人・体の万有エレキテル紀行

プロローグ:人間

 そこは一面の銀世界だった。

 息をのむほどの暗闇に、雪のような灰がふりつもる。草や花や、思い描いた景色は見られない。彼の言う通り、自身を取りまいていた世界は小さな虫でさえ生き残れない空間になっていたのだ。

『手を』

 くぐもった声がメット越しに響いた。差し伸べられた手を握り返す。冷たくて硬い鉄の音がかちりと響いた。灰に踏み込んだ足はまだ動かし慣れておらず、杖の先でこすったような跡が私の跡に続いている。

 ゆっくりと背後に目を向けた。ドーム型の建物は灰に埋もれており、まるで幼い頃に家族で作ったかまくらのようにも見える。最後の別れだというのに、それが自分の家だったという感慨は不思議と湧かなかった。

 そんな自分を、彼は心配そうに見つめてくる。きっと不安に思っているのだろう。そんな彼の想いを振り払うように、硬く冷たい手を強く握り返した。

 大丈夫、はやく行こう。拙い言葉で伝えると、彼は前を向き、歩調を少しずつ早めた。自分もまた前を向き、それから二度と振り返らなかった。

 

 変わり果てた世界に、過去の記憶に想いを馳せる。

 私たちが立ち去った後、この灰色の土地はどうなってしまうのだろう。このまま灰に埋もれてなにもかも消えてしまうのか。

 しかし、私は、驚くべき奇蹟の時代はまだ永遠に過去のものとなってしまったわけではない、ということを固く信じた。

 この世界にはまだ、色鮮やかな生命が残っているのかもしれない。

 それを確かめたかった。それが残された自分たちの使命のように思えたから。

 二人は、今日も世界で旅をする。

1.鹿

『おはようございます、起床の時間です』

 スピーカー越しに響いた音で、少女は目を覚ました。

小柄な体に余るベットから起き上がる。壁に触れるとざらついた感触があった。背丈の長い鏡のついた小さな机……ドレッサーというのだったか、とにかくその鏡には、丈の短いワンピース姿の長髪の子どもが寝ぼけた顔で少女を見つめていた。

『お目覚めの気分はいかがですか? 鏡に向かって体を動かしてみてください』

 男とも女とも取れる声色が少女に指示を出す。少女はそれに習い、鏡ごしに移る同じ顔の友人に向かって手を振ったり、くるりと一回転してみせた。

『素晴らしい。それでは外に出てみましょう』

 どこから見えているのか、音声が賞賛し、少女の後ろでかちりと音が響いた。振り返ると白いドアがいつのまにか現れており、ドアノブが自動に引かれている。

 少女は裸足のまま、ゆっくりとドアにむかった。


 そこは一面を木々に囲まれた森の中だった。

 少女の身長の十倍はありそうな白樺の木々が、風にゆらいでさらさらと音を奏でる。葉のすきまから差し込む日差しに紛れて小鳥の小さな鳴き声も聞こえた。

『今日は見事な快晴です。素晴らしいお散歩日和ですね、木漏れ日から差し込む日差しが心地いい。大自然の中を歩いていると、まるで自分も動物になったような気がします』

 森の中でも音声は絶えず少女の後に続いている。

『あなたが起きるより前に、私は鹿をみつけました。力強い筋肉がついた後ろ足とお腹周りがでっぷりと肥えた雄々しい鹿でした。彼らはひとっとびで私たちの三歩先を行きます。見かけたらすぐに逃げましょう。普段彼らを虐げてる人間は、大自然に戻ったらその辺の草よりも地位が低いのです。私は脇腹に彼の足あとが残りました』

 少女はわき目もふらず歩き続ける。幸運にも鹿は少女の前には現れなかった。

『さあ、そろそろ帰りましょう』

 そうしてまたかちりと音が聞こえる。振り返ると森の中にあの白いドアができていた。扉はすでに開かれており、少女はゆっくりと中へ入った。

 部屋の中は相変わらずだった。ひとつ変わったことといえば、ドレッサーの上に小さなガラス瓶が置かれていたことだ。中には紫色の液体が入っており、嗅ぐと不快ではないが食欲をそそるとも言えない匂いがした。

『今日の分のお薬です。飲んだらまたおやすみください』

 言われるままに液体を飲み込む。空になったガラス瓶を元の場所に戻し、ゆっくりとベッドに戻る。

『良い夢を。もし元気になったら、一緒にケーキを食べましょう。真っ白なクリームの上に赤いイチゴののった、甘くて美味しいケーキですよ』

ぐらつく視界の中で少女はゆっくりと目を閉じた。


                 +++++


(これはきっと、悪い夢なのだ)

 炎に包まれる町並みを眺めながら、私は思わずつぶやいた。

 暗闇の中に浮かび上がる建物の影。その立方体のそれに次々と鉄の塊がふりそそぐ。耳鳴りを引き起こすようなつんざく破壊音が絶えず聞こえた。

 人の声はしない。きっと悲鳴をあげる暇もないのだ。たとえ声を荒げたとしても私の声と同じようにかき消されてしまうのだろう。

(これはきっと、悪い夢なのだ)

 繰り返しつぶやく言葉で自身を励ます。そうしなければ、自身はたやすく、あっけなく、このままがけ下にでも飛び込んでしまうから。今さら自分がそんなことをしても、もう元の世界には帰れないのだから。

(……ごめんなさい)

 呆然と流れる時間と暗闇の中で、私は溶岩色に変わる町並みを見つめていた。


2.海

『おはようございます、起床の時間です』

 スピーカー越しに響いた音で、少女は目を覚ました。

 ベッドから起き上がると、そのまま小さく伸びをした。ドレッサーの上にはなにも置かれていない。少女は丈の短いワンピースの裾を翻しながら、壁に掛けてある風景画に歩み寄った。森の中を駆け回る雄々しい鹿の絵だった。

『お目覚めの気分はいかがですか? たとえ絵とはいえ、緑の色彩には人の心を癒す効果があります。さあ、今日は絵の中の鹿に向かって大きく手を振ってみましょう』

 少女は言われた通り、風景画にむかって手を左右にゆらした。少女の頭三個分の高さにあるそれは少女には見えにくいものだったが、絵の中の鹿はそうでもないらしい。黒いつぶらな瞳が少女を捉えると、鹿は林の中に駆け出してしまった。

『驚かせてしまったようですね。ですが明日はきっと心を開いてくれるでしょう。さあ、散歩の時間です』

 音声がそう言うと、少女の背後でかちりと音がした。いつものように白いドアが開いており、少女を外へ招いている。

 少女は裸足のまま、ゆっくりとドアにむかった。


 そこは、ひどく澄んだ海の中だった。

 青とも藍とも言える色の中を歩き続ける。少女の頭上よりはるかに高い場所から、かすかな日差しが水面にゆらいでいる。砂利とサンゴの死骸が混じった砂が時折波の動きにあわせて小さく舞い上がった。

 少女は海の中でもかまわず進み続ける。水の中にいても小柄な身体は浮かび上がることもなく、また、呼吸も普段通りのようだ。広がる白いワンピースの布地に差し込んだ水面の色が写り込む。

『あなたがベッドに入ったあと、外では雨が降ったようです。私が起きた時にはすっかり海になっていました。あまりに綺麗で思わず飛び込んでしまいましたが、どうやら私は泳げなかったということに気づいたのはその時でした。あやうく命は落としかけましたが、新たな自分の発見というものは幾つ年を重ねても素晴らしいものです』

 歩き続ける少女に音声は語りかける。少女はなにも答えず、ただたゆたう水に身を預けながら歩き続けた。むき出しの岩からとびだしたクマノミの一匹が少女の長髪の周りを動いている。

『海はすべての生物の母と言われており、多様な生物が共存しております。きっとそのクマノミもあなたの髪を海草かなにかと勘違いして、自分のすみ家に適しているか検討しているのでしょう。母なる海で共に生きていけるのは素晴らしいことです。まあ、私は今朝その母に殺されかけたわけですが……あなたは共存できる優秀な人間のようでなによりですね』

 寡黙な少女に対し、音声は多弁に語る。やがて家に適さないとおもったクマノミはそっと少女のもとから去っていった。遠くでは青魚の群が渦を巻いており、それはまるで海の中の波を視覚で感じることができるようにしてくれたような錯覚さえ感じさせた。

『さあ、そろそろ帰りましょう』

 背後でかちりと音が聞こえた。白いドアがすでに開かれており、少女はまっすぐそちらへ向かう。先ほどのクマノミが名残惜しそうに後をついてきたが、無慈悲に閉められたドアに阻まれて部屋に入ることはできなかった。

『今日の分のお薬です。飲んだらまた身体を休めてください』

 ドレッサーの上には見慣れたガラス瓶が置かれていた。中には紫色の液体が入っており、光に透かすと宝石のように輝いて見えた。

 少女はそれを一息で飲み干す。ガラス瓶をドレッサーの上に置き、ふらつく足取りでベッドに戻る。

『良い夢を。病気が治ったらケーキを食べましょう。甘くて美味しい、粉砂糖をまぶしたココアケーキですよ』

 音声に諭されるまま、少女は静かに目を閉じた。


                 +++++


 自分には父と母と、妹がいた。

 生まれながらにして病弱で家からあまり出たことがなかった。妹はその真逆で、体も性格も活発だった彼女の肌は日に焼けており、二人で並ぶと妹の方が姉に見られたものだ。そんな妹が嫉ましくもあり、また、羨ましくもあった。お日様の元を自由に駆け回る彼女を家の窓からのぞいていたのは自分の指をすべて足しても足りないほどだ。

 だから、この時ほど自分が病弱であってよかったと思ったことはない。

 消毒液の匂いが漂う、病的なほど真っ白な部屋。その中央に置かれたガラスケースのベッドの上で自分は小さく横たわっていた。父と母と、そして妹がそれをのぞきこんでいる。父と母の目元は赤く潤んでおり、対する妹は唇を固く結んだまま、睨みつけるように自分を見つめていた。

「きっとあなたは、元気になるの。眠りから覚めたら、あなたはお外で元気に走れるようになるのよ」

 母の優しい声が聞こえる。その声は暖かくて、震えていた。

「だからそれまでゆっくりとお休み。起きたらケーキを用意するよう看護師さんに伝えておくよ。君の好きな白いクリームに甘いイチゴののった、美味しいケーキだよ」

 父の諭すような声が聞こえる。それは懇願でもあり、命令でもあった。彼のいうことに反抗することはなく、自分は小さくうなずいた。

 最後は妹の番だった。

 妹は日に焼けた肌をひどくしかめて姉の顔を覗き込んだ。震える唇は何度も開いては閉じ、いっこうに言葉を紡ごうとしない。

 彼女がなにも言わずとも、すべてわかっていた。だからその小麦色の頬に、自分の青白い手を重ねる。ざらついた肌は幼い頃と変わらず暖かかった。

「起きたら一緒に外で遊ぼう」

 妹はなにも言わない。

「一緒にケーキを食べよう」

 なにも言わない。母が力なく父の肩にもたれた。

「てっぺんのイチゴ、もういらないから、私の分も食べてね」

 その一言で妹の顔がぐずぐずに崩れた。どこからか溢れたのか大量の涙が頬を伝い、透明な鼻水が唇にまで流れ出ている。

「ケーキなんて嘘!」

 そういって、元気な妹は部屋から飛び出していった。父と母が何か大声を妹に向けていたが、よく覚えてない。いつもより長く起きていたせいで、疲れ切った自分の体は眠りにつこうとしていたのだ。

 微睡の中で思考をめぐらせる。やはり自分が病弱で正解だったのだ。もしこの箱の中に入るのがあの子だったら、あの外で遊ぶのが大好きな子には酷だっただろうから。

 そうして自分は意識を手放し、部屋全体を闇が呑みこんでしまった。


3.麦畑

『おはようございます、起床の時間です』

 スピーカー越しに響いた音で、少女は目を覚ました。

 ベッドから起き上がり、小さく伸びをする。いつものドレッサーの脇に長方形型の大きな水槽が置かれていた。四方をガラスでびっちりと閉められたガラス箱の中には真っ白な砂と水面まで伸びた水草が植えられ、時折小岩の影から小指の爪ほどの熱帯魚が顔をのぞかせていた。ガラスに耳を押し当てると、ポンプから溢れた気泡がこぽこぽと音をたてていた。

『アクアリウムの歴史は非常に古く、一説では古代シュメール人が食用の魚を池で飼っていたという話があります。閉鎖された室内でも水と自然の空気を味わえるのは心地がいいものですね。さあ、水槽の中の魚に挨拶をしてみましょう。アクションはあなたにおまかせします』

 少女は泳ぐ魚のうち、オレンジ色のクマノミに目をつけた。ガラス越しにトントンと二回ノックする。他の魚はぴゅんと一瞬動いたが、クマノミは無反応にエラを数度動かしただけだ。

『いかに文明が発達したといえど、魚と心を通わせるにはまだまだ時間がかかるようです。では、今日も散歩に行きましょう』

 少女の後ろでかちりと音がした。振り返ると白いドアが開かれており、少女を招き入れる。

 少女は裸足のまま、ゆっくりと歩き出した。


 そこは、一面が黄金色の麦畑だった。

 天上から差し込む日差しは一段と眩しい。あぜ道で四角く囲まれた畑には隙間なく実った麦が植えられており、さらさらと風にその身を預けていた。猫じゃらしのように生えたふさふさの毛の隙間からははち切れんばかりに実った麦穂が詰まっている。風で小麦が揺れるために香ばしい麦穂の香りが漂ってくるようだ。

『目を覚まして窓を開けた時、私は歓声をあげました。なにせ家の外に果てのない、黄金の海が広がっていたのですから。みてください、このたわわに実った黄金色! この海ならば私も泳ぐことができるのです』

 音声はひどく興奮した様子だった。対する少女は無表情に、無感動に、ひたすら前に向かって歩みを続ける。あぜ道の土を踏みしめて進む少女の横を、時折麦穂のちぎれた葉が通りすぎていった。

『私がここまで至上の幸福を語るのは、なにもこの雄大な景色を味わうことができたからではありません。麦というのは小麦、すなわちケーキの材料である小麦粉です。これだけの量の麦があれば、世界中の人間だけでなく、世界中のアリ一匹にだって公平にホールケーキが配れることでしょう! これから毎日家を焼かずとも、ケーキを食べることができるのです。ただ残念なことにバターも牛乳も砂糖も足りないので、虫歯の心配のないひどく健康的なケーキになるでしょうが』

 数羽のまだら模様の小鳥が麦畑に舞い降り、穂先の麦をついばむ。彼らはケーキよりもケーキの元の元の方に興味があるようだ。その真横を少女が通り過ぎても、逃げる様子もない彼らは混じりけのない健康的な味を堪能している。

『さあ、そろそろ部屋へ帰りましょう』

 後ろでかちりと音が聞こえた。振り向くと、見慣れた白いドアが少女に向けて開かれている。

『帰ったらお薬を飲みましょう。つい熱く語ってしまいましたが、虫歯の心配がある健康的とは言い難いケーキもちゃんと用意してありますよ。元気になったら私と一緒に食べましょう。ただし、てっぺんのイチゴは私にくださいね』

 アナウンスの声が少女を室内へ促す。

 しかし少女は立ち止まって動かなくなった。

「……」

 少女は無言で扉を見つめている。ワンピースの裾さえ動かない。

 これにあせったのは、アナウンスの声だ。

『どうされましたか? もしやあなたもイチゴが欲しかったのでしょうか。それならもっと多くイチゴを入れるよう手配しましょう。イチゴケーキではなく、ケーキイチゴになるようにパティシエに依頼すればいいのです』

 しかし、少女は動かない。アナウンスの声がさらにあせったような声を上げる。

『も、もしやイチゴを独り占めしたかったのでしょうか。それはずるい、あまりにもずるいです。私もとても楽しみにしているのに! ああでも、あなたは治療を頑張っていますから、あなたが望むのなら仕方ありません。でも、せめて一口分、私にも分けてくださいね。決してヘタの部分だけ渡すような真似はしないでください』

「ちがう、ケーキはいらない」

 少女が声を上げた。

「『ケーキなんて嘘』、だからいらない」

 あれほど饒舌だったアナウンスの声がピタリと止んだ。流れる沈黙が小麦畑の風にとけて流れていく。

 やがて世界はゆるやかにほころびを見せ始めた。


4.嘘つきケーキ

 目の前に現れたのは床から天井まで真っ白なタイルに覆われた廊下だった。

大きく弧を描くそれはドーナッツ型に円を描いており、ちょうど中央で少女の寝室につながっている。今まで少女が歩いてきた森も、海も、麦畑も、すべて壁に映し出されたホログラムだったのだ。

 かちり、と音をたてて扉が開いた。ただし部屋のドアではない。廊下の白い壁だったパネルの一部が外れ、中から少女の半分くらいの背丈をした小さなロボットが現れた。形でいえば機関車の煙突に植木鉢を逆さに乗せて顔と腕をつけたような。パネルの隙間に半身を隠しながら少女の様子を伺っている。

「あなたが、あの声の?」

『……ええ、最重要保存対象者さん。私はアポストロフ、あなたの保護者であり、この核シェルターの管理人です。できれば、こんな形でお会いしたくなかった』

 保存対象者、と呼ばれた少女は動かない。ただじっと、アポストロフと名乗ったロボットの反応を見ていた。

『その言葉を口にされたということは、きっとすべてを思い出してしまったのでしょうね。人類は滅び、地球は壊れ、世界は滅びてしまったことを』

 ため息まじりにつぶやかれた言葉に、少女はそうだと思った、と小さく返した。


                 +++++


 昔々、少女からしてみれば数ヶ月前、アポストロフからすれば 九百九十九,九……日ほど前に、一人の天才科学者が現れた。

 彼はどうすれば戦争のない国にできるか考えた。それがのちに語られる、人類総ロボット化計画。

つまり、人間がロボットになることだった。

 人に心があるから争いが生まれる。ならばロボットになれば争いは生まれなくなる。飲み食いしなければ食料問題も解決するし、一石二鳥の計画だ。

 今思えば馬鹿らしい、いや、当時から批判が殺到していた計画だが、この馬鹿な計画を馬鹿な科学者は実行し、あろうことか大成功させてしまったのだ。そのため最初はロボットになることに抵抗のあった人間たちもしだいに自身をロボットにしていった。

 だがここで、思わぬ誤算が生まれた。

 残された人間がロボットを操るようになってしまったのだ。鋼鉄の身体は血が流れず、壊れても修理すればすぐに動ける。なにより戦争にはうってつけの武器だった。そうして残された人間はロボットを操って人間を殺し、兵士として大量の人間をロボットにし、そうして戦争は繰り返されることとなった。

 そして、唯一残された街で勃発した戦争を最後に、人類は絶滅したのだ。

 たった一人の少女を残して。

『あなたはいわば、ロボット改造候補者の一人でした。重い病に侵されたあなたはロボットになることで“治療”される予定でしたが、コールドスリープの段階で戦争が起こり、この核シェルターの中に隔離されていたのです。他にも患者はいましたが、私が見つけた時にはあなた以外全員死んでいました。このシェルターの外に降り注ぐ、死の灰の影響で』

 アポストロフは植木鉢のような頭を回転させながら喋り続ける。

『度重なる戦争のせいで起きた、異常気象です。最後の人間であるあなたを生かさなければならない。人類より最後の指令を受けた私はあなたを永久に眠らせて保存しようとしました。ですが、それには治療していない身体に負荷がかかりすぎる。だから定期的に身体を動かす機会を設けました。そして、あなたがこの生活環境に違和感を持たせないために……』

「そのために薬を飲ませたのね。あの頭のぼうっとする薬」

 少女は無感情な表情でとつとつと質問を重ねた。少女にはその薬がどのような作用を持っているかあらかじめ知っていたからである。

『あなたは子どもで、未発達です。加えて元は病気治療の患者でした。余計な混乱は人体に影響を及ぼします。だから毎回薬を飲ませて昏睡状態にさせていたのに……どうして気づいてしまったのでしょうね』

「これ」

 少女が取り出したのは紙ナプキンだった。すっかり黄ばんだ紙の上に、変色したインクのような液体で描かれた文字が浮かび上がっている。

“Cake is a lie!”(ケーキは嘘!「)

「たぶん書いたのは私。最初の薬を飲む前に、こっそり薬の液で紙ナプキンに書いて、ポケットの中に入れていたの」

『……子供というのは時折大人の想像つかないことをします。きっとあなたもそうなのでしょうね。あなたは人類の中で最もすぐれ、優秀で、そして最悪に運のない患者だったのです』

 球体の顔に取り付けられた一眼レンズがきゅるきゅると音を立てた。そのレンズが映し出すのは、自身に向き合う少女の姿。

 アポストロフはアーム型の腕を前に広げ、少女に問いかける。

『真実を知った、いえ、再確認したあなたは何を望みますか。家族との再会ですか? このシェルターから出ることですか? ただしどちらも私には叶える権限がありません。その権限の許可を受けるには、日にちが 九百九十九.九……日足りませんので』

「それは、もう望まない」

『ならば最上の死を迎えることでしょうか。シェルターより外は死の灰が降り続けています。一歩足を踏み出すだけであなたは呼吸困難を起こし、数時間と立たず家族との面談を果たせるでしょう。もしより快適な面談を望むのなら、それを叶える薬品もこの施設には備えられています。本来私はあなたを保護・管理する立場ですが、あなたが望むのなら、その立場を小鳥の餌にできますよ』

「ちがう、それもちがう」

『ならばあなたの望みとは?』

 そっとロボットの耳元へささやく。音声を認識したアポストロフは顔のランプを弱々しく明滅させた。

『それがあなたの選択ですか?』

 少しノイズの混じった音声が繰り返される。人間でたとえるなら、拍子抜けしたような、困惑とも取れるような声色だ。

『それが、人類最後の人間である、あなたの選択ですか?』

「うん」

 間髪いれず少女が答えた。アポストロフは、人間でいえばため息一つ分の間をおいてから返答する。

『……ならば、ケーキを用意しましょう。今度こそ嘘いつわりの無い、本物のケーキです。あの馬鹿な科学者が生きていたら、きっと泣いて喜ぶでしょうね。『自分の考えは正しかったのだ!』と』


 それからしばらくして、少女の部屋にケーキが運ばれた。円形の生地に絞った生クリームと小さなイチゴがちりばめられたそれはパンケーキに近いものだったが、それでもすべてが滅んだ世界では最高級に贅沢なケーキにちがいない。

 ただ、ケーキの中央に乗せられた生クリームに妙なへこみがあることを除いては。

『残されていたあなたのカルテに、最重要項目としての記入がありました。「患者の治療が完了した際にはケーキを用意すること。ただし、ケーキの上にイチゴがのっていた場合、患者の家族の代わりに提供者が食べること」と』

 人類最期の味は、少し塩気が多かった。



エピローグ:アポストロフ

 そこは一面の暗闇だった。

 足音さえも響かない、死の灰がふりつもる世界はまさしくディストピアだ。ある意味戦争のない平和な世界が訪れたわけだが、これほど静かで色彩がないものになるとは、きっと誰にも想像はできなかっただろう。

 『手を』

 周囲を見渡す彼女に、アーム型の腕を向ける。『改装』を終えたばかりの彼女はまだ自由に身体を動かすことができない。灰に沈みこんだ足に、杖の先でこすったような跡が彼女の後ろについてきている。

 彼女は私に手をひかれながら、じっと背後を見つめていた。ドーム型のシェルターはすっかり灰に埋もれている。もう灰をどける必要はないと理解しているが、それでもこのまま埋もれたままにするのは少し抵抗があった。

 しかし今は、彼女だ。

『大丈夫、はやく行こう』

 自分と種類のちがう機械音声がメット越しに響く。元の彼女の声色に近いものを選んだが、やはり多少のノイズが入ってしまった。もう二度と本当の声を聞けないと思うと、それはケーキのイチゴを食べられてしまったことよりも悲しいことのように思えた。

 小型で硬い手が自分の手を握った。私はそれに従い、少し歩みを早める。それから一度も振り返ることはなく、ただ目の前の道を歩き続けた。

(これがあなたの望んだ道だったのでしょうか、プロフェッサー・アポストロフ)

 私は人類総ロボット化計画を起こした研究者に、否、機械の体を得て、己の過ちで人類の絶滅を見届けた自身に問いかける。

 答えは出ない。世界の全てはこの死の灰に埋もれてしまった。

 それでも機械じかけの脳髄は、どこか人間らしい仮定を打ち出した。

 機械の鉄の輪で作られた手の感触。柔らかい肉ではない、永遠に朽ちることのない鉄の感触。ぬくもりなどあるはずのないそれがひどく愛しく感じるのはなぜだろうか。アーム型の手のひらに自然と力が入った。

それは『人間であった』彼女が私に残して行った最後の期待であった。

 二体は、今日も世界で旅をする。


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短編集 白乙 @Kakuriya

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