短編集
白乙
夜空を覗く宴の席で
夜空を覗く宴の席で、隣の男が盃を掲げた。
「頭のなかで、ずっと誰かが呼んでいるんだ」
酒臭い息を吐きながらぽつりとつぶやく。
この男は俺が同僚たちと飲んでいる時に突然割り込んできた、見ず知らずの酔っぱらいだ。いかにも中年らしいずんぐりとした体格と無精ひげが熊を連想させるような男だった。身につけている着流しは薄汚れた狐色をしており、酒の匂いに混じって鼻につくような匂いが漂ってくる。そんな男に運悪く絡まれた俺は仕方なく適当に相槌を打ちながら酒をすすり、同僚たちは俺を贄として宴を楽しんでいる。薄情な彼らには後々この大きな借りを返してもらわなければならないだろう。
「・・・・・・なんだって?」
先程まで豪気な笑い声を撒き散らしていた男が真面目な口調で切り出したのは、俺がそんなことを考えはじめていた頃だった
「男か女か、はたまた人間なのかすらわからない。ただ、こうして目を伏せた時に、形のない“奴”が現れてオレを呼ぶんだ。焦がれるような、切羽詰ったような声でな」
そう言って男は水面に揺れる夜空を飲み込むように、盃を一気にあおぐ。無精ひげの口元からこぼれた酒が畳に染みをつけた。あまり酒が得意でない俺には真似できないような、豪気な飲みっぷりだった。
「はあ、それは今も?」
ちびちびと酒をすすりながら俺が問えば、男はまどろんだ眼差しをこちらに向けた。
「ああ。そんな最近の話じゃない、オレがまだガキだった頃からずっとだ。もう何十年の付き合いになるか・・・・・・まあとにかく、オレはそれがずっと気がかりでな。この年になっても所帯を持てずにいる。まあ若いお前さんには所帯も持てない甲斐性なしの言い訳にしか聞こえないだろうがな」
忘れてくれ、酔っ払いの戯言だ。そう締めくくった男は豪快に笑い飛ばし、熱燗のはいった徳利を勧めてくる。それをちびちびと舐めながら、男の横顔を盗み見た。
ずんぐりとした無骨な手は褐色に近いほど日に焼けており、酒が入ったせいで肌の色はさらに色濃いものとなっている。同じく赤褐色の顔は深い皺が刻まれており、険しい顔つきは長い年月を積み重ねた男の苦労を知るには十分だった。下手をすれば自分の父親よりも年上であるかもしれない。そんな男の幼少時代からというのなら、その“奴”とはずいぶんと長い付き合いのようだ。
俺の杯を満たし、また自分の盃を酒で満たした男は水を飲むように酒を胃袋におさめる。仰け反った拍子にのぞいた首元は赤みを帯び、随分と酒が回っている様子が伺える。だが先程までの饒舌な語り口は真剣そのもので、酔いの戯言などと軽口を叩けるような雰囲気ではなかった。
だからつい、俺もほろりとこぼしてしまった。
「まるで恋をしているようだ」
「なに?」
しまった。そう思ったときには遅く、男は意気込んで俺に詰め寄ってきた。酒臭い鼻息が頬に当たる。生ぬるい風が頬をなぞるのが恐ろしく気味が悪い。耐え難い気色悪さに鳥肌がたち、俺は必死に男の顔を払いのけようとする。だが、男も負けじと押し付けるように顔を寄せてくる。
「お前、今なんて言った。誰が恋だって?」
「待て待て、とりあえず一寸離れろ。顔が近い」
「オレはなんて言ったかと聞いてるんだ。問いに答えないか」
「わかったから一寸離れろ! 話はそれからだ」
男の顔をぐいと押しやり、肩で息をつく。その間にも男は俺の方をじっと見つめながら言葉の続きを待っていた。ようやく離れてはくれたものの、先程の失言を見逃すつもりはないらしい。これ以上話さなければまた顔を詰め寄らせてくるだろう。その前に、俺は続きを話し始めた。
「だから、あんたの語り口調がまるで恋を覚えたばかりの青年みたいだといったんだ。聞けばやれまぶたを伏せればいつでも声がするだのなんだの、あんたは青年期を迎えたばかりの若造か! 気を悪くするなよ。あんたが話せといったのだからな」
酒の席の戯言だ、さっさと流してくれ。最後の方は叫ぶように言い切り、俺はごまかすように酒を煽った。透明な雫を飲み込むたびに言いようのない辛さが喉を焼く。俺も存外酔っていたのだ。この酔っ払いの横顔が、恋焦がれる青年のように見えたなどと。
だが、そう言われた男の顔がすっと引き締められる。無精ひげの生えた口元がもごもごと物言いたげに蠢いていた。
「まさか、恋だと? 馬鹿馬鹿しい。いや、だがしかし」
手持ち無沙汰に指で髭を撫ぜながら、男は口の中でだけの独り言を続けた。先程までの酔い加減とは打って変わった様子に俺や周りで騒いでいた同僚たちも一斉に男の方へ視線を向ける。
やがて男はすっと立ち上がると、着物のたもとからばらけた紙幣の束を取り出した。
「俺はもう帰る、支払いは任せた」
俺の手に押しやられた紙幣の金額は俺一人の酒代どころか、周囲の同僚たちの分を支払っても釣りがもらえるほどの大金だった。あまりの高額に喉の奥から情けない悲鳴が溢れる。俺は慌てて男を呼び止めた。
「あんた、どこからこんな金を。いや、それより受け取れるものか。帰るならこの金も持っていけ!」
「なあに気にするな、ささやかな礼だ・・・・・・お前さんのおかげでようやく見えてきた」
「見えてきた?」
震えた声で俺がつぶやくと、男はふんと鼻を一つ鳴らして答えた。
落ち窪んだ眼窩の奥に一筋の光が灯る。
「ああ、長年オレはなぜ自分が“奴”に執着するのか気になっていた。だがお前のおかげでようやくその答にたどり着けそうだ」
感謝する、そう最後につぶやくと男は襟元を正し、颯爽と出口の方へ歩いて行った。店の戸を閉めた音が聞こえたところで、俺の周辺の空気がようやく動き出す。慌てて俺は金をほうりだし出入り口の引き戸に駆け込んだが、その先はただ夜の闇が広がるばかりで、男の姿はどこにもなかった。
それが俺の出会った不思議な男の話だ。
それからひと月経った頃、俺の家に一通の手紙が届いた。
差出人は飲み屋で出会ったあの男。どこで調べたのかはわからないが、それでもその茶封筒は確かに家の玄関に置かれていたのだ。
手紙の内容は、要約するとこんなことが書いてあった。
『先日は良い言葉をありがとう。おかげでようやく答えが見つかった。お前の言うとおり、オレはずっとまぶたの裏の奴に恋をしていたようだ。無視すればいいものを、奴がオレを呼ぶ声を振り切れなかったのは、オレもまた奴に恋焦がれていたから。奴がオレを求めるのと同じようにオレも奴を求めていたのだ。積年の疑問がこの歳ですっかり晴れ渡った。お前には何度感謝してもしきれない』
『それともう一つ、お前に話しさなければならないことがある。オレが恋心を自覚したとき、今までぼんやりとしていた奴の姿が急にはっきりと見えるようになった。声も次第によく聞こえるようになり、今では少しばかりの会話もできるほどだ。奴ときたらなんとも愛らしい顔立ちをしていてな、性根もいい奴なのだ。・・・・・・あいつが呼んでいるのでそろそろ失礼する。今度お前にも会わせてやろう』
男の訃報を聞いたのはそれから三日後のことだった。近所の家で中年男性の死体が見つかった。人づてに聞いた外見の特徴が男とほぼ一致していたので間違いはないだろう。
話によると、見つけたのは男の知り合いだそうだ。そいつが家を尋ねると男は床にうつ伏せになったまま死んでいた。特に外傷もなく、まるで眠るように息を引き取っていたらしい。家の机の上には墨で書かれた走り書きが残されていた。
『愛しいおまえ、共にゆこう』
男の死に顔は安らかだったそうだ。
多くの謎を残した男の死はまたたく間に噂にとなり、町中に広がっていった。はてには男の亡霊を見た等信ぴょう性のない噂も飛び交う有様だ。だが人の噂も七十五日。今となっては男の話を口にする者は誰もいない。
さて、なぜ俺が今、お前にこんな話をしているのかといえば。
数日前からおかしな声が聞こえるようになった。
まぶたを閉じると、焦がれるような、切羽詰ったような声色が俺を呼んでいる。姿形のないぼんやりとしたなにかが俺のまぶたの裏に浮かび上がってきたのだ。それは子どものようにも、女のようにも、はたまたあの男の姿にも重なって見える。
言わずともわかるだろう?
長年あの男が恋焦がれた“奴”が俺の前にも現れたのだ。
おそらく声も姿もやがてはっきりとした形になっていくだろう。下手をすれば俺も男と同じような運命をたどることになるかもしれない。
だが俺は思うのだ。それもまた良いのではないかと。
俺は男が羨ましかった。俺には男の生き様がひどく眩しく見えたのだ。男ほどではないが俺には金があり、友にも女にも不自由のない暮らしをしていた。だが平坦とした生活は感覚を麻痺させ、いつしか自分の体が随分と年老いたような思いをかかえるようになったのだ。だが、あの日飲み屋で見た男の横顔は俺よりもずっと歳を重ねていただろうに、まるで青年のように輝いていたではないか。
俺は何よりそれが羨ましかった。
そしていつしか俺も、男のまぶたにうつる“奴”を恋しがるようになっていたのだ。
ああ、また声がする。老若男女の声色を何十にも重ねたような音のなんと愛おしいことか。まぶたにうつる姿はぼやけているが、奴は一体どんな姿をしているのだろう。いや、どんな形でも構わない。俺があいつに恋をしているという事実はかわらないのだ。
俺もまた、男と同じ道をたどろうと思う。どうにも衝動をおさえられそうにない。この手紙を読むお前には申し訳ないが、俺はお前にすべてを託していくつもりだ。
ああ、また奴が俺を呼んでいる。
そのうちお前にも会わせてやろう。
ではまた。
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