってきて、耳元で囁く。

「高見沢さん、何をブツブツと愚痴ってはるのですか、知ってますよ、御不幸の理由を。株の調子がずっと悪くって、強気相場への見込みがつかないのでしょう、それって案外辛いっスよね。だけど原因は単純明快ですよ、日本に強いリーダーが現れないからです」

 部下の榊原は高見沢の不幸を確実に面白がってる。高見沢は鬱陶しいヤツだなあと思っていると、榊原は得意げな顔をして、さらに性懲りもなく囁く。

「だから、ちょっと希望が持てる耳よりな情報を、お教え致しましょうか?」

 高見沢は無愛想に、「何だよ、それ?」と返した。すると榊原は、生意気にもニタニタと笑いながら、どこかで聞いたような話しを切り出すのだ。


「新聞で読んだのですけど、どこかの証券会社が、この悲観相場からの脱出のためなんでしょうね、最後の賭けなんですよ、本能寺を掘り起こすんですって。わかります、これ? 織田信長ですよ、400年以上経って、信長さんに再登場してもらい、ニューリーダーとして活躍してもらうんですって、これ、どう思われます?」

 この話しを聞いて、高見沢の胸がドキドキと高鳴った。されど一見興味がない風を装って、「それは、良い考えだなあ」と軽く答え返す。しかし、榊原はまだまだ調子に乗ってくる。

「グッドアイディアですよね、これで株も暴騰間違いなし、バブルの再来ですよ、日本国中のみんながハッピーになりますよ。高見沢さんも希望を捨てずに、沸騰相場がやってくるまで、我慢強く生き延びて下さいよ」


 高見沢はこれをじっと堪えて聞いていた。そして、さすが百戦錬磨の高見沢一郎。ニヤッとニヒルに笑い、まるで達観しているかのように答える。

「日本変革のために織田信長ってか、なるほどねえ。案外人間て、不幸な時はみんなこんなこと考えるものなんだなあ。これぞ人間の|性《》さがか、ホント、悲しくもオモロイ習性だよなあ」

「左様でございますか。それで、高見沢さんの信長蘇生案への御意見は?」

 榊原が茶化すように訊いてきた。

「榊原なあ、織田信長はあと100年は静かに眠らせておいてやった方が良いと思うよ。理由はどうであれ、歴史の封印をそうむやみに開けたら駄目なんだよ。なぜなら、今の悲観相場からの脱出は、信長向きじゃない、ちょっとタイプが違ったんだよなあ。どちらかと言うと、秀吉君かな」

 高見沢は、目標が達成できなかった口惜しさが蘇ってきたのか、曖昧模糊あいまいもこな言い訳口調となってしまう。しかし、榊原は異常に耳が良い。


「えっ、確か今、信長はちょっとタイプが違ったっておっしゃいましたよね。それってどういう意味ですか? もう実行済みなんですか?」

 榊原が鋭く高見沢の秘密に立ち入ってきた。

「アホか! 単なる机上のシュミレーションじゃ。最近流行っている世直しゲームで遊んでいるだけだよ」

 高見沢はかろうじて榊原の突っ込みをかわした。

「そりゃそうですよね、本能寺を実際に掘り起こすなんて、とても個人ベースじゃできないっスよね。それにしても、高見沢さんて、塩漬け株ばっかりのくせに、ヤケに待ちの姿勢で、痩せ我慢張ってるんですね。それで満足なんですか?」

「満足もへったくりもあるか! 株価は市場が決めるもの、それに合わせて、ハラハラと生きてるだけだよ」


「だけど、今日は嬉しい新発見でした、信長より秀吉を選ぶなんて、高見沢さんて割に冷静に人選する人なんですね。先輩、申し訳けございませんでした、見直しました。これからは、その目で私を御評価頂いて、今度の昇格人事にぜひ推薦して下さい」

 榊原はまずは上司を持ち上げ、その後は自分を売り込んでくる。それでも高見沢は、こんな榊原とのアホな会話に刺激されたのか、30歳からの株式遊びで傷付いた心がまた疼き出す。そして、思わず「うーん」と呻き声を上げ、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」と声を落として、腹の底から絞り出すのだった。そしてその後は、我関せずという風に黙り込んでしまう。

 そんな時に、内ポケットのケイタイ電話がブルブルと震えた。高見沢はさっと席を外し、ケイタイを取る。


「もし、もーし」と、いつもの口調。

「高見沢さん? 私、奈美よ」

 久し振りに奈美から電話が掛かってきた。「どうしたの?」と軽く返す。

「高見沢さん、今度はね、戦国時代から明治維新へと飛びましょうよ、坂本龍馬はどうお? 梅椿図の掛け軸に、龍馬の血痕が残ってるんだって」

 高見沢は、奈美からのこんないきなりの話しに思考が付いて行かない。

「ど、どうしたんだよ、奈美ちゃん、俺、もうクローンは作らないよ。あとが辛いからね」

 しかし、これに奈美からの返事が返ってこないのだ。しばらくの沈黙が続いて行く。そしてその後に、奈美からじとっと湿った言葉が絞り出されてきた。


「高見沢さん、私、プロジェクトはもう何でも良いの、ただ高見沢さんと、ずっと何かで繋がっていたいだけなの。そうしないと、心の中は……、ずっと悲観なの」

 奈美が電話の向こうで、むせび泣いているのが伝わってくる。

 本能寺の地下道。そこには腹を切ったクローン、信長の遺体がゴロンと転がっていた。高見沢と奈美は、それを見ながら互いに原点回帰をしようと申し合わせたはず。

 しかし今、無性に恋しい。なぜあの時、もっと強く奈美を抱き締めてやれなかったのだろうか。

 奈美が電話の向こうから涙声で話す。

「ねえ高見沢さん、強気相場は悲観の中で生まれ、懐疑の中で育つ、そんな格言があるでしょ。その冒頭の強気相場を、愛に――、そう、愛と言う言葉に読み替えてみて」

 高見沢は奈美に請われるままに、置き替えてみる。

「愛は……悲観の中で生まれ、懐疑の中で育ち、楽観と共に成熟し、幸福のうちに消えて行く」


「私たちの愛は、悲観の中で生まれたところなのかもよ。だからこの後を続けて欲しいの」

 奈美はこんなことを話してきた。高見沢は、この奈美の「私たちの愛は、悲観の中で生まれたところなの」の言葉を咀嚼そしゃくし、じっと考え込んだ。そして、少し考えがまとまったのか、奈美に優しく話す。

「奈美ちゃん、俺たち、原点回帰しようって言ったろう。ひょっとすると、その原点回帰をする場所を間違ったのかも知れないよ」

「そしたら、その本当の原点回帰をしなければならなかった場所って、どこなの?」

 奈美が涙を言葉に滲ませながら直ぐに訊いてきた。


「織田信長株価上昇プロジェクト、それは、南禅寺の山門前から二人でタクシーに乗ったろう、そこから始まったんだよ。だから、きっとそこが、我々二人が戻るべき原点だったんだよ」

 奈美は、高見沢のこんな理屈っぽい話しをじっと聞いている。しかしその意味がよく飲み込めたのか、少し元気が戻る。そして声のトーンを上げて返してくる。

「高見沢さん、ありがとう。私たちの本当の原点回帰、そうねえ、私をもう一度、南禅寺の山門前からタクシーに乗せてちょうだい」

「それで、どこへ行きたいんだよ?」

 高見沢は、いつもの気っ風の良い奈美に戻ったのが嬉しい。


「そうねえ、この悲観ばっかりの状況を抜け出すためには、次のテーマとして、愛とロマンを追い掛けるしかないわよね。そうだわ、宇治橋で浮舟に会って、源氏物語の宇治十帖をテーマにしましょうよ」

 高見沢は、こんな奈美の我が儘に不満たらしく答える。

「えっ、宇治橋って、メッチャ遠いじゃん。そこへ行くのに南禅寺の山門前からタクシーに乗るの?」

 こんな男の躊躇に、奈美は有無を言わさぬ調子で訴える。

「そうよ、そこから私たちの未来に向けて、新しい夢浮橋プロジェクトを走らせましょうよ」

 それから奈美がぽつりぽつりと呟く。

「高見沢さんとそんなことをして、ハラハラと遊んでる時が……、私、一番幸せを感じるの」


 高見沢はこんな奈美の心の奥底に眠る言葉を聞いて、「プロジェクト『信長よ、蘇生せよ、この悲観の中に』、これがそのデスティニーだったのかなあ。あーあ、もう仕方ないよなあ」と諦めた。そして、精一杯の思いを込めて、奈美に囁き返すのだった。

「奈美ちゃんへの強い愛が、この株価凋落ちょうらくの悲観の中で生まれてしまったよ。ブル・マーケットの代わりにね」


                    おわり


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信長、蘇生せよ、この悲観の中に 鮎風遊 @yuuayukaze

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