Conscience does make cowards of us all.



 世の中というのは、どうやら気付かないうちに少しずつ、それでいて大胆に変わっているらしい。

 誰かの日常が変わらなくても、その日は誰かにとって人生の転機で何かが一変しているのかもしれない。その変化はまた他の誰かに波及し、少しずつ変化は伝播していく。

 何もかもが真新しかった生活が、次第に日常となり、心の機微が均されていくように、ありきたりの日常が心のささくれやゆとり、たったそれだけのことで変わっていく。

 例えばそれはヒステリックに喚くベル。

 ずっと前から聴き慣れているのに、相も変わらず騒がしい。

 例えばそれはベルの音から逃れるようにして寝返りを打ったベッドの感触。

 未だに聴き慣れない微かなスプリングの軋みが床に転がる。

 例えばそれはカーテンの隙間から漏れる朝日。

 太陽は生まれてから今日まで何一つ変わってなどいないはずなのに、朝の陽の光が部屋に射し込む部屋は未だに新鮮で気分がいい。目覚まし時計のベルは変わらなくとも、目覚めはずっと心地よい。

 例えばそれは目を開けた瞬間、碧い瞳に流れ込む天井。

 つい最近、梁のシミが人の顔に見えることに気付いてからは、目を覚まして真っ先に視線をやってしまう。馴染みの浅い調度品たちの中、最も仲がよくなった同居人だ。

 例えばそれは切ったばかりの後ろ髪。

 肩にも触れないほど短くなった髪は味気なく、首の後ろが少しだけ涼しい。

 何度、この部屋で朝を迎えても、ふとした拍子に不思議なこそばゆさが胸をくすぐる。

 いつも通りの朝。この部屋での朝がいつも通りになっていく。それがまた不思議だった。

 手早く着替えを終え、脱いだ寝間着を畳み、部屋を出て、そそくさと階段を降りる。一階のダイニングでは、長身痩躯の壮年の男がキッチンに寄りかかり、淹れたてのコーヒーを飲んでいた。

 鼻腔をくすぐる香ばしい香りに、わだかまっていた眠気がすっと晴れていく。

 男が気付き、口紅を差した薄い唇に笑みを浮かべる。

「あら、おはよう。今日も早いわね」

「おはようございます、マギーさん」

「コーヒー飲むでしょ。待っててね、今朝食も用意しちゃうから」

 酒に焼けた声で女性のように話しながら、マギーは慣れた手捌きでコーヒーを注ぎ入れ、カップを彼女へ差し出す。カップを受け取り、マギーの隣で同じようにキッチンへ腰を預け、砂糖とミルクを加えていく。

「そろそろ新生活にも慣れてきたかしら?」

「それなりには、ですかね」

「貴女みたいなしっかりした子が来てくれてよかったわ。あいつ一人じゃ心配でしょうがないもの」

「そんな大したことはしてないですよ」

「いいのよ、いてくれるだけで、ね」

 ふっと、マギーが穏やかに微笑む。

 こうして毎朝、マギーと並んでコーヒーを飲みながら話す時間は、すでに日課となっていた。

 まだまだ慣れないことだらけの新生活が少しずつ日常として、ユラハの体に染み渡っていく。

 新しい髪型、新たな住まい、新たな暮らし、共に生活する相手も変わった。

 それでも、それなりに日常は日常として彼女を流し続けている。自覚する度に少しこそばゆく、体の奥底で何かが疼いた。




 ソーンチェスターは東南部に位置するヒュジウォーシャ。中心都市であるリキッドーアとは運河を挟んで隣り合うこの町は、技術革命の怒涛に取り残されたように旧時代の導術文化の有り様を色濃く残している。

 技術がもたらした恩恵のほとんどを頑なに拒み続けるヒュジウォーシャは、一般人からすれば不便で古臭い田舎町でしかないが、導術に少なからず関わりを持つ者からすると聖地や桃源郷の親戚と認識されている。

 大陸中が技術の色に染め上げられていく壮絶な過渡期の中、導術を礎とした文化を絶やさずにいるヒュジウォーシャはそれほどまでに特別な場所だ。そんな町の古導具店で働いていると聞けば、多くの導術師が羨望の眼差しを向けてくることだろう。しかし、現実はそう生ぬるくはない。

 多数の導具や各種導術書、また草の根や獣の牙など動植物の体の一部が保管された瓶などが並べられた陳列棚がひしめき合う店内。彼女は窓際の脚が長い丸テーブルに向かい、鍵盤を叩いていた。

 狭く薄暗い店内を照らしているのは、鈴なりに吊り下がった裸電球たちのみ。一番明るく心地が良いのは、日中唯一陽が射し込むこの席だけだ。

 タイプライターを模した鍵盤の上で彼女の指先がステップを踏む度、虚空に転写された文字列へ新たな記号が付け足されていく。鍵盤から伸びた配線は壁に立てかけられた導剣に接続され、柄頭に嵌め込まれた赤い宝珠が虚空に記号の羅列を投影している。

 狭いテーブルには分厚い参考書が所狭しと積み重ねられ、赤い髪の少女は時々眉を顰めながらも、打鍵を続けていく。典型的な導式設計の作業環境だった。

 今、従業員であるはずの彼女がこうして自分の作業に没頭できていることが全てを物語っている。

 この町唯一の古導具店であるこの店は、その優位性を差し引いて考えても寂れた店だった。

 丸一日客が来ない日も珍しくはなく、来客があったとしても、そのほとんどが店長の顔馴染みだ。しかも多くの常連客は店長と少し世間話に花を咲かせ、そのまま帰って行ってしまう。

 どうして今日までこの店が残っていられたのか、従業員である彼女でさえ首を傾げずにはいられない有様だ。

 カウンターで黙々と導槌を弄っている店長は、こんな日々にもう慣れきっているようで、呑気に大口を開けて欠伸までしている。

 昨夜も遅くまで導具の整備を行っていたのだろう。先日買い取った導具はマニア垂涎の品らしく、店長もかなり入れ込んでいた。

 買い取るだけ買い取って、ほとんど売れないのだから、この店は実質店長の蒐集品を集めた倉庫であり、また彼女にとっては環境の整った作業場でしかない。

 そんな作業場にも客らしい客は稀に訪れる。今日もまた、多くでそうであるように前触れもなく来店を告げるベルが鳴った。

 物静かな品格を感じる、古時計のように心地よい声の老人。無数の棚に遮られたここからは姿を見ることはできず、店長がすぐに対応を始めたので、彼女はそのまま作業を続行する。

 どうやら客は、ショウウィンドウに飾られた導具が気に入り来店したようだ。店長も導具について話せる相手に出会えて、心なしか嬉しそうである。

 古導具店の店長としては若いと言われ、この町で十年ほど商いをしていると店長は返す。少女に取っても初耳だった。勤め始めて一ヶ月も経っていないのだから、当然と言えば当然だろう。

 彼女がゴルジュヴァーナの実家で導術を学んでいた頃、この店はすでに生まれており、店長が商売をしていたというのは、考えてみると感慨深い話なのかもしれない。

「ところで、そこに見える導槌はもしや……」

「おお、分かりますか! いやぁ、なかなかのご慧眼ですよ」

 二人の話す声が急激に熱を帯びる。先程から語り合う声に情熱こそあったが、聞き流していても気付くほどに沸き立ったのだ。

「おい、ユラハ。ちょっと来てくれ」

「…………」

「おーい、ユラハー」

「あっ、アタシのことか」

 自分の名前を呼ばれていると気付かず、無視してしまった。

 未だにユラハという名前は呼ばれ慣れていない。この名前とだって、まだ一ヶ月にも満たない付き合いだ。まだ馴染めない。

 ユラハは返事をして立ち上がり、店長の元へと向かう。棚の峡谷を越えた先、店長の側には一目で老紳士だと認識できる老人が立っていた。

 蓄えた白い髭、無数の皺が刻まれてもなお精悍さを感じさせる顔立ち、埃一つないスーツを着こなした方だった。背筋はピンと伸び、杖こそついているが、立ち姿に弱々しさを感じない。ユラハから見ても溢れ出る活力に圧倒されてしまいそうな人だ。

 老紳士はユラハを見るなり穏やかに相好を崩した。

「おやおや、これはまた可愛らしい店員さんですね」

 嫌味のない優しい声色だ。

 真っ向からそう褒められるのはこそばゆく、ユラハは小さく頭を下げ、短い礼だけを言って、すぐに店長へ向き直る。

「どうしたんですか、突然呼び出して」

「ちょっとミジョルムを使ってみてくれないか」

 そう言って店長は先程までカウンターで弄っていた導槌に目をやる。なめした獣の皮を巻いた雑然とした柄と、巨竜の物と謂れる風化し丸みを帯びた巨大な牙を槌とした無骨な導具。意匠はないに等しく、ただ棒と牙を組み合わせただけのようでさえある。

 しかし、柄の中部には人の頭ほどある緑色の宝玉が刺し貫かれ固定されており、それがこの石器のめいた鈍器を導具たらしめていた。それは導具の心臓部にして、導術の基礎を支える宝珠だ。

 ただの宝石ではない。また、現代の人工的に生み出された普及品でもない。当代では当たり前だった、竜の脳髄を加工して造られた天然物の高度な演算処理装置である。

「使えって、導術をやればいんですか?」

「ああ、ちょっと動作確認もしたかったしな、ちょうどいいだろ」

 何気ない風に店長は答える。

 店長には変わったところや謎がいくつもあるが、その一つはこれだ。店長は絶対に導具を使おうとしない。ユラハは彼が導術を行使するところを見たことさえなかった。

 導具整備士免許の取得には、二級以上の導術免許が必要だ。店長が導術を扱えないはずはないのだが、頑なに使おうとはせず、どうしても必要な時でさえユラハに任せられる。導具の性能試験でさえ自動化されたテストコードによるシミュレータ上のデバッグしか行わず、自分自身で使おうとはしない。

 まだ働くようになって間もないが、店長が絶対に導具を使わないことはユラハも分かっているので、

大人しく従う。

「でも、アタシ剣以外はあまり心得ないんですけど大丈夫ですか?」

「構わねぇよ。ちょっと試しに簡単な導術使ってくれるだけでいいさ」

 それくらいならば問題はないだろう。導具の形が変わっても、導術を発動させる手法は変わらない。旧世代の古導具でもそうだ。

 ユラハが槌を取りに行く短い間でさえ二人はまた話に花を咲かせている。

「いやはや、まさかミジョルムでまだ現存しているとは。八〇年も前の品なので、直接見ることは諦めていたのですがね」

「私もですよ。つい先日、ちょっとした野暮用の報酬として頂きましてね。初めて目にした時は心が躍ったものです」

「しかし、未だに動くのも驚きですな。二つの大戦を経て、損耗も酷かったと聞いておりましたが」

「ええ、あの子もそうでしたよ。なので一部幻素線(エーテライン)を取り替え、排熱装置やチェンバーを始め、内部機構も修理しました。導式基盤も近代の導式(コード)に対応できるよう手を加えて、言語のバイナリデータや主だったライブラリも追加で入れてます。あとは最近の術莢の加工された幻素(エーテル)を変換できるように一部の部品は取り替えてます。その気になれば、すぐに実践的な運用も十分可能ですよ」

「なんと、それほどまでの修理を! いやいや、これは驚いた。どうやら貴方は私が思った以上に優れた整備士のようだ」

「レストアはうちの売りの一つでしてね。当時そのままとはいきませんが、実用できるレベルには仕上げていますよ、どの子もそうです」

 確かに店長の整備士としての腕前はなかなかのものだ。

 何気なく言っているが、繊細な上、周囲の幻素の影響を容易く受けてしまう幻素線(エーテライン)の交換を導具全体で行い、その上多くの導術師にとっては暗号の羅列でしかない導式を読み書きでき、改良まで加えられる者は少ないだろう。

 そもそも八十年以上前の導具ということは導式基盤に用いられている言語は、化石も化石の導式言語バベルだ。今時触れる人間は数えるほどしかいない。

 この店で働き始めて一ヶ月と経っていないユラハでさえ、店長が優秀であるという一点には何も疑いを持っていない。それ以外の部分が胡散臭いと思っている点も、また事実である。

「もともとミジョルム、というよりも導槌全般は対竜を想定して生み出されたものです。耐火にして耐熱、耐冷を併せ持ち、防刃性にも優れながら柔軟にしてしなやか。竜の鋼のような鱗と肉体、また屈強な骨格に対して、切断による損傷は望めない。例え切りつけることができても細く薄い傷程度ならば、竜の治癒力であっという間に無効となる。そこで槌により衝撃と共に導術を肉体の内側に透す手法が考案され、そこに着想を経て生み出された最初の導具こそがミジョルムです」

「確か、導術の流派の一つ、ヴァレチス流の本家が生んだと言われておりますね。導槌で名作と呼ばれるものは、ほとんどがあの流派に携わる者が生み出していたはずでしたよね」

「ええ、その通りです。導術流派としてはお世辞にも栄えたとは言えなかったヴァレチス派ですが、導槌の開発以降は槌の利点を生かし、対竜を主眼とした新たな戦い方を拓きました。竜との条約が締結され、竜と戦う機会を失って以降は、流派としてはまた陽の目を見なくなりましたが、ヴァレチス本家の者達は導具開発の経験を活かし、今となっては世界でも有数の導術製品開発企業であるグラベリース・ユニオンとして名を馳せています」

 次から次へと、流れるように店長の口からは知識が溢れ出る。

 小手先の技だけではない。導具、導術、導式、それら全てに深い造詣を持っている。

 ただ、普段は導具への情熱が溢れすぎて、客を辟易とさせてしまうのだが、今回は客も導具好きなので上手くいっていた。

「それで、これどう構えればいんですか?」

 意を決して、ユラハは加熱する二人の会話に割り込んだ。このままでは、二人の話だけで陽が落ちてしまう。

 長い柄は剣のそれと違い、何もかも勝手が掴めない。

「ああ、すまない。利き手を柄頭側の端に、逆の手は槌の根元部分を握るようにしてくれ」

「両端を持てってこと?」

 言われるまま、ユラハはカウンターに置かれた槌を掴む。槌の頭部分と柄の接合部には、多くの導具がそうであるように銃のそれとよく似たトリガーが設えられている。

 トリガーガードごと握り込み、ユラハは一息で槌を持ち上げた。自然と柄の中心に嵌め込まれた宝珠を胸に引き込むようにして、柄の端を握った利き手が床へ真っ直ぐに伸ばし、もう片方の腕を撓めることで肩口に槌の頭を担ぐような姿勢となる。

 常に身体中を走らせている身体強化の導術によって、槌を持ち上げるのは苦でないが、しかし確かな重みが腕に伝わった。遥か昔、こんなものを担いで竜と戦った導術士がいたと言われても、にわかには信じられない。

「おお、そうそう、そんな感じだ!」

 店長の声がまだ一段と弾む。新しい玩具にはしゃぐ子供のようだった。

「以前本で読んだ通りの構えですね。これがヴァレチス流独自の導槌の構えというものなのですか」

「ええ、考案者の名を取ってクォータンホールドとか、クォータン式って言われているものですよ。いやぁ、やっぱ実際に見るとすげぇな、これ」

「店長、今の完全に個人の感想じゃないですか?」

「いいからいいから、ちょっともう少しその姿勢のままでいてくれよ」

 勝手なことを言って、店長と客はユラハの周囲に集まり、あらゆる角度からミジョルムを鑑賞し出す。

「おお、やっぱデッケェってのはカッケェな! 男のロマンだよな!」

「ほうほう、真珠のような光沢こそありませんが、表面は変わらず滑らかですな」

「こう、なんつぅの隙間から見える内部機構のチラリズムっつぅの? いやぁ、幻素線(エーテライン)の束ね方にこだわっただけあって、少し顔を覗かせた時の色気も段違いだぜ、こりゃ」

「中にもこだわりがあるようですね。どれ下の方は……」

「なんだろ、何かすごく特異な辱めにあっている気がする」

 身動きも満足に取れない十七歳の少女を大の大人が囲み、矯めつ眇めつ見つめてくるというのはおぞましい光景だ。二人とも瞳に熱意の炎を燃やし、口々に快哉を上げているところが、ユラハにとってはたまらなく嫌だった。

 何よりも誰一人年若い少女の肢体など一瞥もせず、無機物に息を荒くしていることが屈辱だ。

「おいおい、じっとしてろって。あんまり動くなよ」

「どうせ、アタシは展示用の台座ですよ!」

「何怒ってんだよ」

「何でもありませんよっ!」

 悪びれた様子もない店長の頭蓋をこのまま槌で砕いてしまおうかと、すでに三回ほど思っている。自分が手塩をかけて直した導具によって死ぬのなら、店長もきっと本望だろう。後悔はないはずだ。

 店長の幸せのためにも、ここは一思いに砕いてしまうべきなのではないだろうか。

「よし、じゃあ、次、導術な」

「ハァ⁉︎」

「なんだよ、そのリアクション」

「いや、いんですけどね。簡単な導術でいいですか」

「まだ、張り替えてから導力通してないから、慎重に頼むぞ」

「定格一〇〇ワット?」

「いや、八〇」

「はいはい、八〇ワット」

 普段よりも弱めた導力を流し込むと、ミジョルムの宝珠が起動する。宝珠の内側で記号の羅列が下から上へと流れていき、少し古めかしいのっぺりとしたインターフェースが表示された。

 今時の視界拡張型ではなく、インターフェースも古いが、表示されているヴァージョンは最新のものだ。恐らくは店長が趣味でわざと古めかしさを保ったのだろう。余計なところにまでこだわっている。

「とりあえず正常データ取りたいから、風の導術で」

「はいはい、風の導術っと」

 導力による遠隔操作で宝珠内のライブラリを検索。プリセットとして用意された導術の中でも特に単純なものを選ぶ。

「術莢は根詰まり起こさないように、とりあえず八階位で」

「あー! もう! 注文が多いなぁ!」

「すんません」

 ユラハがたまらず声を荒げると、店長はすぐに頭を下げてくる。

 浅黒い肌に屈強な肉体という威圧感のある外見をしておきながら、店長は基本的に温厚で声を荒げない。

「いいけどさ。他にはなんかある?」

 肩を竦めたユラハはため息まじりに聞き返す。その間にも腰のホルスターに一包ずつ収めておいた試験用の術莢を一つ取り出し、柄の下方に備えられたスライド式の挿入口に装填する。

「とりあえず単体試験(UT)は一通りクリアしたが、まだ結合試験(IT)は通してない。導式を走らせた途端にドカンと行くようなことはねぇと思うが、異常があったらすぐに中断してくれ」

 そもそもの試験項目に誤りがない限りは心配ないだろう。店長は導具の整備には長けている。

 ただ、少し気にかかることもあった。

「店長、もし怪我したら労災は?」

「あるよ。休んだとしてもその間の給料は出す」

「じゃ、何も問題ないですね。さ、念のため離れていてくださいね」

 何か言いたげな店長と、静かに準備を見守っていた老紳士が離れるのを待って、ユラハは呼吸を整える。

 馴染みのない握り心地。不慣れな姿勢。愛剣アルドライトのような掌に柄が吸い付くような感触はない。導力での接続が完全ではない証拠だ。

 旧式を模したインターフェースも扱いにくい。

 だが、それでもこれは鈍器ではなく、導具に他ならない。

 導具であるならば、ユラハに扱えない道理がそもそも存在しなかった。

 薄い唇の隙間から鋭利な息を吐き出す。春先はまだ肌寒いと、着込んでいたカーディガンの裾がふわりとはためき、麻のシャツと肌の隙間を風が通り抜ける。

 周囲の幻素(エーテル)が励起する感触を肌が感じ取った。

 ミジョルムの幻素線(エーテライン)とユラハの幻素線(エーテライン)が導力を通して繋がっている。一体となっている。ミジョルムはユラハの体の一部であり、ユラハはミジョルムの一つの部品となった。

 ミジョルムの——彼の息遣いさえ感じる。幻覚だ。それでも感じる。

 それはミジョルムという導具そのものの鼓動かもしれず、もしくは宝珠となった竜の脳髄が抱えた悲哀かもしれない。

 はたまた巨竜の牙とされる槌に宿った猛々しい憤怒なのかもしれない。

 いや、それこそかつてこの槌を振るった戦士の雄々しき闘志なのかもしれない。

 そこまでは分からない。所詮ユラハとミジョルムは分かたれた存在なのだから。

 だが、それでも激情は導力という不可視のか細い糸を通じて、ユラハの体に流れ込み、みなぎる。

 唇の隙間からすっと息を吐き出したユラハは、そっと閉じていた目を開く。

「分かったよ、あんたのこと」

 爽やかに微笑み、ユラハの細い指が引き金を絞る。柄の内部で金属が滑り合う音が鳴り響き、スライド式の排出口から術莢が吐き出された。

 宙を舞う抜け殻。

 薬室から送り出された幻素(エーテル)が柄の中心部の宝珠へと駆け上がり、内側から緑色の光が滲み出る。

 槌が戦慄く。懐かしき幻素(エーテル)を貪り、痙攣するようによがり震える。その歓喜をユラハは確かに共有した。本当はユラハの内側にあるものを槌に投影しているだけなのかもしれない。

 しかし、分かち合ったという錯覚が、さらに導具との繋がりを高める。

 宝珠を通して適切な型に再構成された幻素(エーテル)と、導式(コード)を宝珠がコンパイルした導陣(レリーフ)が柄を駆け上がっていく。

 順調な動作が店長も喜ばしいのか、唇の端を引き上げている。老紳士もまた目を瞠り、興味深そうに眺めている。

 そして導陣(レリーフ)が槌の頭部の片側、平面部分に転写され、幻素(エーテル)が充填されていく——はずだった。

 駆け上がるはずの幻素(エーテル)が行き先を見失い霧散する。同時に冷却機構が働き、槌の上部から蒸気が吹き上がった。

 転写されていた導陣(レリーフ)は砕けることもなく、すぅっと静かに透けていき最後には消え失せる。消え方からして、導陣(レリーフ)にバグやエラーがあった時に発生する幻象崩壊(インスタンスブレイク)の類ではない。

「どうした?」

「分からないですよ。突然寝ちゃって」

 歩み寄ってきた店長は眉を顰め、ユラハから導槌を受け取り調査を始める。

 しかし、店長の肉体はユラハでも感心してしまう。ユラハが身体強化の導術を複数走らせて持ち上げている鈍器を、店長は施術もなしに軽々と持ち上げてしまっている。

 店名がプリントされた黒いエプロン越しにも分かるが、やはり並大抵の鍛え方ではない。

 矯めつ眇めつ眺めていた店長が何かに気付いたらしく、小さな舌打ちと悪態を漏らす。

「分かりました?」

「ああ、幻素線(エーテライン)が焼き切れてやがる」

「もしかしてアタシが力かけ過ぎちゃいましたか?」

「いや、恐らくだが導具側の問題だ。多分分配と抵抗の設定が甘かったな。ま、あんたの導力が桁外れってのもあんだろうが」

「すみませんね、馬鹿力で」

「構いやしねぇよ。この段階で見つかってよかったくらいだ。テストの通りもいいから却って不安だったしな、それが的中しただけさ」

 ふっと笑って、ミジョルムをカウンターに戻した店長は老紳士を顧みた。

「申し訳ない。できればこいつの勇姿を見せたかったんですが、どうにもまだ本調子じゃないようです」

 店長の謝罪にも老紳士は穏やかに笑う。

「いえいえ、大丈夫ですよ。それよりもミジョルム、とても気に入りました。是非とも私のコレクションとして連れて帰りたいのですが、如何でしょうか?」

 老紳士の突然の申し出に、今度は店長の顔がユラハへと向けられる。間の抜けた顔で切れ長の目を瞬かせる店長。ユラハも一瞬意味が分からず、同じように瞬きを繰り返す。

「……えーと、それはつまり?」

「ミジョルムを買い取らせていただきたい」

「……その申し訳ないんですが、まだ正確な査定が終わっていないので売値も決まってないんです。もう少し時間を頂ければある程度の目安は出せるんですが」

「このくらいで如何でしょうか」

 取り出した小切手の上で踊るようにペンを走らせ、老紳士は慎ましく差し出してくる。それを粛々と受け取る店長。ユラハも気になり、爪先立ちになって店長の脇から額面を覗き込んだ。

「お……おお……?」

 思わず声が漏れる。一目では数え切れない桁数。しかし、愛剣アルドライトを丸ごとオーバーホールしても、しばらく食事に困らない金額だということは間違いない。

 しかし、店長が妙に静かだ。先程から一言も話していない。やはり導具で十年ほど商いしているだけあって、こういった文字どおり桁外れの金額程度では物怖じしないのだろう。どういっても店長はユラハより年上だ。

 大人の余裕には多少なりとも尊敬の念を抱く。そう思いながらユラハは店長の横顔に目を向ける。

「…………」

 真顔で固まっていた。

 ポーカーフェイスを作っているわけではない。すぐに分かる。先程と打って変わって、瞬き一つしていない。

 恐らく、自身の処理限界を超え、小切手を視認した瞬間のまま、全ての機能が停止してしまったのだろう。芽生えようとした尊敬は一瞬にして枯れ果て、全てが阿呆らしく思えてくる。

 ユラハはせめてもの情けで背中を抓り、店長を再起動させた。

「イッテッ! あ、あー、失礼! なんでもありません! その、お気持ちは大変嬉しいのですが、古導具商としては半端な査定で売りに出すわけにもいかなくてですね」

「これくらいの上乗せでは如何でしょうか?」

「ん、んー⁉︎」

 さらなる値上がりに店長からよく分からない声が漏れる。

 ただでさえ財政難の古導具店。これだけの金が突然舞い込めば、さらに多くの導具を買い揃えられるだろう。だが、古導具商として半端な商いはプライドが許さない。

 店長の中で天使と悪魔が舌戦をしている光景が、ユラハにはありありと見える。

「えーっとですね……その、売らせ……いや! まだ導具としての調整も終わっていないものをお売りさせていただ……いや、売るわけにはいかないんです。せめて導具として使えるものになってからでなければ」

 今この場で老紳士と取引したい気持ちを抑え込み、店長は所々上擦った声で何とか断る意思を口にする。欲望に打ち勝った店長の背中はどこか普段よりも大きなものに思えたほどだ。

 取引を保留にされても老紳士は気分を害した様子はなく、むしろより穏やかな笑みを浮かべている。

「いえいえ、それは気になさらないでください。私は美術品として導具を集めている者ですので、導術を扱えないものでも問題はありませんよ。無論、導術が扱えないからといって買値を下げることも致しませんのでご安心を」

 好意的な申し出。

 しかしその瞬間、ユラハは空気が張り詰める感触を確かに察知した。

「申し訳ありません。この子はやはりお売りすることはできません」

 先程までとはまるで違う、毅然とした声で店長は断言する。

「それは一体、何故でしょうか?」

「私は導具を導具として売りたいんです。あなたが導具を愛する気持ちは分かります。それでもこの店の導具を私は貴方に売ることができません。申し訳ありません」

 有無を言わさぬ声だった。

 こんな店長の声をユラハは今まで聞いたことがない。

 そしてその横顔もユラハは知らない。

 結局、店長は老紳士の提案を最後まで断り、帰してしまった。一切の迷いもなく、店長は売ることができないという意思を見せ続けたのだ。

 いくら額面が増えようと決して躊躇わなかった。

「大丈夫なんですか?」

 カウンターに戻したミジョルムを再び弄る店長に、ユラハはふと問いかけた。老紳士が帰ってから、随分と時間が経っていた。

 夕陽の差し込む店内。ガラスの形に切り取られた四つ角の光は店長のいるカウンターまでは届かない。その姿は深い闇に包まれ、また乱れた長い白髪によって横顔の機微さえ読み取れなかった。

「ダメだな、完全に焼き切れてる。また一から張り直さないと使えなそうだ」

 ミジョルムを弄りながら、店長はそんな的外れの答えを返してくる。

「いや、そっちじゃなくて。せっかく高値で買い取ってくれる人がいたのに、追い返しちゃってよかったんですか?」

 ユラハの問いに店長は顔を上げ、店の外を見つめる。ユラハが座っているのはカウンターの横側の窓際。店長の顔はまだ見えない。

 彼は浅いため息を吐き、曖昧に肩を竦めた。

「そうだな。譲らない理由はないだろうよ」

「じゃあ」

「もういい時間だな。俺はこれからミジョルムの手入れするから、先に上がってもいいぞ?」

 突然の提案。今までそんな提案をされた経験はない。言葉少なに突きつけられた、紛れもない拒絶だった。

 別に傷つきはしない。ユラハ自身、ここは次の職場を見つけるための中継ぎだと思っている。そんなユラハが追求し、深く干渉する行為こそがお門違いだ。

「ちなみに給料は?」

「全額出してやるよ」

「分かりました。では、お先に失礼させて頂きますね」

「おう、お疲れさん」

 幾分、事務的にお互い挨拶を交わし、ユラハはそれ以上店長と話さず、手早く荷物を纏めて店を出る。

 最後に振り返ったその時まで、店長は変わらず導具を修理していた。変わらない。いつも通りの店長だ。

 それでも、老紳士の提案を断った店長の横顔は、確かに知らない人の顔だった。あの時の険しい横顔が、毅然とした声が、躊躇のない眼光が、どうにも頭から離れない。




 夕食も終え、自室に戻ったユラハは途中だった作業を再開しようとして、ようやく忘れ物に気付いた。導式(コード)入力用の外付け鍵盤がない。

 恐らくは店にある。早く店を出ようと、急いでしまったせいだろう。

 ため息を吐き出し、多少の思案。時間はまだ二〇時、これから五時間は作業できる。しかし外付けの鍵盤を使い続けてきたユラハは、正直それ以外の入力が苦手だった。音声入力、素描、筆記、どれも気乗りはしない。

 予備も引越しのせいで全て売り払ってしまった。

 作業が大幅に遅れるし、何よりも慣れないツールはストレスが溜まる。

「しょうがない」

 椅子の背凭れにかけていた肩がけの鞄を引っ掴み、ユラハは一階へと駆け下りる。キッチンでは長身痩躯の男、マギーが腕を組んで煙草を吸っていた。

「すみません、マギーさん、ちょっと出かけてきます」

「あら、どうしたの、ユラハちゃん」

 穏やかに笑い、マギーはまだ長い煙草を灰皿に押し付けて揉み消す。

「店に忘れ物しちゃいまして」

「わざわざ取りに行くの? 明日でもいいんじゃない?」

「今晩作業できないのもったいないじゃないですか」

 ユラハの答えに、マギーは諦観まじりに肩を竦め「それもそうでしょうね」と零す。いかにも導術士らしい発言に呆れているのだろう。

「もう遅いから気を付けていきなさいよ」

「大丈夫ですよ。導剣提げた奴を襲う人なんていませんから」

 さらりと答えるユラハに、やはりマギーは呆れている。マギーからすれば、年若い娘として危機感を持ってほしいのだろうが、事実導術士を襲おうと考える人間はほとんどいない。

 マギーの「いってらっしゃい」にユラハは「いってきます」と返し、キッチンから繋がる喫茶店スペースを駆け抜け、家を出て行く。

 春先の夜は寒い。全身を包み込む冷たさにカーディガンを胸元に握り寄せ、ユラハは夜のヒュジウォーシャを走り出す。




 古導具店に辿り着くと、すでに店の明かりは消えていた。入り口には閉店を示す掛け札も下げられている。二階の店長の私室にも明かりは灯っていない。こんな時間に寝ているとは考えられないので、恐らく裏庭のガレージ内で作業でもしているのだろう。

 店の入り口は当然鍵がかかっている。一度店長に開けてもらう必要があった。

 ユラハは店の脇の隘路に入り込み、柵を一足で飛び越えて裏庭へと入り込む。店のロゴがプリントされた社用車と、そして木製の古びたガレージ。曇った窓からはランタンの柔らかい灯りが漏れていた。

 予想通りだ。

 月明かりを受け銀色の輝く緑の絨毯を渡り、ユラハはガレージへと入ろうとして、視界の端に違和感を覚える。

 店の裏口が開いていた。店長にしては珍しい。何か運んでいる最中だったのかもしれない。

「店長ー? ドア、閉めちゃってもいいですかー?」

 返事はない。作業に夢中で聞こえていないのかもしれない。

 とりあえず開けておくのはあまりにも不用心だろう。ユラハは裏口の前へと向かう。

 中途半端に開けられたドアは夜風を受けて揺れ、その度蝶番が軋みを上げる。甲高い悲鳴めいた音はそれだけで不気味だ。ユラハはドアに手を伸ばし——

「——!」

 ふっと背後で物音が聞こえ、弾かれたように振り返る。草むらをかき分けて頭を出した猫の姿。闇夜の中、二つの奇妙な眼光が不確かに揺れる。

「なんだ、猫か」

 柄から手を離し、ユラハは肩を竦めて猫へと向き直った。 

「ここはそれなりに危ないから、入らない方がいいぞー」

 猫へと歩み寄るユラハ、その背後で閉じかけたドアの蝶番が再び悲鳴を上げる。

 滑るように這い出る人影。ユラハは猫を見つめ、背中を晒している。影は足音を殺し、気配を殺め、斜陽から生まれるそれ自身であるように誰も気付かないほどゆっくりと、しかし確実ににじり寄っていく。

 隙だらけの細い背中。振り上げられる細長い棒状の何か。それが今、ユラハの後頭部目掛けて振り下ろされ——

「——!」

 打音。

 突然の音に猫が逃げ去っていく。

 静寂。

 呻き。

「何者だ」

 白刃によく似た誰何を発したのはユラハ。影に背を向けたまま、ユラハは鞘に納めた導剣の石突を腹部に打ち込んでいた。

 浅い一撃、致命傷ではない。

 影の手から杖が落ちる。

 さらに呻き。

 男は喘息のような息をし、やがて屋内へと走り出す。

「逃すかっ!」

 振り向きながらの抜刀から連動する高速の横薙ぎ。女性が扱うにはいささか大ぶりな導剣の腹が木製の扉を一瞬にして粉砕する。

「おっと、いけない」

 無残にも木端を撒き散らしドアを一暼だけして、ユラハは逃げた何者かを追って、店内へと駆け込む。

 灯りのない屋内、裏口から入ってすぐのダイニングキッチンには、両手持ちで槍を構える何者かがいる。恐らくは商品の導槍だ。

 途端にやりにくい。商品に傷をつけるのは気が引けた。ドアも壊している。これ以上壊してしまうと後が怖い。そこで気付く。

 ユラハの蒼い瞳が影を睥睨する。

「お前、店長はどうした?」

 問いに影は答えない。

 ただ黙したまま槍の切っ先をユラハへと差し向ける。月光を受け、冷たい煌めきが弾けた。

 言葉を交わすつもりはないのだろう。それならばもう容赦をする必要はない。

 ユラハの唇の隙間から鋭い息が漏れる。一瞬。順手に握っていたユラハの導剣アルドライトが翻り、逆手に持ち変わった。

 柄頭に設えた引き金を引き絞ると同時に導陣(レリーフ)がユラハの背後に展開。幻素(エーテル)が急速に充填され、灰色だった導陣(レリーフ)は赤い光を宿す。

 同時に発火。爆音と爆炎がユラハの背後で溢れ出し、背後の食器棚から無数の破砕音。

 衝撃を受けて跳躍したユラハは、彼我の間にあるテーブルを軽々と飛び越え、一瞬にして肉薄。驚きに引き下がる影、有無を言わさぬユラハの一閃が槍を弾き飛ばす。虚空を舞った槍の刃が天井に深々と突き立てられた。

 体勢を崩した影の体が後ろへと傾ぐ。ユラハの手先で導剣が踊り、さらにもう一度翻る。柄頭に嵌め込まれた宝珠には赤い輝き。

 同時に虚空へ転写される導陣(レリーフ)。

「爆ぜろっ!」

「よせ! やめろっ!」

 導術が放たれようとしたその刹那、横合いから飛んでくる聞き慣れた声。

 一瞬で状況判断。ユラハは強引に導剣の向きを変え、導陣(レリーフ)から放たれた火球が裏庭へ面する窓に直撃した。

 幾重にも重なり合ったガラス片の飛び散る音。無色透明にして鋭利な雨が床へと降り注ぐ。

 静寂。ユラハが顔を向けると、裏口の縁に寄りかかった店長の姿があった。頭を押さえ、痛みに歪んだ顔には血が滴っている。

「店長! どうしたんですか!」

「大丈夫だ。大した怪我じゃない」

 何と言おうが、今の店長は体を動かすことさえ億劫そうだ。背中を預けたまま、引き摺るようにしてダイニングキッチンへと入ってくる。

 ユラハは背後に立つ何者かを睨んだ。いや、今は月明かりによって正体は分かっている。

「どういうつもりですか?」

 ユラハの目の前には老紳士。今日、店を訪れたばかりの導具蒐集家はフローリングの上に座り込み、全てを諦めたように項垂れていた。

 恐らく店長に傷を負わせたのは彼だろう。

 問いかけたものの、目的は分かっている。

「ミジョルムを、あの導具を諦めきれなかったのだ……。どうしても手に入れたかったのだ……」

 静かな声で、しかし日中の時よりも重く響く声で老紳士は簡潔に答える。

 身勝手な言い分にユラハの体が熱を帯びる。唇を引き結び、毛を逆立て、怒りを必死に抑え込む。

 自分の収集癖のために、店長を傷つけたのだ。許せるわけがない。彼にもしものことがあれば、今月のユラハの給料を誰が支払うというのだ。

「だからって、こんな……!」

 気色ばむユラハの肩に暖かな手が置かれる。

「大丈夫、ユラハ。ちょっと俺に話させてくれ」

 背後から店長の声。喉元から溢れ出しそうな言葉を飲み込み、盛大なため息で妥協したユラハは一歩後ろ下がる。

 床に落ちていた老紳士の物と思われる杖をついた店長は、この場にそぐわないほど気さくな笑みで「悪ぃな」とユラハに一言謝り、危なっかしい足取りで老人の前へと歩み寄り、片膝を立ててしゃがみ込んだ。

「すまないな、俺の説明不足が招いたことだ」

「いえ、本当に申し訳ないことをしてしまった。ミジョルムに魅せられて、越えてはいけない一線を越えてしまった」

「そいつぁ構わないさ。幸い誰も死んじゃいない。まあ、多少店が壊れちまったが、これは大体ユラハのせいだしな」

 言い返したいが言い返せない。どれもユラハが壊したことは事実だ。

「俺ぁあんたを市警に突き出そうとか、そういうことは考えちゃいねぇよ」

 これからを悲観していたであろう老紳士は緩慢に頭を上げ、店長の顔を見た。驚きに、その顔がわなわなと震えている。

「見逃してくれるというのですか……。一体何故……?」

「そりゃ、あんたが導具を想ってくれる人だからだよ。それにさっきも言ったが、これは俺の説明不足が招いた結果だ。でも、やっぱり俺はあんたにミジョルムを譲ることはできない。すまないな」

 今度は老紳士も喰い下がらなかった。

 この状況でまだ取引を求められるほど無恥ではないだろう。

 それでもユラハは鞘に納めた導剣アルドライトの柄から剣を離さない。もしもの場合は容赦なく対応するつもりだった。

「あのミジョルムはな、とある導術士の家系で代々受け継がれてきた形見の品なんだ。だが、つい先日その家系の最後の生き残りが亡くなっちまった。あれはその人が死ぬ間際に譲ってもらってな」

 この店の常連にレイヴァスという元導術兵の老人がいる。ミジョルムの買取査定はそのレイヴァスの紹介から得られた案件だった。

「もう導術とは何ら関係ない仕事に就いている人だったんだが、それでもあの子のことを思いやってくれていてよ。先祖が遺した導具があのまま埃かぶっているのは、あまりにも可哀想だって言って、俺に譲ってくれたんだ。うちはレストアもできるからな」

「だから、なのですね」

 老人の声に店長は静かに頷く。

「古導具商ってのは仲立ちなんだと俺は思っている。ただ導具を次の持ち主に売るだけじゃない。導具に込められた想いや、導具自身の願いを汲み取り、それをできうる限り次の持ち主に託さなきゃいけないんだ。あんたが導具を愛してくれてるのは分かる。きっとあんたに引き取られた子達は幸せ者だろう。だけど、あのミジョルムだけはどうしても譲ってやれないんだ」

 もう一度謝罪と共に頭を下げる店長に、しかし老紳士はゆっくりと首を横に振った。

「よいのです。今回の一件で私も痛感しました。お恥ずかしながら、私は生まれて初めてこれほど間近で導術が発動する瞬間を目にしました。写真や映像を通したものとはまるで違う。鮮烈な輝き、幻素(エーテル)の奔流、導具の躍動——私はあの瞬間、確かに美しいと思ったのです。私は今までその本当の美を殺していたのだと気付きました」

 そうして老人はそっと頭を下げる。

「イルマ=オックザードさん、貴方は私が思っている以上に素晴らしい古導具商でした」




「いっつつっ!」

 灯りをつけたダイニングキッチンの椅子に腰掛けさせた店長の頭に包帯を巻きつけていると、情けない悲鳴が上がった。

「大人しくしてくださいよ、ちゃんと巻けないじゃないですか」

「キツすぎんだよ! あんたの巻き方!」

「それは別途オプションサービスになっております」

「がめつすぎんだろっ! あー、もうこうなったら自分で巻くさ」

 店長は手でユラハを追い払い、巻き途中だった包帯を一度全部外して巻き直していく。こういうことには慣れているのか、ユラハよりもずっと手際がいい。

 手持ち無沙汰になり、ユラハは何となく周囲を見回す。食器棚は半分焼き焦げ、さらにその半分は爆発によって粉微塵。食器の破片も無数に散乱していた。ドアがなくなった裏口と割れた窓からは夜の冷たい風が遠慮なく吹き込んでくる。

 老紳士は修繕費を出したいと言ったのだが、それすらも店長は断ってしまった。

 店長が何を思って、そうしたのかユラハには分からない。今日だけで店長の新たな一面を数多く見た。

 今もそうだ。

 店長は治癒導術を使おうとはせず、また受けることもせず、自分で応急処置を行っている。もともと導術を使わない人だとは知っていたが、ここまで徹底して導術に関わろうとしない姿勢は少々異常だ。

 これが店長の抱えた秘密の全てなのか、まだこれ以上の秘密があるのか、ユラハには分からない。

 それでも確かに今日、ユラハは彼の価値観の一端に触れたのだ。

「そういえば店長」

「なんだ?」

「さっき話したみたいなこの店の流儀、ちゃんとアタシにも教えてくれないと困るんですけど?」

 なんとなく口にすると、店長は作業の手を止めて、少々驚いたような顔でユラハを見つめた。

「あんたが、ここでしばらく働く気だったとは知らなかったね」

「何言ってんですか、最初からそのつもりですよ」

 息をするように吐き出した嘘。これが本当になるのか、嘘となって終わるのか、ユラハにも分からない。応急処置を再開した店長は唇の端を吊り上げ、皮肉っぽく笑う。

「そりゃ楽しい日が続きそうだな」

「ええ、ですからよろしくお願いしますね、店長」

 慣れない生活。何もかも分からないことだらけの日々。

 胸のこそばゆさは今もまだそこにいる。正体さえ分からない。

 でも、きっとそれでいいのだろう。

 それらが、これからも続くのなら、続かせ続けられたなら、きっと日常としてユラハの世界の一部となっていくのだから。


A.E.2079.04.20 - Cupboard love.

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