第5章 ギフト
アパートの前に到着し、私たちが覆面パトから飛び降りると、すぐにひとりの制服警官が
「撮影されたと思われる部屋が二部屋に絞り込まれました」
制服警官はそう告げたあと、一度、私たちに訝しげな視線を投げてきたが、坪内刑事が、「いいんだ」と手を上げて制してくれた。
映像データからの撮影日時は、昨日の午前九時。今日が月曜日だから、撮影されたのは日曜日ということになる。このアパートは全ての部屋がワンルームの単身者向けの物件で、大学生やフリーター、若い社会人で店子のほとんどが占められている。月曜のこの時間、多くの住人は学業や仕事に出ているが、大家から連絡先を聞きつけ当該時刻のアリバイの確認をしたところ、その時間は部屋にいたという回答がほとんどだった。
独り身のため、アリバイを保証してくれる人はいないが、その証言にとりあえず嘘はないと警察は見ている。映像が撮影されたと思われる部屋の目星が付いたためだ。
現在このアパートには空き部屋が二つある。そのうちのひと部屋は長く空室となっており、鍵は大家から依託された不動産会社が持っている。この部屋への侵入することは難しいだろう。
もうひと部屋は、つい昨日、住人が退去したばかりだった。部屋の鍵はお昼に不動産会社へ返却されている。映像は、その直前に撮影されたのではないかと警察は考えている。
「ここです」
制服警官は、〈304〉と部屋ナンバーのプレートが付いた扉の前まで私たちを案内してきた。昨日住人が退去したばかりの部屋。各階には部屋が五つ並んでおり、304号室の左右の部屋にはガス、水道などを使用していることを知らせるシールが扉に張られており、住人がいることを知らせている。
手袋をはめた坪内刑事がドアノブを掴み回し、扉を引き開けた。理真と私も懐から愛用の手袋を取り出してはめる。
「……まさにここですね」
簡易なキッチンとユニットバスだけが付随されたワンルームの部屋に足を踏み入れた
退去した後とあって、当然室内、バスルームにも家具調度の類は何も残されていない。
何やら、がさがさと音が聞こえる。壁の向こうから聞こえることから、隣の部屋の住人の生活音のようだ。よく聞くと、生活音というかテレビの音声か。音声からすると、夕方にやっている再放送のドラマらしい。お隣さんは月曜日が休日の職に就いているのだろうか。
「ここに住んでいた住人の確認は取れているのか」
坪内刑事が玄関に立ったままの制服警官に尋ねる。その声でテレビの音は掻き消された。警官は手帳を取り出して、
「はい。名前は、
「派遣か、どこに務めているのかは?」
「現在、登録していた派遣会社に確認を取っています――」
制服警官がそこまで言ったとき、
「ツボ!」
と私服刑事が扉から駆け込んできた。
「どうした?」
と、ツボ、こと坪内刑事は声を掛ける。坪内刑事と同年代程度に見える駆け込んできた刑事は続け、
「ここの住人の派遣先が分かった」
「どこだ?」
「訊いて驚け、シナダプロだよ!」
「何だって?」
坪内刑事の叫びと同時に、私と理真も駆け込んできた刑事に顔を向けた。坪内刑事は続けて何か言おうとしたようだったが、駆け込んできた刑事はそれにかぶせて、
「確認したんだが、荒木は先週末でシナダプロとの契約が切れている」
どうやら、坪内刑事が訊きたかったことを先に言ってくれたようだ。理真は坪内刑事を見て、
「坪内刑事、シナダプロに行きましょう」
私たちは部屋を出て、階段を駆け下りると覆面パトに跳び乗った。
「坪内刑事、あの部屋に住んでいた荒木という女性、もしかしたら、私たちが訪れたときにお茶を出してくれた女性なんじゃありませんか?」
車内の後部座席から、理真がハンドルを握る坪内刑事に訊いた。
「えっ? あのときの、地味な制服を着ていた女性ですか? ……そういえば、
坪内刑事は上目遣いになり、何かを思い出そうとするような表情になる。そうだっただろうか。私は記憶力に自信がなく、そこまで憶えていない。
「ただ同じ姓の別人と言う可能性は、もちろんありますが……」
呟いたまま、理真は黙って車窓を見つめた。春の訪れはまだ遠い。道行く人は皆、厚手の上着を羽織って寒そうに外を歩いていた。
「そうです。あのときの
シナダプロの応接室で、再びまみえた専務の近藤は、理真の質問にそう答えた。
やはり、あのアパートの部屋、すなわち、
「辞める理由など、話していましたか?」
「いえ、ちょうど派遣の契約が切れたんですよ。本来ならば期間を延長するという話をしていたんですけれどね。やっぱり契約通り辞めると突然言われてしまいまして。理由を聞く暇もなく……いや、親しかったスタッフは何か聞いていたかもしれません」
近藤はソファから立ち上がり、電話台の内線電話の受話器を取って、
「
近藤が内線で告げてから程なく、ノックの音のあとに女性が入室してきた。
「失礼します」
入ってきた女性は、長身の体をぺこりと折り曲げた。ゆったりとしたチュニックワンピースの裾が揺れる。チュニックの下には厚手のセーターを着ており、下はゆったりとした麻のパンツ姿。
「十川くんは私服派でね」
入ってきた女性にソファに座るよう手で促して、近藤は言った。十川、と呼ばれた女性が一礼してから腰を下ろすと、近藤は、
「荒木くんのことについて聞きたいんだがね。荒木くん、何かここを辞める理由とか言っていたかな? 十川くんは荒木くんと親しかっただろ」
はい、と力ない返事をしてから十川は口を開き、
「家の事情とか、何とか聞きましたけれど、詳しいことまでは……」
長身を小さくするようにソファの中で縮こまり、か細い声で答えた。その多少面長の顔も憂いたようにしかめられている。セミロングの髪が無造作に広がっている。失礼だが、私服と相まって、大人しい地味な女性という印象を受けた。
それきり十川が黙ってしまったので、近藤は坪内刑事にも、何か訊きたいことはないかと話を振る。坪内刑事は、さらに理真に、
「
と理真を向いた。理真は黙って十川を見ている。三枝恵美の犯行証言動画を見ていたときと同じ目をしていた。十川は、そんな理真の視線から逃れようとするように、さらに体を小さくさせる。
「十川さん」
「は、はいっ?」
理真から突然声を掛けられ、十川は、びくり、と体を震わせた。
「な、何でしょうか……?」
「事件の起きた日、十川さんは出社されていましたか?」
「え? じ、事件って……社長の……?」
恐る恐るといった表情で十川が答えると、理真は頷く。十川は、
「は、はい、私も派遣なんですけれど、土日祝日以外は、基本全部……」
ただでさえ地味な声質のうえ小声のため、非常に聞き取りづらい。メモを取る必要から、私がよくヒアリングしようと前のめりになると、それだけで十川は体を引いて背もたれにぴたりと背中を付けてしまった。
「荒木さんも出社されていましたか?」
「あ、荒木さん……え、ええ、彼女も私と同じで、平日は全部出ていましたので……」
「いや、荒木くんはあの日、午前中だけで早退したんじゃなかったか?」
口を挟んできたのは近藤専務だった。
「あ、そ、そうでしたっけ……よく憶えていません……」
十川はしどろもどろになって答えた。理真はそんな十川を見て、
「……ありがとうございました」
「は、はい……じゃあ、私はこれで……」
最後に理真がにこりと微笑むと、十川は明らかに安堵した表情になり、ソファから立って逃げるように応接室を出て行った。理真は、十川が出るとすぐに近藤に、
「近藤さん。こちらで働いている社員の履歴書を拝見出来ますか? 女性のものだけで構いません」
「え、ええ、いいですよ。ちょっとお待ち下さい」
十川に続いて近藤も応接室を出ると、理真は今度は坪内刑事に、
「坪内刑事、お願いが」
坪内刑事は理真の頼みに、任せて下さい、と言い残すと、意気揚々と応接室を出て行った。
「お待たせしました」
数分後、書類の束を抱えて近藤が戻ってきた。近藤は履歴書を束ねた書類をテーブルに置くと、
「あれ? 刑事さんは?」
「坪内刑事は、ちょっと用事があって」
言うなり理真は履歴書を広げた。坪内刑事は理真の依頼を訊いて荒木が住んでいたアパートに戻ったのだ。
理真は黙々と履歴書をめくっていく。理真の視線は、履歴書上のひとつの項目に集中していた。学歴、職歴欄だ。
「……みつけた」理真は一枚の履歴書を手に取った。理真は手にした履歴書を近藤に向けて、「この方はまだ在籍されていますか?」
近藤もその履歴書に目を落として、
「
履歴書の姓名欄には、〈又市みどり〉と書いてあった。隣に張られている写真は、眼鏡を掛けた、平凡としか形容のしようのない平凡な女性。
理真が熱心に目を向けていた学歴、職歴欄を見ると、群馬県内の中学、高校を卒業後、専門学校に通ったあと派遣社員になった、とある。専門学校の名前は、〈グランアカデミアアナウンス学院〉アナウンサーや声優の養成学校だろう。
近藤は内線電話に向かいかけたが、
「いえ、お呼び立てするほどでは。在籍されていることが分かればいいんです――」
理真が近藤を止めると、聞き慣れたメロディが鳴った。〈着信音1〉理真の携帯電話だった。失礼、と断って理真は応答する。
「坪内刑事。……はい、はい……そうですか。ありがとうございました」
通話を終えた理真は電話を切ると、
「近藤さん。ありがとうございました。私たちはこれでお
とソファを立ったが、最後に近藤に、
「近藤さん。最後に、先ほどの又市さんの姿だけでも見せていただけませんか? 仕事をしているところを遠目で見るだけでいいんです」
理真と私はオフィスで働く又市の姿を目に収めてからビルを出た。
又市という女性派遣社員は、にらめっこするようにパソコンのディスプレイを眺めてキーボードを打っていた。座っているので正確には分からないが、成人女性としては平均的な身長だろう。ちょっと赤ら顔でふくよかな外見をしており、彼女も制服派だった。
「理真、どうだった?」
ビルから出ると、私はさっそく理真に坪内刑事に確認しに行ってもらった件の答えを訊いた。
「うん、思った通りだった。303号室の住人は土曜の夜から友達の家に泊まっていて留守だったけれど、305号室のほうは、昨日の午前九時は部屋にいたそうよ。しかも、テレビを観ていた。ヘッドホンを掛けたりしないで、スピーカーから音を出してね」
ということは、やはりあの映像は……私が考え込んだ直後、理真が車道に向かって大きく手を上げた。見ると、坪内刑事の運転する覆面パトがウインカーを出して歩道に横付けしてきたところだった。理真が助手席、私が後部座席にそれぞれ乗り込み、覆面パトは発進する。
「坪内刑事。殺された
車中で理真が訊くと、坪内刑事は、「お金の動き? 大きな買い物とかですか?」と上目遣いになって、
「巻田は意外と、と言っては失礼かもしれませんが、芸能プロの社長というイメージからは遠い、堅実な暮らしをしていたようですからね」
「例えば、去年のクリスマスに高額な買い物をしたとかは?」
「クリスマス……二ヶ月前ですね。帳場(捜査本部)に戻ったら調べてみましょう」
「お願いします」
「安堂さん。巻田のクレジットカード使用履歴が取れました」
捜査本部である高崎
「十二月に、高額な買い物を三件していませんか?」
理真が問いかけると、坪内刑事は書類に目を落としながら、
「えーと……そうです、そうです。十一月二十一日から十二月二十日の間の使用履歴に、何十万単位の買い物で三回カード支払いをしていますね。えーと……一件目は、ルイ・ヴィトン。ブランド品ですね。で、二件目が、フェ、フェンディ? 確かこれもブランド名ですよね?」
「ヴィトン……フェンディ……」
坪内刑事の報告を聞いた理真は、呟きながら右手の人差し指を下唇に当てた。これは理真が考え事をするときの癖だ。
「ブイ……エフ……もうひとつは、エス……? 坪内刑事、三件目は、サマンサ・タバサかシーバイクロエじゃないですか?」
「えー、三件目はですね……ボ、ボッテ……ガ……」
「ボッテガ・ヴェネタ?」
書類に書かれているブランド名を読み上げるのに難儀している坪内刑事に、理真が助け船を出した。
「ボッテ……そうそう、そうです。三件目は、そのボッテ何とかというところで買い物をしています。これもブランド名なんですか?」
坪内刑事は、最後までイタリアを本部に持つファッションブランドの名前を口に出来なかった。
「ボッテガ・ヴェネタ。そうか、ボディ、のビーか」理真は納得したような顔になって、「坪内刑事。お願いが。長期戦になるかもしれませんが……」
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