信号機にまたがる未来


 信号機の上に女の子が立っている。

 それに初めて気づいたのは、仕事帰りの車の中だった。

春の足音が聞こえてくるような、ずいぶんと日の長くなった頃だ。夕方と夜の境目、それよりももっと曖昧な白に近い空を横目に見ながら、俺はぼんやりとハンドルを握っていた。

 さて、帰ったら何をしよう。床に積みっぱなしのマンガを読むかゲームをするか、それとも溜まっていた洗濯を片付けるか。どこかへ食べて帰るのも悪くはない。今日は花の金曜日、俺は週末を迎えて少し舞い上がっていたのかもしれない。ウォークマンのランダム再生から流れた曲がアップテンポなメロディーを流す。

 そうしてふと、いつもの交差点に差し掛かった時だった。そこはちょうど、通勤路の国道から左右に農道へと続く場所だ。左には二年前に潰れたラーメン屋とレンタルビデオ店の跡地、右手には古いがかろうじて営業しているガソリンスタンドがあり、それを挟んだ向こう側には水を張ったばかりの田園が広がっている。国道ゆえ人通りがないわけでないが、割れたアスファルトから生えた雑草が目立つ少し寂しさを感じさせる道路だ。

 そんな交差点の上の信号機に、女の子が立っていた。

 自分の車がその下をくぐり抜ける一瞬だった。長い髪をした小柄な姿がぼんやりと信号機の上に浮かび上がって見えたのだ。逆光のせいで顔や服装まではわからなかったが、おそらく学生だろう。切りそろえられたプリーツスカートのすそと背中まで伸びた髪の影が、薄雲が広がる夕焼けの上に翻った。

「……」

 それまで陽気に鼻歌を歌っていた俺は、数秒押し黙った後、冷静に周囲を見回した。自分の前をいくプリウスは変わらず静かに走り続けているし、後方のワゴン車も俺の通った道筋をなぞって付いてくる。割れたアスファルトの歩道には数人の学生グループが見えたが、特に慌てた様子もなかった。誰も彼も、頭上を見上げて騒ぐものはいなかったのだ。最後にのぞきこんだバックミラーにも少女の姿はない。

(気のせいか)

 そう結論づけた俺はそのままくたびれたセダンを走らせた。きっと自分の見間違いだろう。白昼夢が見せたうすら寒い怪奇現象に、花金の嬉しさを霧散させるほど俺はヒマ人ではない。

 俺はウォークマンの画面をスライドさせ、曲を変えた。ランダム再生は馬鹿みたいに激しいドラムが鳴り響くロックの曲を選ぶ。だらだらと雨だれのように響くドラムは脳内麻薬のようで、不安定な思考を麻痺させるには十分だ。

 (やっぱり今日はまっすぐ帰るか)

 俺はドラムの音をひきつれながら、静かに帰宅した。


 翌朝、俺はテレビでニュースをつけた。コンビニで普段買わない新聞を買った。出勤中に普段つけないカーラジオを流した。だがそのどれにも『女子学生が信号機にのぼっていた』という類のニュースはなかった。

 すべての情報源をあさり終えた俺は、静かに安堵する。アレはやはり見間違いだったのだ。

 カーラジオをウォークマンに切り替え、ランダム再生。今日はドラマの主題歌にも使われたバラードを聴きながらくたびれたセダンを走らせた。

だがその日以来、俺は時折信号機の上に立つ女の子の幻を見るようになった。



 六月下旬に見た彼女は両腕を広げて立っていた。今にも飛び立ちそうな雰囲気だった。それは翼を広げて飛び立つ瞬間の鳥のようであり、全てを投げ捨て崖下に飛び込む自殺志願者のようにも見える。後者の意識が強いのは彼女の真下を高速で走る車が通る危うさからか。ニュースは変わらず、世界のどこかの事故を報道していた。

 八月の夏休み中に見た彼女は裾の長いワンピースをきていた。相変わらず逆光で顔も服もよく見えなかったが、フリルスカートの裾が広がる様が涼しく見えた。さすがに真下を通るときは目線を背けた。コンビニの新聞は変わらずどこかの政治家の批判をしていた。

 十一月の彼女は信号機の上で体育すわりをしていた。少しアンニュイな雰囲気の彼女は秋の物悲しさとよく似ていた。カーラジオは変わらずリスナーにハガキを要求していた。

 そうして過ごすうちに一年、二年と時は流れ、若輩だった俺は所謂中年オヤジとなり、少女は変わらず学生のまま信号機の上に佇んでいた。

 そんなある日、俺は仕事をクビになった。

 クビになった、というのは少し語弊がある。正しくは会社が倒産し、俺は無職になった。四十を目前としたいい歳の男が無職。しかも社長は失踪し退職金もない。ヤケになった俺は帰宅して朝まで酒をあおった。

 そうしてゴミくずだらけの床から目を覚ました時、部屋のカーテンの隙間から星空が覗いていることに気づいた。季節は秋を迎え、残暑の蒸し暑さから開け放った窓から風が入り込んだのだ。年々かすれがひどくなった目にその輝きは眩しすぎる。地平線の先には、国道を照らす街灯が点々と見えた。

 (あいつはまだ、あそこにいるのか?)

 ふと、あの信号機の少女のことを思い出した。会社に行かなくなるということはもうあの少女に会わなくなるということだ。そういえばここ数日やけになって車を飛ばしていたせいで、あの信号機のことなどすっかり忘れていた。

 俺はふらついた足で立ち上がると、まっすぐ玄関へむかった。いつもの癖で車のキーを取ったが、最後の良心で自転車にすがりつく。

 就職して以来まともに使っていなかった自転車はひどいサビがこびりついていたが、それでも酔っ払いの俺のためにぎりぎりと金切り声をあげて動いてくれた。深夜四時、すべてが静まりかえった夜の空気はうすら寒かったが、それでも酔いが醒めることはなかった。


 かすれた星と、中途半端な形の月が傾いた夜空の下で、 俺は荒く息を吐き出しながらペダルを漕いだ。すでに二回ほど転び、寝巻き代わりのねずみ色のツナギはひざのところが泥だらけになっている。倒れたときに強く打った膝は熱を持ったような痛みが続いており、大きな青あざができたのかもしれない。

(なにやってんだろうな、俺は)

 男の家から信号機までは車で三十分、自転車でも一時間はかかる場所だ。転ぶたびに立ち止まって、家に帰ろうか悩んだ。そして結局サドルにまたがりペダルを漕ぐ。自分はどうしてここまで必死になっているのだろう。どうして今、あの少女に会いたい思っているのだろうか。

 答えを求めている間に、とうとうあの信号機の前にたどり着いた。見上げた先に少女はいない。やはり幻だったのか。俺はため息を吐いて帰ろうと信号機に背を向けたが、ふと、東の空が白みかかっていることに気づいた。かすれたレンタルビデオ店の屋根がオレンジに輝いている。そうか、朝日はあちらから登ってくるのだったか。その果てを見てみたくなった俺は気付いたら信号機の電柱に手をかけていた。

 が、まったく登れない。元々クレーンで取り付けるものだから、当然ハシゴなどついていない。かろうじて足場になれそうな金具が取り付けられているが、それは男の頭上より一メートルは高いところにあった。これでは登れない。

 それでも男は諦めきれず周囲を見渡し、そして潰れたラーメン屋に目をつけた。錆び付いた入り口の引き戸を開けると中にはガラクタが積み上がっている。その中に、ちょうど二メートルくらいの木製の古いハシゴを見つけた。

(しめた!)

 男は迷わずハシゴを持ち、信号機へかけだした。そして電柱にの脇にとりつける。足場が多少ふらつくが、それでも柱をよじ登るには十分だった。

(別に盗んだわけじゃねえ。ちょっと借りるだけだ。夜が明けるまでに元どおりにすればいい)

 とうとう男は信号機の目の前までたどり着いた。細い線のような棒の先に三色灯が付いている。普段は気にも止めなかったが、こうして近くで見ると信号機という機械はよほど大きく見えた。

 男は腹ばいになりながらゆっくりと進み、信号機の上にまたがった。あれほど焦がれた少女と同じ視界。それは思っていたよりも不安定で居心地が悪く、そして肌寒かった。さすがに人間が気まぐれに登るには信号機は適さない。

 だが、そこから見えた世界は美しかった。

「……」

 男は言葉を失う。レンタルビデオ店の屋根の向こうには広がる田んぼの稲穂とゆがんだおにぎりが連なったような山々。そこから白けた空が広がり、新しい朝が差し込んでくる。普段車で通い慣れた、平凡で見慣れたはずの景色。それがどうして、こんなにも俺の息を止めるのか。朝焼けが目に突き刺さる。意味もなく涙がこぼれた。仕事でどなられようが親が死のうが決して泣くことのなかった俺の死んだ目から。

「あんた、こんな良いもん見てたんだな」

 つぶやく男の背後に、少女が姿を現した。信号機にまたがる男の顔を覗き込むように立った姿勢のまま男の背後から顔を寄せる。少しカールのかかった柔らかな髪が痩せこけた無精髭の頬に優しく触れた。

 俺が頭上を向くと、あの少女の顔がよく見えた。輪郭は相変わらず曖昧で、その顔立ちは死んだおふくろにも初恋の幼馴染にも、学生時代に自殺した女の先輩にも重なって見えた。

 頬に触れた髪がさらりと揺れる。腐った仏花のような、ひどく甘い匂いがした。

「俺も連れてってくれ。なあ、頼む」

 ぎしり、と足元から音がした。信号機の錆びた金具が不吉な音を立てる。

「なあ、頼むよ。俺もこんな景色をずっと見ていたいんだ」

 頭上で少女が笑ったような気がした。無精髭に触れる細い指。額に当たるやわらかな感触。俺は瞳を閉じてその柔らかさを享受した。

「世界ってこんなに綺麗なモンなんだなあ」

 そのとき、信号機の金具が外れた。

 ランプは点滅をやめ、じりじりとやけるような音とともに照明が消える。そうして俺の体は三色灯とともに空へほうり出された。永遠と思えるような時間の中で、信号機は大げさに金属音を響かせて地面に叩きつけられた。


『次のニュースです。今日の午前五時頃、◯◯市国道×号線で信号機が落下する事故がありました。幸い怪我人はいませんでした。信号機は電柱に止めていた金具の部分が壊れており、関係者は事故の原因を調べています。続いて次のニュースです……』


『「◯◯市で男性が行方不明 」 ●●県警は、◯◯市に住む会社員、佐野灯次さん(38)が、×日午後から行方不明になっていると明らかにした。写真を公開して行方を探すとともに、情報提供を呼び掛けている。

 同署によると、佐野さんは〇月×日午後五時ごろ、会社から退勤した後から連絡が取れなくなっているという。翌日に知人が自宅を訪れても不在だったため、知人が同日、捜索願を届け出た。佐野さんは身長百七十二センチほどで中肉、短い黒髪。灰色のツナギを身につけていたとみられている。情報提供は県警宛に電話で……』


『ラジオネーム、みのってぃあさんからの投稿です。「私が一番怖かった心霊体験は、夜国道を車で走っていると信号機の上に人影を見たことです。最初は見間違いかな〜と思っていたんですが、信号の真下を通る時にその人影が落ちてきてドスン! という音がしたんですよ。車を降りたけど誰もおらず……慌ててその場から逃げ出しました。おかげでもう昼間でもその道が通れません」……えっ、この話実体験なんですか? 怖すぎでしょ? 自分ならぜっっったいこの道通りたくない!!  みのってぃあさん、ありがとうございました。司会は私、二葉亭四郎がお送りしております『ふたばってぃ☆ラジオ!』、本日は都市伝説をテーマにおたよりを募集しております。皆様のおたより、お待ちしております……』

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