第7話 原点回帰

 最近、高見沢も奈美もどうも元気がない。

 100億円の軍資金を発見したが、安土城から持ち帰ってくることが叶わなかった。そのためにプロジェクトへの資金の活用のしようがない。残念至極だ。

 しかし、今はそれにも増して、もっと大きな問題が二人を悩まし始めている。ここまで育ててきた信長がちょっとおかしい。もう扱い切れなくなってきた。織田信長の本来の性格が、ますます強く表れ出てきたのだ。


 すなわち本能寺の変後の400年の歴史とは違ったシナリオを、現在の世の中に、もう一度描き直そうとし始めている。

 それを言い換えれば、天下布武のやり直し。いや、正確には少し違うようだ。

 天下布武は元々暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和せしめ、財を豊かにするという「七徳の武」からきている。そんな崇高な理念にも関わらず、武力のみをもって、世の中を押さえ込もうとする作戦を組み始めている。


「信長よ、もうお前自身のその歪んだ天下布武の構想を捨てたらどうなんだ。今の世の中の平和を壊してまで進めることはないよ。お前に期待してることは、無血で日経平均3万円の達成、これで日本国を幸福にして欲しいだけなんだよ」

 高見沢がやんわりと注意してみると、信長は息巻く。

「何を言うぞ、高殿、知っておるじゃろ、民衆は勝手気ままで邪悪のものぞ。21世紀の世は被害者面した連中が一杯溢れておる。言いたい放題のやりたい放題、そんな姑息で性根の腐った輩をコントロールするのは、武力が一番ぞ。そのためには拙者が武力革命を起こし、国王になること、それしかないぞ」

 高見沢が「まあまあまあ」となだめてみても、信長はそれを無視して弁じ続ける。


「高殿と奈美姫の目標の日経平均3万円なんぞは、一発で達成してみせようぞ。あの蛇石の金塊資金は拙者のもの、心配いらぬ、拙者が好きなように使う」

「信長なあ、そこまで過激にならなくてもいいんじゃないか。例えば、楽市楽座を現代版に進化させて、消費税のかからないフリーマーケットを全国展開するとか。そのような施策で経済の活性化をはかって行く。もうちょっと平和的なやり方があるだろうが」

「黙らっしゃい! 400年経って、今からでも遅くはない、本能寺の変からのやり直しじゃ。この日本の国盗りゲーム、抵抗勢力の者どもを武力で徹底的に壊滅させる。そして最後の勝者は拙者、織田信長となる」


 サディズムの極みを、また標榜しようとするクローンの織田信長。もう高見沢の手には負えなくなってきた。そんな時に、奈美が心配顔で相談を持ち掛けてきた。

「ねえ高見沢さん、最近信長君って病的よ、天魔がのりうつったみたい。どこまでも暴力的破壊行為が好きなようだわ。そうかと思うと、ふうっと少年のような目をして遠い空を見つめているのよ。これって、病んでいるのよ、ちょっと危険だと思わない?」

 高見沢も同じようなことを感じているのか、「その通りだなあ、危ないかもな」と返した。奈美はそんな高見沢の同意を確認し、提案してくる。

「高見沢さん、私たちの信長株価上昇プロジェクト、それを見直しする時期なのかもよ。今だったらまだそんなに大きな損失も被らないし……」

「その通りだなあ、安土城の軍資金も、俺たちの金にはならないみたいだし」

「そうよ、もうお金の問題を越えてるわ、信長君は本当に変わったわね。この間も天下布武で日本を変えるとネットで同志を募っていたわよ。それに最近南蛮渡来の鉄砲より強力な武器、無差別テロ爆弾に興味を持ち出してきているのよ」

 奈美は最近の信長の行動を思い浮かべ青ざめる。


「そうか、もう手が付けられないか」

 高見沢も困り果てた。

「ホント難儀なことになったわよね、このままじゃ日経平均3万円になる前に、私たちもテロ首謀者として逮捕されそうだわ」

 高見沢は「うーん」と脳細胞を絞るが妙案が浮かばず、ただただ呟くだけ。

「明智光秀はたとえ朝廷、公家に乗せられたとしても、暴走する織田信長を食い止めようと本能寺の変を起こした。今となって初めて、その男の純な心情と勇気がわかるよなあ」

「高見沢さん、その通りだけど、感心している場合じゃないわよ」

「そうだね、さて問題は、具体的にどうするかだなあ」


 だが二人にはなかなか活路が見い出せない。そして、ほとほと困り果ててしまった。

 そんなある日、信長が忽然とマンションから姿を消してしまったのだ。

 高見沢と奈美は、もう何をしでかすかわからない、危なっかしい信長を血眼ちまなこになって捜し回った。しかし、音信不通の行方知れず。

「奈美ちゃん、めっちゃテンションの上がった信長のバカ、一体どこへ消えてしまったんだろうね。まさか誰かに暗殺されたんじゃないだろうなあ」

「高見沢さん、そう言えば思い出したわ、いつだったか信長君が、元本能寺の地下道にもう一度行ってみたいと話してたわよ。確か天下布武の金印が残っていて、それを取りに行きたいと漏らしていたような……」

 奈美はそんなことを蘇らせ、高見沢に告げた。そして、「どうしようか?」と高見沢に目を合わせてくる。

「へえそうなんだ、京を血で染めると彫ってある金印のことか、なるほどなあ。天下布武の実行のための象徴として、それが必要なのか。奈美ちゃん、すぐに地下道へ行ってみよう」


 こうして高見沢と奈美は、再び本能寺の地下道へともぐり込んで行った。そしてそこで二人が目にしたもの、それは心臓が飛び出すほどの驚愕。

 なんと信長が地下道で、金印をしっかり握り締めて、死んでいたのだ。

 しかも、腹を十字に切って。

 クローン、織田信長の見事な切腹だ。

 そして、その信長の横には、遺書が放り投げられてあった。高見沢と奈美は遺体に手を合わせ、驚きの中で遺書を開き、じっくりとそれを読む。


高殿と奈美姫へ

 其方達には世話になり申した。

 生者必滅でもあり、会者定離えしゃじょうり

 是非に及ばず。

 二度目の切腹を許せ。

 現世に蘇生してみたものの、

 我が天下布武は現代社会では成立致さぬと結論致した。

 すなわち、株式悲観相場の悲観より、

 もっと戦国乱世の世であらねば、その効力は生かされぬと。

 この地下で、ふたたび死して……、さらにその時を待つ。

              現代の世に蘇生した織田信長より


 高見沢と奈美の間に重い沈黙が流れる。そしてまずそれを破るのは奈美。

「高見沢さん、信長君って、さすが感性が研ぎ澄まされていたのね。だから自害を選んでしまったのだわ」

 奈美が意外にもさっぱりとした口調で感想を漏らした。高見沢はそれに対し、「うーん、日経平均3万円の達成のために、もうちょっと違った生き方もあったのになあ」と思いに耽る。そんな高見沢に、奈美が遺書をもう一度丁寧に読み直し、疑問をただしてくる。

「高見沢さん、これってどういうこと? 二度目の切腹って? 高見沢さんの説は、火薬が爆発して、信長君が不運にも地下道に埋もれてしまったという事故説だったわよねえ」

「うーん、そうだなあ、だけど真実は本人が語るように、400年前に地下道に閉じ込められてしまい、そしてそこで進退窮まり、一回目の切腹をしたのかもなあ」


 奈美はこんな高見沢のあやふやな話しに、「絶体絶命の窮地に追い込まれたことはわかるのだけど、信長君はどんな気持ちで一回目の自決を決断したのかしら?」と納得し切れない。高見沢はそれにもっともらしいことを口にする。

「今回と同様、未来を待つために腹を切ったんだよ」

 奈美はこんな会話で段々と感極まってきたのか、目が潤みだす。

「今回は二回目の切腹なのね、クローン、信長君に、辛い選択を強いてしまったんじゃないかって私思うの、悲しいわ。今の時代に無理矢理誕生させてしまったのは私たち二人よ。信長君ゴメンなさいね、きっと君の野望は大き過ぎたのだわ、だから再び骨となり、時空を越えて時を待つ、今回もそんな決心をしたのね、勇気ある決断だわ。これぞ男の美学だね」

 高見沢は奈美の感動した言葉に心が揺らいだ。そして思うところをそのまま口にしてしまう。

「へえ、奈美ちゃん、男の美学ってスゴイこと仰るよな。だけど、なんで切腹することが男の美学なんだよ、俺にはそんな美学なんか理解できないぜ。人生恥じてもシブトク生きる、その方がずっと勇ましいと思うよ」


 一方奈美は、クローンとは言え信長の偉大なる自決を前にして頭が冴え、感性がより過敏になってる。

「そうね、平成のオッチャン・サラリーマンには、こんな美しいことはまったく理解できないでしょうね。高見沢さん、それにシブトク生きるって言ったでしょ、それはどちらかと言うと、女の美学よ」

 高見沢はそんな女の勢いに押されて、大きく頷かざるを得ない。

「なるほど、シブトイのは女の美学か。そうだなあ、戦国の世の女性たち、お市の方におねとまつ、皆さんシブトく生きたよなあ。あの北の庄落城の時に、茶々17歳、お初15歳、お江11歳の浅井三姉妹が燃える城から逃れ出て来た。そしてその後、どれだけシブトく生き抜いたことか、うーん、完全に納得!」

 こんな高見沢の同調に、奈美が気を良くすると思いきや、今度はただ一点を見据えて、何かを決心したかのように言い切る。


「だけどホント辛いわ。されどこのプロジェクト、日経平均3万円になる前に、日本が戦国の世に逆戻りしてしまったら、私たち一体何をしてきたのかわからないしね。そうね、この信長君の二度目の切腹、あまり深刻に考えずに、さらっと受け流すことにしましょう、単に機が熟していなかっただけだったのよ」

 この女は一体何を考え生きてきたのだろうか。悲しんでいるかと思ったら、いきなり冷徹なことを言う。奈美は、こんな場面の中で、「さらっと受け流すことにしましょう、単に機が熟していなかっただけ」と大胆なことを言ってのけた。

 高見沢はその心の変貌ぶりに度肝を抜かれた。そして、そんな驚きの感情を、どう相手に伝えたら良いものかわからず回りくどく言ってしまう。

「えっ奈美ちゃん、さらっと受け流すって? やっぱり相当なオナゴハンだよ、考え方が根っ子からシブトイよ」


 奈美がそれをまたしっかり受け止めて、だが表情は痛々しく、厳しく質問してくる。

「さらっと受け流す以外に、この事態を抜け出すベストな方法はあるの?」

 シャープな言い方だ。

 ベストの方策なんかあるわけがない。だからこの場合は、ベターの選択となる。そんなことはわかっている。

 高見沢は、奈美のそんなわかり切った詰問に反発を試みたい衝動に駆られる。しかし一方で、奈美の「さらっと受け流す」という言葉に若干の安堵感さえ覚えるのだった。

「そうだなあ奈美ちゃん、俺たち、クローンを造った責任はあるかも知れないけれど、今の悲観相場程度では、まだまだ戦国の覇者、親方様の出番ではなかったということかなあ。うーん、仕方がなかったよなあ」

 高見沢は、まるで奈美にマインドコントロールされてしまったかのように、歯切れの悪いこんな応答しかできない。そしてそこに脱力感が漂う。しかし女の気持ちは複雑で、男には到底読み切れない。


 奈美の機嫌が急に悪くなる。そんな曖昧あいまいなことしか言わない高見沢、そう、きっちりと自己の思いを主張できない男に、奈美は苛立ってる。そして女はこれでもかと再び男に挑む。つまり男の気持ちに、勝手に補正を掛けるのだ。

「高見沢さん、アンタ本当に気楽ね。アンタが秘密裏に信長君を誕生させたのよ、罪の意識はないの?」

 男、高見沢も、ここまで女に絡まれてしまえば、ムキにならざるを得ない。

「そりゃあ、俺も人の子、罪の意識、もちろんあるよ。でもねえ、サディズムの行き着く果て、世間一般では、それは切腹だよ。そうだろ、自己責任で腹をかっ切ったんだぜ、これはどうしようもないよ。俺の罪の意識以前の問題だよ」

 高見沢はこう突っぱねた。しかし、奈美は許さない。


「そう、そうなのね、高見沢さんてもうちょっと人間らしい人かと思ってたわ、残念ね。アンタはやっぱり……、サイテイのカスだわ」

 高見沢はここまで言われると、もう真剣に反撃せざるを得ない。

「ところで、そういう奈美ちゃんは、罪の意識なるものはあるのか?」

 高見沢と奈美が向き合う。横には、腹から思いっ切り血が噴き出した信長の遺体がある。目を伏せたくなるようなスゴイ事実が、そこにはある。


 しかし今は、そんな出来事を少し棚上げし、もっと生身の男と女の激しい会話が続いて行く。

「もちろんよ、罪の意識もあるし、深い深い反省もあるわよ。それに比べ、高見沢さんは何の反省もしていないんでしょ」

 女は間髪入れずに返してきた。男は女のリズムに乗せられて、余計にムカッとなって言ってしまう。

「何を言ってんだよ、メッチャ反省してるよ、反省し過ぎだよ。ああ、ビジネスとしてね」

 不思議なものだ。男は興奮すると、時にポロッとホンネを吐いてしまう。そして自ら墓穴を掘る。女はそこをまた容赦なく攻めてくる。

「そうなの、単にビジネスなのね。ということは、人間としての反省はしていないということなのよ。アンタが造ったクローンが切腹したのよ、人として恥じなさいよ。それにしても、最近責任を感じないこんなオヤジが増えてきたのよね、嘆かわしいわ」


 苛立っているのか、女の言いたい放題だ。女の言葉はいつも鋭利に男の心臓をえぐって行く。高見沢はさらにカッカと頭に血が上り、爆発寸前。だが次の反撃の言葉が出てこない。そして、やっとのことで口にする。

「嘆かわしいのは、アホほどシブトイお姉さま方も一緒だよ」

 ここまで反論するのが精一杯。しかしそれと同時に、長年の学習効果からか、奈美のこの苛立ちはきっと心の奥底にあるだろう。そう、こんな残酷な場面ではもっといたわって欲しいという女の気持ちからきているのだろうと感じ取った。そして高見沢は、ここは心を落ち着かせるべきだと思い直した。


 確かに高見沢も無念で同様に苛立っている。しかし、今はそんな感情を抑え、男として、奈美に優しく応えてやらなければならないと思い至る。しばらくの二人の沈黙の後、高見沢は声を和らげて話し掛ける。

「奈美ちゃん、俺、少し言い過ぎたよな。ゴメン」

 一方奈美の方も、中年男を窮地に追い込んでみたものの、「私たち、どっちもどっちだわ」と思い直し、自己制御しようとしている。これ以上の傷付け合いの口論は不毛だと、気が巡ったのだろう。

「ありがとう、わかったわ。それで高見沢さん、具体的にこれからどうしたら良いと思うの?」

 さすが奈美、大人の女性なのか口調を変えてきた。


「うーん、信長の死の現実がそこにある。しかし日経平均3万円の達成に向けて、俺たち頑張ってきたよね」

「そうね、二人でホント頑張ってきたわ」

 奈美の言葉に暗さがある。これはきっと、高見沢も奈美も、何か終わりに近いものを感じ出しているのだろう。高見沢は、遂に口火を切らなければならない時が来たと覚悟を決める。そして、戸惑いを隠しながら思い切って言う。

「俺たちは織田信長と、そして本能寺の変のすべてを知ってしまった。だけど結論は、悔しいけれど御破算。すべてに封印をしよう」

 奈美は、高見沢から発せられたこの「すべてに封印をしよう」という重い決意を聞いてうなだれる。そして、しばらくしてやっと顔を上げ、特に驚いた表情も見せずに大きく頷く。


「そうね高見沢さん、本当に口惜しいけれど、私もこの信長君の二度目の壮絶な切腹に敬意を表し、本能寺の変の、この明かされてしまった真実を、このまま封印してしまうことに賛成するわ」

 事ここに至るまでの二人の努力。それは艱難辛苦かんなんしんくとまでは行かなくとも、相当に苦労な活動だったとも言える。そして今、その結果として、切腹を断行した信長の遺体が横に転がっている。

 二人はまた沈黙に陥ってしまった。しばらくの時が流れ、奈美が言葉を選ぶように言う。

「ねえ、次の行動は?」

 奈美が遂に核心を突いてきた。


 封印することには何の反対もない。しかし具体的にどう次の行動を取るべきなのか、そのアイディアを奈美は持たない。

 二人の身の上に起こったこの天変地異なみの出来事。壮絶なこの混乱の中で、どう結末を付けて行くべきなのだろうか。その現実的なアイディアが浮かばない。

 奈美は、ここは高見沢自らが案を出し、そして結論を出すべきだと思っている。

「どう封印するのか、具体策はあるの?」

 奈美が再度訊いた。高見沢にとって、奈美は一蓮托生でプロジェクトを推し進めてきた大事なパートナー。高見沢はしっかりと奈美を見つめ、できるだけ穏やかに話す。


「奈美ちゃん、そうだなあ、この地下道をもう一度崩して、信長の遺体を埋め戻してしまおう。何もかも元に戻す――。そう、その原点回帰をしよう、それが一番良いと思うよ」

 奈美はこれを聞いて、なぜか言葉を失ったようにじっと黙り込む。

 気性の激しい奈美からの反応がない。静寂がコツコツと時を刻む。1分、2分、3分と静けさが流れて行く。そしてまだ迷いが残るような声で、奈美が呟き返す。

「そうね、何もかも元に戻す、原点回帰ね。それって、すべてなのね。高見沢さんは、そんな原点回帰をしたいのね」


 地下道のこの静寂の中で、愁いのある女の声が響く。しかし言葉は途切れ、それはあとへとは続いて行かない。

 そして奈美は、最後に心の呻きを絞り出すかのように、一言だけ付け加える。

「私たちも……、なのね」


 奈美の目からは大粒の涙が零れる。

 地下道の暗闇を照らす僅かな光。それが一粒一粒の涙に吸収され、キラリキラリと輝く。そして信長の遺体の上に、パラパラと落ちる。

「俺たちもだよ」

 高見沢は一言だけを返した。


 奈美はこんなシーンを最初から予感していたのかも知れない。そして、こんな結末への不安が、奈美をずっと苛立たせていた原因だったのかも知れない。

 しかし女は、今異常に美しい。


 凛とした奈美の立ち姿。そこには溢れる涙はあるが、強さだけは壊さまいと奈美の背筋が伸びる。

 いとし過ぎる。

 高見沢は奈美をそっと抱き締める。

「原点回帰をしよう」

 高見沢は再びそう告げた。そして、女はもう一度小さく呟き返す。

「私たちの、お互いの想いもなのね」


 この原点回帰とお互いの想いも、これら二つの言葉はあまりにも重く、そして辛過ぎる。

 高見沢の腕の中で、今あの強がりの奈美が肩を振るわせて泣いている。

 奈美は、もしかしたらこのプロジェクトを通して、日経平均3万円ではなく、何かもっと女の幸せらしきものを探し求めてきていたのかも知れない。

 それは多分、生涯果て行くまでの尽きぬ愛なのだろうか。

 いや違う。それはきっと、男と女の愛の果てにある永遠の安らぎなのだろう。


 だが高見沢はわかっている。もうどれだけ頑張っても、まだまだ未来のある若い奈美が欲している幸せ、それは結局与えられないだろうと。

 もうこれ以上奈美との間に、男と女の何かが起これば、お互いにもっと傷付く。そんなことを思いながら、ただじっと奈美の心が静まるのを待っている。

 一方奈美は、今高見沢がなぜもっと強く抱き締めてくれないのか、儚くもわかっている。


 男と女。越えてしまえばもっと辛くなる。大人の二人には、それが怖い。

 しかし、高見沢も奈美も揺れている。踏み出そうか、留まろうか。どちらを選択しようかと。

 ここは人生の岐路。左か右か?

 選んだ瞬間に、これからの二人を決める。


「大丈夫か?」

 高見沢はこんなシリアスな場面の中で、思わず奈美に訊いてしまった。奈美が大丈夫なわけがない。

 高見沢は、なんとつまらないことを訊いてしまったのかと後悔する。しかし、奈美は涙を拭いて軽く答える。

「うん、もう大丈夫よ」

 奈美はこの瞬間に結論を出してしまったようだ。二人とも人生経験は、それはそれなりに積んできた。


 この男と女には、今日に至るまでのそれぞれの人生があった。そして過去に一杯の傷も負ってきた。

 今の二人が大事と信じさえすれば、過去が捨てられる。もっと違った人生の結末を求めて、共に生きて行けるはず。

 しかしこの二人は、原点回帰を選んでしまった。それは人間が心の迷路に迷い込んでしまった時、原点回帰が一番良いと、二人には知恵が付き過ぎてしまっていたからだろうか。

 後悔はあるかも知れない。しかし、男と女の大人の合意。実にお見事だ。


「私も、それが最善だと思うわ。私たちの本能寺の変、すべてに封印して、私たちも原点回帰しましょう」

 高見沢は「そうだね」と奈美に答える。だが、奈美の温もりが胸の中にほのかに残り、後ろ髪を引かれる。

 しかし、奈美はもう決めてしまっている。女が一旦決心してしまったその後は、その整理が実に速い。そのためか、今はどんどんとそのプロセスへと気持ちを切り換え始めている。


「ねえ高見沢さん、何年後かに、本能寺の地下道を発掘したいという不埒ふらちなオッサンが、また現れるかもよ」

 奈美は湿った心をきっぱりと吹っ切るためなのか、会話がいつものように冗談ぽくなってきた。そして、男はいつまでも未練がましい。高見沢はそれを見せまいと直ぐに応える。

「何年か後に、またアホなヤツが出て来て、掘り起こすかもなあ。そうしたら奈美ちゃん大変だぞ、21世紀のクローン、織田信長が発掘されるのだからなあ。ホント奇妙なことになるだろうなあ」

 奈美には元気が戻ってきた。そして言う。

「まっ、いいんじゃない、もう私たちには関係ないことだものね」


 女が関係ないと口にする時、すべてがその時に終わったことを意味する。そして男は、それに無抵抗に同調してしまうのが常。

「そうだよな、もう関係ないよな」

 さらに奈美は、「だけど骨の時代判定で、21世紀生存と鑑定結果が出たら、みんな慌てるでしょうね」と、自分の言葉に気分を乗せる。

 これに高見沢は、「ホントだなあ、後の処理をどうするか、それはその人に任せよう」と奈美の語りに合わせる。こうして二人とも、いつの間にか普段と変わらぬ無責任なことを言い出しているのだ。


 さらに奈美は、より決着を付けるように、「このプロジェクト、主役がいなくなってしまったわ、もう意味ないよね」と閉鎖を匂わせる。高見沢ももう幕引きすべきと思う。

「俺たちのこのプロジェクト、本日をもって終了ということだね」

「ちょっと寂しくなるわ、だけど仕方ないわね。もう終りにしましょう」

 奈美もあっさりとした口調。そして微笑み、「今日が織田信長の第二の命日になるのね。この記念となる日を忘れないわ」と告げてきた。


 女は記念日が好き。そしてそれを語る時、女は至極健全。当然男には、それを支える義務がある。

「信長の第二の命日か、そして今日が俺たちの新しい旅立ち、その記念日となるのかなあ。奈美ちゃん、俺忘れないよ」

 高見沢は特に奈美にお愛想をしたわけではない。だが、こんな気の利いたようなことを吐いてしまった。

「私たちの関係も晴れて原点回帰ね。日経平均は目標を達成することができなかったけど、このプロジェクトに誘ってもらって、一緒に走らせて、私、結構面白かったんだよ。高見沢さん、ありがとう」


 女は決心すれば実にシンプル。もう後悔はしていない。奇麗に終わらせてくれた高見沢に今は感謝さえしている。微笑む顔が柔らかい。高見沢も笑う。

「俺、奈美ちゃんをパートナーに選んで正解だったよなあ。相場遊び以上のハラハラとワクワク、そんなトキメキがあったからな。また機会あれば、もっと面白い別プロを二人で走らせようか。じゃ永遠のミ・アミーガ、そう、俺の女友達)、いいか奈美ちゃん、400年の歴史に封印して、非日常的夢プロジェクトに……、アディオス!」

 何もかもすべてのことは全く二人のマル秘事項。墓場まで持って行くことを誓い合った。

 そして、地下道をクローン、織田信長ごと崩し、埋め戻した。こうして高見沢と奈美は本能寺を後にした。


 現代のビジネス社会。そこは競争原理だけで動いてる。そんな世界で二人は生きている。

 世の中、日々激しく変化して行くが、もちろん二人はそんなスピードに慣れ親しんでしまっているのか、それに合わせての変わり身の速さだけは得意技化している。

 戦国信長株価上昇プロジェクト。日経平均3万円の達成は、クローン、信長の切腹で不可能だとあっさりと見限り、プロジェクトをさっさと閉めてしまった。

 これにより、戦国時代一番のミステリー、本能寺の変の真実は再び封印されてしまったのだった。


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