最終章 女神の殺人

 坪内つぼうち刑事がハンドルを握る覆面パトは、国道145号線を西に向かって走っている。現在位置は群馬県吾妻郡長野原町あがつまぐんながのはらまちの辺りだ。

 理真りまと私は揃って後部座席に座している。いつもであれば理真は助手席を好むのだが、今度ばかりは私と一緒に後ろに乗った。応接室で一度会ったきりだが、万が一、顔を憶えられていて、助手席に乗る理真の顔をバックミラー越しに確認されるのを防ぐためだ。坪内刑事もその場にいたが、今は私服を着てもらいサングラスを掛けているので、発覚する心配はないだろう。

 その証拠に、すぐ前を走る車は私たちの尾行に気付いた様子もなく、途中コンビニに一度寄ったきりで、変わらぬペースで走り続けている。


 理真は長期戦も覚悟していたようだったが、一週間後の土曜日にそのチャンスはさっそく訪れた。

 張り込みをしてくれていた刑事から、対象が車で出かける、という連絡を午前中にもらったのだ。

 張り込みの刑事らは、途中で合流した坪内刑事、理真、私が乗る覆面パトに尾行を受け渡し、こうして尾行を続けている。


 目の前を走る軽自動車は、国道から狭い脇道に入った。当然、私たちの車もそのあとに続く。

 パステルイエローのいかにも女性向けの軽自動車は、しばらく脇道を走ってから、周囲を田畑に囲まれた農道に入る。その先に小さな一軒家が見える。どうやらそこが目的地のようだ。ブレーキランプが灯った。

 坪内刑事は、車の通りが他にまったくない農道まで入って尾行を続けると怪しまれるため、農道の入り口で一旦車を停め、車窓越しに軽自動車の挙動を窺っている。理真と私も同じだった。

 果たして、尾行対象である軽自動車は一軒家の前で停車した。エンジン音も止まり、運転席側のドアが開く。車内から姿を見せたのは、チェニックワンピースの下にゆったりとしたズボンを履いた長身の女性。図らずも、私たちがシナダプロ応接室で出会ったときと同じような服装だった。

 その女性は大きな鞄を肩に提げ、一軒家の玄関の呼び鈴を押す。しばらくして玄関ドアが開き、出て来たのは。


「やっぱり、間違いない」


 理真が呟いた。結構距離があるが、私にも分かる。理真は、


「行きましょう」


 ドアを開けて車を降りた。坪内刑事、私もそれに続く。

 玄関先では、車から降りた女性と家から出て来た女性が親しげに会話をしている。私たちが近づくのに気が付く様子はなかったが、足音を耳にしたのか、玄関から半身を出していた女性がこちらを向いた。瞬間、その美しい顔が強ばる。理真の顔を憶えていたのか、ただ単に他人に目撃されることに対しての恐れだったのだろうか。それに気が付いた車を運転していた女性も、こちらに顔を向け、やはり表情を強ばらせると、もうひとりの女性の手を取り、一緒に玄関の中に入ろうとしたが、


「待ってください、十川そがわさん」


 理真の声に動きを止めた。私たちが高崎市から尾行してきた車の運転手、十川は視線を下げて、向かい合っている身長百六十に満たない女性の顔を、その美しい顔を見下ろした。


「お話を聞かせてもらわなければなりません。……荒木あらきさんも」


 理真は二人の前まで辿り着くと、玄関から出て来たほうの女性にも言った。荒木は観念したように、こくり、と小さく頷く。恐怖、憂いを帯びていても、三枝恵美さえぐさめぐみの顔は変わらず美しかった。



「三枝恵美という女性は、やはり実在していなかったんですね。三枝恵美は、あなたたち二人と、もうひとり、又市またいちさんの三人で作り上げたものだった」


 家の中に入れてもらい、使い古した畳敷きの居間に通してもらった私たちは、理真の話を黙って聞いていた。

 坪内刑事が出入り口に立ち、私はその反対側の襖を塞ぐように座っている。理真は廊下側の障子戸の前に座る。十川、荒木の二人は私たち三人に囲まれるように、小さな座卓の前に座って俯いていた。念のための措置ではあるが、二人の様子を見る限り、ここから強行逃亡する恐れはないだろう。理真は続け、


「三枝恵美は、あなたがた三人それぞれの特徴をひとつにまとめた、三位一体ともいうべき存在だった。長身で抜群のボディは十川さん。美しい顔は荒木さん。そして、透き通るような美声は、又市さんのものだったんですね」


 十川と荒木は黙って頷いた。私はそんな二人を見つめる。特に荒木だ。応接室で会ったときとは、まったくの別人と言ってよかった。カーテンのように顔を隠していたセミロングの髪を、今はヘアバンドで留めており、度の強そうな眼鏡も掛けていない。そして、ノーメイクなのだろう、その素顔は、ネットの映像やスチールで見た三枝恵美そのもの。化粧は女の顔を変える。地味な顔を派手に美しく変えることが出来るのが化粧の力なら、逆もまた真なり、だ。美しい素顔を地味で平凡なものに変えることだって出来ようというもの。


「……巻田まきた社長を殺害したのは、荒木さんですか?」


 理真が口にすると、荒木は、びくり、と体を震わせた。その手を隣に座った十川がやさしく握って、


「わ、私もです。私たち二人であいつを殺したんです――」

恭子きょうこ!」


 荒木が十川の言葉を止めて叫んだ。〈恭子〉というのは十川の名だ。荒木は十川に向かって首を横に振ると、理真を見つめて、


「……私です、私が殺しました。恭子は後始末を手伝ってくれただけです……みどりも……」


〈みどり〉は又市の名。言い終えた荒木の目に涙が浮かんだ。


「どうして、私たちだと?」


 荒木とは対照的に、気丈な声で十川は理真に訊いてきた。その長身で小さな荒木を守るように身を寄せている。理真は、


「最初におかしいと思ったのは、あの、三枝恵美の犯行自供の映像でした。あれは、荒木さん、あなたのアパートで撮影されたものですね。撮影日時は先週の日曜午前九時頃」

「ど、どうしてそんなことまで……」


 十川と荒木は驚いた顔になる、やはり、デジタル映像に位置情報が記録されることは知らなかったのだろう。理真はそのことを説明して、


「私たちは当然現場に行きました。あのアパートは壁がそんなに厚くなく、隣の部屋で付けているテレビの音声が壁越しに聞こえてくることがありますよね。静かな朝などであれば、特に。私たちは隣の部屋の住人の方に確認しました。あの映像が撮影された日時に在宅していたかどうか、そして、テレビを観るなど、音を出していたかどうか。その方は日曜日の朝はずっとテレビ番組を観る習慣があったそうで、そのときもテレビを視聴していたと証言してくれました。いつもですと音漏れに気を遣ってヘッドホンを使っているそうですが、その日は朝早くからお隣が引っ越していき隣の304号室はすでに空であると思っていたため、スピーカーから音を流していたそうです。

 あのアパートは各階5号室までで、305号室の隣の部屋というのは304号室しかありません。反対側は外壁のため、304号室が空になったのであれば、音に気を遣う必要はもうありませんからね。であるにも関わらず、あの映像には三枝恵美以外の音声は一切入っていませんでした。彼女が沈黙する間にもです。撮影日時から考えて、あの日あの時間、304号室では、305号室から聞こえるテレビ音声が漏れ聞こえていたはずなのに」


 坪内刑事は、理真の頼みで先週の日曜午前九時にテレビを観ていたかを305号室の住人に訊きに言った際、実際に304号室に入り実験もしたそうだ。305号室の住人に当日と同じ音量でテレビを付けてもらい。坪内刑事が304号室に入る。はっきりと聞こえたそうだ。壁越しに隣室で鳴るテレビの音声が。映像で見たような、三枝が黙り込み無音となった場面で、その音声が拾われないということはあり得ないはずだ。にもかかわらず、映像には三枝の声しか入っていなかった。ということは。


「あの映像は、荒木さん、あなたを映した映像に後から又市さんが音声を当てたもの、つまり、アテレコしたものですね。今まで作られた三枝恵美の映像が全てそうであるように」


 理真の言葉に荒木は俯いて、僅かに首を縦に振った。肯定の意味合いなのだろう。十川は荒木の小さい肩を抱く。


「モデル三枝恵美の映像には、全て一貫した特徴があります。それは、全身が入った状態で顔を映した映像がひとつもないこと。足元からカメラが舐めるように全身を映していき、カットが変わって顔のアップが映る。そんな感じの演出映像ばかりです。それは、体を十川さんが、顔を荒木さんがそれぞれ担当していたために生じる、やむを得ない事情を誤魔化すための演出手段だった。

 制止画のスチールであれば、十川さんの体に荒木さんの顔をすげ替える、いわゆるコラージュを作ることは出来ます。静止画を画像ソフトでレタッチすることなど、今や誰もが当たり前にやっている技術です。世の好事家たちは映像や画像の徹底した検証を行いましたが、三枝恵美自体がコンピューターで作られたグラフィックスなのではないか、という点ばかりが検証対象となっていたため、こんな原始的な手はかえって見逃されてしまいました。画像ソフトの進歩には目を見張るものがありますし、それを作製する巻田社長の腕もなかなかのものだったのでしょう。

 動画に対して同じように手を加えることも可能かもしれませんが、静止画に対するそれと比較して圧倒的に手間とスキルを必要としますし、それに比例して見破られやすくもなる。そのため、巻田社長は映像媒体にはそういったコンピューターグラフィックスによる誤魔化しは一切行わず、カット割りの演出のみで対応することにしたのでしょう。

 ネット上の検証で、三枝恵美の映像、画像は、確かに実在する人間のものだと断定されたのも至極当たり前の話です。巻田さんが手を入れたのは、全身やバストアップスチールの顔のすげ替えだけなのですから。体、顔、どちらも間違いなく生きている人間のものだという結論に達するのも当然でした。音声はアテレコしてもバレようがないですからね。声だけの出演となるラジオだってそうです」


 荒木と十川は、理真の話を黙って聞いていた。


「荒木さん、十川さん、あなたがたの口から、巻田さん殺害の、その後の工作のことを話してもらってもよろしいですか?」


 荒木と十川は互いの目を見た。荒木は首を横に振る。それに頷いた十川は、


安堂あんどうさん、でしたっけ。全て分かっているというのでしたら、あなたから話して下さい。探偵の推理というものを聞いてみたいです」


 理真は、ひとつため息をつくと、分かりました、と言ってから自らの推理を語り始めた。


「事件発生の二月十五日の月曜日。荒木さん、あなたは巻田社長に倉庫前の部屋に呼び出され、そこで口論か何かが原因となって、巻田社長の背中を部屋にあったナイフで刺してしまいます。巻田社長の死亡推定時刻は十一時半前後のため、刺した時間はそれより少し前ということになります。巻田社長はその時点ではまだ生きていて、自分でナイフを抜いたことによる失血死が死因ですから。刺した瞬間はナイフが栓の役割を果たして、返り血は浴びなかった。

 巻田社長を刺してしまった荒木さんは、すぐに十川さんと又市さんに連絡を取り相談します。同じ〈三枝恵美〉を構成する仲間に。そこで、巻田社長刺殺の罪を三枝恵美になすり付けてしまうというアイデアが浮かび上がった。存在しない幻のモデル、三枝恵美に。

 まず、三枝の体担当である十川さんは、体の線がはっきりと出るワンピースに着替えます。この衣装は会社に用意してあったか、巻田さんが持ち込んでいたのでしょう。この季節にそのままの格好では怪しまれるためコートも手にし、頭には顔を隠すための大きな鍔を持つ帽子も被ります。帽子から僅かに見えた髪もウィッグですね。

 三枝恵美に変身を終えた十川さんは、その姿で犯行現場である三階から階段を使って一階に下り、そのまま廊下を抜けて正面玄関に出ます。逃走経路の途中にある非常口を使わなかったのは、防犯カメラに敢えて自分の後ろ姿を映し込んで、犯人は三枝恵美である、というニセの証拠を残すためです」


 犯人が逃走には絶好の場所にある非常口から逃げなかった理由。それは帽子の鍔で視界が遮られて非常口に気付かなかったせいではない。始めから非常口を使うつもりなどなかったのだ。非常口から逃げてしまえば、誰にも姿を目撃されずにビルから出ることが可能だが、犯人の、十川の目的は防犯カメラに自分の後ろ姿を映すことだったのだ。理真の推理は続く、


「正面玄関に抜ける際も、十川さん、あなたはなるべく人とすれ違いたくはなかった。廊下の端で好機を窺い、廊下に人通りが途絶えた隙を狙って正面玄関に向かい、誰とも会わずに防犯カメラの映像だけに自分の姿を残すことに成功した。

 市民の目撃情報によると、ビルを出た犯人はタクシーに乗り込みますが、これは十川さん、あなたではありません。前もって玄関の脇に控えていた荒木さんです。

 玄関を出た十川さんは、荒木さんと合流してコートと帽子を渡します。腕に提げていたブラウンのコートと被っていた帽子を。そして代わりに、荒木さんが玄関を出るまで羽織っていたまったく別のコートと帽子を受け取り、それを着用してビルの中に、三階のシナダプロのオフィスに戻ります。防犯カメラを警戒して、この戻るときには裏の非常口を使ったのかもしれませんね。犯行時刻以降の映像を確認しましたが、十川さんらしき人物がビルに入ってくる映像はありませんでした。

 ブラウンのコートを受け取った荒木さんは、それを羽織ってタクシーに乗ります。荒木さんはオフィスを出る際にメイクを落として素顔だった。三枝恵美であるその顔を、あなたは帽子、サングラス、マスクで隠してビルを出ていました。

 タクシーに乗り込んだ荒木さんは、高崎駅前へ、と行き先を運転手に告げ、座席で帽子、サングラス、マスクを取り窓の外に顔を向けます。通行人に素顔を晒すことで、三枝恵美がタクシーに乗っていたという証言を広めるためです。

 思惑通り、それを目撃した市民がSNSで『三枝恵美がタクシーに乗っていた』ということを呟きます。これによってここに、犯人三枝恵美の逃走経路が確立されました。

 高崎駅前でタクシーを降りた荒木さんは、巻田社長のマンションに向かい、死体から奪っていた部屋の鍵を使って部屋に侵入します。目的はただひとつ。巻田社長が作った三枝恵美の素材が入ったパソコンを回収するためです。そこには当然、素材元となった荒木さん、十川さんの写真、又市さんの音声データなどが残されていたことでしょう。三枝恵美にこの事件の犯人になってもらわなければならないため、三枝恵美は実は実在しないモデルだった、という証拠を隠滅するためです。

 幸い巻田社長は、三枝恵美のことは自分ただひとりだけの独占情報として扱っていたため、他の人間に三枝恵美の秘密は漏れてはいません。巻田社長亡き今、そのことを知るのは、荒木さん、十川さん、又市さんの三人のみ。こうして、幻のモデルであり殺人容疑者の三枝恵美は完全に消え去ることとなりました。本当に幻となったのです。ここまでで、何か間違っていること、事実と異なるところはありますか?」


 十川、荒木ともに首を横に振った。理真は、そうですか、と続け、


「さて、首尾よく幻のモデル三枝恵美に巻田社長殺しの罪を被せたあなた方でしたが、いつまでもこのままでいられるわけがありません。特に危険なのは、素顔が三枝恵美そのものな荒木さんです。十川さんは普段は体の線が隠れるゆったりとした服を着ていますし、三枝恵美の声は又市さんの演技でしょう。日常生活からそれが発覚する可能性は低い。

 一刻も早く犯行現場から遠ざかるため、荒木さんはシナダプロからの退職を決めます。ちょうど派遣社員の期間が終わる頃で、延長を断ることにしました。その際に、あなた方三人はまた一計を案じ、三枝恵美を容疑者でなく、完全に殺人犯人に仕立て上げる計画を練り、実行します。それが、あの犯行告白の映像でした。

 引っ越しの日曜日、荷物を出して空になった荒木さんの部屋で映像を撮影します。カメラの前に立つのは当然素顔の荒木さん。身長が露見しないよう、荒木さんは椅子に座り、肩から上しか映さない構図で撮影に入ります。ですが、ここでトラブルが。隣室の住人が観ているテレビの音声が壁越しに漏れてきてしまったのです。本来であれば、台本を用意して、荒木さんは声を出さずに口パクの演技をして、カメラの後ろに立った又市さんが同時アテレコをするという手法を取る予定だったのでしょう。テレビの音声をマイクが拾ってしまったら、撮影場所と時間が発覚してしまう恐れが非常に高い。まあ、それ以外のことで撮影場所、日時は分かってしまうのですが、ともかく、あなた方はとりあえず撮影だけ済ませ、その映像の音声をカットして又市さんが録音をし直すという手に変更します。それくらいの機材であれば、アナウンサー学校に通っていた又市さんの家にあったでしょうし、なかったとしても、今はネット上のフリーソフトでそういったものを入手することは容易です。

 翌月曜日、完成した映像が記録されたSDカードを会社のポストに投げ込み、計画は万事完了。となりました」

「……間違いありません」


 理真が確認を取るよりも早く、十川は自分たちの行動が理真の推理通りであったことを認めた。理真は続けて、


「荒木さん。あなたはシナダプロを辞めたあと、派遣会社の登録も解除して行方をくらましてしまいました。ですが、一連の犯行を見るに、あなた方は非常に強い絆で結ばれていると感じました。であれば、早い段階で十川さんか又市さんが、荒木さんの隠れ場所に差し入れでも持って訪れるかもしれない。私は警察に頼んで、十川さんと又市さんをマークしてもらっていたのです。そして、十川さん、あなたが今日、動いた」


 十川はため息をつき、荒木はその十川の腕の中で、小さい体を震わせて泣いていた。


「あいつは、巻田は……」十川は、荒木の背中をやさしく撫でながら話しだした。「私たち三人を集めて、アイドルにしてやる、と言ってきました。私の体、麻美あさみの顔、みどりの声。これら三つを合わせれば、完璧なアイドル、いえ、完璧な女性が出来上がるんだと……」


 麻美、は荒木の名だ。十川は続け、


「私たちも、最初は面白がって参加していました。私たちの他に撮影に立ち会うのは、当然巻田ひとりだけ。実際、完成した映像やスチールを見て私たちは驚きました。完璧な体、完璧な顔、完璧な声を持つ、完璧な女性がそこに存在していました。まさに女神でした。

 ラジオに出演したときは、電話口で巻田がDJからの質問に、ああ答えろ、こう答えろ、とカンペでみどりに指示を出して、みどりはそれに対してうまく対応して、でも時々とんちんかんなことを返したり。そばにいた私と麻美は、笑い声をかみ殺すのに必死でした。……楽しかったときもありました。

 結局あいつは、私たちのことを三枝恵美のパーツとしてしか見ていなかったんです。でも、麻美のほうが巻田に対して本気になりました……」


 十川は荒木を見た。荒木は、すすり泣きの声を強める。


「……あいつ、巻田は麻美と体の関係を持ちました。それ以降も、巻田は何度か麻美の体を求めてきたそうです。でも、それだけ。麻美の想いに答えることは一切なく。体だけの関係。念の入ったことに、巻田は決して自分の部屋に麻美はおろか、私たちも呼ぶことはありませんでした。

 呆れたことに、巻田は私にも同じようなことを求めてきました。でも、みどりに対しては一切そういうことはなし。御存じか分かりませんが、みどりは男性に好色な目で見られるような容姿ではないためでしょう。でも、みどりがそれに対して何か言うことはなかった。みどりは、三枝恵美を演じることを一番楽しんでいました。元々声優志望だったため、歌まで収録して、かつての夢が甦ったような気持ちになっていたのではないでしょうか。

 でも、麻美は限界でした。このままの状態で三枝恵美を続けていくことなんて出来ない。何度も巻田に訴えたそうです。でも、その都度巻田は、『今はもう少し我慢しろ』の一点張りで、麻美の想いに答えるとも、そうでないとも明言しないまま、私たち三人を理想の女性として仕事をさせ続けました。そんな麻美の気持ちが爆発したのは、去年のクリスマスでした……」

「三人とも、ブランド品をプレゼントされたんですね」


 理真の言葉に十川は、「御存じなんですね」と言って、自分の鞄から財布を取り出した。そのブランドは、〈ボッテガ・ヴェネタ〉荒木も戸棚に手を伸ばして財布を手にする。〈フェンディ〉の財布を。そして、又市の手には、〈ルイ・ヴィトン〉の財布が贈られていたのだろう。

 何十万円もするであろうブランドの財布を、ゴミでも扱うかのように荒木は畳に投げ出した。十川もその隣に自分の財布を投げる。焼けきった畳と美しい革製のブランド財布のコントラストが激しい。


「このあと、みどりもここに来ます。そして、三人で一緒にこの財布を処分するつもりでした……」


 十川が言った。床に投げ出された財布を見て理真は、


「〈ボッテガ・ヴェネタ(Bottega Veneta)〉の〈B〉、〈フェンディ(FENDI)〉の〈F〉、そして、又市さんには、〈ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)〉の〈V〉 つまりそれぞれ、〈Body〉〈Face〉〈Voice〉の頭文字。体、顔、声、というわけですね……」


 荒木は再び十川の胸に顔を埋めて泣き出した。十川の頬も、いつの間にか涙で濡れていた。


「麻美は悪くない……全然悪くないの……」


 自身も涙声になりながら、十川は荒木の背中をやさしくさする。


 表に近づいてきたエンジン音が止まると、車のドアを開け閉めする音、そして呼び鈴の音が響き、「麻美ー、恭子ー」と荒木と十川の名を呼ぶ女性の声が聞こえた。又市の声だろう。私が聞いた三枝恵美の美しい声とはまったく違った声だった。

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女神消失 庵字 @jjmac

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