第10話 また会う日まで

「行っちゃったわ」

「ああ、なんか夢みたいだ」

「まだ手紙はここにあるけど」

「そのディスク、読めるのかな。二十年前だとフォーマットなんかとっくに変わってるし」

「あんたはその方面に詳しいでしょ。だからこれはあげる。私はこの手紙だけでいい。おかげで、なんか決心がついたわ」

「なんの?」

「私の人生の、よ」

「わけがわからない」

 リツコはちょっと笑った。

「ね、部室に行こうよ?」

「さっきも中は空っぽだって、言っただろ?」

「いいから」

 俺は地面のスコップを折りたたんで、バッグに詰めた。


 部室棟の扉を開けてすぐの階段をあがると、遺棄された施設特有の鉄さびた臭いがした。

 階段を先に上がっていくリツコの声がこだました。

「ここに来るのも今日が最後ね」

「それ、去年の閉校式でも言ってなかったか」

「そうだっけ」

 リツコの声からは、あの朝比奈みくると名乗っていた少女と話していたときのイラついた感じは消えていた。

 俺たちは部室棟の三階一番すみっこの部室のドアを開けた。

 窓から向かいの校舎が見える。たぶん来月の今頃には跡形もなくなっているはずだ。しばらく俺とリツコはもう何十回も在学中に眺めたはずの夕暮れの中にいた。

 

 リツコは俺に向き直った。西日が彼女の落ち着いた表情を照らしたので、俺も見返した。

「私、黙っていたけど」

「なに」

「北海道に引っ越すことになったの。親父は残るけど」

「親戚のところか?」

「うん。あそこだとまだ空気がきれいだし。汚染も少ないしね」

 余りにも突然で、俺は次の言葉が詰まった。

 リツコがいない学生生活……。俺はあの仮の学校に取り残されるのか。


「その前に、やっておきたいことがあるんだけど」

 リツコは無理に作った笑顔で言った。彼女が灰色の作業ジャンパーをぬぐと中は制服だった。

「後ろ向いてて」

 言われるままに俺は窓から弱々しく室内に射す夕日を眺めていた。ここはもう取り壊されるから、この眺めも最後だ。

「おまえもこっちを向くなよ」

「持ってきたのね?」

「そう言ったのはおまえだろ、委員長」

 自分のリュックサックからブレザーとズボンを出した。彼女がコスプレって言ってたから、俺も準備はしてきたのだ。

 ワイシャツのボタンを閉め、ネクタイをきちんと結んだころ、背後の衣擦れがやんだ。どちらも準備完了だ。

「いいわよ」

 振り返ると、リツコは母校の夏のセーラー服を上下きちんと着こなしていた。

 くびれを強調するかのようなきつめのスカートは、すらりと伸びた長い足にはちょっと短かった。肩のところで結んでいた豊かな髪はほどいている。

 そして彼女は最後まで付けていた薄絹のマフラーをするりと取った。青いセーラーカラーの後ろ、首のあたりはぷっくりと膨らんで、甲状腺が腫れているのがわかる。

 彼女がそうしたから、俺も野球帽を取った。

 もう髪の毛は一本もない。

 これでも、まだましだった。高校生まで生きてられたんだし。


 お互い見つめ合って最初に、ちょっと笑った。二人ともこの半年の成長で、互いの制服が小さくなっていた。

「明日、出発なの」

「そんなに早く?」

「いろいろ、症状が出てきてさ」

「気づかなくてごめん。みんなそうだからさ」

「いいの。正直、タイムカプセルなんかどうでも良かった。ここで二人だけになりたかったの」

 それはわかっていた。俺はだまって彼女を見つめていた。

 髪を解いたリツコはきれいだった。落ち着いて、大人っぽかった。

「ねえ?」

 異様に真っ白な手を伸ばして、俺の手を握った。

「校内制服デート、ってどう?」

 彼女の誘いを断る理由はどこにもなかった。


 手を繋いだまま、校内を歩く。

 どちらともなく話し始めたのは、小学五年のクラス替えで初めて会ったときのことだった。

「最初はとんでもねぇ女だと思ったよ」

「今でもそう思う?」

「いや。今はたいした女だ」

「いまごろ気がついたの?」

 いつも思っていたよ。

 職員会議室のドアを開けた。ここで、校長に反対署名の綴りを渡したんだった。あのときいた先生たちは、もうほとんどどこかへ行ってしまった。

「なんか、無理やり引っ張り回したみたいで、ごめん」

「委員長の命令には従わないとな」

 その足で体育館に向かう。

 傾いた陽が、薄く埃の沈んだ床を照らしているばかりで何もなかった。

 体育の時間、同じクラスで男女対抗バスケットボールの試合をした思い出をどちらともなく口にした。

「あのときは女子が圧勝したよな。誰かのおかげで」

「ま、対戦相手が弱すぎたし」

「言ってくれるよ」

 二人で何となくひとまわりして、もう校章もカーテンも撤去されているステージに向かって一礼をして重い扉を閉じた。

 それからの会話は、微妙に二人が抱える問題を避けていたのに気づいたけど、俺は話さなかった。彼女もそうしていたからだ。もしどちらかがそれに触れたら、あっという間に収拾がつかなくなるだろう。

 もちろん、二人とも黙っていた。俺たちはもうそれほど子供じゃなかった。


 暗い廊下を歩きながら、昔のことを考える。

 ちょうどあのタイムカプセルが埋められたころ、世界各国でたて続けに起きた大地震は、やがてこともあろうにこの街の直下でも炸裂した。この学校でも部室棟で一人が亡くなったと聞いている。

 それからは異常気象が年々酷くなって、この国もこの街も立ち直れなかった。それどころか世界中で子供がだんだん生まれなくなって、あちこちで廃校が始まり、とうとう北高の番になったのだ。

「もう二度と、来られないのね」

「うん」

「みんなどんな思いでこの学校に通ったんだろ」

「俺たちと同じだよ。たぶん」

「そうだよね。あの人、わざわざ二十年も記録してたなんて、馬鹿みたい」

「高校生の考えることなんてみんな同じなのに」

 あのみくるさんも未来からやってきて、北高に通ったんだろう。制服姿がなじんでいたから、きっとそうだ。

 でも、最後の言葉も気にかかる。

 俺の読んだSF物だと、時間旅行者はその後の歴史を改変しないように、『禁則』がかかって話せないはずだ。この世界にだってこれからの未来があるはずなのに。なぜ、あんなに話してくれたんだろう。

 実のところ、もうみくるさんの顔はおぼろげではっきり思い出せない。本当に俺は未来人と会ったんだろうか。

 リツコは唐突に言った。

「私……この学校、大好きだったわ」

 リツコはそう言ってちょっと横を向いた。俺はただ極力まっすぐ前を向いて、我ながらぎこちなく歩き続ける。なぜか鼻水がこらえきれない。


 マスターキーがあるおかげで、校内のほとんどの施設に入って中を歩き回った。もういいだろう。

「そろそろ、下校しよう」

 リツコは何も言わず頷いた。

 このあたりも夜になると街灯が消える。坂道は危険だ。

 二人で部室棟を降りると、リツコは俺からスポーツバッグを取り上げた。

「もういらないわ」

 リツコは勢いを付けて、部室棟と正門の間にある茂みにカバンごとなげこんだ。からん、と音がしたのはあの鳩サブレの缶だろう。

 書類カバンから取り出したディスクケースを俺に渡した。あの手紙だけは自分が持って行くつもりらしい。

「そのディスクが読めたら、あとで教えてね?」

 俺は必ずそうすると約束した。


 ネットフェンスの穴を抜け、坂を下って正門の前に立った。

 ここから見える街の灯は半年でほとんど残っていない。この街の衰えはもう止まらない。

「私、この学校に残りたかった。この街にずっと住んでいたかった」

 それは俺も同じだ。

「でも、あの手紙を読んで決心したの。私は戦うわ。きっと元気になって戻ってくる。そして二十年前、三十年前みたいな状態に戻したいの。この街を」

「そのときは俺を部下でも書記長にでも雇ってくれ」

「もちろん」

「約束するかい」

「絶対!」

「じゃ、一筆書いてもらおうかな」

 俺はポケットからメモ用紙を取り出そうとした。

 そっと柔らかい手が俺の首に触れて、頬に彼女の甘美な唇があった。

「これでいい?」

「…………」

「あなたも約束してくれる? ……委員長命令よ?」

 命令とあらば、俺もそうした。


 がらんとした電車に乗り込むまで、俺たちは黙って手をつないでいた。やがて電車は乗換え駅について、俺は降りた。

 振り返ると彼女は堂々として、もうマフラーはどこかに捨てたらしい。彼女は手を振ってほほえんだ。そして、ちょっと軽い仕草で俺に敬礼した。

 俺がわざとらしく真剣な顔でびしっと答礼すると同時に、俺と彼女の間を電車のドアが遮って、そのままゆっくりとホームを出て行く。

 俺はそのままずっと遠ざかっていく彼女の車窓を見つめていた。

 やがて電車のテールランプが赤くにじんで膨れあがったかと思うと……俺の頬を流れていった。


 それから彼女には会ってない。

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