第10話 あの木の下で
病室の窓から夕方の光が斜めに差し込む。
立ち尽くす私に対し、林さんは苛立たしげに、毛の長い眉を歪める。
「何をしておる。さっさと帰れと言っておるのだ。神主と対馬の奴に言ってやれ。『クリスマスツリーを代わりに植えることを条件にするなら御神木を伐ることを了解する』と」
カミナリ爺さんとして恐れられている林さんとは思えないほど、穏やかな口調だった。
皺の深い顔には、苦しみでも哀しみでもなく、そういった人間個人としての感情を超越しての、この世の転変を理解して受け容れた、落ち着きだけがあった。
「御神木を伐ることを了解してくださるんですか?」
もし私が犬だったら、ちぎれそうなくらい大きく尻尾を振っていたかもしれない。
「とても納得できるものではないが、どうせ私が死ねば伐られるのだ。仕方あるまい」
まるで力んでいた肩の力を抜くように、林さんは大きく息を吐いた。無駄に力んでも肩が凝るだけだ。肩凝りで悩むのは、それが巨乳ゆえの持病である私だけでたくさんだ。
「あの小説でも、『最期の一葉』が落ちた後も、病人は、生き続けたはずだったからな」
「そ、そうですよね」
あの短編小説は、全員が生き残ってハッピーエンド、ではなく、ハッピーエンドではあるけれども、葉っぱの絵を描いた老画家は死んでしまったはずだ。でもこの場でわざわざそのことに言及する必要は無い。私は賢明に口を噤んだ。
「無駄に意地を張っていたら、先に天国に行っておる、婆さんに、合わす顔が無いからな」
林さんは、右手で頬を軽く掻いた。照れたような仕草がちょっとだけかわいかった。
早く帰って、父や対馬造園さんやみんなに伝えなければ。
御神木を伐ることについて林さんの了承を得た、ということは、もう反対する人はいない。もちろん御神木を伐るのは全ての氏子にとって苦渋の決断であることには変わり無いのだけど……。でもこれで、広場で遊ぶ子供たちや参拝者の安全が確保できる。
「その代わり、御神木を伐る時と、クリスマスツリーを植樹する時には、私も必ず、立ち会う。これだけは絶対に譲れんぞ。私の目に叶う立派な木でなければ、断固として認めん」
「立ち会いって……そ、それは正直言って、無理だと思います。絶対安静ですよね……」
「黙れ小娘。私はまだ去年米寿を迎えたばかりだ。七年前に婆さんが死んだ時、婆さんは九二だった。私も九二までは生きると、婆さんに約束しておるのだ」
当時の私はまだ幼かったから、林さんが奥さんに先立たれた時のことははっきりとは覚えていない。二人の年齢関係については初めて知った。
「いわゆるアネさん女房、だったんですね……」
「ああそうだ。私はこう見えて甘えん坊だからな、年上が好きなのだ。結婚を申し込んだのも、あのモモの木の下だった……」
……それにしても、御神木の下で意中の女性に……というのは、ご近所の男性はみんな同じようなパターンの思考をするらしい。林さんも対馬造園さんも父もそうだ。赤城酒屋さんは花より団子でお酒三昧だけど……
「……むっ、こっ、小娘が何を言わせるのだっ! さっさと帰れと言っておるだろうが!」
ついに雷が落ちた! 私は背中の袋を担ぎ直し、逃げるように病室の扉を開けて廊下に出た。いやズバリそのもの逃げるのだ。あの時の樹医の逃げ足にも負けない三十六計だ。
首を病室にのぞかせ、一言だけ言い残す。
「年上好きというのはみんなに黙っていますから、早く退院してください。御神木を伐るのとモミの植樹に立ち会ってもらうんですからね」
「言われんでも分かっとるわっ!」
私に向かって、花瓶が飛んできた。廊下の壁にぶつかり、床に落ちて花と水が散らかったが、花瓶は割れなかった。林さんの気性を勘案して、付き添いをしているハヤシサイクルの奥さんが割れ難い材質の花瓶を選んでいたのだろう。グッジョブだ。
慌てて顔を引っ込めて花瓶を避けた私は、テニス部で培った脚力を活かしてダッシュで逃走した。プレゼント入れの大袋と付け髭が邪魔になって走り難かった。病院の廊下で走ったら危険だからいけないことだけど、長居したら私が殺される。脳梗塞で天国へ行ったお母さんは恋しいが、まだ会いたくはない。
これからはクリスマスが今まで以上に楽しみになりそう。
そう考えると嬉しい気分になる。御神木を伐ることが決まったのだから、喜んではいけないのだけど、でも赤い鞠のように心が弾むのは抑えられない。心臓が軽快なリズムを刻み、肋骨の外では自慢の胸が大きく弾む。ミニスカートの裾が翻り、躍動する太腿がのぞく。
季節を告げる南風が、白い付け髭をなびかせて、この地に桜前線と梅前線を押し上げてきたようだ。路傍の木で一つほころんでいる梅の花を横目に、振り返る人々を置き去り、神社へ向かい前のめり気味に走った。
fin
巫女の杜 kanegon @1234aiueo
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