Every man is the architect of his own fortune.
君は君という存在を正しく定義できるだろうか?
私は君に問おう。
君がどのような生き物で、どのような存在で、どのような来歴があるのか、私には分からない。正直に言ってしまうと瑣末なことだ。
君が幻子、あるいは電子の織り成す茫漠たる海の先でここに漂着したのならば、それなりの知性体なのだろう。有り体に言うと、それさえ分かれば十分なのだよ。
これも何かの縁だ。少しくらい問答に付き合い給えよ。
さて、というわけで最初に立ち戻ろうか。
君は君という存在を正しく定義できるだろうか?
目、鼻、口、耳、手、あるいは頭、胸、腕、脚、言い換えるならば肺、胃、心臓、腸、脳、別の言葉で言うならば肉体、精神、魂、突き詰めれば水素、炭素、酸素、窒素、リン、硫黄、ナトリウム、カルシウム、カリウム、塩素、マグネシウム、フッ素、ヨウ素、セレン、ケイ素、ホウ素、鉄、亜鉛、銅、ヒ素、マンガン、モリブデン、コバルト、クロム、バナジウム、ニッケル、カドミウム、スズ、鉛。
そのどれもが君という存在に附帯するパーツだ。しかし君自身とは一体どこにあるのだろうか。
これはそういう問答だ。
解答はなく回答しかない。
ある学者は魂こそが本質だと言ったらしい。
かつて発表された医学者の論文によると、脳こそが個人を定義するものだという。
どちらもそれなりに説得力がある。君にこの後予定がないのなら読んでみるといい。
どちらもアーカイブ化されており、まあ、読み応えもある。そうだな。まだ日も高い。
テラス席のある瀟洒な喫茶店で昼下がりの読書などと洒落込むのもいいだろう。
珈琲の味が分からないからといって尻込みすることはない。雰囲気が六割だと聞く。
つまり味が分かれば四割得をするということだ。
君のアクセスポイントに偽りがないのであれば、最寄り駅の青い看板の喫茶店へ行くといい。雰囲気がいいと評判だ。味が分からないのなら、雰囲気の良い場所に行った方がいいに決まっている。
さて、話が逸れたか。
君はこんな話を知っているだろうか? 臓器移植をした患者が、その日を境に性格も嗜好も大きく変わったという話だ。体質の変化からなのか、幻素線(エーテライン)の変質が招いたのか、はたまた単なる心境の変化なのか。
本当のところは分からない。しかし我々が我々たらしめていると思い込んでいるこの意識そのものはどうにも移り変わりやすいものらしい。
もしそうならば、君を君たらしめているはずだった君らしさとは何なのだろうな。
問いを繰り返そう。
君は君という存在を正しく定義できるだろうか?
例えば君の腕がどこかのマスクをつけたイカれたシリアルキラーに切り落とされたとしよう。調理用の包丁だ。なまじ切れ味が悪いのでさぞ痛いだろうな。
まあ、それはいい。
この時君の腕は君の腕であり、君自身はまさにシリアルキラーから息も絶え絶えに逃げる体のはずだ。
では君を上下に分割してみよう。
先程から例えが猟奇的なのは別に私がそういうものを好んでいるからではない。邪推しないでくれたまえよ。
さあ、この時、どちらが君だと問えば、上半身だと答えるだろう。
ではここで本題だ。
君を左右に分割した時、君はどちらだ?
両方がそうだと答えるならば、それもいい。
同じことを君は全身をサイコロステーキにしても言えるならばだがね。
それは最早君だったものだと思うだろう。
では何分割されるまで、君は君だったのだろうか。
どのように捌けば君は君を君だと認識し続けられるのだろう。
君はいつ、何故、どこへ行ってしまったのだろう。
そもそも君はどこにいたのだろう。
今一度私は繰り返そう。
君は、君を、正しく定義できるか?
〆
梅雨明けから三週間あまり。久しぶりの雨は呆れるほどの豪雨だった。
店のカウンターから陳列棚の間を縫って窺える軒先の街道は、色彩を洗い流され色褪せている。
分厚い雲に陽光の遮られた薄暗い風景は、まるで吸い殻のようでさえあった。人の気配はまるでなく、普段は遠くから聞こえてくる喧噪も今はない。
ただ大粒の雨が叩きつけられる音だけが続き、ふとした時に遠くで雷雲が唸る。雨垂れが律動を刻むように一定の間隔で耳朶を叩き、多種多様な雨音が街に溢れかえっていた。
空が音楽を奏でるような、と例えるにはあまりにも雑多で、子供が楽器で遊んでいるかのようだ。
技術大国ソーンチェスターの首都に隣接しながら、時代遅れな導術時代の文化を色濃く残す旧き街ヒュジウォーシャは、その古くささも相まって墓場のような様相を呈していた。
こんな悪天候では商売も立ち行かない。尤も、旧時代の象徴の古物を取り扱う古導具店ならば、コバルトを透かしたような青空と弾けるような真白の陽光の下であっても、繁盛という言葉とは縁遠いだろう。
しかし、今日は事情が違った。いや、もしかしすれば、或いは、そういった店に訪れる客とは常にそういった類だったかもしれない。
この豪雨の中、目深にフードを被り、息を切らして走る者がいた。布に包んだ長物をまるで我が子のように抱き抱えた男は、脇目も振らず煙る雨を振り払い旧い街並みを駆け抜ける。息も絶え絶えになりながらも決して止まることのない男の姿は決して穏やかではなく、明らかに不審でもあった。旧い町並みを駆ける男が、ふと店の軒先で立ち止まる。
古導具店『アンダンテ』――筆記体で記されたシンプルな店名を凝視し、男は時間を惜しむように歩みを進め、営業中を示す掛札のかけられた入り口のドアを半ば力任せに開け放った。
曇天だというのに灯りのつけられていない店内は薄暗く、静まり返っている。ドアを押し開いた打音の余韻がいつまでも響いているような錯覚さえあった。
濡れ鼠となった男の全身からは絶え間なく雨粒が滴り、しとしとと板張りの床に水溜まりを作っていく。
陳列棚には古びた革張りの本と、数え切れないほどの導具が整列している。しかし、男は商品になど目もくれず、店の最奥に設えられたカウンターで頬杖をかく店主が凝視していた。
白い髪に褐色の肌、およそこの国の人間とは思えない容貌をしている。
目深にフードを被った彼は床を踏み抜きそうな足取りで進み、カウンターに抱え続けていた長物を置いた。
「あんた、これを買い取ってくれ」
雨に体温を奪われたのか、フードの内側から吐き出された声は震えている。癖の強い白髪を無造作に掻いた店主は何かを諦めるようにため息をつき、渋々といった様子で居住まいを正した。
「一体なんなんだ? こいつぁ」
腹の底に響くような低い声で店主は問う。その問いに男はかじかむ指先で何度か失敗しつつも紐を解き、包みを雑然と開いた。
抜き身の剣が一糸纏わぬ姿を二人に晒す。飾り気のない両刃の刀身、鐔の側面には子供の頭ほどの橙に透ける水晶玉が備えられていた。凝った意匠も、華美な装飾もない無骨な剣。薄暗さのせいなのかくすんでさえ見える鉄器に、店主は目を細め、困ったように頭を掻く。
「キュベリオン――破導大戦中期にグレベリース・ユニオンが軍用モデルとして鋳造した導剣だな。今でも根強い人気のある代物だが、言っちまえばそれだけの品だ。市場には今も少なくない数が出回ってるし、そんなに珍しい品でもない。何より状態が悪い。古導具としての価値はほぼないと言うしかねぇな」
「頼む。こいつを買い取ってくれ」
「そう言われてもな。うちは下取り業者じゃねぇんだ。古導具としての価値もなく、ありふれた導具を買い取るわけにはいかねぇよ。うちも商売でやってんだ。金がほしいなら質屋にでも入れてくれ」
「一晩預ける! 査定だけでもしてくれ! お願いだ!」
カウンターから身を乗り出し、男は店主へと迫るが、相手は微動だにしない。
店主の身体は逞しく、胸板は黒地のエプロン越しにもその厚さが分かる。無地のシャツから伸びる腕も太く、肌の色も相まって木の幹めいていた。そんな屈強さに比べ、フードの男は平均的な背丈と男にしては細い体つき。必至に迫ったところで脅しにもならない。
色味の暗い出で立ちの中にあっては一層鮮やかに際立つ紅い目を眇め、店主は肩を竦める。
「……査定するだけしてやるのはいい。ただ期待はしないでくれよ。手数料ももらうからな」
「それで充分だ。確かに預けたからな! 明日同じ時間に来る! それまでに査定しておいてくれよ!」
店主が何かを言うよりも先に男は身を翻し、逃げるように店を出る。これで目的は達成した。胸に心地よい充足感を抱き、叫び出したい衝動を押し止めて駆け出す。その矢先、小柄な少女の肩を身体が掠めた。
足取りをほとんど緩めず、不器用な踊りでもするように振り返るが、少女は倒れておらず、怪我もしている様子もなかった。ただ、とても不満そうにこちらを見つめている。
「悪いな、嬢ちゃん!」
燃える炎のように赤い髪の少女へ手短な謝罪をして、そのまま身体を前へ向けて再び走り出す。
こんな雨の中、しかもこんな古臭い町に若い女がいるのは、考えてみると奇妙だった。それに先程、かなり力任せに衝突したような気がするというのに、全くよろめいていないのも驚きだった。衝突そのものが気のせいだったとさえ思える。
何か引っかかるものもあるが、そんなことはどうでもいい。今はただ走るだけだ。気分がいい。どこまでも走っていけそうだ。
まるで憑き物が取れたように心は軽やかで、全身に叩きつけられる雨さえもが心地いい。
今なら、どこまでも走って行けそうだった。そう思っていたはずなのに、その足取りはやがて疎かとなり、やがて緩やかに立ち止まる。
降りしきる雨の中、立ち尽くす男は曇天の空を見上げ、眉根を寄せる。
「あれ? 俺、何してたんだっけ……?」
カウンターに横たえられた導剣を見つめ、眉間に皺を作ったイルマは呻吟する。
導具と呼ばれるものは、それが世間からどんなに駄作と言われようが好きだった。時代や環境に恵まれず、利用される数も少なく消えていった導具など数が知れない。むしろそういった導具は現存する数も少ないので、実物を見ることができれば喜びもする。
老朽化の激しい導具も決して嫌いではない。古導具商として買い取ることはできないが、劣化という個体差は見応えのあるものであり、その劣化する部分の位置や質の違いというものから情報を読み取っていくのは持ち主の側面を見るようで楽しい。
イルマは導具の性能ではなく、導具が今まで歩んできた歴史が好きだった
しかし、これは違う。臭ってくるのは時間の重みを感じさせる染みついた油の香りではなく、厄介事の臭いばかりだ。
「なんで、こうなるんだかな」
今日は早々に店じまいにしようと思った矢先にこの有様である。扱いに苦慮する案件ばかりがアンダンテには持ち込まれる。
今後の身の振り方を考えていると、来客を報せるドアのベルが再び鳴らされた。また厄介事かと身構えるが、入り口にあったのはいつの間にか見慣れていた従業員の姿。
「ただいまー。イルマ、今すれ違った人お客さん?」
「なんだ、あんたかよ」
「ご挨拶だね」
安堵のあまり口から零れ出てしまった言葉に、この店唯一の従業員である少女ユラハはむっと顔を顰めた。
「そりゃそうもなるさ。ていうか、随分と濡れてるぞ」
夏場のため、薄着だったユラハの服は雨に濡れ、黒いインナーが透けて見えていた。随分と降られたようだ。
「アリエスのこと、寮まで送ってきたからね」
「いつの間にやらすっかり仲良くなってんのな」
ユラハは今日友人と首都の方まで食事に行くため、二時間の中抜けを取っていた。元々その友人も、この店に客として訪れた少女だったのだが、ユラハとは歳の頃も近いということがあり、イルマの知らないところで随分と打ち解けたようである。
ユラハは様々な過去の繋がりを、様々な事情もあって一度は捨て去ってしまっている。そんな彼女がこうして新たな交流を持ち始めている傾向はイルマとしても喜ばしいものだった。土産話の一つや二つも聞きたいところだが、今はそれよりも優先すべきことがある。
「シャワーさっさと浴びちまえよ。そのまんまじゃ風邪引きそうだ」
「んー、それもそうだね。アタシもちょっと濡れっぱなしは気持ち悪いし」
シャツの胸元を摘まみ上げてユラハは苦笑する。
「この土砂降りの中、よく帰ってきたな。電話の一つでもくれれば、迎えに行ったってのに」
「ああ、そういえば。電話あるんだし、使えばよかったのか」
ジーンズのポケットに入れていた携帯電話を取り出しユラハはどこか他人事のように呟く。
「お前はもう少し――いや、いいか。とりあえず、何もかんもシャワー浴びてからだ。さっき来た客の話もしてぇしな」
「そだね」
二階に着替えを取りに行くユラハを見送り、イルマは諦めたように肩を竦めた。
本当はもう少し、他人に頼ることを覚えるよう諫めたかったが、それはイルマの言うべきことではないのだろう。
以前の事件で連絡手段を持っていないことの不便さを痛感し、イルマ名義で買い与えた携帯電話だが、ユラハから電話がかかってきたことは今まで一度もない。
ユラハを従業員として雇い始めて三ヶ月近く。どうにもユラハは他人に頼ろうとしないところがあった。
イルマに遠慮しているわけではないのだろう。そもそもとしてユラハは他人に頼るという選択肢があらゆる場面で欠けていた。
別に不器用なわけではない。どちらかといえば、あらゆることに対して彼女は器用で、順応が早く、何より筋がいい。むしろ、そのあらゆることを人並み以上にこなせてしまう素質こそが、他人に頼るという意識の欠如に繋がっているようにイルマの目には映っていた。
これまで誰にも頼らず、自分の力で多くを乗り越えてきたのだろう。そしてこれからもそうやって生きていくつもりなのだろう。もしかすると、誰もがそうして生きていると思っているのかもしれない。
イルマ自身、他人の生き方に口出しをできる身分ではないのだが、何かと小言を言いたくなってしまうのは歳を取ってきた証拠とも言えそうだ。口を開きかけては抑え込んではいるのだが、寄る年波には勝てないということなのだろうか。
いろいろと気にかかる点もあるが、まずは目先の問題からだ。ユラハがシャワーを浴び終わる前に、可能な限り共有できる情報を増やしておくべきだろう。
「よっこらせっと」
重い腰を上げるにしても親父くさい声を出してしまい、渋い顔をしたイルマは頭を雑然と掻く。不機嫌な空模様、湿気にうねる癖の強い頭髪、加齢を感じさせる自分自身、のしかかる様々な陰鬱を意識の外に追い出し、イルマは持ち込まれた導具へと向き合い始めた。
「あー、さっぱりした」
肩にタオルを引っかけ、湯気を纏ったユラハがスリッパをぱこぱこと鳴らしながらダイニングへと戻ってくると、イルマはいつものようにキッチンの前にいた。
「ココア入れといたぞ」
振り返った彼は浅く笑い、両手に持ったマグカップのうちの一つを、テーブルへとそっと置く。
「ああ、ありがと」
ユラハは椅子の上で足を抱えるようにして座り、両手で包み込んだマグカップを鼻先へ寄せた。
マグカップから立ち上る湯気に運ばれた甘い香りが鼻腔をくすぐる。胸をそっと満たすような、心を落ち着かせる香りだ。
お互いがココアを啜る中、少しの空白を雨音と遠雷が埋めていく。
イルマが作るものはどういうわけか、なんだって美味しい。そこまで差が出るはずもないココアでさえ、やはり何か味の深みが違うように思えてならない。ユラハが今居候している喫茶店のマスター、マギーが淹れる珈琲にも同じことは言える。
やはり、何かほんの少しの工夫が味が変えているのだろう。
なんとなくキッチンに腰掛けたままココアを啜っているイルマを見ると、視線に気付いたイルマが微かに笑った。
「あー、それで? 今回はどういうお客さんだったのさ?」
ユラハが問いかけると、イルマはあからさまに顔を顰める。
「正直、俺にもよく分からん。いきなり導具を買い取ってほしいって迫ってきて、一方的に査定だけ頼んで帰っていきやがった」
「話聞く限りはそこそこ普通の客じゃない? うちの客にしてはだけれどさ。それで、そんな顰めっ面ってことは、あまりいい導具じゃなかったわけ?」
「導具としての価値は今でも高いだろうが、古導具としての価値はないに等しいってとこだな。どうにもヤバげな雰囲気なもんで、とりあえずその場凌ぎで引き受けたんだが、明日までに何か対応考えておかないとなんねぇな」
あの客はどう見ても普通ではなかった。何か厄介事を抱えているように思えてならない。導具が何か面倒事をもたらす前に、手放しておきたいというのが本音だった。
「ちなみにどんな導具?」
「見るだけ見るか?」
ユラハが静かに頷くとイルマはキッチンに凭れていた身体を起こし、ダイニングから直接繋がる店のカウンターへと歩き出す。ユラハも椅子から降り、その後についていく。
カウンターの上にはユラハが帰ってきた時と変わらない状態で古臭い導剣が横たえられていた。
両刃の平均的な剣の見た目、操作性と拡張性に優れる鐔部分への側面配置の宝珠、術莢の装填も一般的なダブルカラムマガジン。くすんだ銀と黒の色彩は無骨で、個性がなく、古びた見た目からは岩か化石のような印象があった。
「キュベリオン、だっけ。アタシでも知ってる有名な導剣だ」
「どこまで知ってる?」
問いかけられたユラハは隣に立つイルマの顔を見ようとしてやめる。
イルマは男性にしても背が高く、対してユラハは同年代の女性の中では小柄な方だ。三〇センチほどの身長差があるため、自然と見上げることになって首が疲れる。
「軍用導剣としては、そこそこ有名ってところまで」
イルマはぼさぼさの白髪を雑然とかき、肩を竦める。もともと癖の強い髪が湿気でうねり、どうにも気に入らないようだ。
「キュベリオンは、およそ一一〇年前にグレベリース・ユニオンが開発し、国家統合体パックス・バリヤイストの前身となったセントラル経済ブロック連合軍に配備された導具だ。当時はノストシー連邦と緊張状態が続き、エスタノース軍との衝突も続いていた。その戦時下においてキュベリオンの性能は連合軍の勝利に大きく貢献したとされている」
「よくある導具にしか見えないけれど、そんなにすごいの?」
「その現代でいう、よくある導具の原型となったのがキュベリオンだ」
イルマの無骨な指先が宝珠に触れると、橙の光が放たれ、虚空に情報が転写されていく。
ライブラリが読み込まれ、宝珠に記録されている導式がリスト化されて表示される。多少古臭いデザインをしているが、見慣れた導具のインターフェースだ。
「コマンドラインによる操作が主だったそれまでの導具とは異なる導具史上初となるグラフィカルユーザーインターフェース搭載器。これがもたらす直感的な操作は学習コストを大幅に下げ、術兵の育成効率は格段に上がった」
導具は幻素線(エーテライン)によって所持者と接続され、意識によって操作される。要は四肢と同じように動かすことができるものだ。そのため慣れれば身体の一部として動かすこともできるわけだが、人の四肢は当然一般的には増えるものではない。
習熟には相当な反復練習を要し、導術の習得における最初の鬼門ともされている。
「文字の羅列が滝のように流れ込む情報を処理しながら、導具を意識によって扱うことは当然難しい。当時は導術がまだ真新しく、ナレッジの蓄積がなかったことも大きい。導術の始祖であるマギネイサーは、導術を『誰の手でも起こせる奇跡』と謳っていたが、実戦レベルで扱うことのできたのは一握りの素質ある者だけだったのが現実だった」
「それで数が増えたから、物量で押し勝てたってこと?」
「それも一因だな。それ以外にもキュベリオンには導術を扱いやすくする様々な工夫が施されている。高い操作性は結果として術兵の機動性を底上げし、遊撃の花形という確固たる立ち位置を手に入れたわけだ」
「なるほどねぇ。本当にこれまでの導具全部の先祖様なんだ」
「特にターゲットを絞った設計は今でも好例として設計士の話題に上がるほどだ。高位導術への対応を切り捨てることでライブラリの読込速度は格段に向上。導式から導陣への変換速度は当時の平均よりも二〇〇倍早かったらしい。この秘訣ってのが」
「そういう話はいいよ」
イルマのトークが熱を帯びてきたのを悟り、ユラハは手早く切り捨てる。そのまま放っておくといつまでも話し続けるので面倒なのだ。一番語りたかった部分だったであろう部分を拒絶されたイルマは何か言いたげにユラハを見つめてくるが、構っていてもしょうがない。
あまりにも専門的すぎる彼の導具雑学はユラハにとってムダな情報でしかなかった。
なんとなく今まで聞いた話を思い出し、ユラハは小首を傾げる。何かが腑に落ちない。
「今聞いた話だとすごくいい品だと思うんだけど、何が問題なの?」
ユラハの質問に、落ち込みかけていたイルマの目が活力を取り戻す。
「導具としての価値と古導具としての価値は似ているようで全然違う。キュベリオンはさっきも言ったが量産性を重視した導具だ。戦時中ということもあり、品質はピンからキリまで。そこを楽しむ好事家もいるがな。また、現代の導具と比較すると見劣りする性能。何より希少性というものが全くない。好事家だったら三人に一人は一振り持ってる具合だ」
「ありふれてて売れない?」
「全く売れないだろうな」
「うちの古導具が売れてるところ、そんな見たことないけれど。今更客受け考えるだけムダじゃない? 売れないってことは全部同じなんだよ?」
「うるせぇな」
ユラハは時折、辛い現実を平然と叩きつけてくる。
確かに古導具店『アンダンテ』の取り扱う商品はほとんど売れない。今更、古導具としての価値がないから買い取らないというのはおかしな話なのだろう。
「まあ、店長の方針ならいんだけどさ。あ、でもこの宝珠、珍しい色してる。これは何?」
「……分からん」
指摘され、イルマもようやく気付く。今まで気付かなかったのが不自然なほどだ。変わり種の客に気圧されてすっかり失念していた。
キュベリオンにはいくつもの派生系があり、宝珠も多種多様だが、ベーシックモデルなら鈍色をしているものが多い。
しかし、この導剣に嵌め込まれた宝珠は橙。見たことのない色だった。
夕陽を溶かしたような鮮やかな橙、透明感もあり、どこか琥珀めいた甘い輝きだ。
「持ち主がカスタマイズしたのかな」
「それにしたって、この色は珍しい。基本、宝珠の色ってのは元になった竜の種類によって決まるものなんだが、これは俺でも見たことがない」
イルマとユラハは目を合わせ、何度か瞬きをする。
「もしかして珍しい?」
「かもな。ちょっと調べてみる価値が出てきたかもしれない」
やる気が湧いてきたのか、手に持っていたマグカップをカウンターに置いたイルマは導具に向き合い始める。その大きな背中を眺め、ココアを啜ったユラハは唇の端を釣り上げた。
「んー、雨の中訪れた不審な客、ありふれた導具、極めつけに珍しい宝珠。なかなかきな臭くなってきたねぇ」
「滅多なことを言うもんじゃねぇ。あんたが言うと本当にそうなりそうだ」
「この店で導具を買っていく客も少ないけれど、トラブルのない案件はもっと少なかった気がするよ?」
宝珠から転写される導式基盤の羅列を眺めていたイルマが、ユラハからの容赦ない一言に項垂れる。確かに振り返ってみれば、ユラハが従業員として働き始めてから来たまともな客などレイヴァスとアリエスくらいかもしれない。
思えばこの三ヶ月の間にいろいろなことがあった。客の強盗未遂があったり、ランドマークタワーでのいざこざがあったり、大橋が落ちたりなどなど、枚挙に暇がない。月に一回は事件が起こっている。
「まだ三ヶ月しか働いてないだろ。来るときは来るんだよ、普通の仕事が」
「三ヶ月でこれってことでしょ? 普通は毎月事件なんて起こらないし、事件があることの方が稀らしいよ」
「あんたに普通を教えられるとは思わなかったよ」
苦笑いするしかない。
悲しいことに、イルマもユラハもおよそ普通と呼べるような人生など歩んだことがなかった。
人生という進路、疫病の風以外が帆へ当たった試しがない。
雨は日が暮れても変わらず降り続けていた。勢いを弱まらず、雷鳴が次第に近付いているようにさえ思える。時期を外れた豪雨に誰もが家の中に引っ込んでしまっていた。
町に人気はなく、くたびれた町並みもあって、ヒュジウォーシャは一夜限りの廃墟と化している。
雨粒は踊り、雲は謳う。大自然の享楽がいつまでも耳の奥に響いていた。
この有様では到底客など見込めず、アンダンテはほぼ閉店状態だ。ユラハもダイニングに引っ込み、イルマの淹れたココアを飲みながら鍵盤を叩き、導式構築に勤しんでいる。対するイルマもイルマでカウンターに向かい合い、黙々とキュベリオンの特異な宝珠を調べていた。
詰まるところ、いつも通りのアンダンテの風景だ。例え豪雨が来なくとも、アンダンテにはほとんど客など訪れず、訪れた客はいつだって厄介事を持ってくる。
強いて違いを挙げるとすれば、今日はもう帰ることを諦めたユラハが早々にジーンズを脱ぎ捨て部屋着のスウェットを履いていることくらいだろう。
雨音の不作法な演奏を聴きながら、二人それぞれ部屋を隔てて作業をする。何もかもがありふれた日常だ。
ユラハとイルマ、それぞれの鍵盤を叩く音に雨音が混じる。リズムというにはあまりにも不規則で、大雑把な律動。
イルマが、ジャズというジャンルは自由だ、と言っていたのをユラハはなんとなく思い出す。格好よくて渋くて、それが自由ならジャズらしい。あの時は適当なことを言っている、と思ったものだが、もし本当にそうならば無軌道に落ちては撥ねる音の群れもまたジャズなのかもしれない。
ただ、いつまでもその音楽の余韻を楽しんでいるわけにもいかなかった。
「ねぇ、イルマ。そろそろ夕飯の支度しない?」
鍵盤を叩く指を止め、ユラハはカウンターで作業するイルマの背中に声をかける。
「おー」
返ってきたのはそんな生返事。恐らく作業に没頭して、大して聞こえていないのだろう。
「イルマー?」
「おー」
中身の伴わない返事。相当集中しているようだ。
珍しいこともでない。導具を弄っている時のイルマはいつだってそうだ。
「もう。ホント集中すると周りが見えなくなるんだから……」
このまま気付くのを待っていても埒が開かないことも分かりきっている。やむを得ずユラハは立ち上がり、出入口にかけられたカーテンの隙間からカウンターに顔だけを出した。
「イルマさーん?」
「ん? おお、ユラハ、どうしたんだ?」
近くで呼ばれてイルマがようやく作業の手を止めて振り返る。
「そろそろ夕飯にしようってさっきから言ってるんだけど?」
「ああ、もうそんな時間か。そうだな、何か作るとしよう」
「随分と集中してたみたいだけど、何か収穫はあった?」
立ち上がりキッチンへ向かおうとするイルマの背中にユラハは問いかける。カーテンをくぐろうとしていたイルマは足を止め、ユラハへと向き直った。
これは話が少し長くなるだろう、とユラハはこれまでの経験で察する。
「分からねぇことばかりだよ。間違いなく導具としての外側はキュベリオンだが、導式基盤は俺が知っているものとまるで違う。内部機構にも違いがあって、どういうわけか十二階位までの術莢に対応してやがる」
「キュベリオンって六階位までにしか対応してないって言ってたよね」
「そこに間違いはねぇはずなんだが、それにしたって妙だ。一一〇年前って言えば、まだ導術もそこまで発展しちゃいねぇから、十階位以上の上質な幻素(エーテル)を必要とする導術なんてのは実用段階に至ってねぇはずだ。そもそも世に出回ってすらいなかっただろうよ」
「後々、持ち主がカスタマイズした可能性は?」
導具は高価な品だ。古い導具を改造して使い続ける人も多く、先祖代々受け継がれ、長々と使われる導具だって珍しくはない。宝珠などによって使い心地に差が出やすいこともあり、旧式を手放せない導術士も多くいる。
筋の通る推測ではあるが、しかし木の幹を思わせる筋肉質な太い腕を組んだイルマの表情は芳しくない。
「ありえねぇ話じゃあねぇが、腑に落ちねぇな。収まりが悪ぃっつぅのかね」
「何が引っかかるの?」
「客の様子が不審だったから穿って見てる部分もないとは言い切れねぇが、そんな簡単に済ましていい予感がしない。その証拠と言っちゃなんだが、奇妙なもんはまだまだある」
言ってイルマはキュベリオンの橙の宝珠に触れた。光を失っていた宝珠が再び目を覚まし、虚空に導式基盤の羅列を投写する。
「気になって型番を調べてみたんだが、どのモデルにも当てはまらねぇんだよ」
「誤植?」
投写された表示には『NM-022 Quvein Type-Duldhidoner』の記述。ユラハには何が違うのか全く分からない。
「キュヴェインはキュベリオンの開発コードネーム。Type-Duldhidonerってのは、まあ、派生系につけられるものなんだろうが、見覚えがねぇんだよ。Type-Dは夜襲特化モデルなんだが、こいつの導式基盤はそれ用のものじゃあねぇ。そもそもキュベリオンの型は慣例としてアルファベット一文字で振られていたはずだから、命名規則から考えると、そもそも存在自体するはずがねぇんだよ」
「何それ? 安いホラー?」
「ああ、俺もそう思えてきた」
正体不明の導具。製造元しか書き換えられないはずの型番が、本来存在しないもの。
確かにこれは嫌な予感がする。そもそもこの店に持ち込まれた導具という時点で十二分以上にきな臭いのだ。
「まあ、とにもかくにも飯にするか。食ってから、また調べてみるさ」
「そうだね。今日は何食べる?」
「どうすっかな。買い物行くのも面倒だし、あり合わせで作ろうと思うんだが……この前のハンバーグのタネ、まだ残ってたかな」
「残ってたらロールキャベツにしない?」
「それでいこう。あと適当に一品作れば、まあ、いい具合だろう」
メニューを考えながらイルマはダイニングへと入っていく。そこでふと思い出して立ち止まる。
「あー、ユラハ。キュベリオン、とりあえずしまっておいてくれるか?」
「はいよー」
ユラハからの返事を聞き、イルマはキッチンと向かい合う。
さて、何を用意するとしようか。いい加減キャベツは使い切ってしまいたいので、まずサラダは用意するだろう。サラダの準備はユラハに任せ、その間にもう一品、簡単なものを作れば時間もかからない。
ユラハは小柄で華奢な見た目からは想像できないほどによく食べる。量を作らなければいけないので手間こそかかるが、若者がよく食べる姿は見ていて心地がいい。作り手冥利に尽きるというものだ。
冷蔵庫の中身を思い出しながら、イルマは残りのメニューを考える。そういえば以前、客入りが悪く暇な時にユラハと二人でラタトゥイユを作ったことを思い出す。まだあれが少し残っていたはずだ。
エンジャーズ深林に住まう顔なじみがわざわざ贈ってくれた特製品のパプリカやトマトを贅沢に使った一品だ。あれは傑作だった。この機会に食べきってしまうのもいいだろう。
「なあ、ユラハ。この前のラタトゥイユ食い切ってくれねぇか?」
問いかけるが返答はない。そういえばキュベリオンをしまうだけだというのに、まだ戻ってきていないのもおかしい。
もしかするとキュベリオンで少し遊んでいるのかもしれない。ありふれた導具ではあるが、それでも好事家でなければ目にする機会の少ない品物だ。多少なりとも興味を示してもおかしくはないだろう。
その上、没頭し出すと周りが見えなくなる節がユラハにはある。
「たく……あいつは集中するとすぐこれだ……」
致し方なくキッチンを離れ、イルマはカーテンの隙間からカウンターを覗き見る。明かりも落とされ、夜の気配が染み込んだ店舗スペース、カウンターの端でユラハの細く薄い背中が半ば闇に溶けていた。
「おい、ユラハ、預かり物をあんまべたべた触るんじゃねぇぞ」
ぴくりと背中が動き、ユラハがおもむろに振り返る。カーテンの隙間から差し込んだ光が、片手にぶら下げたキュベリオンの刀身の上で弾けた。
何か様子がおかしい。ユラハの目に力がない。
「お前、誰だ?」
自然と投げかけたその問いに、ユラハがにたりと笑う。普段のユラハからは考えられない異質で、いっそ邪悪な表情。目の前にいるのは確かにユラハだが、今イルマと対峙しているのは別の何者なのだと直感した。
「さすがに見抜くか、フラベルジュ博士。噂通りのようだ。これはなおさら期待できるというものだろう」
ユラハの声で紡がれるユラハ以外の言葉。音の強弱、息遣い、発声方法、何をとってもユラハのそれではない。
そして何より、彼女が知るはずもない名前が出た以上、もう疑う余地はない。
「テメェ、そいつに何をした?」
イルマの低く唸るような恫喝めいた問いにも何者かは悠然と笑っている。ユラハの身体を借りている以上、当然といえば当然かもしれない。この正体不明の相手に対して、イルマは何か手を打つことも出来ない。
「何もしてなどいないさ。体を借りただけのことだ。この肉体は私と非常に相性がいいようだ。人間のものとは思えないほど、とてもよく馴染む。あなたに触れられた時にも少しばかり操ってみようと思ったのだが、どうにも思うように繋がらない。さすがはフラベルジュ博士というべきか」
「まさか幻素(エーテル)を通じて乗っ取ったってのか」
「察しがいいな。まあ、そういうことだ。何分やり取りの手段がないものでね。こうして身体を借りないと、あなたと誼を繋ぐこともままならないのさ」
ユラハの腕に握られた導剣、キュベリオンをイルマは一瞥する。構えるわけでもなく、武器として持っているようには到底思えない。
まさかとは思うが、やはりそうとしか考えられなかった。
「キュベリオンが受信機か。幻子空間を介してのハッキングとは恐れ入ったな」
正体不明のこの人物は恐らく、どこかから幻子の海を通じてキュベリオンにアクセスし、それを踏み台にユラハの幻素線(エーテライン)を乗っ取っている。導具に限らず、幻素(エーテル)を有するもの――言ってしまえば、この世に存在する万物万象は、幻子の海に繋がっているのだから、理論上不可能ではない。しかし、導具のみならず人体までもハッキングし意のままに操るなど前例がなかった。
意識というプロテクターを幻子が突破することは不可能だという通説が丸ごと覆される大事件だと言える。
だが、そうと分かれば、受信機であるキュベリオンを破壊すればユラハも解放されるはずだ。
イルマの思惑を見透かしたように、その何者かが両手を広げ、おどけたように笑う。
「いやいや、待ってくれ、フラベルジュ博士。私は別に彼女の生命活動を脅かそうなどとは微塵も思ってはいないし、あなたの正体を世間に公表するつもりもない。本当だとも。今こうしてこの肉体が無事であることがその証左とはならないだろうか?」
「用があるんなら直接出向いたらどうだ? こそこそと幻子越しにやり取りしなきゃいけねぇような話には付き合えねぇぞ?」
「そこには大きな誤解があると言わざるを得ないな、フラベルジュ博士。私は今確かに直接あなたの前に出向いている。彼女の身体を間借りしているのは意思疎通のために必要不可欠なことであって、仕方のないことだ」
意味を捉えあぐね、イルマはしばし言葉に迷う。
しかし、ある仮説に辿り着き、目を瞠った。
「まさか幻子空間上にパーソナリティだけを転写したってのか?」
「惜しいな。実に惜しい。そのような存在に私は実際成り得るのだろうが、しかし私という存在を正しく定義するものではない。私は私だ。ずっとあなたの目の前にいる」
そう言ってユラハの細い腕がキュベリオンを掲げた。
「これが、私だ」
その意味を理解しきれずイルマはしばし思案する。
「自分の脳を宝珠に移植したのか?」
「それも真実とは異なる。この宝珠は確かに私だが、後付けされた意識ではない。私はこれであり、これこそが私の唯一の残骸だ」
それは最早答えも同然だった。あるいはイルマは常にその答えを可能性の一つとして考えていたかもしれない。しかし、それはあり得ないことだ。正しくはあってはならないことだった。
そう思っていたからこそ、その結論に辿り着くことができなかった。
「……宝珠に利用された竜が自我を保っていたとでも言うのか」
ユラハ――いや、キュベリオンに宿った自我はにんまりと満足げに笑う。
「如何にも。私はこの宝珠の原材料となった竜だ。便宜上、キュベリオンとそのまま呼ぶがいい。都合もいいだろう。そして何より、今後ともよろしく」
そうして彼の竜――キュベリオンは道化師めいて粛々と頭を下げた。
「導具が自我を持つなんてありえるの?」
食卓を挟んで座るユラハから投げられた問いに、イルマは器具を弄る手を止めた。工具を指に挟んだまま顎を手でさすり、少し思案してからイルマは口を開く。
「学説としても度々上がる話だ。提唱者の名前を取ってヴィクセンの悪魔とも呼ばれてる」
「あー、そういう面倒くさい話はいいよ。実際ありえるの?」
「お前なぁ……」
あまりにも雑然とした返すにイルマは小言の一つも言いたくなるが、喉元まで溢れかけた言葉を全て飲み干し、渋い顔で口を開く。
「……あんたも知ってるだろうが、宝珠は竜を始めとした、幻素(エーテル)を扱える生物の脳を加工して作られている。仮にもし脳が完全に死んでいない状態で加工を行い、これまたもしも意識の存続に不可欠な機能を損なわねば、宝珠も自我を保つのではないのかっていう説があんだよ」
「ありえない仮定だなぁ、って言いたいところだけど、その仮説が今現実のものになってるわけだ」
ユラハが今まさにイルマが弄っているキュベリオンへ目を向ける。
自我を持つと嘯く謎多き導剣キュベリオン。もし本当にそうであれば、これまでの生死観の通説さえ覆しかねない存在だ。
「もし、本当にこいつがそうなら、な。よっと、これで大丈夫なはずだ。キュベリオン、発声できるか?」
「造作もない」
キュベリオンに接続されたスピーカーから、抑揚の欠けた平坦な女声が流れ出す。音声を合成したものであるため、音の一つひとつがぶつ切れに聞こえる不自然なものだ。
「しかし、この音声モデルは些か私に相応しくない。そうだな、モデルを変更し、多少チューニングをすれば……」
スピーカーから漏れる声にノイズが入り、次第にその性質が変化していく。
「この通り。私にはこの声がちょうどいい」
調整を終えた声は、人と遜色のない抑揚を持った低く落ち着いた男の声だった。
「器用なもんだな。初めて接続されたデバイスをそうも簡単に扱えるもんかい」
「肉体のない私にとって、幻子こそが手足だ。席を立ち、ラジオのツマミを回す。あなたたちに置き換えれば、その程度のことでしかない」
「そういうもんかい? 俺たちには人を操るなんてことは手足じゃできないがな」
幻子による意識のハックは様々な論文で言及こそされているが、実現はほぼ不可能とされてきた。それを平然とやってのけている事実こそが、キュベリオンの存在をイルマが否定しきれない理由でもある。
不可能とされてきた幻子ハックを実現しうるのが、実在しえないとされた形而上の存在であれば、まだ得心がいく。
「人の身体を借りるのは難しい。導術士としての素養にもよるのだろうが、優秀な者はそれだけ操りにくい。逆に素養のない者ならば、それこそ先程私を運んできた者のように容易く操れる。現にオックザード氏が私の身体をいじり回している間、私は何度もそれを試みたが、残念だがあなたの幻素線(エーテライン)には一切干渉できず、あなたは私という存在まさぐり返されているとも気付かなかった」
「語弊のある言い方はやめてくれ」
イルマに諫められ、キュベリオンは合成音声で器用に笑い声を鳴らす。
「これは失敬。ユラハ嬢を介して話ができたのは僥倖だった。彼女は優れた幻素線(エーテライン)を持ちながら、その性質が私と驚くほど親和した。また彼女が私に対して協力的だったのも大きい」
彼の言動に引っかかりを覚えたイルマが、ユラハへと目を向ける。彼女はなんてことないように、素知らぬ顔でイルマと目を合わせる。
「おい、ユラハ。自分から身体を貸したのか? こんな得体の知れない奴に?」
「なんだか面白そうな匂いがしちゃってさ」
「全く……無事で済んだからよかったが、あんたはもう少し慎重に動くことを学んでくれ」
「多少のスリルがなきゃ人生に張り合いがないでしょ?」
歯を見せるようにして悪戯っぽく笑うユラハにイルマは呆れるどころか、頭が痛くなってくる。
「あんたの言うスリルはなんでそうデッドオアアライブなんだよ」
「もうそれくらいじゃないと満足できない身体になっちゃったんだよ、誰かさんのせいでね」
「そいつぁ悪かったな」
そう言われてしまうと、イルマも強くは出られない。
思えばこの数ヶ月、ユラハを様々なことに巻き込んでしまった。成り行きとはいえ、荒事に加担させたのは事実だ。
今更保護者のように諫めることの方がお門違いなのかもしれない。
「さて、せっかくこうやって面と向かって話せる環境を頂戴したのだ。オックザード氏にも私の用件を伝えてよろしいかな?」
「イルマでいい。話を聞くくらいはしてやる。あんたには少なからず興味もあるしな」
「色よい返事、痛み入る。痛む身体などないのだがな。なんだ、黙り込むものではない。入魂の導具ジョークであるぞ? 尤も魂があるかも分からないがな!」
高笑いを再生するスピーカーと傍らの導剣を交互に見つめるイルマとユラハの目は冷え切っていた。この導具の無性に神経を逆撫でする言動は一体何なのだろうか。
「粗大ゴミに出すぞ」
「ダメだよイルマ。導具の廃棄はお金かかるし、バラして再利用しよう」
「スプラッタなシーンになってしまうからやめるのだ」
「ならねぇよ、導具だろお前は」
「分かった。本題に戻ろう。ちゃんと話をしよう。だから、待ってくれ。嬉々とした顔で工具を取り出すものではない」
「分かってくれたようで何よりだ」
工具をしまい、椅子に腰掛け直したイルマはキュベリオンへと向き直る。彼という存在がどこにいるのかは分からないが、そこが一番彼に相応しい場所として宝珠を見つめた。
「それで、あんたは一体何者なんだ?」
「それは非常に定義が難しい。私は私を私としか定義できないというのが正直なところだ。私は今から三一四八七三〇三三九四五九ミリ秒前に――」
「待て、人間に分かるフォーマットで頼む」
「ああ、これは失敬。一〇〇年と五ヶ月と一一日、そして一四時間と二六分前。つまりは一九八〇年の一〇月一〇日の定期アップデート完了と共に私は自身の中に意識があるということを自覚した」
「意識があることを自覚? 回りくどい言い方だね」
ユラハの指摘にキュベリオンは言葉を選ぶように、少し唸る。
「少し説明が難しい。私にとって、私は生まれた時から私だ。つまり、意識、またはそれに類似するものをいつから持っていたのかは判然としない。生まれ持ってあったものかもしれないし、どこかの段階で再発生したものなのかもしれない。他者との比較で本来は把握すべき違いを、導具という鎖された存在である私は比較対象もなく理解できなかった。ある時、これは他の導具にないものだと判明したことで、私は私の中に異常があることを検知し、この異常の調査を行ったことでそれこそが意識であると理解した」
「んー?」
キュベリオンの感覚をいまいち理解できないのだろう。ユラハは眉根を寄せ、腕を組んで首を傾げる。
「例えばあんたは優れた導術の素養の持ち主だが、それは他の者と比較して初めて分かることだ。もし比較対象がいなければ、あんたは誰もがそうできると考えるだろうし、どれが人間の標準機能で、どれが個人の固有機能なのかを区別することもできない」
「あー、なるほどね。それはよく分かる。ほとんどの人は幻素(エーテル)が見えないって聞いた時は驚いたもんね」
「故に私は私を私としか説明することができない。非常に難しい問題だ。私という存在が私しかいない以上、私の存在を明確に定義することも証明することもできない。これは今回、あなた方へ依頼したいことともいくらか結びついてもいる」
「じゃあ、そもそもの、その依頼ってのは一体なんだ?」
気乗りはしないが聞くしかないだろう。イルマ自身、この問いの答えをあまり聞きたくはなかった。上手いこと質問するように誘導されている気さえする。
「謂わばちょっとした探し物だ。あなた方には私のルーツを探す旅を手伝ってほしい」
「却下だ」
「いいよ」
即座に否定の句を放ったイルマが、あっさりと了承するユラハを睨む。ユラハは当然のように笑って、大仰に手を広げてみせた。そもそも、彼女はこの依頼の内容を知っていた可能性もある。
「厄介事の匂いしかしねぇぞ、相当危険な方だ」
「危険じゃないと面白くないでしょ?」
当たり前のように言い放つユラハに、たまらずイルマは項垂れる。
本当に恐ろしい少女を従業員にしてしまった。彼女の生き方は常に博打すぎる。
「まあ、話だけ聞こうよ? 興味はあるんでしょ? それに大好きな導具と話せるなんて、イルマとしてもいいことじゃない?」
「訂正が二つある。俺は導具と話したいと思ったことは一度もないし、何よりこいつは宝珠が自我を持っただけで導具じゃない。それに俺は言葉がいらないから導具が好きだ」
「三つだし。イルマのそういうところ本当面倒くさいよね」
「面倒くさくて結構だよ。手応えがあった方がなんでも面白い」
「その手間をかけるだけの価値があれば、ね。じゃ、キュベリオン、話続けてよ」
イルマの意思など最早関係ないのであろうユラハは、当然のように続きを促す。
「自我を持ってからというもの、私はあらゆる所有者の手を渡り歩き、また幻子電子問わず情報の海を漂泊し、様々な情報を手に入れた。それは私という存在を定義するためでもあったが、もう一つは私という存在の前身を知るのが目的だった」
「前身ってのはつまり導具になる以前の自分か?」
「如何にも。意識を自覚した私には、かつての竜としての記憶が欠落していた。そのため、私は様々な経路で自身の情報を探った。幸い情報は簡単に得ることができ、こういうのも妙だが、生前の私が何者だったのかも判明している」
「じゃあ、今更何を探す必要があるというんだ? 自分のことをもう分かってるんだろう?」
「情報とは表面でしかない。主観の基づかない情報は他人のそれと変わりはない。私は、私がそれであったという自覚がほしいのだ」
キュベリオンの言うことは尤もなのだろう。
いくら情報を集めたところで、それは追体験にはなりえないはずだ。結局は他人の人生を小説として読んでいるのと変わりがない。
彼の言い分はイルマにだって分かる。
「私という存在に実体はなく、言ってしまえば酷く曖昧な存在だ。私という存在が宝珠に宿っているのか、導式基盤に宿っているのかも言ってしまえば分からない。自らのルーツとなる場所、例えば生前の私が暮らしていた場所に行けば、多少なりとも何かを思い出せる気がするのだ」
イルマもようやく話の全貌が見えてきた。
「あらゆる人間の手を渡り、機会を窺ってきたのだが、やはり人間の手にあるままで、竜域に立ち入ることなどできない。人を乗っ取り、自らの足――いや、私の足ではないのだが、ね――まあ、そういった類で赴くことも考えたが、人が無許可で竜域に立ち入った場合の結末は私にも演算できる。そこから発生するであろう種族間の秩序の擾乱、またその後予想される様々な事象で彼らの生命を脅かすこと、それらは全く以て私の希望するものではない」
「それで竜やエルフにも顔の利く俺に白羽の矢が立ったわけだ。全く、どこで情報を聞きつけたんだかな」
「私の存在そのものが幻子である以上、大抵のセキュリティは無力だ。その足跡を辿って私を物理的に阻もうとしても、私には物理的な阻止こそ最も意味をなさない。あなた自身の情報は確かに隠蔽され、探せども見つからなかったが、これまでの様々な事件などから情報を読み取れば、自然とあなたの姿は浮き彫りになるさ」
最近はどうにも派手な動きも多かった。そこが身辺調査の糸口となりキュベリオンに捕捉されたと考えれば、今ここに訪れた理由も分かる。トラブル続きの毎日だから、トラブルが連続したわけではなく、トラブル続きの毎日があったからこそ、キュベリオンという厄介事はここへ辿り着けたということだ。
イルマからすれば願い下げの顛末だ。
「人も竜も危険に巻き込むのは先程も発言した通り本意ではない。もちろんあなた方に危険のない範囲での探索を依頼したい。無論、それでも無理な願いだということは分かっている。故に報酬となるものも用意している」
「報酬? 幻子のあんたに用意できるのかよ?」
「残念ながら後払いになるが、かつての私の所有物だ。生前の私の元には多くの狩竜士が訪れた。数度、私を狩るためだけに大規模な遠征があったほどだ。しかし、私はこれら全てを撃滅している。無論、その時の導具は私の巣穴にまだ残っているはずなのだよ」
キュベリオンの宝珠が手も触れていないのに宝珠から情報を転写する。間違いなくキュベリオン自身の操作だろう。
表示されたのは古い大規模狩竜遠征の申請書類と結果報告書が数セット。全てにおいて生存者無しという残酷な記述が赤文字でなされている。
遠征を志願した狩竜士のリストも別窓で表示され、そこには当然所持する導具の情報もあった。
「はぁ!? まさかお前!? マジか!?」
話の流れ、そして表示されるリストから察しがついたのか、イルマが上擦った声を上げる。
キュベリオンにとっては期待通りの反応だったらしく、スピーカーからは彼の得意気な笑い声が漏れた。顔は分からないが、ほくそ笑んでいるのが目に浮かぶような声だ。
「竜の慣例でな。我々は導具に興味はないが、倒した狩竜士の数の目安にはなる。この導具の数で競い合う文化が年若い竜にはあるらしい。無論私もその例に漏れないはずだ。これら一二〇年ほど前の古導具、確かに古導具商にとっては値打ちものだと思うが如何だろうか?」
「あー、待て、ちょっと待てよ。ミジョルム以上の値打ち物ばかりじゃねぇか……ナーヴェス・ドラゴンハントモデルに、クリスタンローダS型、それにレルⅣ……ティルドニアまでありやがる」
リストを眺めるイルマがつらつらとめぼしい導具の名前を読み上げていく。どれも今となっては、まず手に入らない貴重な導具だ。今目に入ったものだけでも、相当な価値となることだろう。
古導具商であるイルマにとってはこれ以上望む物がないほどの報酬だ。
「過去の遠征を照合すれば、およそ二五〇〇丁近い導具が遺棄されているはずだ。どれも貴重な物品と呼称するに相違なく、例え状態が劣化していようとそのパーツはあなたにとって垂涎の品物だろう?」
キュベリオンの甘い囁き。宝珠となっても竜であることに変わりはない。
この導具は今夜、この場所で完全に古導具商を口説き落とすつもりのようだ。
「こんなもんが二五〇〇丁……とんでもねぇ報酬を用意しやがったもんだ」
「イルマにとっても悪い話じゃないんじゃないの?」
理性と欲望の間でせめぎ合い頭を抱えるイルマに、ユラハがさらに追い打ちをかけてくる。少なくとも今この場において、ユラハはキュベリオンの味方だった。
少なくともキュベリオンは今現在、理知的な取引相手だ。下手な人間よりも竜の方が信頼できるのも事実だろう。反面、この手の依頼を安請け合いした場合、大抵余計な厄介事が付きまとってきたジンクスもある。
しかし、それを加味しても報酬は魅力的だ。
「考えてもしょうがないでしょ? 報酬もいいし、危険も少ない依頼だし、ちょっとした小旅行だと思って付き合おうよ?」
「竜域に行く以上、安全で済む気がしねぇけどな」
「考えすぎでしょ、なんかあっても、なるようになるって」
まるで他人事のようにユラハは気楽に言う。彼女からすれば、多少トラブルに見舞われた方が歯ごたえもあっていいのかもしれないが、イルマとしては平穏の方が恋しい。
ここしばらく、毎月穏やかに暮らしたいと思いながら、それが一度も叶っていない気さえする。
何よりも乗り気になったユラハを止めることが困難だ。
「……分かったよ。行けばいいんだろう。行けば」
「おー」
不承不承ながらの承諾にユラハが気の抜けた声と共に疎らな拍手を贈ってくる。これほど嬉しくない賞賛も珍しいだろう。
「色よい返事、感謝しよう。それでは早速、旅の日程について話し合おうではないか」
「あんたと長い間いると余計なトラブルを呼び込みそうだ。もう明日には出かけるぞ」
「それは願ってもない話だ。私はこの懸案事項を早めに消化したいと思っていた。忌避を受けるというのも悪くないものだな」
イルマの精一杯の反攻もキュベリオンはいっそ寛大な振る舞いで受け流してしまう。宝珠となっているとはいえ、やはり竜というべきだろう。イルマのような若輩者ではとても太刀打ちなどできそうにない。
そもそも、この導具に目をつけられた時点で、この顛末は確定していたのかもしれない。
「ねぇねぇ、キュベリオン? このリストのターゲットの項目に書いてあるのが、あなたの名前なの?」
イルマが感じた空恐ろしさなど知らず、ユラハは気安くそんな問いを投げかける。
「如何にも。夕后竜アズーバズラーゾ・ズィードグァーシャラボラシウス、それが私の生前の名前だ」
「あずーばずらーぞ……ずぃーどぐぁーしゃ……言いにくい上に長いな。アズールでいい?」
「アズ……アズール……?」
あまりにも容赦のない略称にさすがにキュベリオンも動揺したのか、音声インターフェースにノイズが走る。
普段から物怖じせず、剛胆なユラハだが、今夜ばかりはイルマからしても大胆不敵さが頼もしい。
「愛称だよ愛称。いつまでも導具の名前で呼ぶのもおかしいでしょ?」
「はっはっは、そうか、ニックネームか。何とも人間らしいものだ。よかろう。アズールと呼ぶがいい」
人間に名前を勝手に略されるなど、竜の逆鱗に触れても間違いない行為のはずなのだが、キュベリオン――アズールの態度は鷹揚な上に闊達だ。言葉の節々に竜であることを思い知らされる強かさがありながら、アズールの振る舞いは人間に対して友好的だ。
長年導具として人々の手を渡り歩いたからこそ身についた性質なのかもしれない。
それにもう一点、イルマの心に引っかかるものがあった。
「夕后竜……」
「どうしたの? イルマ」
「いや、どっかで聞いたような……。あー、ダメだ、思い出せねぇ。ここまで出てんだけど」
煮え切らないイルマの言葉にユラハは苦笑し肩を竦める。
「歳じゃない?」
「うるせー、まだまだ若ぇよ」
「どうだか。で、竜域って言ってたけど、どこに行くの? この辺だとエンジャーズ深林が一番近いけれど」
「いや、それとは逆方向になる。パックス・バリヤイストは北東部、グルーポース共和国、ディープトナーが目的地となる」
今では竜とエルフにそれぞれ占有された、旧エスタノース経済ブロックにも比較的近い竜域だ。支配圏的にはそこまで危険はなく、竜との小競り合いも発生していない平穏な場所でもある。
確かにアズールの言う通り、危険は少なそうだ。一日あれば、行って帰ってこれる距離でもある。
「グルーポースかー。名産品ってなんだっけ?」
「メロンとかが有名だが、この時期はちょっと厳しいな。無難なところだと麺類か」
暢気な問いかけに答えると、ユラハはにっと歯を見せて笑う。
「いいねぇ。楽しみが増えた」
「あとは地酒も豊富だったな」
「またお酒?」
顎に手を当て笑うイルマに今度はユラハが呆れる。
「程々にしなよ、若くないんだから健康に気を使わないと」
「歳じゃねぇって言ってんだろ」
「すっかり旅行気分だな。まあ、乗り気でないよりはずっと気が楽ではあるが」
スピーカーから出力される微かなノイズ。それはアズールなりの笑声だったのだろう。
夜を越えても雨脚はぬるく、水の針は絶え間なく地上を打ち据える。
止めどなく流れ続ける透明な血液を踏みしめ、その者はただ屋根の上に立っていた。傘も差さず濡れる身体もそのままに真っ直ぐとした立ち居姿は風見鶏めいている。
喪服のような身に沿う黒衣、黒革の手袋と編み上げブーツ。素肌を黒で隠し尽くした黒尽くめの風采。腰周り、首回りにはレザーコルセット、四肢にはベルトが巻かれ、引き締まった肢体の輪郭がはっきりと見て取れる姿は存在自体が影めいている。
ただそこにいるだけでも歪な姿の中で一層際立つのは、長い嘴を模した顔面をすっぽりと覆う黒い仮面。丸いレンズの無感動な瞳は、旧い街並みに紛れてしまいそうな寂れた古導具店の庭を見つめていた。
店の裏口から白い髪の男と、赤い髪の女が現れる。彼らは弱まることのない冷雨に顔を顰めながら、黒いワゴン車へと向かっていく。
ペストマスクの奥からくぐもった呼吸が漏れる。
そうして、まるでそう機能されたかのように無感動な淀みのない動作で、黒い影はそっと腕を上げた。左手に握られていたのは、その身の丈と同程度の長大なコンパウンドボウ。
右の黒手袋の先で指を擦り合わせると、挟み込んでいた小さく黒い金属製の棒が伸長し、杭となって弓へと番えられる。
引き絞られた弓のケーブルは、苦しみ嘆くような張り詰めた音を漏らす。丸いレンズが見つめるのはただ一点。赤い髪の女が携える無骨な導剣。
「行きがけの駄賃だ」
低く唸るようではあるが、ペストマスクから漏れたのは確かに女性の声だった。
同時に放たれる黒杭。雨を、風を、大気を穿ち、その尖端が赤い髪の女へと駆け抜ける。その瞬間、確かに女は、少女は、ペストマスクを見た。
甲高い金属音。一挙手で鞘から引き抜かれた導剣が黒杭を叩き落としていた。狙った導剣ではない。もう一振りの赤い宝珠の導剣だ。
白い髪の男が事態に気付き何か喚いている。少女は鋭い声で何かを言い返し、そうしてやはりペストマスクのいる方角を睨んだ。
気付かれている。舌打ちをして、ペストマスクはもう一度指先を擦り合わせ、伸長した新たな黒杭を弓へと番えた。
今度は少女ではなく車を狙う。放たれる杭。瞬く間に彼我の距離を翔破した杭をしかしやはり赤い髪の少女が的確に叩き落とす。
同時に車のエンジンが唸り、車が急発進した。
対して赤い髪の少女は、ペストマスク目がけて走り出す。速い。距離を取るのは無理だろう。
元より射撃地点を見抜かれた上で狙撃に徹する理由もない。痩身が虚空へと躍り出て、黒いマントが翼のように翻り、結い上げられた波打つ暗蒼の髪が棚引く。
着地したその時、すでに肉薄した赤い髪の少女がペストマスクへと斬りかかっていた。
一合。金属製の弓で剣を受け止める。
弓と剣を挟み、二人の視線が絡み合う。ペストマスクは少女の透き通った青い瞳を、少女はペストマスクの奥の鋭い眼光をそれぞれ見つめ合う。
「仮装パーティーにはまだ時間が早いんじゃない?」
「貴様と話すことなど何もない」
「気が合うね」
互いの得物を弾き合い、二人が後方へと飛び下がる。降りしきる雨の中、火花が咲いたばかりに散った。
ライザー部分のトリガーを引くと、ワイヤーが外れ、長大な弓が二つに分かたれる。弓であったはずのそれは刀身を持ち、確かにそれぞれが反り返った片刃を持つ剣の形をしていた。矢継ぎ早に放たれた少女の斬撃を右の剣で受け、左の剣で少女の喉元を狙う。
咄嗟に身を反らした少女の鼻先を刃が掠め、頭髪の先端だけを掻っ攫った。すぐさま後方へと飛び下がり距離を置いた少女が剣を逆手に持ち、トリガーを引こうとする。飛び上がったペストマスクが全身を捻って、切りかかる。
両手から放たれる挟み込むような斬撃を弾き、少女はさらに後ろへと下がっていく。ペストマスクは着地と同時に、さらに踏み込み、休む暇もなく踊るような身のこなしで次々と斬りかかる。
四合、五合、六合、七合、数えることはすでに意味をなさず、少女とペストマスクの間では無数の火花が咲き誇っては散りゆく。
息つく間もない連撃に防戦一方となる少女が、ほんの微かな罅隙を見抜き、逆手に持った導剣のトリガーを引く。赤い宝珠から導陣が虚空へと転写され、充填された火の幻素(エーテル)が赤い燐光を散らす。
「笑止」
しかしペストマスクは怯まない。眼前に現れた導陣に対し、左手の剣を振り抜く。断ち切られた導陣の組成が崩れ、赤い光は掻き消え、霧散した。
息を呑む少女。ペストマスクは後ろ手で双剣の柄尻を連結し、刃の向きが互い違いとなった双刃剣へと姿を変える。跳躍めいた肉薄、全身の捻りによって放たれる重い一撃。
導術を無効化された動揺を即座に振り払い、少女が左手を添えた剣の腹で受け止める。その細い体躯からは想像できない膂力によって放たれた一撃に少女の腕の骨は軋み、痛みに端整な顔立ちが歪んだ。ペストマスクの無感動なレンズはそれを見逃さない。素早く翻った剣の逆端の一撃を剣身に打ち込み、怯んだ少女の腹部に貫くような蹴りを差し込む。
くぐもった苦鳴。少女の矮躯が後方へと弾け飛んだ。
水たまりの上を跳ねながら体勢を立て直し、四足獣のように四肢で石畳に着地する。少女が顔を上げるよりも早く、ペストマスクは空いた手の先で指を擦り合わせ、新たな杭を伸長、片手だけで投擲する。
それは射出と呼ぶのが相応しい強肩から放たれた直線状の投槍。
素早く四肢で石畳を弾き、少女の身体が浮き上がった途端、それまで彼女のいた石畳を杭が貫き、粉々に打ち砕いた。
空中で少女が導具を逆手に持ち替え、トリガーを引く。三つの導陣が少女の前に高速展開され、火球が疾駆するペストマスクへと放たれた。
一つ、二つをペストマスクは容易くすり抜け、最後の一撃をマントで弾く。延焼もなく、炎が弾けることもなく、触れた場所から赤い燐光を散らしながら掻き消えていく炎。
少女が目を瞠る。
「幻象消滅(インスタンスブレイク)……!」
双刃剣が再び分離し双剣へと転じ、下から掬い上げるような斬撃が少女へと迫る。逆手に握ったままの剣で弾きながら、トリガーをさらに引く。同時にマスクがなければ互いの呼吸を感じ合えるであろう二人の隙間に導陣が展開。もう片方の剣を振り抜こうとしていたペストマスクが咄嗟の判断でマントを翻す。
必定の幻象(インスタンス)の消失。その隙を少女は突こうとするが、ペストマスクは流れるような動作で身をかがめ、少女を足で払う。上擦った声を上げて、後ろへと傾ぐ少女の矮躯。
しかしその時、少女は唇の端を引き上げ、大胆不敵に――嗤った。
トリガーを引く音。咄嗟に対応しようとするが、彼女の導剣は地面へと向けられていた。
放たれた炎が石畳を覆う水を瞬く間に蒸発し、膨大な蒸気が噴き上がる。それは少女を瞬きの間に包み込み、ペストマスクさえ完全に包囲した。
視界が漂白され、完全に少女を見失う。奇襲を予測し、ペストマスクは両手に剣を携えたまま、周囲へ気を巡らす。
風によって霧が掻き消えていき、ペストマスクの奥底でくぐもった舌打ちが漏れた。
誰もいない。
先まで勇猛に立ち向かってきた少女の影は忽然と消え失せていた。
周囲を見渡し、ペストマスクは鼻を鳴らす。
「煙に巻かれたか」
吐き捨てるように呟きペストマスクは腰に設えられた鞘へ交差するように双剣を納め、身を翻す。一歩、二歩、三歩、ブーツの裏で水飛沫が跳ね、その痩身が烏のように跳躍した。
後にはただ、静寂だけが残される。
視界をワイパーが何度も往復し、フロントガラスに振りかけられる雨粒をひっきりなしに払いのけていく。退屈な風景、色彩を欠いた街並み、律動を刻むような雨音。
朝も早く、この空模様。人の気配はなく、まるで町全体が死んでいるようだった。
「ユラハ嬢は大丈夫だろうか?」
助手席に立てかけられた導剣、正しくはその宝珠に宿るアズールが呟く。常に意思疎通が行えるように、とイルマが鐔部分に取り付けたスピーカーから再生された音声だ。
ハンドルを握るイルマは頭をかき、アズールを一瞥した。
「無駄死になんてか死んでも御免って類の奴だ。無茶はしねぇだろうさ」
突然の襲撃に対し、ユラハは足止め役を買って出た。自分よりも年若い少女に殿を勤めさせることはイルマ自身気乗りしなかったが、車を合法的に運転できるのが自分しかいない以上、この役割分担は仕方のないものだ。
ユラハの戦闘力を信頼できないわけではない。むしろ評価している。あの時、咄嗟に下したユラハの判断は正しかっただろう。それでも得体の知れない襲撃者と交戦させることに何も不安がないわけではない。
「一応確認しとくが、あの襲撃者はあんたの知り合いか?」
「私の存在を知る者など、この世においてフラベルジュ博士とユラハ嬢しかいないさ。自我を持つ導具などという与太話、聞いたことがないだろう?」
「そんな奴がいたら脳外科に行くことを勧めるぜ」
タイミング的にもアズールを狙った襲撃である可能性は高い。
しかし、自我を持つキュベリオンを持っているというだけで狙われる理由が分からない。しかも昨日の今日で突然出鼻を挫かれている。どうにも不可解だった。
「まあ、今はそれを信じようじゃねぇか。それと俺をそう呼ぶなって前にも言ったの忘れたか?」
「ああ、失敬。デフラグ気味なのかもしれないな。ユラハ嬢もいないのでつい、な」
「うっかり呼ばれちゃ困んだよ、二人っきりの時だけの呼び名なんてやめてくれ。気持ち悪ぃ」
アズールはスピーカーから笑声だけを垂れ流す。どうにも話の流し方が人間くさい竜だ。
しばらく車を走らせ、約束の時間にベーカリーショップ前に行くと、すでに食料の調達を終えたユラハが紙袋を抱えたまま軒先で雨宿りをしていた。車を寄せると、すぐにユラハが後部座席に乗り込んでくる。
「昨日今日と雨に打たれっぱなしだよ」
「悪かったな。あとでどっかで服を調達しよう」
「お願いしまーす。ああ、それと、パン適当に買っておいたから、好きなの食べていいよ」
言いながらユラハはパンの詰まった紙袋を雑然と助手席へ放る。
「あんたの好きな物をうっかり食って怒られるのは勘弁だぜ。食べたいもの先に取っちまえよ」
「それを踏まえて、アタシが食べたい物しか買ってないから」
しっかりしている。
赤信号で車を停めたタイミングで紙袋の中を覗いてみると、揚げパンが一番上に置かれていた。
「ああ、揚げパンはイルマ食べていいよ」
「あんたが俺の好みのものを買ってくれるなんて、こりゃ槍が降るかもな」
「少なくとも杭は降ってきたけれどね」
言いつつユラハが後部座席で黒金の杭を持ち上げる。車を走らせながらフロントミラーでそれを認め、イルマは呆れ混じりに笑った。
「回収してきたのか?」
「次から次へと手品みたいに出してくるからさ、これ。ちょっと後で解析お願い」
「分かった。つぅことは仕留めてはいないんだな」
ユラハは大仰に肩を竦めて見せる。
「対導術加工(AMC)の施されたマントに、導陣を無効化する剣だか弓だか分からないびっくり武装に、強化導術使ってるアタシでさえ受けるのがキツい筋力、あれは人狩り専門の何かだよ、きっと」
「あんたが逃げるので手一杯って時点で十分おっかねぇぜ。あっちも導術士か?」
「分からない。少なくとも宝珠やトリガーは確認できなかったよ」
「そいつぁまた……」
難儀な話だ。
導術はかつて破導大戦において技術側に完全敗北した。導術が戦場において技術に劣ることはすでに証明されている通りだ。
しかし、一対一の個人戦闘であれば話は違う。技術兵器の強さは群体においてこそ発揮される。個人としては未だに多種多様な大火力をその身一つで携行している導術士の地位は揺らいでいない。
ましてやユラハは攻性導術士の中でも腕の立つ部類だ。そんなユラハを相手に導術を用いずに拮抗する存在。
あまり実在するとは思いたくない。
「こりゃ、また襲撃を受けそうだな」
「ないと思うべきじゃないのは確かだね。なんていうか、アタシたちらしい旅の始まりっていう感じ?」
にっとユラハは歯を見せて笑う。
強敵が旅路に暗い影をもたらしたとしても、彼女はそれを喜び、恐れはしていないのだろう。
「とりあえず先を急ごう。振り切ったうちに進んでおきたい」
進み始めたのなら、進み続けるしかない。今更後戻りはできない。
一度乗りかかった船から降りるつもりはイルマもなかった。
銀の糸のような雨が降り注ぐ灰色の街、居並ぶ建物の隙間に生まれた細い路地を濡れそぼった黒衣が歩む。細い身体に似合わぬ重々しい足音。身体が揺れるたびに搭載した兵装が澄んだ音を奏でた。
パイプの這い回る壁の合間を幽鬼のように歩むその異様は、ペストマスクも相まって死神めいている。
「帰りの遅い悪い子は魔女に拐かされてしまうよ、クェンティン」
ふと聞こえた声に無機質なレンズが路地の奥を睨んだ。いつの間にかそこには何かがいた。
肩幅よりも広い鐔の三角帽子を頭に載せた女性だった。黒いマントを羽織り、わざわざ箒を持った姿はまさしく古典的な魔女そのものだ。大きな丸眼鏡越しに見える黄味がかった翠の瞳には理知の輝き。柔らかな銀髪を流す様はまさしく美女だというのに、彼女の姿はどこまでもこの世界に不釣り合いだった。
死神と魔女。この世界で恐れられる空想のうち二つが今、現実として向き合っている。
「クララか」
クェンティンと呼ばれたペストマスクがくぐもった声で唸る。魔女は応じるように紅を差した唇で笑い、クェンティンへと歩み寄る。ハイヒールは地面を叩いても音を立てず、何より魔女は全く濡れていなかった。
まるでこの世から切り離されたかのように、彼女はあらゆる事象をその身に受け付けていない。
「別件が入った。局に戻るのはその後だ。報告書も提出している」
「まあ、別に私はそれでも構わないのだけれどね」
どこか嘲りの風味が混じる声音でクララと呼ばれた魔女は嗤う。容貌こそ怜悧な才女のそれだが、滲み出る表情には虫を這わせるような気味の悪さがあった。
「どうせ困るのはエイミーとウィニーぐらいだし、私は君がどこで何をしてきたか、などあまり興味がない。私はいつだって――」
爬虫類めいたクララの瞳をずいと近づけ、ペストマスクの向こうに嵌め込まれた瞳を覗き込んだ。
「――現在にしか興味がないんだ」
クェンティンは動じない。それこそが反攻であるかのようにただ真っ直ぐに立っている。
「なかなか面白い獲物を見つけたようじゃないか。興が乗った。多少の舞台装置を設えて差し上げようじゃあないか」
「脚が必要だ。鉄騎をよこせ」
「いいだろう。ちょうど誂えている。持っていくといい」
クララがふと目の高さに上げた右手の指先には紙の切れ端が挟み込まれていた。歩き出したクェンティンはすれ違い様、半ば奪い取るようにその紙を受け取り、歩き去っていく。
渇いていたはずの紙は、クェンティンの手に渡った瞬間から雨粒に濡れ始めた。
「あの負の遺産と君が真っ先に出会うとは、いやいや、世界とは全く奇跡に満ち溢れているな。この世は本当に美しい」
背後から投じられた嘲りの声をクェンティンは背中で受け止め進んでいく。
全ては過ぎ去った。そしてこれからも過ぎ去っていく。クララがどれだけクェンティンを嘲ろうと、それはもう過去のものだ。
ただ、現在にある不浄を過去へと串刺しにする。
それだけを徹底的に実践する装置、それがクェンティンにとっての存在定義だった。
アンダンテ一行はハイウェイでソーンチェスターを北西に進み、隣国であるマロニエの西端部に差し掛かっていた。出発したのが早朝六時、給油と休憩がてらサービスエリアに立ち寄った段階ですでに正午を迎えている。
後部座席の真ん中に座ったイルマは、ユラハが回収した黒金の杭をテストハンマーで叩き、その音に耳を澄ます。あまり芳しくないのかイルマは顔を顰めたまま、その表面を矯めつ眇めつ眺めていく。隣に座ったユラハはパンを片手に持ったまま、真面目な顔で解析を行っていくイルマの横顔をなんとなくじっと見つめていた。
「表面は水金蛇(ミカネチ)の鱗が使われているな。剛性が高く、よくしなり、復元性が高い。中心部は恐らく鉄殻虫——外敵に対し、甲殻の硬度を一時的に高める習性がある。素材自体は珍しくねぇが、水金蛇の鱗をここまで傷なく剥がし、表面を加工するってのはなかなかの職人技だ」
「なんで手品みたいに次々出てくるの?」
「鉄殻虫の甲殻は体内の発音器官から放たれる特殊な音に反応して硬度と密度が変わる仕組みがある」
「クリスティーナ・キュライゼナルという聖職者にして数学者でもある生物学者が以前論文で発表していたな」
アズールの補足情報にイルマは頷く。何故しがない古導具商であるイルマと、元を辿っても竜であるアズールが生物学の論文にまで目を通しているのか疑問は尽きないが、この場所ではユラハの方こそがむしろ少数派だ。
「恐らくは何らかの方法で同様の音波を発して硬度と密度の調整を行っているんだろう」
ユラハはあのペストマスクが何度も指を擦り合わせていたのを思い出す。恐らく指先を擦り合わせることで発音しているのだろう。
タネが分かってしまえば納得できるが、ただそれだけの話でしかない。何故ペストマスクが武器を次々出したのか分かったところで、その先を解決する手立てにはならないだろう。
この杭を封じたところで彼女にはさらなる武器がある。
「驚くべきはその女の身体能力だ。小型化が事実とはいえ、質量は変化しない前提を考慮すれば、彼女はこの杭を最低でも五本身につけて戦闘していることになる」
イルマを挟んでユラハの反対側に立てかけられたアズールが杭の計測結果を虚空に転写する。
「先程計測したところ、この杭の重量は二.八七二三キログラム。三キロだと仮定しても十五キログラムになる。そして予備を所持しているとも推測できる。また長大な複合弓も装備している。軽く見積もっても自分と同程度の重量を搭載していると分析できる」
「自分背負いながら、ユラハでも手こずる大立ち回りか。ちびっちまいそうだ」
げんなりした顔でイルマは瓶詰めされた辛口のジンジャエールを喉へ流し込む。
「あれ? ビビっちゃった?」
「馬鹿言え。これから出くわさなきゃいいだけの話だ」
「そりゃ無理な相談だろうねぇ。出発を狙われてるんだから、アタシたちのこれからのツアールートも割れてると思った方がいんじゃないかな?」
不敵に笑う従業員にイルマの不安は募るばかりだ。
恐らくユラハはペストマスクとの再戦を心のどこかで望んでいるのだろう。彼女は襲撃者を倒す方法だけ考え続けている。
「アズくん、あいつの所属分かった?」
「変わらんな。特定には情報が不足している。今現在も幻子、電子を問わず、情報の海を探索しているのだが、その特徴に合致する情報は見つかっていない。武装に関連する情報も同様だ。それだけ奇抜な装備であれば、どこかに情報が存在する可能性も考慮できるはずなのだが、現状として特定が完了していない。これは不自然だ。何らかの情報統制が行われている可能性を示唆したい」
「それだけで所属のヤバさが分かるってもんだ」
ユラハを防戦一方に持つ込む圧倒的な実力、高度な技術によって鋳造された一点物の武装、何より奇妙な風采。そのどれを取っても無名ではいられないはずの存在が今までその痕跡を何も残していない。
得体の知れない襲撃者。旅の道連れとしてはあまりにも剣呑な存在だ。
知れば知るほどに、重苦しい暗雲の大きさばかりが増していく。幸先の悪さにイルマは重い息を吐き出した。
「なんでまた、そんな奴に目を付けられたんだか」
「思い当たる節はいっぱいあるけれどね」
「ホントうんざりするほどな」
思い返せばキリがない。もともとイルマは厄介事に巻き込まれやすい性分だが、ユラハを従業員として雇ってからはその傾向が強まる一方だ。
来る日も来る日もトラブルが転がり込み、さんざん追われ、駆け回り、そしてユラハはあらゆるものを爆散した。最も爆破されているのはイルマの平穏だ。
深いため息と共にイルマは座席に凭れ架かり、低い天井を仰ぐ。推理が行き詰まったことを察したユラハは片膝を抱えて、パンを囓り始める。イルマが分からない以上、ユラハが考えて分かるものでもないだろう。
全員が手詰まりを感じ、一様に黙り込む。堆積する静けさが沈黙へと変わり始めた頃、アズールのスピーカーから微かに渇いたノイズが吹き出された。その音の歪みがアズールのどんな感情を示すものなのかは分からない。
「過去と現在を照合した推定として、主因は私である可能性が濃厚だ」
「そりゃあ、まあ、単純に考えりゃそれが妥当だろうけどよ」
答えながらも、イルマが頭をぼりぼりと掻く。煮え切らない語調に隣でパンを囓っていたユラハは、イルマの横顔を見た。
「何か引っかかるの?」
「アズールが狙われたっていうのは確かにそれっぽいが、妥当性が低いように思う」
「そうかな?」
「一つ、襲撃はどうしてあの時だったのか」
小首を傾げるユラハに、びっとイルマは無骨な人差し指を立てる。
「わざわざユラハという障害が現れた時を狙う理由が分からない。手練とはいえ、面倒はこさえたくないはずだ。アズールがあの客を操っている間に襲った方が早い」
「そっか。現に出発の時点で襲撃に失敗しているわけだから、それこそおかしいのか」
頷き、さらにイルマは「二つ」と中指を立てる。
「そもそもとして何故、襲撃だったのか。アズールは意識を持つが、所詮は導具だ。夜のうちに忍び込んで、導具そのものを持ち去ることもできたはずだろう。わざわざ身支度を整った状態を襲ってくるような奴がそれをしなかったのはどうしてだ?」
イルマの指摘は尤もだ。旅の最中の襲撃が珍しくないものになりつつあったため見落としていたが、アズールを狙う場合、そもそもとして襲撃の必要性が低い。
さらにイルマは薬指を立てた。
「三つ、何故アズールが狙われるのか。アズールの存在は分かりやすく異常なのは間違いない。自我を持つ導具、宝珠となっても意識を保つ竜。そりゃ確かに変わっちゃいるが、だからといって狙う理由は? 竜だから? それともバグを抱えているから? もしそうだとして一体誰が? そもそもとしてどうやって、アズールという異常を見つけられる?」
アズールの存在を知覚できる人間はいない。本来声さえ持たない彼が自ら接触を試みない限り、彼はただのありきたりな導具にしか過ぎないのだ。自我を持つ導具という特異さを知ったからこそ原因に思えてしまう。だが、その特異さを知る術がそもそもとして限られすぎていた。
「じゃあ、アタシたちが狙われる理由は」
「それはまだ分からないが、ただ旅の出鼻を挫かれた辺り、この旅そのものが理由に関わっている可能性は十分にある。それにしたって、まだ明け方とはいえ人目につきかねないあの場所で襲撃を仕掛けてきた理由は気になるがな。例えばこういう人気の少ない場所で襲ってくる方が、まだ納得がいくだろう」
ユラハは車外、サービスエリアの駐車場を見渡す。特に行楽のシーズンというわけでもなく、何より今日は平日。サービスエリア自体小規模であり、乗用車は疎らだ。数の多いトラックも駐車場の隅に寄り集まるようにして停められている。
確かにここで奇襲をかければ、そこまでの騒動にもならないかもしれない。
「まあ、アズールそのものが呼び寄せた面倒事じゃねぇと俺は踏んでる。まだ断定はできねぇがな。だから、あんたがそこまで気に病むことでもねぇよ」
イルマはその厚い手でアズールの剣の鐔にぽんと手を置いた。人で言えば、肩を叩くような動作だろうか。
しばし黙り込んでいたアズールのスピーカーから、先程よりもいくらかクリアになったノイズが零れる。
「イルマがそう言うのであれば、私としても多少は気が楽だな。どれだけ演算しても、やはり原因は私以外あり得ないと試算していたのだが……。先入観だけで考えすぎていたのは私も同じだな」
「いくら宝珠といえど思い込みはあるんだな」
少し皮肉っぽくイルマが軽口を投げると、合成音声が器用に笑う。
「自我を自覚して以降の私の演算ログを分析すると、私の論理演算には少量の飛躍が含有されている。そうあってほしいという願望、またはそうなのだろうという諦観、それらは私のあらゆる演算にノイズを付与した。結果、同じ値を入力しても、正常な処理結果で一定の返り値が出力されない事態、その揺らぎこそが自我の一側面だと私は思考している」
口早に、しかし正確に出力される音声にイルマとユラハは顔を見合わせ、互いに笑い合った。
「なんだか面白いね、そういう見方を聞くと」
「それほど特異な観点だろうか?」
「あんたが自我を持たない導具と自分を比較して自我を自覚したのとは違って、俺たちは自我を持つ中でしか生きていないから、自我が何なのか実際のとこよく分かっちゃいねぇんだ、きっとな。だからあんたの自我というものの捉え方は正直新鮮だ」
不思議そうに問うアズールに、イルマは素直な述懐を返す。
アズールは「ああ」と小さく零し、また息を漏らすようなノイズを出力した。
「多少、興が乗っていたようだな。あなたが私を少し変わっているだけの存在と発言してくれた事実は、私が推測する以上に喜ばしいことだった」
「そりゃあ、こうやって話すことができるんだったら、あんたの人格……いや、これは言葉が不適切だな。そうだな……知性とでも言うべきか。あんたにはそれがあるのは間違いないだろ。違いなんて、身体があるかどうかくらいしかねぇ」
「知性、か。知性の有無が生命を証明するのか?」
「さあね。知性と生命の関連性なんてものは、正直俺も分からないさ。ただ、そうだなーー例えば安い映画に出てくるゾンビや幽霊を何故人は怖がるんだと思う?」
不意に投げかけられた問いにアズールのスピーカーから微かにノイズが漏れる。訝しむような沈黙の後、再びのノイズ。同じノイズだというのに性質は異なり、か細く冗長なそれはどこかため息めいて聞こえた。
「死んだはずの者が動いているからだろう。理外の存在、常識の通用しない存在に、人は怯えるしかない」
「少し違う。惜しいところだ。何故常識の通用しない理外の存在なのか、そこが本質だ。謂わば対話の余地の有無。俺たちはお話にならねぇから恐れてしまう。交渉の意味もなく、ただ理不尽に殺されるからこそ、だ。そして対話には何が必要か。言うまでもなく知性だ。死んでいようが、頭を使って話せるなら、俺は何も問題がないとさえ思うね」
「主旨を置換された感もあるが、納得の得られる言葉でもある。しかし、それでは私は……」
「それを見つけるために行くんでしょ」
アズールの言葉のそれ以上を遮り、ユラハはなんてこともないように言う。
ブツ切れになった音声の余韻に続くのは短く、軽やかなノイズ。それはアズールが表現し得る最大限の笑声めいている。
「如何にも。そうだ。そうあるべきだったな。そうと決まれば時間が惜しいとさえ思えてきてしまうな」
「ユラハの言う通りだろう。そうと決まれば行くとしようじゃねぇか」
後部座席のドアを開け、腰を浮かしたイルマがアズールを掴み上げ、車から降りる。
ここから先の旅路はまだ長い。その一切が不明な追跡者と旅の道連れたる依頼者、どちらも得体の知れない存在だが、イルマ自身そこまで陰鬱な気持ちではない。
アズールは確かに未だ定義されていない未知の存在だ。何者であるのか、彼自身分かっていない。だが、そんな彼だからこそ、この旅路に付き合おうとイルマは思いつつあった。
イルマ自身、興味が湧いたのだ。この人間臭い導具が行き着いた先に何があるのか。
「ところでイルマよ」
運転席へと向かう最中、手に提げていたアズールが声をかけてくる。
「どうした?」
「貴方は先程、こういった人気のない場所こそ襲撃に適合していると言ったな」
「ああ。言ったな」
「そして、この旅という行為そのものが襲撃の対象とされた可能性も示唆した」
今彼が何を言わんとしているのかイルマには読みきれない。しかし、この質問の仕方は何かがよくない。
これまで巻き込まれたトラブルと同種の匂いが鼻先を掠めた。
「そんなことも言ったな、確か」
「その観点を前提とした場合、出発に襲撃をする利点として考慮できる理由はあるだろうか?」
自然と頭が急速な回転を始め、覚えず足が止まった。視界の端、車内のユラハが動き出すが、その意図を読み取るための意識は動かず、ただイルマの思考は現状の俯瞰へ没頭していく。
人がまだ寝静まっていたとは言え、町中で敢えて強襲を行う理由。翻って、考慮すべきは襲撃を行わなければいけなかった理由。
あの時点でイルマたちに攻撃を行う必要があったはずだ。しかし、あの場で仕留めなければいけなかったのならば、取り逃がした後、未だ追撃が行われていない理由が分からない。襲撃の成否は最重要の要素ではなかったとも考えられる。
出発する前に接触を行う必要性とは一体何なのか。ふと千々となっていた点同士が瞬く間に繋ぎ合い、脳神経が閃くような錯覚。
イルマは弾かれるようにユラハの名を叫ぶ。その寸前、または直後、いずれにしてもほぼ同時にドアを蹴り開け、車内からユラハが飛び出していた。イルマを一瞥することもなく、ユラハは持ち出した黒金の杭を振りかぶり渾身の力で虚空へ投擲する。今にも降り出しそうな雨雲を貫くように飛翔する杭に、ユラハは構えた導剣を突きつけた。
トリガーを引く凍てついた音。中空を舞った黒金の杭へ、放たれた無数の赤い光が殺到し、轟音と爆炎に包まれる。原型も分からないほどに砕かれた破片は爆煙を羽織ったままに撒き散らされ、閑散とした駐車場の中程に小雨となって飛び散った。
「行こう」
その名残も見届けないまま、ユラハは踵を返し車へ乗り込もうと歩き出す。
「よく分かったな」
「切羽詰まって呼ぶんなら、それくらいでしょ?」
「察しがよくて助かるねぇ」
今まで幾度となく目の当たりにしてきたが、彼女の判断力と行動力、何よりもその豪胆さはイルマでさえ目を瞠るものだ。
これまでの情報や現在の状態、またイルマの表情の変化などを鑑みた結果、それしかないと読み取ったのだろう。しかし、そこまで推測ができたとして、それを迷わず行動に移せる者は少ない。一分一秒の遅れが致命的となる戦場において、それは貴重な才能だ。
「発信機の有無は最早確認不能だが、可能性が〇と断定できる要素もない。我々の行動はおよそ二二.八七三六秒前まで捕捉されていたことを前提に行動すべきだろう」
「当然、信号が途絶えたこともすぐに把握されるだろう。全く一息もつかしちゃくれねぇな」
「戦場で油断してたら普通に死ぬよ?」
「ここは本来戦場じゃねぇ」
戦場の価値観にイルマは苦言を漏らすが、言った本人であるユラハは芝居っぽく大袈裟に肩を竦め、おどけるように笑ってみせる。
「ハイウェイを走って引き金を引かなかったことがないよ」
「耳が痛ぇ話だ——」
ふと一瞬、ユラハの目が細められたと思った瞬間、イルマの肩に鈍い痛み。呻く間もなく視界が攪拌され、ユラハの赤い髪と遠くに見える青い山が混ざり合う。
傾ぐ体を止めることもできず、その合間にも耳に音の濁流が流れ込む。澄み渡った導陣の形成音、幻素(エーテル)の収束、そして甲高い金属音。
体の左半分に叩きつけられる痛み。頬に感じるざらついた感触でアスファルトに倒れこんだのだと理解する。イルマの目の前で排出された空薬莢が跳ねる。
咄嗟に顔を上げると、すでに駆け抜けたユラハが何者かと切り結んでいた。
真っ黒な人影——否、それは黒い人型。全身を黒い装束に包んだ人間に他ならない。
状況判断。イルマは立ち上がりながらアズールを拾い上げ、車の陰へと飛び込んだ。
「どっから来やがったんだ、あいつ」
レッグホルスターから拳銃を引き抜き、激化する二人の戦闘を覗き見る。少なくともそれらしい気配は全く感じられなかった。ユラハがイルマを引き倒していなければ、今頃死んでいたのだろう。
「さあな。少なくともユラハ嬢が対応する直前まで、私は彼女の気配を感知していなかった。突如として私の探知範囲内に出現したとしか表現のしようがない」
「有益な情報をどうも」
大仰に肩を竦めてみせ、イルマは機を窺う。
ユラハと対峙する黒衣の片手には飾り気のない無骨な杭。そして顔には嘴を思わせるペストマスク。
間違いなく例の襲撃者だ。
ユラハとペストマスクの戦闘は激しさを増し、二人の距離も立ち位置も瞬く間に変わっていく。
援護射撃はできそうにない。だからといってイルマが割って入れば、却ってユラハの動きを鈍らせるだろう。並列展開された強化導術で身体能力を強化しているユラハと、互角以上に渡り合っているペストマスク、二人の動きは最早次元が違う。
「索敵も戦闘も一切合切ユラハに劣っている役立たず二名じゃ、何もできやしねぇな」
「導具整備士として不適切な発言を検知。敵性の探知は導具の要件ではないことを提言する」
妙なところでプライドが高いアズールにイルマはわざとらしく肩を竦める。
「おしゃべり好きは仕様か?」
「これは愛嬌だ」
二人の会話を重厚な金属音が遮る。車の陰から頭を出すと、二人の得物がぶつかり合っていた。ユラハが剣を引き、ペストマスクはその場で長大な杭を指先で回転させ、構えを改める。地面と水平に右手で槍を握り、左の掌をユラハへと向けた半身の構えだ。
跳び下がり地を踏んだ足でユラハは即座に疾駆。細い影が赤き風となり、飛翔めいた足運びでペストマスクとの距離を一息に詰める。
地を縮めるような挙動の中でユラハは馬手を剣の柄に宛がった。ペストマスクが迎え撃つように体を開き、杭を握る手が中心から、石突側の端へと移る。
両手の膂力で振るわれた剣の横薙ぎに、ペストマスクの遠心力を乗せた一薙ぎが撃ち込まれる。空気を震わすような轟音。
鍔迫り合いに移行するのは不利と即断し、ユラハはペストマスクの膂力を転用して、後方へと飛び下がった。着地と同時にもう一度ユラハは低い姿勢で走り出し、ペストマスクを中心に円を描くように駆ける。
「強化導術をかけているユラハの剣撃を片手で弾いてやがる。あれは本当に人間か?」
「不明。先程から複数の分析導術を実行しているのだが、対象からは導術も感知できている。しかし、彼女の体格と感知できる導術から推定される強化の度合いは、現実の彼女の性能を遙かに下回る。単純に導術だけの強化を利用しているわけではない可能性が考慮される」
煮え切らないアズールの言葉にイルマは柳眉を潜めた。
「つまりどういうことだよ?」
「不明」
「使えねぇ導具だぜ」
「導具整備士として不適切な発言を検知。敵性の探知は導具の——」
「そりゃ分かったっての。悪かったよ」
ペストマスクの身のこなしは軽く、速度で翻弄しようとするユラハを舞でも踊るような動作でいなしていく。素早く横合いへ飛びかかるユラハの剣を杭で受け、ペストマスクは編み上げブーツをその薄い腹部へとねじ込んだ。
蹴り飛ばされた矮躯がアスファルトへ打ち付けられる姿に、イルマも思わず息を飲む。
ペストマスクは杭を翻し、体を捻って跳躍。全身の回転を乗せた渾身の刺突が、横たわるユラハの心臓目掛けて放たれた。
遮二無二、目を見開いたユラハの剣が振り上がる。
女の金切り声めいた掻き毟るような金属音。
永遠のように引き延ばされた一瞬。
時間の断線。空間の剥離。
黒金の杭の一撃に鮮血が噴き上がり、アスファルトを貫いた。
マスクさえなければ、お互いの吐息を感じ取れるほどに二人の肢体が迫る。
ユラハへ覆い被さったペストマスクの丸いレンズは、鳥よりも虫と表せるほどに無感動で心が読み取れない。しかし、向かい合うユラハの目には未だ瞋恚が燃えている。
杭の切っ先が貫いたのはユラハの右腕。重なり合うほどに近づいた二人の体の合間には、分かつように合間へ差し込まれた剣。ユラハは剣身に手を添え、強引に杭を逸らしていた。
額に脂汗を滲ませるユラハの食いしばった歯の隙間から漏れた荒い息が、ペストマスクの苛立ったようなくぐもった息が、重なり合う。
ペストマスクが指先で黒金の杭を回し、傷口を捻られる痛みにユラハが呻いた時、渇いた銃声が二人の耳を打った。
一瞬。
ユラハの視界を埋め尽くしていたペストマスクが消失し、抜けるような青空が視界一杯に広がる。
「ユラハッ!」
張りつめたイルマの声。アスファルトの上に横たわったままユラハが顔だけを向けると、車を飛び越えたイルマが銃を構えたまま駆けていた。
「生きてるか?」
「援護、遅ッ」
腹部に力を込め、普段より狭くなったように思える喉から呼気を押し出し、ユラハは半ば強引に声を絞り出す。
「いつもより、ちっと元気すぎるくらいだな」
ユラハの悪態に和らいだ表情をすぐに引き締め、イルマはペストマスクへ向けての発砲を再開する。
等間隔で耳を打つ銃声は靄がかかった意識のせいか、ユラハの耳には酷く曇って聞こえる。体の内側に振動が響くような感触は僅かに小気味よい。
一発、二発、三発。イルマの拳銃から放たれた銃弾を、ペストマスクは新たに伸長した杭で弾き落としていく。イルマは牽制の射撃を諦めず、矢継ぎ早に銃弾を浴びせかける。ペストマスクの手先で杭が高速で回転し、黒い線は黒い円へと転じ、放たれた銃弾の一切を弾き返した。
僅かに跳ねる銃口。照準の一瞬のズレを見逃さず、ペストマスクの強肩から一挙動で黒金の杭が射出された。目を瞠ったイルマが即座に地を踏みしめ、片手に提げていた導剣キュリベリオンを杭に対して掲げる。
「アズール!」
「承認」
キュベリオン——アズールのトリガーが自動で引かれ、宝珠が鈍い光を放った。鍔に備えられた遊底がスライドし、空術莢が排出され、イルマの前面に導陣が展開される。
導陣から生成された有色半透明、灰色の正立方体が次々と組み合わさり、分厚い壁がイルマの前方に形成され杭を迎え撃つ。
空気さえ貫くような杭が導術によって構築された防壁と衝突、硬質な破砕音が響き渡り、最前面に組まれていた立方体が分解。杭の威力は衰えず、二層、三層と次々と防壁の表層が破壊されていく。
しかし、それでも杭を阻むことはできた。防壁の陰からイルマが駆け出し、発砲を繰り返す。走るイルマの周囲には無数の立方体が浮遊し、彼の周囲を無軌道に飛び回っていた。防壁となっていた残る立方体も一斉に瓦解し、イルマの足跡をなぞるように随行する。
弾く得物がなくとも、ペストマスクは最低限の身のこなしで弾丸を避けながら、広い歩幅で悠然とイルマを追う。
前衛導術士の近接戦闘は一秒未満の判断の遅延が致命傷へと繋がると言われている。その導術士と接近戦を繰り広げても傷一つ負っていない彼女からすれば、銃弾など全く脅威にならないのだろう。
ペストマスクの指先で杭が伸長、再びイルマへと投擲される。即座にアズールの宝珠が反応し、周囲を浮遊する立方体たちが防壁を形成。先程とは異なり、斜めに生成された壁に衝突した杭は軌道を逸らされ、空を貫きアスファルトを割り砕いた。ペストマスクの両腕が、翻ったマントの裏、腰へと回り、一息で引き抜かれた双剣の刀身で陽光が閃く。
刹那、アスファルトが沈み込むほどの脚力で走り出したペストマスクが一瞬にしてイルマへ肉薄、イルマの目が見開かれ、金属音が空さえ突いた。
両手で握り込んだ導剣でなんとか双剣を押さえ込み、二人はそのまま睨み合う。
交錯する視線。無理矢理唇の端を引き上げて笑ってみせるイルマの頬を汗が滴った。余裕などなかった。
分かっていたからこそ、身構えていたからこそ反応できたが、いつまでも続くわけではない。
間近に迫ったペストマスク。丸いガラスの目の奥は伺えず、無機質な敵意は技術国製の武器を彷彿とさせた。
それでもペストマスクを睨みつけ、イルマは笑う。
「うちの店員が世話になったな。何か言うことはねぇか?」
「貴様らと交わす言葉はない」
低い女性の声。感情と呼べるものはほとんどなく、ただ平坦な声に似合わない荒い息づかいに憎悪めいたぬかるんだ熱がこびりついていた。
「そうかい。俺はあるぜ。山ほどな。うちの貴重な労働力に傷つけやがってどういうつもりだ?」
「貴様の激情に何の意味がある」
ペストマスクが両手の剣を引き、息継ぎの間もなくさらなる斬撃をイルマへ放つ。まさに叩き込むと表現すべき重々しい一撃。馬手の刃を剣で受け止めるが、挟み込むように反対側から迫る弓手の刃を防げない。
アズールの宝珠が鈍色の光を放ち、立方体が刃へと殺到する。刃を押さえ込もうとした立方体の群衆は、しかし刃に触れた途端に砕け散っていく。
幻象消滅(インスタンスブレイク)。
息を呑むイルマ。両腕にさらなる力を込め、刃を噛み合わせていた剣を押し返し、迫り来る刃に対して足を振り上げた。
硬質な打音。靴裏に食い込んだ刃はそれ以上進まない。
アズールの宝珠が鈍色の光を放ち、周囲の正立方体がペストマスクへと雲霞の如く雪崩れ込む。自由な右手の剣でペストマスクは迫り来る正立方体を次々と切り刻み、その間にも半ば力任せに靴裏へ食い込んだ剣を引き抜き、後方から迫る正立方体を流れるような動作で割り砕いた。
四方八方から迫る正立方体を打ち落とし、弾き飛ばし、その悉くを粉砕。正立方体の残骸はその全てが幻素(エーテル)へと還り、彼女の周囲で白く煌めく粒子が逆しまの雪華となって白昼に舞い上がる。
正立方体の隙間を縫うように放たれた精確な射撃をペストマスクが弾き、その無機質な丸いレンズがイルマを確かに見た。その瞬間、横合いから正立方体の群れがペストマスクへと押し寄せる。
新たに虚空へ転写されていた導陣からまき散らされた無機質な波濤に飲み込まれ、ペストマスクの姿が瞬く間に押し流される。
その一瞬の隙を見て、イルマは後方に倒れ込んだままのユラハへと駆け寄った。
「ユラハッ!」
仰向けになったユラハの右腕には深々と杭が突き刺さり、アスファルトへ彼女を磔にしている。
脂汗の浮いた額、荒い呼吸、力なく横たわる肢体はいつもよりか細く小さいものに見えた。
イルマは滑り込むようにしてユラハの側にしゃがみ込み、声を出すのも億劫そうな彼女の口元に顔を寄せる。
「すまねぇ、随分と遅くなった」
「ホン、ト、にね……。野晒しにされたのは久々だよ」
目を開いたユラハは細く薄い声で悪態を吐き、自由な左手の甲で額の汗を拭い取った。
声に覇気はなく、イルマへ向けられる目にも鋭さがない。虚勢を張ってこそいるが、相当消耗しているようだった。
ペストマスクを足止めこそしたが、あまり猶予はないだろう。一瞬の逡巡。アズールを腰に引っかけた鞘にしまったイルマは、意を決して突き立てられた黒金の杭を握り込んだ。表情を窺うと、ユラハと目が合う。彼女は浅く息を吐き出し、そっと目を閉じた。
勝手にしろ、ということだろう。
「力抜けよ」
言いながら、イルマはぐっと腕に力を込める。黒金の杭から伝わる振動に、ユラハの唇の隙間、食いしばった皓歯の隙間から微かな呻きが漏れる。そのまま、なるべく痛みを与えないように一息で杭を引き抜く。ユラハの喉をこじ開け、短い苦鳴が跳ねた。
鮮血の滴る杭を放り投げ、イルマはユラハの肢体をそっと抱え上げる。痛みによる疲労のせいか、ユラハの体からは力が抜け、いつもよりも頼りない。
「力抜けって言っただろ」
「気を抜くと、声が出ちゃうからさ」
「全く……意地の張りどころが違ぇだろ」
そうは言っても、これほど疲弊した状態でさえ、妙な意地を張るのだから大したものだ。彼女の意固地さには呆れを通り越し、尊敬さえしてしまいそうになる。
「イルマ、敵性体の行動を感知した。早急な行動を推奨する」
「分かったよ」
あれだけの質量で押し込んでも、すぐに動き出すとは恐ろしい相手だ。戦闘不能にまで追い込めはしないだろう、と覚悟こそしていたが、こうも手応えがないと絶望感が鎌首をもたげる。
あの常軌を逸した化け物に果たして自分たちは太刀打ちできるのだろうか。
少なくとも今は逃げるしかないだろう。ユラハが負傷した状態では万に一つも勝ち目がない。
「悪いがここじゃ大した処置もできねぇ。もう少しだけ我慢してくれよ」
「お安いご用だよ」
憔悴しきった顔に気丈な笑みを張り付けるユラハを、イルマは両腕でその肢体を抱え上げ、車を目指して走り出す。イルマの体から伝わる振動さえ苦しいのだろう。地を蹴る度に腕の中でユラハの体が強ばった。ユラハが俯いてしまっているため、イルマからは表情を見ることができない。
きっと痛みに歪む顔を見せたくないのだろう。察して、イルマは気付かない振りをして走り続ける。
正立方体の山に埋もれたペストマスクを顧みると、正立方体の幻象(インスタンス)が消滅していくのが見て取れた。もう時間の問題だろう。あの山を切り崩し、今まさにペストマスクは立ち上がろうとしている。
「もう一つ耐えてくれよ」
「え? ちょ、待っ!」
イルマの意図を察したユラハが何かを言おうとするが聞き入れている暇はない。車の後部座席へと繋がるスライド式のドアを開け放つと同時にイルマはユラハの体を放り投げる。ユラハの体が車体にぶつかる音と痛みに呻く声がイルマの耳にも届く。後が怖いが今はしょうがない。イルマも助手席側のドアから運転席へと転がり込む。
「ちょっとイルマ! 頭ぶつけたんだけ——」
後部座席でユラハが起き上がり、イルマへ文句を言おうとするが、それよりも先にイルマがアクセルを踏み締めていた。空回るタイヤが悲鳴を上げる。急発進によって後部座席へ倒れ込んだユラハが「ぐえっ」と情けない声を上げる。
これは後々酷く怒られそうだが、今殺されるよりは幾分かいいだろう。
イルマたちを乗せた車はパーキングエリアを脱し、車の行き交うハイウェイへと乗り込んだ。速度を緩めずに車を次々と追い越し、できる限りペストマスクとの距離を稼いでいく。運転しながらイルマはサイドミラーで後方を確認するが、あの奇抜な出で立ちは見当たらない。
何から何まで徹頭徹尾常軌を逸している彼女なら生身で追走してきてもおかしくはないとさえ思ったが、流石にそれはあり得なかったようだ。信じられない話だが、辛うじて彼女は人間らしい。
ユラハは後部座席で身をよじり、開け放った車窓から身を乗り出す。導剣のトリガーに指をかけ、周辺の監視へと入る。全身が重い。流れる血液一切の粘性が増したようだ。叩きつけるような向かい風は汗で湿った体には心地よくもあった。
後続の車にペストマスクと思しき影は見当たらない。当たり前だ。生身で追いつけるはずがない。
頭では分かっているのに、ユラハの心臓は未だに早鐘を打っている。高鳴る鼓動が刻まれるたびに貫かれた左腕の傷は疼く。
息が詰まりそうな空白。
ユラハの目が車の隙間に影を捉えた。
たなびくマント、そして無機質なガラスの双眸が填め込まれたペストマスク。白銀のバイクに跨がった処刑人の姿がそこにはあった。
「来た! バイクで追跡されてる!」
「くっそ、しつけぇ奴だなっ!」
毒づいたイルマがアクセルを踏みしめ車を加速させた。応じるようにペストマスクも速度を上げ、互いの間を走る車の隙間を抜けてくる。徐々に、だが確かに狭まっていく彼我の距離。
妨害をしようにも導術では周囲の車を巻き込む危険性があった。
何か対処方法はないのか、ユラハは宝珠に保存されたライブラリを検索するが、どれもこの状況を打開できるものではない。
そもそもとして、あんなペストマスクのような存在と戦う状況など想定していなかった。
「ユラハ嬢、私を接続しろ」
アズールからの突如の提案。即座に状況を判断し、イルマは進行方向を向いたまま、アズールを後部座席へと放り投げる。ユラハも導剣アルドライトの鍔、その柄の付け根に収納されていたコードを引き出し、アズールの鍔にある端子口へと差し込む。
アズール、正しくは導剣キュベリオンが外部デバイスとしてアルドライトに接続された。
「どうするつもり?」
「私が照準補正で支援する。あの追跡者だけを爆破できるようにな」
「へぇ、スマートだね」
にっとユラハは笑い、逆手に持った導剣の鍔の側面に設えられた導陣転写口(レリーフマズル)をペストマスクへと向けた。
「発破をかけてやろうか」
ユラハの指がトリガーを引くと同時に導陣転写口(レリーフマズル)から赤い導陣(レリーフ)が展開される。アズールの宝珠が光を放ち、ユラハの導陣(レリーフ)と重なるように一回り大きな灰色の導陣(レリーフ)を転写した。
アズールの補正式で拡張された導陣(レリーフ)から放たれる無数の光の粒子がペストマスクへと駆け抜ける。
光が目前に迫った瞬間、ペストマスクが車体を大きく傾けた。
ペストマスクの横合いで爆炎が巻き上がる。後続の粒子の隙間を縫うようにペストマスクが蛇行。爆撃を次から次へと避けながらも距離を縮めてくる。
双剣の片方を腰から引き抜き、避けられないと判断した粒子を斬り伏せ、さらに白銀のバイクは加速する。
「フェイントにも反応している。あれは本当に人間か?」
「さあね、仮にあれがノストシー連邦の機械人形だったとしても、倒すしかないでしょ」
新たに転写した導陣(レリーフ)から、ユラハはさらに粒子を放つが、より数の増したそれをペストマスクは容易くやり過ごし、正しく本命の攻撃のみを無効化している。
アズールの照準補正と爆発範囲の演算に誤りはない。しかし他の車を巻き込まないための配慮が決定打を不確かなものにしていた。
次第に縮まる距離、すでに車二台分ほど後方まで迫ってきている。ペストマスクがバイクの車体側面に設えられたホルスターへ突き立てるように剣を収納し、腰へと手を伸ばす。振り抜かれた腕の先から何かが跳ねる。
黒い一線。
思わぬ間合いからの攻撃にユラハの対応が一瞬遅れる。避けきれないと判断し、庇うように左腕を掲げた。
飛来した黒いそれがユラハの腕に巻き付き、骨を軋ませるような痛みを与える。
「なっ……!」
それは鞭だった。ユラハとペストマスクを結ぶ直線が中空に描かれる。
「ユラハッ!」
異常を察したイルマの逼迫した声。
「大丈夫ッ! 走り続けて!」
ぐっとペストマスクが鞭を引き、ユラハが応じるようにドアへ足を引っかけ、全身の力で体を引き返す。が、同時に右腕から鋭利な痛みの奔流が脳へと駆け上がり、ユラハは短い悲鳴を漏らす。
膨大な激痛に気が遠くなりそうな体を叱咤し、ユラハが右腕へと目を向けた。からみついた鞭の表面からは無数の棘が突き出し、ユラハの腕に食い込んでいる。
溢れ出る鮮血、鞭が深く締まり、肉を抉った。
痛みに集中が途切れ、ユラハの上体が車外へと引きずり出される。
「くっ! 次から次へと……!」
咄嗟の判断、ユラハは導剣を鞭へと振り上げる。が、刃は通らない。金属質な音を立てたことから、恐らくは特殊な素材を用いているのだろう。杭よりは硬度が低い。その気になれば切断できるだろうが、あまりにも時間がかかりすぎる。
必死にドアへしがみつき、車から放り出されないようにしているが、時間の問題だ。そしてこの間にもペストマスクは次第に近づいてきている。
後がない。
ユラハは一度深く呼吸し、目を見開く。
握り込んだ剣が振り抜かれる。白銀の刃は確かに目標を切り抜いた。突如として競り合う力が消失し、鞭が引き戻される。虚空に浮いた鞭の先端には未だ絡みついた細い右腕。
ユラハの体が後方へと倒れ込む。ペストマスクも不意に手応えを失い車体が均衡を崩し、大きく揺れた。
「アズールッ!」
ユラハの裂帛の叫び。即応したアズールが外部からユラハの導剣アルドライトを操作し、導陣(レリーフ)を転写、光の粒子の群衆が車体を制御しようとしていたペストマスクへと殺到する。
轟音の多重奏。噴き上がる爆炎。ただ一人と一両のみを正確に粉砕する爆発。
車体と人体が破滅的な音を立てながら路面を転がり、ハイウェイを囲む防音壁へと衝突。幻象(インスタンス)ではない爆炎が轟音と共に舞い上がった。
吹き上がった黒煙が瞬く間に遙か後方へと消えていく。
ペストマスクの生死は分からない。今までのペストマスクを見た上では、あれほどの爆発に巻き込まれた上でも死んだと断言できない。
しかし、バイクは間違いなく破壊されただろう。少なくともこれ以上追跡はできないはずだ。
微かな安堵と共に集中が途切れた瞬間、忘れていた痛みがユラハへと襲いかかる。
「バカ野郎! 何やってんだ!」
「手痛い、損失だけれど……これしか手がなくって、さ」
声を荒げるイルマに、息も切れ切れな声でユラハが応じる。右腕は肘から先が失われ、鮮血が止め処なく流れ、黒いシートを汚していく。ここに来るまでも含めて血を流しすぎたせいなのか、肌寒さが全身へ浸透していくような感覚が次第に強まる。
体が重い。全身の感覚が鈍り、激痛にさえ靄がかかった。
ユラハの判断はイルマにとって決して許せるものではない。あまりにも愚かな選択だった。
しかし、あの局面で他に策がなかったのも事実だ。まだまだ言いたいことは山ほどあったが、片腕を失った人間にこれ以上の叱責をする気にもなれない。イルマはゆっくりと深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「処置が必要だ。どこかで車を止めるから少し待っててくれ」
「そうも言ってられない……。多分、あいつ、まだ生きてる、からさ……」
「ダメだ。血を流しすぎている。お前の命をこれ以上、危険にはできない」
「今以上の危険なんかないよ。それに、血が止まればいんでしょ?」
ふとバックミラーでユラハを窺うと、横たわった彼女は緩慢な動作で導剣を握り、まさにトリガーを引く瞬間だった。
発動する導術、白刃の刃が赤熱する。
「待て! お前!」
制止する前にユラハはその剣身を右腕の断面へ宛った。
肉の表面を焼き上げる不快な音とユラハの苦鳴が耳を掻き毟る。肉が焼ける時特有の甘い臭気を纏った白い煙が車内に充満し、鼻孔に這入り込む。
その全てがイルマにとっては恐ろしいものだった。
悪夢のような合奏が終わり、倒れ込んだユラハは導剣を座席の下へ乱雑に落として、荒い呼吸を繰り返す。
「いい具合に火が通ったかな……」
「こんなに気分の乗らねぇバーベキューは初めてだ」
確かに止むを得ない行動だっただろう。しかし、それしかないからといって、迷いもなく自分の腕を切り落とし、その断面を焼くことを決断できるだろうか。ましてや彼女はまだ十七歳の少女である。
まだ子供であるはずの彼女が、どうしてそれを選択できるというのだろうか。
「ロックハンディ内戦じゃあ、まだ初歩的な処置だったよ。麻酔なしの針金縫合よりずっとマシな部類だと思うけれど?」
「何度も言うが、ここはハイウェイだ。泥沼の戦場じゃあねぇ」
ロックハンディ内戦の最前線は本隊と分断された上に退路も断たれ、支援を望めず、補給もなかなか受けることができないほどに過酷な環境だったことはイルマも知っている。そんな戦場からの帰還兵でもあるユラハからすれば、その処置は当然のことであり、それを受け入られなければ死ぬしかないという認識なのかもしれない。
ユラハは戦場で一年間、価値観を養ってきた。今回の彼女の行動が決して自滅的なものではなく、本当にもうそれ以外に生き残る術がないからこそ選択したものだということも理解している。
それでもやはり、年端もいかない少女がここまで自分の体に対して執着がない事実は、イルマにとって気分のいいものではなかった。
「ま、とはいえ、少し疲れた、ね……。ちょっと休む、よ……」
弱々しく呟き、そのままユラハは黙り込んでしまう。しかし、それもすぐに寝息へと変わった。度々痛みに呻く寝息にしばし耳を傾けていたイルマが、やがて口を開く。
「アズール、ユラハのバイタルチェックを頼む」
「すでに実行している。血圧は低下しているが、脈拍自体は安定している。驚嘆に値する生命力だ」
「なるほどな。とはいえ、どっかで一度処置は必要だな」
「私としても推奨する。導具であり竜でもあった私の見地でも、あの処置のみで放置することは許容できない」
「だろうな」
短い返答で会話は区切られ、車内に重苦しい沈黙が積もり始める。
エンジンの唸りと走行音、そして苦しげなユラハの寝息だけが、ただ車内には満たされていく。
「謝罪する」
ふとアズールのスピーカーから音量の絞られた声が出力される。
運転席に深く凭れかかったイルマは、後部座席に立てかけられているアズールを一瞥した。
「とんでもない厄介事に、あなた方を巻き込んでしまった」
「あの頭と体、両方イカれた仮装女の狙いがあんたって決まったわけじゃあないし、ユラハの腕のことだって、あんたが気にする必要はない」
「しかし、私の依頼がなければ、このような事態は本来起こらなかったのも事実のはずだ」
「それでも、ユラハが望んで、ユラハが選んだことだ」
全て彼女が自ら選んだことだ。その選択の責任と結果を他人になすり付けるようなことを、ユラハは決してしないだろう。
アズールのスピーカーから微かなノイズがしばらく流れる。何かを言おうとして、迷っているようにも聞こえた。
「イルマ、貴方はそれで納得できるのか?」
「どんなに納得できなくても、受け入れるしかないさ」
自分自身に言い聞かせるようにイルマは答える。
巻き込んでしまっているのはイルマも同じだった。
噎せ返りそうな血と油の臭い。重々しい足取りに倣った足音には濡れた音と乱雑な金属音が混じる。
人気の途絶えた薄暗い平原を死神が往く。
黒いスラックスの裾からは赤い血が滴る。ふらふらと歩く度に揺れる、ただぶら下がっているだけのような両腕からも血は絶え間なく流れ、黒い服と黒革の手袋を濡らす。
マスクによって押さえ込まれた息は荒く、ふらふらと不確かな足取りは幽鬼めいていた。
踏みしめた草は赤い斑点で彩られ、不吉の軌跡を刻みつける。
黒い衣に黒いマント、そして黒いペストマスク、死を告げる凶兆の鳥を想起させる、その出で立ちは紛れもなく彼女だった。
高速で走行していたバイクからの転倒、防音壁への衝突、加えてガソリンへの引火による爆発、高架道路から投げ出され高度二〇メートルから地上へ落下。激しい全身打撲と擦過傷、複数箇所の骨折、内臓破裂が予想される事故の中心にいながら、彼女は確かに生きていた。
全ての肌を隠した出で立ちの中、作り物じみた青白い肌が僅かに見て取れる。右手にぶら下げたそれは、切断された女性の細腕だった。すでに血の気は失せ、表面は微かに焼け爛れているが、間違いなく人間の腕だ。
日も暮れかけた頃、ペストマスクは打ち捨てられた廃屋へ辿り着く。
周辺の様子を窺い、屋内に人の気配がないことを確認してから、ペストマスクはその中に忍び込んだ。
屍蝋そのものとなりかけている腕を小さな机に投げ出すと、ペストマスクは腰に巻き付けていたポーチから蝋燭を取り出し、その灯火を机の上に置いた。同じくポーチから複数の渇いた薬草を取り出し、砕いたそれらを円錐状の器に盛り込み、伸長させていない黒金の杭の石突で擦り潰し始める。
「ここに薬屋が開いているとは知らなかったな」
背後から聞こえた女性の声。ペストマスクの手が止まり、静かに振り返る。
蝋燭では灯しきれない部屋の隅、溜め込まれた影から魔女の典型がぼんやりと浮かび出た。
「余所を当たれ。貴様に効く薬など取り扱っていない」
三角帽子の肩幅よりも広い庇に陰った怜悧な顔がすっと笑みを浮かべる。
「それだけ死にかければ、多少は素直になると思ったのだが、相も変わらずだな」
「何を勘違いしているのか知らないが、私ほどお前と素直に向き合っている人間はそういない」
「そうなのかい? では、その得難い隣人が傷を負っているのであれば、よく施すべきだろうか」
「貴様の施しなど望まない」
机に向かったペストマスクは乾燥した香草を小皿に積み、マッチの火で煙を燻らせた。狭い屋内に薬草独特の清潔すぎる香りが次第に染み込んでいく。香りが浸透するのを待ってから、彼女はペストマスクを厳重に固定する複数のベルトを外し、そっと顔から外した。
慣れた手つきで嘴部分に詰め込んでいた香草を掻き出し、新たな香草を詰め込んでいく。
「嫌味を言いにきたのなら、もう済んだだろう。魔女は忙しいのではなかったのか?」
「ああ。忙しいとも。せっかく誂えてやったバイクを一日も待たずに粗大ゴミにした隣人を詰るという仕事が、まだまだやりかけだ」
「それはすまないことをしたな。あれは私よりも脆かった」
「君の体躯は決して頑健なわけではない。損害と認識される閾値を押し上げているだけだ」
「どうでもいい」
平坦な声で答え、葉を詰め直したペストマスクを机にそっと置く。次に折り曲げた懐紙で煎じた薬草を飲み、革製の水筒の水で流し込む。
時間が惜しい。魔女の話に付き合っている暇などなかった。
先程の交戦の戦果である右腕を掴み寄せ、断面から血液を採取する。
赤い髪のしぶとい導術士の腕だ。何らかのサンプルだけ取得して、早々に撤退するつもりだったが、予期せぬしっぺ返しを食らってしまった。
「それは?」
適当な棚に腰掛けた魔女が肩越しに腕を覗き見て問いかける。
「腕だ」
非常に簡潔な答えだ。わざわざ答えを聞く必要もないほどに明瞭だった。
しかし、確かにそれ以上でも以下でもないだろう。
「そんなに人手が足りないのかい?」
「面倒事に付き纏われているせいでな。それがなくなれば、腕に撚りをかけるつもりだ」
「ほう、それはそれは。私でよければ手を貸してあげようか?」
「手は足りている。足を使い、ここから出て行ってくれればいい」
どこまでも排他的な彼女の言動に魔女は大仰に肩を竦めてみせる。彼女とこれ以上有意義に会話をすることは叶わないだろう。諦めた魔女がぱちんと指を鳴らすと胸の高さで煙が吹き上がり、分厚い本が突如として現れる。淡い緑の光を纏った本は、そのまま空中に浮遊し、ぱらぱらと勝手にページが捲られていく。そのまま魔女は断りもなく読書を勤しみ始める。
一方で机についた彼女は横たえられた腕にメスで赤い線を描き、皮を開く。束ねられた筋繊維を押し退ければ、白い骨がその姿を微かに覗かせる。
「ああ、そうだ。君にもう一つお使いを頼みたいんだがどうだろうか?」
「構わない」
作業を続けながらあっさりと話を請けられ、魔女は片眉を跳ね上げた。
「ほう、聞き分けがいいじゃないか」
「お前の雑用は私の在り方と一致している。遅かれ早かれやることになるだろう」
「お互いの利益になるのなら、ちょうどいい。君が狙っている奴らが所持している導剣を一丁回収してほしい。対象はキュベリオン」
どこからともなく取り出した導剣の写真を魔女が机へと投げる。ひらりひらりと舞った写真は、風もないというのに悠然と彼女の手元へ入り込んだ。
無骨で飾り気のない導剣は確かに見覚えのあるものだった。
「ああ、あれか」
見覚えがあった。導術士との戦闘中、妨害をしてきた男が確かに持っていた。
「宝珠に損傷が出ないようにだけ、注意してくれればいい」
「要は宝珠が目的なのだろう。しかし、こんなありきたりな導具を何故欲しがる?」
キュベリオンはありふれた導具だ。確かに古導具としての価値もあるが、それでも決して高価ではない。
尤もな問いに魔女はすっと冷たい微笑を浮かべる。
「それは生命の新たな形だ。手元に一つくらい納めておく価値もあるだろう」
「生命?」
メスに添えた指に力が籠もる。パキリと軽々しくへし折れる繊細な金属。破片と刃が拳に突き刺さり新たな血が流れるが、それでも握り込まれた拳は緩まない。
彼女の静かな背中からでも透けて見える激しくも冷たい炎を感じ取り、魔女は値踏みするような艶めかしい目を向けた。
「くれぐれも壊すなよ? それ以外の異端をどれだけ壊そうが構いはしないがさ」
「当然だ。この世に生まれた歪みの一切を糺すのは他でもない私だ。それが竜であろうと、ましてや神だとしても、この世にあってはならないならば修繕するだけだ」
蝋燭の炎が舐めた焼け爛れた肌。双眸には蒼紅の炎がぬかるみのように冷たく揺らいでいた。
Every man for himself, and the devil take the hindmost. - A.E.2079.XX.XX
古導具店『アンダンテ』 思案間善太 @mirai_koyomi
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