サディズムとマゾヒズムの関係性について、一考

ミーシャ

『白い人』感想

 問題は、サディストの誕生が、マゾヒスティックな快楽を感じた何らかの主体を認知する、という極めて受動的な出来事とイコールであること。そして、ほぼ必然的に発覚するのは、マゾヒスティックであると定義されるのは、いったいどのような?という問い自体が孕んでいる、極めて道徳的な一個の具体的解釈である。


 制裁や罰を意味しない「痛み」や「傷」を、他人から加えられることを、一種の喜びとして受け容れることが、何故、注視すべき事態であるのかという問題。


 それは、他者から加えられる危害が、それと等価になる事情、背景や罪があって初めて、正当化されなければならない、という一種の「信仰」と言い換え可能な価値基準からくる注目以外の何物でもない、ということなのだ。


 もしこの重視されるべき等価交換がフィクションにすぎず、常にアンバランスに罪と罰が存在することを「現実として」容認するのならば、サディストは、己の番を社会の中に見出すことさえ、できないはずである。


 道義的公平性、正義を己の肉として生きる主体のなかにこそ、サディズムとマゾヒズムが息づく土壌がある。

 

 遠藤の『白い人』の主人公は、幼少期に受けた母による教育の、間違いない申し子であって、信仰そのものを、何一つ裏切ってはいないのである。だが、それゆえに彼は、その論理自体を否定しなくてはならない。

 

 政治的背反という、彼にとってはまるで価値のない行為が意味するのは、信仰を肯定しつつも、犯してしまった「罪」との均衡をはかろうとする、内的欲求の存在である。


 だからこそ唐突に、冒頭から彼の末期的情況が語られるのだといえよう。そういったがなければ、そもそも政治的関心の薄い主人公が、みずからすすんで政治犯という烙印のもとに、むごい死を選ぶのかを説明することが容易でない。彼の行動の動機、物語の筋書き自体に、疑問符が残るのである。


 そして最も重要なことは、彼の描いたサディストとは、自身の行為となんら等価ではない危害を受け入れる「真の背徳」を許すまいとする、宗教的懲罰の主体である、ということである。


 彼の中の天秤の均衡を回復しなくてはならないという欲求、それはシンプルな性的欲求を凌駕しつつ飲み込み、彼自身の理性の囲いを破壊していく。アグレッシブなほどの信仰ゆえに、自ら荒廃していくこの主人公は、悲劇的であるのか、なんなのか。

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