Do not go too close

 エルフとは、身体的特徴に基づく人種分類の概念の一つ。

 山岳や森林、孤島などの開拓が進んでいない地域を主要な居住地としている。大陸外では耳長に由来した訳を与えている言語も多いが、居住環境によっては長い耳を有しない者も多い。

 各大陸に広く分布しており、多種多様な民族を抱えている。共通した特徴として、導術の扱いに長け、調律語の発話が可能なことが挙げられる。

 他の人種とは一線を画す導術への適性と調律語を扱えるという点から、かつては海帝種、山王種、天宮種と同じ皇類に分類され、竜の一種、森麟種とされていた。つまるところ、当時エルフは人型の竜と考えられていたのだ。

 技術革命をきっかけに竜が爬虫類に再分類され、皇類そのものが削除されたことをきっかけに、エルフは形質的特徴によって定義される人種に改められた。これにより従来のエルフの一部は定義上、学術的な人種分類ではエルフと見做されなくなり、ダークエルフ、サンドエルフなどの人種定義が新設された。これらを十把一絡げにエルフとすることは社会的分類の側面こそ強いが、今日まで多くの者がそう呼び習わしている。


 ――ホーキンス社出版、テイラー百科事典の第一八版、エルフの項より引用




 雲ひとつない青い空から燦々と照りつける太陽。目を焼く真っ白な光が、煉瓦造りの建物と石畳で組み上げられた古めかしい町並みを熱々のグリルへと変貌させていた。

 熱を孕んだ大気は風に流され撹拌され、青々とした木々の葉を、公園のベンチを、店先の看板を、毛布のように包んで蒸し焼きにする。

 ソーンチェスターは東端に位置する時代遅れを体現するような町ヒュジウォーシャは今日、炎天下に晒されていた。今日だけではない。この一週間、ヒュジウォーシャの最高気温は増す一方だ。

「あー、あっちぃなぁ……」

 カウンターで背凭れに寄りかかりきったイルマは天井を見上げ、力なく呟く。その声さえすっかり茹で上がり、しなしなになっていた。昨日までは店長の意地で身につけていた店名の入ったエプロンも投げ出し、無地のシャツ一枚の姿だ。

 長い脚をカウンターに投げ出し、よく分からない呻き声を漏らしている。筋肉質な壮年の男性が汗を流し、弱音を吐いている姿はそれだけで暑苦しい。イルマが投げ出した脚のすぐ近くにはラジオが置かれ、ノイズ混じりにプロのレギュラーシーズンが始まったばかりの球技ビグティの試合中継が垂れ流されていた。イルマが応援しているクリディカン・ヴァイアンズの相手は、強豪ティアマット・ポルニガンだ。

「あーあ……あっちぃよなぁ……冷たいもんとか飲みてぇなぁ……アイスとかもいいよなぁ……」

 店の奥、カウンター脇の日陰の丸テーブルに座り頬杖をかいて、技術書を読んでいたユラハはその声を黙殺する。春の間は窓辺がユラハの特等席だったが、この暑さにそんな場所に座っていたら熱中症で倒れてしまうだろう。

 薄く細く平たい肢体の表面には汗が浮き、麻のバンドカラーシャツが肌に張り付き居心地が悪い。ただでさえ暑いのに、店内はお世辞にも広いとはいえず、しかも導具が密集している。金属製の導具たちは光に熱され、それ自体が熱波を放っているようだった。もともとユラハは汗をかきやすい体質だが、普段以上の汗が頭皮から滲み出て、滝のように落ちてくる。

 いつの間にか髪も長くなり、後頭部には熱がこもっていた。

 どう表現しても、結局のところ暑いのだ。何もやる気がしないほどに暑い。

 もう我慢できず、雑然と纏め上げた後ろ髪をゴムで結いだ。まだ長さが足りず、纏めきれなかった髪が溢れたが、それでも首筋は随分と涼しい。

「あーあ! 誰かアイスとか飲み物とか買ってきてくんねぇかなぁ!」

 無視されようと構わず、言外の要求を漏らすイルマには最早店長としての威厳がない。外では虫の羽音が喚くように響き渡り、ユラハの思考をかき乱す。

 全てを意識から追い払おうと本に目を通しているのに、滑らかなインクの表面で目が滑った。全く頭に入ってこない。有益であるはずの文章は蝉の声が塗りたくられ、蕩けた脳では記号の羅列でしかない。それがまた苛立ちを募らせる。

「誰か買ってきてくんないかなー! 絶対感謝するんだけどなー! そのうちお金も倍にして返すんだけどなーっ!」

「おーっと、ここでムスペル選手にボールが渡った! 速い! 速いぞムスペル! 追いつけない! まっすぐまっすぐゴールへと! これはまさかまさかの逆転サヨナラ――」

 虫の羽音。回りくどい店長。そしてラジオから垂れ流される実況。

「はーあー! 今冷たいものあったらめっちゃ頑張っちゃうんだけどなー! どっかの気前のいい従業員が買ってくれないかなー!」

 夏の熱気の中でさえ冷ややかな冴え冴えとした金属音が疾走する。

 一瞬の沈黙。

 イルマは鋭角な鞘走りの音に驚き、椅子を蹴立てて立ち上がったユラハが握る抜き身の剣を凝視していた。ユラハも空を裂いた剣の刃を注視する。氷のように冷え切った蒼い瞳に感情はない。

「あーっ! ムスペル選手、ここでボールを取りこぼしてしまったーっ! 最後の最後、逆転ならずです!」

 試合終了。イルマの応援しているチームは逆転勝利ならず。

 ユラハはあえて大仰なため息を吐き出し、導剣アルドライトを鞘へとしまう。

「買い物行ってきます」

「あの、えっと……ですね、ユラハさん」

 おもむろに歩き出し、カウンターの前を通り、出入り口前に向かうユラハの薄い背中に、イルマは恐る恐る声を投じた。板張りの床を踏み抜くようにして止まり首だけで振り返ったユラハの眼光は鋭く、それだけでイルマは怯え、引き下がろうとして椅子から転げ落ちる。

 ユラハの目は自分の足元、そしてイルマとの距離を測る。抜刀から一度の踏み込みでは辛うじてイルマの首に剣が届かない。観念してイルマの言葉を待つ意味で睨めつけた。

「何?」

 カウンターの陰からイルマが頭を半分だけ出す。

「できればチョコ味で」

「チョコミントでもいい?」

 有無を言わさぬ強い声だった。

「チョコミントは苦手です」

「アタシが買ってくるものにケチつけるの?」

「は、はいぃ! いいですミントでも! でもできればチョコでお願いしますっ!」

「はいはい、できれば、ね」

 嫌味を込めて応じ、ユラハは踵を返して店を出ようとする。しかし、目の前に立ちはだかったのは真っ黒な壁。否、違う。これは被服だ。顔を上へ向けると、そこにはノンフレームの眼鏡をかけた黒髪の男の顔。

 涼しげな目元を不快感に歪ませ、冷たくユラハを見下ろしている。造り物めいて動かない端整な顔の表面には汗の滴一つ浮いていない。こんな真夏に長袖の外套を纏っているにも関わらず。

 ユラハと視線を交じらせ数秒、彼は鼻で笑い、ゆっくりとイルマへ顔を向ける。

「相も変わらず物騒な女を連れてるな、イルマ」

 カウンターに隠れていたイルマは聞き慣れた声に顔を出し、その切れ長の目を瞠った。

「セインズ、か。お前相変わらず暑苦しい格好してんな」

 イルマの呑気な答えに、セインズと呼ばれた見目麗しい男は大仰に肩を竦める。

 高い鼻梁、薄い唇、細く鋭い目は怜悧で神経質さを感じた。事実、黒い外套の表面に埃も糸くずも見当たらない。女性のように白い肌の青年は呆れたように首を振り、今一度イルマへ向き直る。

「分かっているんだろう。イルマ。私が来た理由くらい」

 苛立った言葉にイルマは曖昧に笑ってみせた。




 人目につく店内で話すわけにもいかないと判断したのか、イルマは普段ほとんど使わない応接間にセインズを通した。常に不景気な古導具店にしては質のいいソファにそれぞれが向かい合うようにして座っている。

 ユラハは閉ざされたドアに背を預け、腕を組み、セインズの背中を見つめていた。

 黒い外套はソーンチェスターも属する国家連合バリヤイストの軍服だ。イルマにも並ぶ長身であり、線の細い秀才のようにも見えるが、体つきは軍人のそれだとユラハの目なら分かる。

 セインズとはユラハもこれまで何度か顔を合わせていた。イルマの古い知り合いであることも知っている。何より、ユラハの存在を快く思っていないことも分かっていた。

 ユラハも、彼のことはあまり好きではない。

 背もたれに腕を預け、悠然と座ったイルマには呑気な笑み。旧友の来訪を素直に喜んでいるようでもあった。

「で? こんな真夏日に何の用だ?」

「仕事に決まっているだろう」

 落ち着いた声でセインズは答える。音一つ一つ、言葉一つ一つを丁寧に発する、まるでお手本のような話し方だ。感情もなく抑揚もなく、ただ常に内に秘めた苛立ちを嫌味ばかりが滲み出ている。

「ジゼタリウスに挨拶をしてこい。イディリアナからの伝言も預かっている」

 ユラハにとっては聞き慣れない名前が二つ。それが組織名なのか人名なのかも分からない。

 この暑い中、白い手袋までされたセインズの繊手が、二人の間にあるテーブルに置かれる。シーリングスタンプで閉じられた封筒だ。蜥蜴を模したであろう刻印がユラハの目を引く。

 イルマもまた同じエンブレムを見つめ、曖昧に肩を竦めた。

「いつも通りの仕事っちゃ仕事だが、まだ時期には早いんじゃないか?」

「当然だろう。ここ最近の貴様の行動に対するペナルティだ」

 冷たい声でセインズが返す。

 イルマとセインズはまるで対照的だ。身に纏う雰囲気も、口調も、身なりも、髪の色も、肌の色も、何から何まで違う。イルマは旧友だと言っていたが、この二人にどんな接点があったのか、ユラハにはまるで想像ができない。

「ペナルティねぇ。そんなもん科されるようなことした覚えがないんだが」

「ドラゴニア大橋やグディッチタワーでの騒動、それにエンジャーズ深林での龍域侵犯――これらの揉み消しにどれだけ手間をかけてやったと思っている?」

「騒動に関してはむしろ俺は連中の手間を肩代わりしてやった。龍域侵犯に関しても不可抗力だし、結果的に丸く収まって外交問題にもなってないだろ。何も問題はない? そうだろ?」

 冗談めかしたイルマの言い分にセインズは苛立った嘆息を漏らし、細い指先で眼鏡の位置を正した。

「遠回しに言っても分からんなら、直接言ってやろう。お前が弟子を取ったせいでいろいろ面倒なことになっている。イディリアナは貴様の希望にそぐうように手を回しているが、貴様自身がそれを乱すようなことをするから拗れているんだ」

「しがない整備士が弟子を取るわけないだろ?」

 いっそ笑みさえ浮かべて応じるイルマに、もう全てを諦めたのかセインズはすっと立ち上がった。縁のない眼鏡の向こうの鋭い金の瞳は冷たくイルマを見下ろす。

「その、しがない整備士でいたいのであれば、仕事はやってもらうぞ」

 セインズは外套の裾を翻し、颯爽と歩き出す。自然とドアの前にいるユラハと目が合う。セインズは仇でも見るように眼光を引き絞り、腕を組んだユラハも応じるように睨み返した。視線を交わらせたまま、セインズの長い脚があっという間に二人の距離をあっという間に踏破する。

 互いの息さえ頰に感じる距離。背丈の差で自然ユラハは見上げ、セインズは見下ろす。

「何を見ている?」

「そっちこそ。アタシに何か言いたいことでも?」

「貴様が何かを言って伝わるようなら言っている」

「言いたいことがないなら帰ったらどう?」

「言われなくてもそのつもりだ」

 セインズはユラハの脇を抜け、ドアを開けて部屋を去っていく。特に見送る理由もなく、ユラハはイルマへと視線を戻した。

 変わらずソファに凭れかかっているイルマ。テーブルには封筒と、お茶が注がれた二人分のコップ。

「茶くらい飲んでいけばいいのにな」

 冗談めかして呟くイルマにユラハは答えない。

 弟子――それがユラハ自身を指していることは明らかだった。

 確かに曲がりなりにも導術を教えられ、構築した導式を添削してもらっている現状は、師弟と言えなくもないのかもしれない。

 イルマは否定し、ユラハも師弟関係とは微塵も感じていないが、誰かにそう勘違いされてもおかしくはなかった。

「別にお前のせいってわけじゃねぇよ」

 そんなユラハの思考を先読みしたようにイルマがぽつりと零す。いつの間にか彼の赤い瞳が真摯な色を宿してユラハを見つめていた。その真面目な表情もすぐに気さくな笑みに転じる。

「こんな暑い中、町に篭っててもしょうがねぇしな。ちょっくら避暑地へ遊びに行く口実ができたと思おうぜ」

 きっとそれはイルマなりの励まし方なんだろう。

 この店で働いて、まだそれほど長くは経っていない。それでも二人っきりで過ごしてきたせいなのか、イルマの行動はある程度分かるようになっていた。イルマも同じだろう。

「まあ、アタシだってイルマに付き合っていろいろ大変なことに巻き込まれてるし、これくらいじゃチャラにもならないかな」

「言うようになったもんだぜ。いや、そいつぁ元からだったかな」

 イルマは封筒を手に取りおもむろに立ち上がった。

「あいつ見てたら、余計に暑くなっちまったぜ。なんか冷たいもんでも買いに行くとすっか」

「それってイルマの奢り?」

 悪戯っぽく笑うユラハの問いかけにイルマはわしゃわしゃと白い頭を掻いた。

「しょうがねぇな……」




 風が歌に揺られ、踊り出した木々の手先で葉が擦れ合う。新緑のヴェールの隙間から零れた真っ白な光があちらこちらで弾けた。

 鳥が旋律を奏で、虫の翅が律動を刻む。

 確かな森の息遣い。草花に覆われた土のひんやりとした柔らかさを踏みしめるように立ち止まり、その者は静かに息を吐いた。

 顔は目深にすっぽりと被ったローブによって窺えない。しかし狭苦しいフードから溢れ出した、羊を思い起こさせる癖の強い銀髪に埋もれかけた顎は細く、肌は未開の雪原のように白い。

 背の高い木々が伸ばした枝葉によって空は遮られ、森は薄暗く空気も心地よい冷たさを孕んでいる。それでも、雪国から訪れたような肌の白さと風采はいささか奇妙だった。

 ゆったりとした袖口から伸びた手が握るのは木製の杖。もう片方の手には小振りな籠を抱えていた。いずれの手の甲にも泥でローブと同じ系統の模様が描かれている。短冊状に加工した植物性の素材で編まれた籠の中には一種類の草が集められていた。

 傍らには灰色の狼。体は大柄で、ローブ姿の腰ほどの全長だ。首元から後ろ足の付け根にかけて、体の両側に白い線が通る、変わった模様をしていた。突き出した鼻は細く、薄荷色の眼は切れ長。狼に用いるのも妙かもしれないが、精悍な顔立ちをした狼だった。

 狼は首輪もなく、拘束具もないが、傍らのローブ姿に敵意を見せることもなく、静かに付き従っている。

「何やら、ざわめいておるな」

 ふと、ローブ姿が声を漏らす。静かで、落ち着いた声は男にしては高く柔らかく、女にしては低く硬かった。突き詰めれば、どちらの性別かも分からず、どちらの性別にも聞こえる声だった。

 声質そのものは若いが、その落ち着きにはどこか老獪の思慮深さが含まれているような余韻が滲む。

 狼は顔を上げ、気取るように鼻をすんと鳴らす。

「嗅ぎなれない匂いがするぞ。ジゼル」

 低い、男の声。それは灰色の狼から発せられていた。口からではない。ただ確かにその声は耳に届いた。

「ふむ。なるほどな」

 ジゼルと呼ばれたローブ姿は傍らの狼の頭を撫でようと手を伸ばすが、嫌悪感から鼻先に皺を寄せた狼に噛まれそうになり、すっと引っ込めた。

「どれ、ちょっと見に行こうかの」

「勝手にしろ。俺には関係ない」

 ぷいっとそっぽを向く狼にジゼルは花開くように笑んだ。

「そうは言っても、ついて来てくれるのじゃろ?」

「さあな」

 素っ気ないことを言いつつも、狼は歩み出し、匂いの場所へと案内してくれる。

 片手に杖を持ち、もう片方の腕に籠を抱えたジゼルはその後をのんびりと歩む。

 草花と木々を掻き分け、しばらく進むと、そこに誰かがいた。

「あいつだな」

 狼が呟く。相変わらず口は動かず、音だけが耳に届いた。

 茂みに身を潜めたジゼルは労う意味も込めて、狼の頭を撫でようとするが、唸り声で威嚇されたので大人しく手を引っ込め、その何者かに視線を戻した。

 興味を引いたのは紅い髪。目が痛いほどに鮮やかな色合いは鮮烈という言葉がしっくり当て嵌まる。体躯は細く、背も高くはない。歩く姿を見る限りではしなやかな肉体をしている。

 襟のないシャツ、綿を綾織にした黒いスラックス。

 女性だった。まだ若い。

 しかし腰には、その華奢で薄い体には不釣り合いな剣。柄頭には赤い宝珠。

「《手品師》じゃな」

「見れば分かる。風と火……いやな匂いだ」

「一体何をしに来たのだか……ピクニックにはちと場所が悪い。グリルパーティーをするには……いささか火種があぶなっかしすぎるようじゃしな」

 なんとなく周囲を見回し、ジゼルは別の何かに気付き、薄く笑んだ。

 狼が何かと問いかける前にジゼルは立ち上がり、杖を持った手を高く上げた。

「おー、イルマよ、お主じゃったかー」

 気さくで呑気な呼びかけに、赤い髪の少女の近くを歩いていた男が足を止めた。

 上背のある筋肉質な浅黒い肉体、そしてざんばらな白い髪。

 ジゼルにとっては見慣れた男の姿だった。

 突然の呼びかけに男は最初こそ彫りの深い顔を訝しげに歪めたが、ジゼルの姿を認めるとすぐに相好を崩した。

「ジゼタリウスか。奇遇だな」

「お主が来るには、いつもより時期が早いのではないか?」

「小間使いの一環だよ」

 イルマと呼ばれた男は気楽そうに答える。

 ジゼタリウスは隠れていた茂みを掻き分け、二人の元へと向かった。彼の側に控える少女をもう一度瞥見する。

 彼女もジゼタリウスを見つめていた。身構えているのは警戒か、それとも緊張か。

 ジゼタリウスが最初に声をかけた瞬間、少女は迷いなく剣を握り、すでに戦える状態となっていた。驚くべき反射神経、そして判断力。

 彼女とイルマ――どうにも接点の見えない取り合わせだった。

「ちょうどあんたらの集落に向かってたとこなんだ」

「そうだろうなぁ。お主がここに来る理由などそれくらいしかあるまいよ。それで、イルマよ。そちらのお嬢さんは?」

 少女も興味深そうにジゼタリウスと狼を見ていた。お互い紹介が必要だろう。

「ああ、そうだったな。ジゼタリウス、こちらはユラハだ。半年ほど前から、うちで働いてくれている」

「ほう、従業員とな」

 おとがいに指を引っ掛け、ジゼタリウスは唇の両端を引き上げた。

「イルマよ。しばらく見ないうちにまた女の趣味が変わったのう」

「従業員です」

 ユラハが思いの外強い語調で繰り返す。

 目鼻立ちのはっきりとした爽やかな容貌は丸みが少なく、少年めいたものを感じた。その顔にそっと添えられた笑みこそ穏やかだが、声だけは有無を言わせない。

 低く、はっきりとした声はより中性的な印象を強めた。

「そんでユラハ、こいつがジゼタリウス。この森で暮らすエルフだ」

「エ、エルフ?」

 眉を上げて、ユラハがその言葉を繰り返す。分かりやすい反応にジゼタリウスは少し気分がよくなった。ユラハほどの年齢であれば、例え導術士であってもエルフなど文献上くらいでしか触れる機会がないだろう。

 ジゼタリウスは焦らすようにゆっくりとフードを下ろしてみせる。押し込められていた羊毛を思わせる髪が腰まで垂らされた。

 作り物じみた造形美。博物館に展示された彫像のように彼の顔は整いすぎていた。完璧なパーツがある種数学的な精密さで理想的な位置に配置されているような、計算され尽くした美しさがあるのだろう、と見る者が思わずにはいられない完成形。

 その滑らかな肌の上には泥による化粧。額や頬、首元にまで模様が描かれている。

 眦が下がった金色の目をユラハに向け、ジゼタリウスは優しく微笑んだ。

「ジゼタリウスじゃ。今後ともよろしくの、ユラハ」

「ええ、こちらこそよろしくお願いします」

 最初こそ驚きこそしたようだが、ユラハはすぐに平静を取り戻していた。ただ彼女の蒼い瞳はちらちらと羊毛のような髪に埋もれて見えないジゼタリウスの耳に引かれてもいる。

「ほれ」

 面白くなり、ジゼタリウスは両側の髪を引き上げ、自分の耳を外気に晒すと、ユラハの目が釘付けになった。そこにあるのは長く、細く、尖った耳。作り物じみた姿形に、人間とは異なる奇妙な耳。それがまた造形品めいた趣を深める。

「本当に尖ってるんですね」

「エルフを見るのは初めてかの? ユラハ」

「ええ。というか、ここがエルフの生活圏ということも今の今まで知らなかったくらいでしてね」

 じっとユラハの目が傍らのイルマを睨めつけた。その言葉にイルマは悪びれもせずに笑う。

「あれ? 言ってなかったか?」

「言ってないでしょー! こういうことは事前に説明してっていつも言ってるじゃんかー!」

 この森、エンジャーズ深森は竜とエルフと人の領域が交錯し、火薬庫とさえ呼ばれている。目立った表示や境界線もないため、森に馴染みのない者が歩けば、ふとした拍子に領域を侵犯し外交問題に発展しかねない。それ故人間は全く寄り付かない地となっている。

「ジゼル」

 ふと、呼ばれてジゼタリウスは足元に目を向ける。傍らの狼が恨みがましそうな目をジゼタリウスに向けていた。

「おお、そうじゃったそうじゃった。ユラハよ、こやつはデューノ。ワシのよき友人じゃ」

「よろしく頼む」

 狼――デューノは自分から促しておきながら、素っ気ない声をユラハに投げかける。突然のことに驚き、ユラハは自分の両耳に手を当てていた。

「今、声が」

 戸惑ってこそいるが、混乱している様子はない。静かに、事実を確認するような声音。見た目に似合わず、胆が据わっているようだ。

 耳元で突然声が聴こえるという感覚は馴染みがなければ驚くのが当然だろう。

「こやつは鳴狼といってな、風の導術に長けているんじゃ。特に音の扱いが巧く、こうやって器用に風を操ることで自分の声を作りおる」

 デューノは自分の喉で声を発しているわけではない。狼と人間ではそもそもの構造が違うのだから、言葉を紡ぐことの方がおかしい。

 ただ空気の振動を導力で生み出すことで人の声に似た音を作っているだけだ。

「さて、挨拶も済んだことだし、家に案内しよう」

「今日は伝言を持ってきただけだぜ?」

「ほう、それは好都合じゃ。さっさと用件を済ませてゆっくりしていくとよい。お主が来ると、子供たちが喜ぶからのう」

 ジゼタリウスはその若々しい容貌に似合わぬほど、穏やかで温かい好々爺然とした笑みを零した。




 森を掻き分けて進み、集落に辿り着くとユラハが感嘆の声をまず漏らした。深い森の中に生まれた開けた場所、そこに規則性もなく建てられた木造の質素な家々は彼女にとって真新しいものだった。

 分かりやすい反応に先を歩いていたジゼタリウスが頬を緩める。ユラハは感情表現が薄いようで反応が素直だった。彼女の飾らない振る舞いと、真っ直ぐな心の機微はジゼタリウスとしても見ていて心地がいい。

「ここがエルフの集落?」

「ああ、そうじゃよ。他のエルフの集落よりはちと小さいがな」

 多くのエルフは種族間の小競り合いや、他種族の争いの余波を受け、次第にエンジャーズ深林を離れていった。今、この森に住まうエルフの総数は他の集落よりも遥かに少ない。

「そうじゃ。少し寄り道をしていくがよいか?」

「別に構いやしねぇよ」

 イルマの気楽な返答を受け、ジゼタリウスは用を済ますため、とある家へ向かう。この集落の中では比較的大きな家だ。

 ジゼタリウスは木造の階段を登り、扉を杖の先で叩いた。少しと待たずに扉が開けられ、中から線の細い男が現れる。灰色の長い髪を後ろでひとつに纏めた壮年の男性だ。顎に無精髭を生やし、顔立ちこそ整っているが表情は気怠げ。上下ともに飾り気がない質素な服は丈が短い。

 不摂生な見た目こそしているが、彼はこの集落でただ一人の医者だった。

「ああ、長老、どうしました?」

 高い鼻梁から落ちかけていた眼鏡の位置を正し、彼は少し驚いたような声を上げる。

「薬草を集めてきたのじゃが、少し用事が出来てしまってな。煎じておいてもらえるかの?」

「それは構いませんが……て、ああ、お前が来てたのか」

 薬草を入れた籠を受け取った彼は、ジゼタリウスの後ろに立つイルマとユラハに気付き、笑みを浮かべる。

「ああ。ちょっと野暮用があってな」

「ちょうどよかった。用事が済んだら、うちに来い。見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの? なんか珍しいものでも見つけたのかよ?」

 興味を惹かれるイルマに、彼はにっと悪戯っぽく笑う。

「かなり品質の高い影猫虎(エイビョウコ)の幻素線(エーテライン)が手に入ったんだよ」

「は⁉︎ マジで言ってんの⁉︎」

「マジもマジだ。しかも、老体のものじゃないぞ。かなり若い個体だ」

 恐らくは医者の予想通り、イルマは食いつき、ジゼタリウスを押しのけ彼に迫った。

「見せろよ! 今すぐ見せろよ!」

「ほいほい、わしとの話が終わった後にな」

 ジゼタリウスは上背のあるイルマの襟首に杖の先端を引っ掛け、半ば強引に引き寄せる。少し何か言いたげにジゼタリウスを見たイルマは、居ても立っても居られない気持ちをなんとか押さえつけ、一度大きく深呼吸した。

「……終わり次第、行くからな。待ってろよ」

「分かってるよ」

 名残惜しげなイルマに笑い返し、医者はジゼタリウスから預かった籠を持って扉を閉める。

 寄り道が終わり、今度こそ一行はジゼタリウスの家へと歩き出した。

「エルフは人間を毛嫌いしていると聞いてたんだけど、みなさんすごく気さくですね」

 最後尾を歩くユラハの言葉に、ジゼタリウスは声をあげて笑う。確かにイルマに対して、この集落の者たちは家族のように接するが、その認識は合っているようで間違っている。

「我々の領域に無断で立ち入る者に対しては、そうでもないさ。ただお主らは特別じゃ。パートスの弟子であるイルマと、その弟子であるユラハにはな」

「弟子じゃねぇよ。うちの従業員だ」

「ああ、そうじゃったかのう。まあ、そうなのじゃろうな」

 曖昧な返事にイルマは何か言いたげだったが、それ以上の言葉はなかった。

 思うところがないわけではないが、そこにジゼタリウスが口出しするのは野暮というものだろう。

 集落は狭い。ほんの少し考え事をしているだけで、家まで辿り着いた。

 一応は集落の長ということもあり、ジゼタリウスの家は集落で最も大きいものとなっている。

 ユラハは周辺の家を見回し、もう一度ジゼタリウスの住居に目を戻した。

「立派ですね」

「はっはっは、これでも一応長老じゃからな」

「ああ、そういえば先程の方も長老って呼んでましたね」

「まあ、ここで一番年寄りだから、という簡単な理由じゃがな」

 何気なく答えるが、背後でユラハが「え?」と疑問の声を漏らしている。エルフの外見年齢のややこしさは、当人たちでさえ感じているから無理もない話だろう。

「エルフはある一定の年齢になると外見の成長が緩やかになるんだが、その止まるタイミングの個人差が大きい。こいつはこう見えて、随分とジジイだし、ビューレス――ああ、さっきの医者とかは見た目こそ老けてるが、ジゼタリウスよりも遥かに若い」

「ジジイとはまた酷い物言いじゃな、イルマよ」

「事実だろ。あんたは俺の師匠よりも遥かに年上だ」

「パートスも相当歳を誤魔化しておるがな」

 イルマは自身の師匠の正確な年齢を知らず、それはジゼタリウスも同じだ。そしてジゼタリウスさえ自分の年齢を正確には把握していない。歴史的事柄に紐付けて逆算すれば特定もできるのだが、それはあまりにも面倒であり、何より特定する必要性もないため、分からないままにしてある。

 もともとエルフたちは長命であるが故に自身の年齢に関して疎い。その上、繁殖力が低いため、自分が生まれた時にすでに生きている者は自分よりも年上というような適当な認識で何とかなってしまう節がある。何よりジゼタリウスが細かいことを気にしない性分であることもあって、あらゆることが曖昧なままに済んでいる。

「はぁ、みなさん若造りなんですねぇ」

「はっはっは、ユラハはなかなか面白い物の見方をしておるようじゃな」

 感慨深げにこそ言うが、ユラハの認識も相当にざっくばらんとしている。その価値観や視点は実に小気味よく、ジゼタリウスからすると、有り体に言って好きだった。

「さて、んでまあ、俺とジゼタリウスはこれからちょっと話し込むが、あんたはどうする?」

「ん? どうするって?」

 イルマの問いにユラハは首を傾げる。

「俺たちの話なんざ聞いててもつまらないだろうからな。なんだったら、適当に時間潰してくれてもいいぜ?」

「ああ。そういう。アタシとしては今後のためにも、一緒にいた方がいいかなって思ったんですけど、もしかしてお邪魔ですか?」

「そういうわけでもねぇんだけどな。そんなに得るものが多い話ってわけでもないし、本来人間は立ち入れないエルフの集落を見て回ってる方が得るものは多いんじゃないか?」

「んー」

 腕を組み呻吟するユラハ。

 ジゼタリウスとしては彼女が一緒にいても不都合はないが、少しイルマと話したいこともあった。なんとなくイルマもそれを察している様子がある。

「デューノが案内をしよう。せっかくじゃ、見てまいれ」

 それまでずっと黙っていたデューノが驚いたように顔を上げ、ジゼタリウスを恨めしそうに睨み付けてくる。鳴狼は発したい音を発しているだけなので、驚いた時に驚いた声を出すようなことはない。

 呆れながらもデューノは静かにユラハへと視線を戻す。

「あんたが望むなら、別に俺は構わん。あまり気の利いたガイドはできないがな」

「んー、それならお言葉に甘えさせていただきますかね」

 ユラハとしても興味はあるのだろう。答える声は微かに期待を孕んでいるようだった。

「じゃあ、イルマ、アタシがいない間、ジゼタリウスさんに迷惑かけないようにね」

「あんたは俺の保護者かよ」

 信用のない物言いに肩を落とすイルマ。二人のやり取りを見て、ジゼタリウスだけが声をあげて笑っていた。




 目に見える全てが森だった。

 泥の壁と木の屋根。土の道と草の絨毯。街路樹というわけでもなく、ただそこに根付いたから今も根付き続けている樹木、ただそこに咲いたから咲き続ける花。全てがそこにいたからという理由だけでその場に在り続ける。

 きっとこの集落に住まう者たちも森に生まれたから森で生き続けているのだろう。

 穏やかなそよ風に運ばれてきた温かなスープの香りと、肺を満たす澄んだ空気に、なんとなく、ただふっと思い至る。

 あれほど鬱蒼としていた森が、今ではこの集落全体を優しく包み込む父の両腕に思えた。

「どうした?」

 先を歩いていたデューノが、立ち止まっていたユラハを顧みる。

「ん? ああ、ちょっとね」

 微かに笑って答えたユラハは、デューノの元へ足早に向かう。

「やはり人間のあんたには物珍しいばかりだろう」

 低く渋味のある男の声でデューノは言う。

 素っ気ないように見えた狼が紳士的であることに、ユラハは案内される中で気付いていた。

「物珍しいっていうか、本当に森にあるものだけで生活してるんだなぁって」

「昔はもう少し違ったらしいがな。別の場所に住んでいるエルフの行商と物々交換をしていたらしい。山岳、海辺、砂漠、そういった場所の物も少なからずあったと聞く」

「魚とか、そういうの?」

「金属や硝子とかもそうだ。それにここでは採れない果物や薬草もある。余所の集落はまだ他と交流を持っているらしいが、ここは竜や人間との境界線があって、そもそも行商が寄りつかない」

 ユラハはもう一度木造の家屋を見回す。確かにどこにも窓硝子はなく、木製の鎧戸が嵌められている場所がほとんどだ。

「やっぱりエルフでも境界線付近の見極めは難しいの?」

「難しいなんてものじゃない。ジゼルでさえ時には見誤る。だから、俺たちのような獣を傍につけているし、長であるジゼル自ら薬草を採りにいく」

「ジゼタリウスさんが森にいたのってそういう理由だったんですか」

「ま、あいつは単純に森に入るのを楽しんでいる節もあるが――」

 ふと、脇を歩くデューノの声が途絶えた。それっきり全く音沙汰がなく、不思議そうに隣を見るとデューノがいない。歩いてきた方へ目を向けると、デューノが道のど真ん中で倒れ伏していた。

 その背中には小さな子供が三人ほど取りついている。

「え? 何?」

「何じゃない。助けろ」

「えー?」

 面倒そうに頭を掻きつつ、ユラハはデューノたちへと歩み寄る。

 エルフの子供達の輝く瞳がユラハへと向けられ、少したじろいでしまう。六、七歳ほどだろうか。まだ幼い子供達だ。

「お姉ちゃん、イルマの友達?」

 少女の純粋な好奇心が溢れに溢れた質問に、ユラハは困ったように頬をかく。

「え? えーと、そうだなぁ……友達って言えば友達かなぁ」

 つい返答が曖昧になる。従業員と言っても分かりにくいだろう。かといって友達と言い切ってしまうのも誤解を生む気がする。

「こいつはイルマのツレだ」

「ちょ、ちょっとデューノ!」

「ツレ? ツレってなぁに?」

「連れてきただけの奴」

「友達じゃないのに連れてきたの? 変なのー」

 他の二人の子供が真似るように「変なのー」と繰り返す。

 確かにおかしいのだろうとは思う。ユラハ自身、なんでイルマが自分をここまで連れてきたのか分かっていなかった。

 今回は特に危険もないのだから、ユラハは店番をしていてもよかったはずだ。

「イルマが来てるって聞いたから遊んでもらおうって思ったんだけど、イルマは? じじ様のとこ?」

「そうだな。まだ話の最中だろう。というかお前たち、さっさと降りろ」

「えーいいじゃーん。乗せてよー」

「ダメだ。まったく、勝手に成長しやがって。お前ら三人乗せて歩くのは疲れる」

 お互いすっかり慣れているのか、デューノが強引に起こした体を振ると、三人の子供が草の絨毯の上に転がる。危なげもない理想的な受け身をするもので、ユラハはつい感心してしまうほどだった。

 エルフは身体能力が総じて高いというのは本当のようだ。

 起き上がったエルフの子供達は丸い目をユラハに向けてくる。

「お姉ちゃん遊んでくれる?」

「んー、そうだなぁ」

 言いながら、ユラハは三人の子供達と同じ目の高さになるようにしゃがみ込んだ。

「いつもイルマとは何して遊んでるの?」

「んーと、イルマはブランコとか作ってくれたりするよ」

「それはちょっとお姉ちゃんには難しいかなぁ」

 彼の器用さは留まるところを知らない。彼の古導具店に勤めているユラハでさえ、本職が一体何なのか分からなく瞬間がある。

 導具に始まり、遊具まで作れるとなると、もう彼に作れないものがあるのかさえ怪しい。

「ねえ、デューノ。何して遊んだらいいと思う?」

「俺が子供のあやし方を知っていると思っているのか? 子供なんざ適当に追いかけっこでもしてればいんだよ」

 あらゆる方面から顰蹙を買いそうな発言だが、子供達は大して気にした様子もない。デューノの言動にもすっかり慣れているようだ。

 ユラハは今まで子供と遊ぶ機会がなかったこともあり、どうやって遊び相手をしていいのか、すぐには思いつけない。この辺り、子供達の相手が上手なイルマは意外に子煩悩なのだろう。ヒュジウォーシャの子供達にも慕われ、壊れた玩具の修理などもせがまれている姿を、以前見かけたことを思い出す。

「じゃあ、そうだなぁ。イルマが作ったブランコのところまで案内してもらってもいいかな?」

 遊具があれば子供達も遊びに困らないだろう。何よりイルマが作った遊具がどれほどの出来なのかも純粋に興味があった。しかし、ユラハの提案には答えず、子供達は皆一様に明後日の方を見ていた。

「……どうしたの?」

「呼んでる」

「え?」

 子供の小さな唇から漏れた譫言めいた言葉。

 首を傾げるユラハに対し、耳をぴくりと動かしたデューノは鋭い眼光で辺りを見回した。

「誰を呼んでいる?」

 デューノの静かな問いに対し、三人の子供はユラハを見つめることで答える。

「お姉ちゃんを呼んでる」

「あー、そうか」

 面倒そうにデューノは尻尾を垂らし、ユラハへ目を向ける。ユラハがしゃがみ込んでいるため、同じ高さで目が合う。

「あんたに会いたがってる奴がいる。付き合ってくれるか?」

「会いたがっている人? なんでまた」

「さあな、別に取って食われることはないと思うが、気乗りしないなら俺が断りを入れてやる」

 ユラハは少し考え、本当に考えたのかどうかも分からないほど間も置かず、デューノへ向き直る。

「いいよ。別に」

 あっさりとした快諾に呆れたように耳を垂らしたデューノは、すぐに気を取り直し一言「ついてこい」とだけ言って、歩き出す。立ち上がったユラハも、元気な子供達に別れを告げてデューノの後を追った。

 集落の中心を離れ、森に分け入るデューノ。ユラハはふらふらと揺れる、柔らかな毛並みの尻尾を見つめながら、ただついていく。

「集落から結構離れてるけど大丈夫?」

「この森はまだまだエルフの領域だ。そもそも森で暮らすエルフにとって、森そのものが家だ。集まって暮らしているのはその方が都合がいい以上の理由はない。群れて、肩を寄せ合い一人では生きていけない人間とは違う」

「棘のある言い方だなぁ」

 どうにもニヒルな言動の目立つデューノにユラハは肩を竦める。一匹狼の気質なのかもしれない。

「俺は人間がそもそも好きじゃない」

「アタシのことは?」

「なんでもない」

 雑然とした吐き捨てるような答え。

 ユラハからすれば、満足のいく評価だった。好きではない人間の中では、まだマシな方なのだろう。

「イルマのことは?」

「嫌いだ」

 間も置かずに答えが返ってくる。分かりやすい狼だ。

 デューノと話している間にも、森は一層深くなる。十重二十重の新緑が陽光を遮る暗緑の森は草花の吐息に満たされていた。どこかで鳥が鳴いている。小動物が茂みを掻き分ける音が耳をくすぐった。

 静寂を抱え込んだ底知れぬ森。ただ息づきだけがユラハの細い体に浸透する。

 拒絶と抱擁が綯い交ぜになっていた。

「ここだ」

 ふとデューノが立ち止まる。くいっと長い鼻で示した先には、周囲の木より遙かに大きな木があった。一般的な木の四倍ほどの太さだろうか。その大樹に寄り添うように小さな住処があった。

 布と木の骨組みだけで作られた、簡易的なテントだ。

「この中にいる人がアタシを呼んでたの?」

「ああ、そうだ」

「遠くからでも意思疎通ができるなんて、便利なもんだね」

「あいつらは森を通じてやり取りする。俺たちは風で言葉を交わす。お前たちは電波で通じ合うとイルマから聞いたことがある。俺もお前もあいつらも、大差はない」

「ああ、確かに。そういえば、それもそうか」

 なんとなくユラハはパンツの後ろ側のポケットに入れている携帯電話を布越しに触れる。

 以前の一件で連絡手段が必要だと痛感したのであろうイルマが都合してくれたものだ。ユラハ自身は未だに必要性を感じていないが、確かにこれは便利なものなのだろう。

 かつては人型の竜と呼ばれたエルフ、獣でありながら人の言葉を話し意思疎通ができる鳴狼。彼らは人間と違うが、しかしこうして言葉を交わし、やり取りができる。ユラハたちと何も変わらない。何一つ変わらない。

 それらが、こうして境界線に隔てられ、別々に生きている。それがなんとも奇妙なことのように、ユラハは今更思えてきた。

「それで、どうすればいいの?」

「入ればいいだろ?」

「簡単に言うなぁ」

 見ず知らずの人の家に入るのは流石に気が引ける。しかし、そうも言ってられないだろう。呼ばれて、ここまで来たのだから何もせずに帰るのも癪だ。

 意を決して「ごめんくださーい」と入っていくユラハの背後で、デューノが「簡単に入りやがる」と呟く。言いたい放題な狼である。

 テントの中には物がほとんどなかった。木造りの小物入れと思われる棚、そして食事のためのものと思われる椀と、スプーンとフォーク。それらに囲まれるようにして、化石めいたエルフが鎮座していた。

 鎮座――そのエルフの在り方はそうとしか表現できない。

 杖を持ち、胡座をかいた彼は俯き、瞑目し、黙している。ほつれた糸のような白い髪と髭、目を覆う瞼には年輪めいた皺が刻み込まれていた。何より子供達のように尖端が上に伸びる耳とは異なり、彼の耳の尖端は下へ向いている。

 時が止まっているのではない。その老人の姿は時が途方もなく引き延ばされているかのように静かだった。

 テントの布地を透かす陽光によって薄暗いテントの中だけが、何か違う時間に囲われているようで、ユラハはなんとなく呼吸の仕方を思い出すように、ゆっくりと意識的に息を吐き、吸い込む。

 杖を握り込む、木の根のような指が微かに動いた。

「おお、来たのじゃな」

 嗄れた声で、エルフが呟く。

「えっと、アタシを呼んだのはあなたですか」

「そうじゃ。すまぬな。懐かしいようで、覚えのない気配に少し興味があってな」

 老人は微かに息を漏らす。それは老いた体の疲労から来るため息のようであり、また弱った体で絞り出した笑声のようでもあった。

 それほどまでに男の体は弱々しく、まるで枯れ木のようでさえある。

「ああ、そうか。近くで感じて、ようやっと分かった。そなたの気配、猛き烈火と逆巻く野分……あの空を征く竜によく似ておる」

 皺だらけの瞼が痙攣するように震え、緩慢に持ち上げられる。現れたのは白濁した眼球。ユラハのいる方に向けられ、決してユラハを捉えていない目を見て、ユラハは見えないのだと悟った。

「アタシが竜に?」

「ああ、似ておる。懐かしいのう。人の身でありながら、何と眩く力強い輝き……」

 譫言のような言葉。彼の言葉は、ただ彼の中だけに響いているのだろう。

「アタシにどんな用があったんですか?」

 静かにユラハは問う。用がなければいる意味はなく、用があるのならば付き合う。ただそれだけのことだ。

「おお、すまぬのう。つい昔を思い返してしまった。少しだけ、そなたと話をしてみたかったのじゃ。稀有な魂の輝きを持つそなたとな。老人の最期の我が儘として、少しだけ相手をしてくれぬか?」

 最期。最後ではなく、最期であると、ユラハは感じ取った。

 何故感じ取れたのかは分からない。ただ心にそう響き渡った。

「もう長くはないってことですか?」

「そうさのう。もうじき、終わりが来る。そんな時に何の因果か、そなたが来た。だからこそ、呼んだのだ。少しだけ、人という者の言葉を聞きたくなったのだよ。何故、この森へやってきたのだ?」

「アタシはユラハ。イルマに連れられて来ました」

「嗚呼、そうか。あの《無色の隠者》と縁のある者であったか。あの者を私は視ることができぬ故、気付かなかったのう」

 恐らく目の前の老人は目が見えない代わりに幻素(エーテル)を感じ取ることで世界を認識している。特異な体質であるイルマのことは確かに感じ取れないだろう。

 彼にとって、イルマはいないも同然なのだ。

「そうかそうか。しかし、あの者が他者をここに連れてくるとはのう。そなたはあの者の弟子なのか?」

 もう何度されたか分からない質問だった。

 ユラハとイルマの関係性。誰もがユラハをイルマの弟子ではないかと訝る。その度に、イルマは強い否定を口にした。そして、その代わりとなる答えを口にしたことは一度もない。

 その質問の答えを誰よりも欲しているのはユラハだった。

 ユラハも分かっているのだ。今の関係性が店長と従業員の関係を逸脱していた。

 だが、それ以上となった時、どんな名前をつけるべきなのか分からない。

 一体自分はイルマにとって何者であり、ユラハにとってイルマは何者なのか。質問される度に心中で言葉を探し、見当たらなくなって投げ出し続けた。

 今この場所に否定を口にすべきイルマはいない。

 ユラハは小さな手を握り込み、ゆっくりと広げる。青空を溶かし込んだような双眸はじっと老人を見つめ続けた。

「……弟子ではないと思います」

 吐き出した言葉の煮え切らなさに一番苛立ったのはユラハ自身だった。我ながららしくない歯切れの悪さだ。

 老人はその言葉にゆっくりと頷き、杖を持たぬ方の手で髭を撫でた。

「あの者が初めてここへ来た時のことは今も覚えている」

 唐突に老人が話し始める。

「あの者は、師に連れられてここへ来た。あの者の師はそれ以前から度々この集落に訪れていたが、人を連れてきたのはあの者が最初で最後じゃ。そしてあの者が連れてきた他者もそなただけじゃ」

「…………」

 老人が言わんとすることは分かる。しかし、だからこそ考えるのだ。

「そなたの声には、そうあるべきではないという理想と、そうあれるのだろうかという願望、そして幾許かの恐れがある。否定を切望する理想、不安の滲む願望、矛盾した感情だ。何故、そなたがそう思うのかまで、私は知ることができない」

 謳うような、独り言めいた老人の言葉。まるで自分が一冊の書物として読み解かれ、また読み上げられるような感覚。

 僅かに不快感が滲み出る。

 そして、何か、いっそ無関係に思えた一つの疑問が自分の中で解決さえする。

「ああ、だからこそ、私はそなたに――」

「アタシの名前はユラハだ」

 老人の言葉を遮り、ユラハは低い声で言う。突然の反論に老人は驚いたように言葉を詰まらせた。

 ユラハは一度、ゆっくりと深呼吸をする。全身を駆け巡る激情の血脈を理性で抑え付け、老人をじっと見つめ返した。

「老婆心からアタシに助言してくれようとしているのかもしれないけれど、アタシはそれを望んだ覚えがない」

「すまないな。行きすぎた干渉だったかもしれぬ。ただ、少しでも迷いの霧が晴れればいいと思っただけだ」

 老人の声に焦りはない。まるでそれさえ見透かしていたような言動が、ユラハにとっては却って面白くないのも事実だ。

「それこそが余計なお世話です。アタシは確かに迷っているのかもしれない。悩んでいるのかもしれない。そして、それに対する答えをあなたは持ち合わせているのかもしれない。でも、それはあなたの答えであって、アタシの答えじゃない」

 堰を切った不満は怒濤のように溢れる。それは紛れもなく激情だというのに、頭の片隅、否、自分の三歩後ろで冷静な目で自分を分析している自分がいた。

 冷徹なわけではなく、冷酷でもない。ただ静かな心で自分自身を解き明かす自分。言葉を紡ぐ自分の背中を見る側にユラハはいた。

「アタシは誰かに敷かれたレールの上を歩くのなんてもうたくさんだ。アタシは今、アタシが決めた場所にいる。アタシが一番だと信じた、その道を歩いている。それはもしかしたら、あなたが示そうとしてくれた道と同じなのかもしれない。でも、それでもアタシが選んだ道だ。この道が正しいのか、間違っているのか、それはアタシが見届ける」

 そうだ。こういう物言いをされることが嫌いなのだと気付く。思い出す。

 忘れていた。今の今まで、そんなことに苛立ちを覚えていた自分の過去さえも忘れていた。

 あまりにも、これまでの日々の居心地がよすぎて、そんな出来事は海の彼方、空の果てへと飛び去っていた。

 今、その羽ばたきが耳を掠め、ようやく気付かされた。

 どうして自分が、あの寂れた古導具店で、あんな適当で大人げない人の下で働き続けようと思ったのか。その理由にようやく思い至った。

 息を吐き出し、心を落ち着ける。深い呼吸を二度して、もう一度老人に向き直った。

「名前なんて、いらない」

 先程よりもずっと凪いだ声で、しかし最も強くユラハは呟く。

 欲しかったのはここにいたいと思った理由だった。名前はそれを明確にするための足がかりでしかなかった。二人の関係にどんな名前がついたとしても、あの場所にいようとした理由は変わらない。

 そこにはイルマとユラハという名前の二人がいるだけで十分だった。

 静寂。ユラハの華奢な体から放出された感情が染み込んでいるように、空気には熱と硬さがあった。数少ない調度品、射し込む微かな木漏れ日さえ希釈する布地、それら全てにユラハの言葉が浸透しているかのように、やまびこめいて耳の奥で自分の声が蟠る。

 老人はその曇った目を見開き、やがて感じ入るように薄い吐息を交えて笑う。

「ああ、人間とは本当に――私たちの想像を軽々と超えていくものだな。長老があれほど気にかける理由が、最期に分からされたよ。私たちよりも遙かに短い時を生きながら、鮮烈な生き様を私の目にさえ焼き付ける」

 白濁した老人の目がユラハを正しく捉えた。そんなことはありえない。ただ、ユラハはその時、ようやく老人が自分を見たのだと感じた。

「アタシたちは短命だからさ。未来じゃなくて、今を生きるしかないんだよ」

 先のことを何も考えていないわけではない。刹那主義を謳うわけでもない。

 ただ漠然とした未来のためだけに行動できるわけもなく、結局よりよい今を積み重ねて生きていくしかない。

 エルフの価値観はユラハには分からない。ただ、少なくともユラハは人間として、今はそう生きている。

 静かに頷いた老人は、杖に縋るようにして、ゆったりと立ち上がった。体つきこそ弱々しいが、その足は確かに地を踏みしめ、見えないはずの目は前を向いている。

「そなたと話せて本当によかった。そなたのお陰で私もようやく気付くことが出来た」

 枝葉のような四肢を杖で支え、老人はゆらゆらとテントから出て行く。道を開けたユラハは彼を止めることができなかった。今にも手折れてしまいそうな体が刻みつける一歩を遮ることは、とても無粋に思えてならない。

「何かを遺そうと、遺さなければいけないと思った。長い命の中で、先延ばしにし続けてしまっていたことを、成さなければならないと思った。しかし、どうやらそれは驕りだったようだ」

 テントを出たユラハと老人を包み込む深い森。

 獣の息づかい、鳥の鳴き声、虫の羽音、葉の囁き、それら全てがひっそりと静まり返っていた。冷たさは感じない。森そのものが老人の声に耳を傾けているようだった。

 土と草を溶かし込んだ柔らかく、ひんやりとした香りに太陽の温かさを染み込ませた深緑の大気が肺を満たす。体の奥底に森の息吹が染み渡っていく。

 鮮烈な緑の中に佇む老人の背中をユラハはただ見つめていた。

「過去の遺物でしかない私が何かを遺すでもなく、新しきものがすでに芽吹いていく。私たちが留まっている間に人は何度も芽吹いてきた」

 微かに、老人の体が緑の光をたなびかせた。体の周りを循環するように緑の光たちが帯となり、老人の体を包み込む。

「遺すこともなく、拘ることもなかった」

 ユラハには今何が起こっているのか分からない。

「ユラハよ」

 ただ、老人が何度も口にした最期が今まさにやってきているのだと根拠もなく分かった。

「そなたがこれから迷うことがあろうと、無数の道があり続けることを祈ろう」

 ずっとそうだ。この森に来てから、何かが心に語りかけてくる。言葉の外で何かが自分に伝えてきた。

 そうあるべきものがそうあるのだと何故か理解できてしまう。

 光に包まれた老人の指先が緑の粒子となって消えていく。角砂糖がほどけるように、さらさらと光になっていく。

 老人がゆったりとユラハを顧みた。やはりその目は正しくユラハを捉えている。白濁した目を細め、老人は安らかな笑みを湛えていた。

「そのような顔をするでない」

 優しい声色。

 何かを読み解くようでもなく、諭すわけでもなく、ただ一人の老人がユラハに言葉を向けていた。

 ただ、今自分がどんな顔をしているのかユラハには分からない。

「私たちは、ただ、終ぞ交われなかった森にようやく招かれるだけだ」

 言葉の合間にも老人の体は光に包まれ、粒子となっていく。まるで星の川のように粒子となった光が森の向こうへと流れていた。

「ただ、せめて、もしそなたに少しばかりのお礼ができるのならば、どうか妻の樹を使ってやってくれ……猛き烈火、逆巻く野分、きっとそなたの力になるだろう」

 消えていく。

 何かを言わなければいけないと思った。

 何かを言葉にするまでもないと思った。

 二つの感情が胸を満たし、喉を詰まらせ、何も紡がないまま、ただそれこそが正しいと信じ、じっと消えていく森の民を見つめる。

 やがて光がその輪郭を歪ませ、弾けて消えた。残された杖だけが、克明な不在を示すように静かに柔らかな土へと斃れる。

 何も遺らない。遺さなかった。

 しかし、確かに、今ユラハの目の前で一人のエルフの命が終わったのだろう。




 日は沈み、やがて森にも夜が訪れた。

 集落は夕陽の光を溜め込んだように橙の光を宿し、喧噪に満ち溢れていた。集落の中心で、重ね合わせた枕木の内に灯した火を囲み、エルフたちは盃を交わし、歌い語らい歓び賑わっている。

 森へ還った友を送り出す宴。彼らは死を悼まず、旅立ちを祝した。

 振る舞われるスープも、焼きたてのパンも温かい。獣の肉と作物、正しく森の恵みを享受する宴。

 それでも宴の輪に混じる気にならず、横たえられた丸太に座ったユラハは遠巻きに彼らの姿を眺めていた。イルマは恐らく他のエルフたちと楽しくやっているだろう。今は却って気楽だった。

 思うところがあった。ただその思うものの形がはっきりとせず、胃の中に蟠り続けている。

 答えの出ない問答がユラハは好きではなかった。今のまま話したところで、何も得るものはないだろう。

「お隣、よろしいかのう?」

 ふと声をかけられ顔を上げると、そこにはジゼタリウスの姿があった。暗がりの中、微かに届く無軌道な炎の灯りに照らされた顔はやはり端整だ。

「どうぞ」

 一言伝えると、ジゼタリウスはゆっくりとユラハの隣に座り、デューノが当然のように二人の足下に伏せた。

「ビスタム――あのエルフは恵まれておる。最期の最期、決して迷わぬ答えを得た。きっと森に愛され、穏やかに根付くだろう」

 静かな声。それがあの老人のことを言っているのだとユラハが気付くまで、少しだけ時間がかかった。

 ユラハは片足の膝を抱え込むようにして、小さく息を吐いた。

「アタシ名前も知りませんでした」

「ビステンシウス。重き疾風を由来とするよい名だ。代々森を守護する者が受け継ぐ名でもある。彼もまたかつては森の守護者としてこの集落を守る戦士だった。温厚で知性に溢れ、子供たちによき教えをもたらしてもくれた。無論儂にとってもよき友であり、遡ればよき教え子であった」

 ジゼタリウスは静かに語る。青年の外見をしたジゼタリウスと、老人の外見をしていたビステンシウス。しかしエルフの流れる時がそれぞれ違うのだから、ジゼタリウスがビステンシウスの先生だったとしても矛盾はないのだろう。

「その友達に先立たれて、ジゼタリウスさんは悲しくないの?」

 どうしても気になって問いかけると、ジゼタリウスは朗らかに笑った。

「こう見えてもこの集落では一番の老いぼれでな。友の死は誰よりも経験しておる。なにより、エルフにとって死は終わりではない。新たな門出じゃ。森に還り、森となり、儂らはずっと供にいる。竜が火へ昇華するように、また人が一握りの土塊となり母なる大地に抱かれるように、はたまた鳴狼が一雫の音となって響き渡るように、儂らは儂らを育んだ森へ還る。悼みはあれど、哀しむことはないじゃろう」

 ジゼタリウスの滑らかな指先を座り込んだ樹の罅隙を、大地を撫で、デューノの耳の裏を引っ掻くように撫でる。デューノは心地よさそうに目を細めていた。

 自然と生きる彼らにとって、自然と一体になることはある種の到達なのかもしれない。しかしユラハはどれだけ言葉を交わそうと人間だ。エルフの価値観全てを受け容れ、その色に染まることはできない。

 その心を見透かすような瞳を細めたジゼタリウスは、火を囲み、踊り歌う家族さえ包み込むように手を伸ばした。

「分からなくてよい。そういう生き方もあるのだと思ってくれているのだから、それでよい。ユラハにはユラハの色味が、儂らには儂らの色味がある。同じ色に染まる必要はない。特に人は、それぞれの色味を持つ。それを損なってまで理解されようとは思わぬさ」

「理解ができないわけではないんだけど、やっぱりアタシは森に誰かを見出すことはできないかな」

「それでよいさ。死後のことなど死んでから考えればいい。儂らとて森になど還れないのかもしれない。結局、死後儂らがどうなるか考えるのは死者のためではない。これから死に逝く者、大切な者の死期を悟った者が惑わぬよう、立ち竦まぬようにあるものでしかないのだろう」

「そう言うのなら、アタシが今悼んでいることも結局は自己満足なんだと思う。アタシはあの人の言葉に何も返せなかった。ただ我を通しただけ」

 訥々と言葉を紡ぎユラハが顔を上げると、ジゼタリウスは思いも寄らぬ表情でユラハを見ていた。目を大きく開き、唇の両端を釣り上げ、驚いたような顔で笑っている。

「なんじゃ、ユラハはビスタムに言い返しおったのか。はっはっは、こりゃたまげた。ビスタムめ、随分と張り合いのある最期を迎えたようじゃ」

 何がおかしいのか、ジゼタリウスは闊達な笑い声を上げ続ける。

 自分よりも遙かに永い時を生きた者の箴言も素直に受け取れなかったことに多少の後ろめたささえ感じていたユラハにとってはあまり面白くもない反応だ。

「いや、すまぬ。だが、そうじゃったか。ユラハが気に病むことではない。最期によき語らいに恵まれたじゃろう。いや、しかし、そうじゃな。ユラハが少しでもあやつの死を悼んでくれるというのであれば、どうかあやつの名前を覚えておいてほしい。それは現世に灯る大切な篝火じゃ。標は寄辺となり、あやつの魂も彷徨わず根ざすじゃろう」

「名前ってそんなに大切なものですか?」

 なんとなく、口を衝いて転がり出た問いかけ。

 先程ビステンシウスと話をしてせいだろう。

 関係性に名前はいらないと言い放ったユラハ。

 最期にまるでその響きを噛み締めるように名前を呼んでくれたビステンシウス。

 自分に向けられた自分の名前。あの老人の穏やかな響きは今も潮騒のように耳の奥で谺する。

 あの時初めて彼と相対したのだと思えた。ようやく向かい合って、そうしてすぐに終わりがやってきた。

 名前を呼ぶ。そこにどれだけの意味があるのか、ユラハには分からない。

 ジゼタリウスはふむ、と小さく声を漏らし、今一度燃え盛る炎を囲んで踊る家族たちを見つめる。

 肩を組み合い、声を合わせて歌い、降り出した足が宵闇を蹴り飛ばし、橙に染まっては黒へと戻っていく。

 酒気と火に当てられ、誰もが整った顔を赤らめて楽しそうに笑い合っている。

「儂らエルフは永い生の中でいくつもの名前を賜る。それは門出に際し与えられる新たな名前で、時には誰にも語らぬ秘すべき名前であり、また称号としての名前でもある。ビステンシウスという名前は彼が先祖代々受け継いできたものじゃ」

 襲名というものなのだろう。

 ユラハが出会ったビステンシウスより以前にも、数多のビステンシウスがいた。彼はその名と、意味と、意志と、使命を受け継いだ。

「かつてはかつての名で儂は彼を呼んだが、今はもう呼ぶこともできぬ。新しい名前というそういうものなんじゃ。かつての名前を呼ぶことはできず、夜が明ければビステンシウスという名も彼の名ではなくなり、彼をその名で呼ぶことは許されず、また新たな名が授けられることだろう。儂もまた永い生の中で一一二通りの名を冠した」

 途方もない数字。

 抱きかかえた膝の上に細いおとがいを載せ、ユラハは穏やかなジゼタリウスの声にただ耳を傾ける。宵闇の世界を切り抜き、無軌道に揺れる炎の光を見つめ、寝物語のようにただその声の中に潜水していく。

「儂らとユラハたちにとって、名前とはその意味合いからしてかけ離れているのじゃろう。儂らにとって名前というものは、そこに込められた想いこそが重要であり、儂ら個人はそこに関連付けられた多くのうちの一つでしかない」

 一意の名を持たず、全ての名前が関連付けのためのタグでしかない。

 エルフたちの価値観は確かに人間とはかけ離れている。彼らはお互いを区別するための名称を持たず、無数の記号の累積と軌跡によって自身の同一性を保っていた。

 永い時を生きることを根底としたものではない。彼らは全てにおいて等しく、森に生きる数多の一部でしかない。

 森に生える草花、潜み暮らす獣たち、自らを優しく包み込む木々、それら全てに唯一性がないように、彼らもまた自身に唯一性を感じていない。

「しかし、名前を付けられた経緯には意味がある。その物語に儂らを儂らたらしめんものは生きている。例えばそうじゃ、ユラハ、その名前にも確かな意味があるようにな」

 その一言にユラハはゆったりとした動作でジゼタリウスに目を向ける。彼は変わらず笑んでいた。

 自身の過去に踏み込まれても怒りはない。ただ少しだけ驚きがあった。

「イルマから聞いたんですか」

「いや、彼奴は何も言わんよ。だが、儂らは調律語を持つ。言葉一つ、小さな音節一つ一つ、その雫に染みついた意味が体に伝わる。心にではない。儂らの体の幹が震える」

 調律語――かつて皇類と呼ばれた者たちのみが持ち得た言語。未だ人間には解明できていない、世界そのものとの共振。

「ユラハ――よい名前じゃ。そのたおやかな響きも、込められた意味も、由来が綴った想いも、な。まだ真新しい故に初めて名乗った時の心さえ微かにだが感じ取れる。儂はその名前が心地よい。この唇で紡げたことに喜びもしよう」

「アタシもこの名前は気に入ってますよ。思いつきで名乗ってみたけれど、馴染んでみるといいものです」

「思うに、名前とはなりたい未来の具象だ。自分に当てはまらぬ名前を好きになれる者は少ないじゃろう。ユラハは名前に込めた想いに背いていないということでもある。よいことではないか。好きになることに悪いなどありはせぬ」

 森の長は笑う。穏やかに、活き活きと、この森そのものを体現するように。

 そうありたいと願った未来に名付けたユラハ。

 そうあるべきだと望まれた名前に従うエルフ。

 似ているようで、その根幹は大きく違うのだろう。似ているからこそ、殊更に違うのだと思い知らされるのかもしれない。

 何故、人間とエルフはここまで似ているのに、ここまで関係が断絶してしまっているのだろうかと考えもした。しかし、結局はそういうことなのだろう。

 同じ言葉を話し、同じ姿形をした彼らが、あまりにも違うことが理解できなかったのかもしれない。

 似ているということはどこかが違うということであり、違うという感覚はどこかが似ているからこそ湧き起こるものなのだろう。

 イルマとの関係性を師弟とされることに違和感を覚える理由もきっとそこにあるような気がした。




 ジゼタリウスとの語らいの後、なんとなく村を散策していたユラハは、人混みを離れた場所から眺めるイルマを見つける。いつもと変わらない佇まいで立つイルマは、ただ煙草を咥えていなかった。

 エルフの森では煙草を控えているのかもしれない。代わりにイルマはサンドイッチを載せた皿を片手に持ち、その一つを今まさに食していた。

「何黄昏れてるの?」

 わざとほんの少しの嫌味を込めた言葉に、イルマはゆっくりとユラハに目を向け、肩を竦めた。

「別に黄昏れちゃいねぇよ」

 いつもと変わらないイルマの声。昼間も一緒にいたというのに、どうしてか久々に言葉を交わすような感覚があった。だからこそ、その当たり前の答えに自然とユラハの頬も緩んだ。

 イルマの隣に立ち、彼の視線の先を見る。人だかりの内側で民族衣装を纏ったエルフたちが音楽に合わせて陽気に踊っていた。誰も彼もが当然のように眉目秀麗であり、体つき一つとっても理想的な男女の肉体だ。

 彼らの踊りに合わせて取り囲むエルフたちは声を上げて歌っている。

 隣に立つイルマは相変わらずサンドイッチを口に運んでいた。

「何食べてるの?」

「食うか?」

 イルマが皿ごと差し出してくる。焦げ目のついたパンの間に挟まっているのはレタスと飴色のソースが絡んだ何かの肉。言われるまま一切れを手に取り、ユラハはその断面を矯めつ眇めつ眺める。

「何の肉?」

「影猫虎の肉を焼いて、フルーツやらスパイスやらを煮込んで作った甘辛のソースで絡めてみた」

 恐らくは日中、イルマと話していたエルフ――ビューレスの言っていた検体だろう。鼻を寄せてみると、香ばしくも甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「肉は軟らかいが弾力もある。味にしても申し分ないが、如何せん筋が歯に挟まって鬱陶しい」

「へぇ、なるほどね」

 ソースの香りに食欲をそそられ、ユラハはサンドイッチに齧り付いた。肉は確かに軟らかく、歯だけで簡単に千切れる。口の中いっぱいに豊かな風味が広がり、ぴりっとした辛みが舌を刺激する。微かに感じるフルーツ由来の甘さが鼻を抜けていく。

 脂身の少ない肉は歯触りもよく、鶏肉のようなヘルシーさを感じる。咀嚼しているうちにユラハはふと眉を顰めながら、口内のものを飲み込む。

「ホントだ、すんごい歯に挟まる」

「だろー? 煮込んだりしたらもう少し食いやすくなりそうだけど、肉が崩れそうなんだよな」

「カレーとかに入れても美味しそうだけど?」

「カレーに入れて不味いもんなんかない。それは最後の手段だ」

 こだわりがあるらしい。

 イルマはぶつぶつ呟きながら、影猫虎のよい調理法を模索している。ユラハから言わせれば、エンジャーズ深林などの密林にしか棲息しない動物の肉を食べる機会自体そもそも少ないのだから、考える必要もないと思うのだが、一度考え始まると止まらないのがイルマだ。

 ユラハはしばらく、そんな彼の隣で人混みの隙間から見えるエルフの踊りを眺めていた。

 一切れのサンドイッチも食べ終えた頃、ユラハはイルマを一瞥し、口を開く。

「イルマ。エルフとアタシたちってやっぱり違う生き物なのかな」

「どうしたんだよ、突然」

 イルマはユラハを見ない。ただ同じように踊るエルフたちを眺めている。

「いろんなエルフと話して、なんかやっぱり考え方が違うのかなって、なんとなく思っただけ」

「そりゃ考え方は違うだろうさ。みんな違う。エルフと人間に限らず、俺とあんただって違う考え方をしている。俺は俺で、あんたはあんたで、誰かじゃない」

 シンプルな答えだった。イルマにとって違うということは当たり前のことなのだろう。ユラハだってそう思っている。自分は自分だ。

 ただ、種族の垣根を越えて、今一夜の宴を供にしているエルフたちが、自分たちと全く違う価値観で生きており、そのすれ違いがいずれ取り返しのつかない断絶を呼び起こしそうで、どうにも不安だった。

「アンタらしくもないな、そんなことで悩むのは」

「そうかな。……そうなのかも」

 イルマは何も追及してこなかった。

 中途半端に慰めようともせず、ただエルフたちの宴を見つめている。

「あの人の最期の話し相手だったのに、自分の言いたいことだけ言って、それでよかったのかとは思うかな。あの時自分が言ったことは正しかったのかも、正直今となっては自信がないし」

「間違っていると思う主張をする奴はいない。誰だってそうだ。自分が正しいと思うからこそ口にしているはずだし、そうでないものを口にすべきじゃないと俺は思う」

 いつも適当で面倒くさがりの店長の言葉は、しかしふとした時に底知れぬ重みを孕む。それは彼がユラハよりも幾分年上だからこそ感じてしまう錯覚なのかもしれないし、彼が生きてきた時間が滲ませる訓示だからこそなのかもしれない。

 ただ、その言葉に耳を傾けることは、ユラハがこの店で働き続けることを決意したあの夜から今まで、ずっと嫌いではなかった。

「どっちが正しいなんて一概に言えるものじゃないし、事の正しさはいつだって主張の優劣で決まるもんさ。あんたは正しいと思うことを言ってやって、相手はそれを受け入れた。なら、それでいいじゃねぇか」

 ごく当然のような言葉に耳を傾け、ユラハは静かに目を閉じる。

 瞼の裏に焼き付いて離れない彼の最期。鮮烈でありながら穏やかな、深緑の寝台に倒れ込みながら散りゆき溶けるような終わり。あの瞬間、確かに彼は世界からの温かな抱擁を受けたのだろう。

 深き森というこの星できっと一番柔らかな場所に沈み込み、永き旅路の後の眠りについた。

 もしこの世界に無謬の正しさがないというのなら、きっと逝く者がどれだけ満たされたかこそが重要なのだろう。

 ユラハの言葉はささやかなものだった。ユラハからすれば決して及ぶことのない、悠久の時を生きた彼の生の全てを損なうような影響は与えられもしないだろう。きっと彼が生きた星霜と同じくらい永い眠りについた彼に対して、これからを生きるユラハの言葉は何の意味も持たない。

 一瞬にも近い交錯、その時だけがそこにはあり、それが経過で結果だった。抱えきれないほどのこれまでを集めた結晶を彼は大事に抱えて眠り、ユラハの胸には星の欠片のような小さな答えだけが残った。

 彼は何も遺さなかった。ただ、ユラハの心に生まれただけなのだろう。

 あとはもう何もなく、それだけで十分なのだと、そうなのだと、根拠もなく思った。

 小娘一人の言葉で全てが毀れてしまうほど、世界は脆くなく、儚くもない。

 最期の瞬間をそっと隠すように目を開き、ユラハはふっと小さく笑った。

「適当だなぁ」

「善く生きようとするのはいいが、正しく生きようとするべきじゃないってだけの話さ。あんたはあんたの周りの誰かを悲しませないように生きればいい。それができさえすりゃ、十分だと俺は思うがな」

 自分の知る狭い世界だけで収まってしまう善良。それは砂漠に埋もれてしまいそうなほど小さな硝子細工でしかない。

 けれども、百年も生きられない人間にはちょうどいいのかもしれない。

 イルマの言葉に耳を傾けていると、なんとなくそんな気がしてしまう。

 お腹が空いた時、美味しいものを食べようとするように、物語に触れる時、より瑞々しい感性に触れようとするように、ただ生きるだけでは素っ気ないので善く生きようとする。それは日々を満たすためのちょっとした工夫でしかないが、それは確かに積み重なっていく。

 ユラハ――その名に秘めた意味が、あの日初めて名乗った時に噛み締めた決意が、口に広がり堪えきれず頬が綻ぶ。

 今夜はそれを答えにしてしまってもいいはずだ。


Different strokes for different folks.. - A.E.2079.8.16

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