”悲劇の主人公”という唯一の地位をめぐる争い
キリストの行為。
彼が己の身を犠牲にして、罪なき人を救った行為は、この世の中において、一種の不均衡を作り出す英雄的行為といえる。悲劇の主人公の登場である。
だからこそ教義が生じる。イエスの犠牲と均衡するだけの信仰が、求められねばならないというのが、『自然な論理』として生じてくる。
だが、遠藤の『白い人』では、この英雄的行為を選ぶ友人を、主人公が虐待する場面が描かれる。
これはイエスに倣った英雄的行為の再現を、凡夫たる友人に許すまいとする行為なのか、それともその悲劇の完成に加担し、当事者の一人として参与することに倒錯的なの愉悦を感じての行為なのか、その判別がつかないまま、主人公は死を選ぶ。
どちらにせよ、彼にとってはどちらかだけ、ではあり得ないのが大きな問題なのではないだろうか?
前者であろうと後者であろうと、遺された彼が取るべき行為とは、無垢な友人に加えた虐待に見合う当然の死、それも凄惨な死以外にないのである。
マゾヒスト的英雄行為によって、悲劇の主人公として死す友人がいる。だが、その友人を加虐した主人公が、自身の死をもって何らかの均衡を求めようとするとき、ここにもう一人、悲劇の主人公が生じる。
他者の血を流すことで、自身の血を流すことまでを己に強いる悲劇の簒奪者。
彼はまず、他者に対してサディスティックに、そして終局、そのサディズムを自身の血で贖うことで、一連の血の惨劇を完結させてしまおうとするマゾヒストとして、昇華されるのである。
悲劇の完結という眺めを読者は手に入れるが、感慨として残るのはいったいどのような感情か。
美しい?
それは彼の行いの内容を超えたところに、透徹された信仰があるからか。ただ、この異様な充足感の理由を言葉で説明できないからこそ、『白い人』の魅力があるのかもしれない。
サディズムとマゾヒズムの関係性について、一考 ミーシャ @rus
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