クッキーのくせに
黒松きりん
クッキーのくせに
トイレから戻ったら、根岸班長と目があった。
「矢沢くん、ちょうどよかった。3番に内線。給与課の伊藤班長から」
「3番ですね」
「うん、なんだろうね朝イチで。しかも給与課からはめずらしい」
右手でハンカチをスーツのポケットに押し込みながら、左手で受話器をあげ、ハンカチから開放された右手で3の文字が光るボタンを押した。
「大変おまたせ致しました。義務教育課管理班の矢沢です」
「給与課の伊藤です。お世話になります。あのぅ、なんと申し上げていいか。ちょっと確認したいことができまして」
初めて聞く声は、自分よりは年長の男の声に聞こえたが、気の毒なほど力が抜けていた。同時に、焦りもあった。こちらが相づちを打つ前にポンポンと言葉が続いていく。
「そちらの予算で雇った非常勤職員の方の交通費についてなんですけど。上限を幾らと言っていました?」
「交通費の上限ですか? え、ちょっと待って下さい。事務補助に来てもらってる非常勤さんたちのことで、週2,3でやってもらってる人たちのことですよね?」
「そうですそうです。その人たちの採用は管理班でやってましたよね。採用にあたっての書類に、給与というか、交通費についてどういう記載をしていました?」
「…すぐには出ませんね。確認して折り返しでもいいですか?」
「すみません、なるべく早くお願いします」
承知しました、また後ほど、はい、はい、よろしくお願いしますー、と見えない相手に頭を下げながら受話器を置いた。間髪入れずに根岸班長から声が掛かる。
「給与課、なんの用事だった?」
「うちの非常勤さんたちを採用したときの、交通費についての記載がどうだったかという問い合わせでした。たしかあれ、担当者の名前が私でした。それで掛かってきたんだと思います」
「交通費についての記載、か」
うーん、と言って根岸班長が武光課長の方を向いた。課長も一緒に聞いていたらしい。根岸班長、この間の件と関係あるかもねぇ、僕が高校教育課長に内々で聞いてみるよ。もし当たってたら矢沢くんに噛ませるのは酷だから代わってあげて。そうですねぇ。わかりました、と班長が応じて指示を始めた。
「矢沢くん、それすぐに確認して。それで、悪いけど書面をプリントして俺にちょうだい。給与課への折り返しは待たせておく。矢沢くんは掛けなくていいよ。あと、今日来てる非常勤さんたちのなかで給与明細持ってる人がいたら、借りてきて。昨日から配り始めてるから、いま持ってる人がいるかもしれない。あ、事情は言わなくていいよ。無いなら無いで大丈夫だから」
「承知しました。あのー、面倒そうな話ですか」
「うん、まだ正式に公表されてない会計ミスにうちも含まれているかもしれないって話。俺たちも内々でしか話が来てないから、これ以上は聞かないで。あぁ、そんな顔しなくていいよ。うちで何かしたんじゃなくて、給与課がちょっと間違ってしまっただけだから」
根岸班長が話しているその横で、武光課長はすでに電話を掛け始めていた。
*
朝イチでかかってきた爆弾のような電話のせいで本務を忘れそうになっていた。非常勤さんとの情報交換から戻ってデスクに座り、今日付けで配布する「勤怠管理システム変更について(伝達)」という文書ファイルを立ち上げる。職員の勤怠管理について近代化が進み、今年度からは、個人PCに指紋認証でログインをすると出勤、ログアウトをすると退勤とみなすことで、残業時間の把握や遅刻の監視ができるようになった。新しいシステムに当初は不満の声もあがったが、およそ1年かけて職員の中に「出勤→PCにログインする」という行動パターンが染み付いたらしい。手書きで記録している勤怠表との齟齬がほぼ無くなってきた。遅刻のごまかしも効かなくなったことで、いまでは管理職側には好評のシステムだ(組合からの評価については黙っておく)。反対にログアウト、つまり退勤処理についてはまだまだ徹底されておらず、ひどい者ではデータ上は一週間ずっと退勤していない者までいた。実際には退勤し帰宅していたことが確認され、職員の健康に問題はなかったが、PCに電源が入ったままにされていたのは事実だ。深夜電力は安いとはいえ、これでは無駄遣いになってしまう。そこで、深夜12時には自動ログアウト・シャットダウンするプログラムに書き換えることになった。また、「ダラダラしてないでキッチリ仕事しろ常識的な時間に帰れ本当に仕事が間に合っていないなら相談しろ」という内容を、高級羽毛布団で二重にも三重にも包んだ表現をもって伝達することになった。この羽毛布団で包む作業が難しかった。管理班から出された過去の文書に、似たようなニュアンスのことが書いていないか探しだし、今回の意図に合わせて若干の変更を加えるという作業をするだけなのに辛かった。なにせ公文書だ。まかり間違って職員が意図的に無駄遣いしているとか、中途半端な仕事でもいいから退勤時間を守れとか、そんな解釈をされないようにしなければならない。いわゆるタマムシ色かつ意図は伝わる、そんな文章を作成する必要がある。しかし、これまで経験したことがない。中3までの英語を履修しただけで、いきなり英語の論文を書けと言われているようなものだった。単語は分かる。基本的文法も分かる。でも「文章」は書けない。辛い。やっぱり役所は向いてないと落ち込んだ。
2日かけて必死に捻りだした文章を2度読み返し、ぎこちないけれどこれが自分の限界だと半ばヤケクソになりながら、隣の内田さんに確認を頼むことにした。
「内田さん、作業中すみません。これから全県にメールする例の文書、作ったので見てもらって良いですか?」
「いいよー。あ、そうか。これ矢沢くんのデビュー文書だね。一から作るの初めてだって言ってたものねぇ……。うん……うん、頑張ったよ、矢沢くん」
「ホントに辛かったです」
「おつかれさま。んー、悪くはないんだけど、辛さが文書に滲んでいるから、ちょっと直していい?」
「はい、お願いします」
うー、とか、えー、とか呟きながら、班に在籍して3年目の頼れる先輩が「辛さが滲んでいる文書」を修正してくれる。先輩のキーボードの音が鳴り止んだときには、サラッとした5月の風のような爽やかさが漂い、かつ、背後に般若の面が透けて見えるような迫力のある文章が出来上がっていた。
「文章って、意外と書いてる時の体調で良くなったり悪くなったりするから、気をつけてね。つまり、書いた人となりが見えちゃうの。公文書はなるべく落ち着いている時に書くんだよ。この仕事、職員からの信用第一なんだからね」
はい、気をつけます、ありがとうございました、じゃあこれ、一斉送信で送っちゃいます。メールでの一斉送信を処理しながら、ボンクラな俺でも内田さんの人となりを文章から感じ取れました、とは言わないでおいた。初対面の際に爽やかな風を感じ、少なくても今年度1年間はこんな素敵な環境にいれるのかと浮かれたのもつかの間、直後の電話対応を横で聞いていて「この人は鬼だ」と思ったことが懐かしくなった。もうすぐ1年が経つ。
思い出に浸っていると、デスクの電話が鳴った。
「はい、義務教育課管理班、矢沢です」
「矢沢か。元気してらが。俺だよ、今野だよ」
「今野校長! ご無沙汰しております」
古巣の上司の声を久しぶりに聞いた。管理班に所属した経験のある人で、「矢沢くんを、ぜひ」と半ば強引に移動させた憎き相手だが、懐かしい声に少しホッとしてしまった。
「うん、あのな、忙しべがら、手短にな」
「はい、なんでしょう?」
「いま丁度パソコンの前にいだからよぅ、勤怠管理システムの一斉送信メールを直ぐに開いだんだ。で、内容は良いんだけどな、これ、お前が作った文章だべ?」
内田さんをチラッと見る。もう別の作業に入っている。
「そうです」
「あのな、誤字があったのよ。公文書でこれが残るのはまじぃどぉ。本文上から4行目の」
「4行目の…あ、ホントですね。…うわぁ」
「早く訂正しねば、ジャンジャカ電話鳴るぞ。気づいたの俺でいがったな。しばらく居留守使っていいがら、すぐに直せ」
はい、ありがとうございます、すぐに訂正します、では、はい、ありがとうございましたー。受話器を置くと汗がブワッと出てきた。やってしまった。
「訂正? ん、なに、どうかした?」
「内田さん、この4行目」
「…え、うそ、あーホントだ。矢沢くん、ごめーん!」
色白の内田さんの顔が瞬時に赤くなる。
「よりによってこんな漢字で。恥ずかしったら」
「いいんですよ、修正頼んだの俺ですから。あの、15分くらい居留守させてもらってもいいですか」
「もちろん。むしろ、ごめん。訂正お願いね」
内田さんの誤字は、例えていうなら「しめすへん」と「ころもへん」を取り違えて変換してしまったような、それくらいのミスだった。ただ、間違えた漢字がちょっと恥ずかしい漢字になっていた。
般若面の奥に、オバサンに一歩手前の、ドジっ子なお姉さんが覗いているような気がした。
*
根岸班長と武光課長の勘は当っていて、非常勤職員の交通費上限を誤って認識し、本来より多く支給してしまったそうだ。先に問題が発覚していた高校教育課から給与課の対応について聞いていた武光課長が「たしかに採用の責任は我々にありますがね、給与についての記載はおたくに確認しながらやったとうちの担当も言ってますよ。むしろ給与の部分は我々の仕事では無いですから、おたくらの助言通りにやるしかありません。今回の問題の責任は、おたくらにあると考えていますが、違いますか?」と、責任の一端をなすりつけようとした給与課の担当者を一撃で制圧したところ、昼すぎに給与課長がわざわざ別の棟から足を運んできた。謝罪に来たらしい。他の職員の目がある、ミーティングルームにお通ししろ、それから、矢沢くんも立ち会え。え、私もですか。そうだよ、名前だけでも担当の件なんだから、いいから、ほら。わかりましたよ、押さないでくださいよ。それとな、午前中に送ったメールの誤字の件も後で聞かせてもらうからな。あれ、まだ報告してなかったのに何でご存知なんですか。俺を誰だと思ってる。あ、はい、すみませんでした。今はいい、ほら、黙って立っとけ。小声でやり取りしながら班長と課長の斜め後ろに控えた。
「この度はご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません」
「起きてしまったことは仕方ありません。今後は気をつけてください。非常勤さんたちにも十分説明してください。返納額はけっこうなものになるんでしょう?」
「まだ詳しい数字は出ていませんが、おそらくは……円くらいになるかと」
「あの人たちの時給にしてみれば、それは大きい額ですよ。よく謝ってください」
はい、本当に申し訳ありませんでした。もう一度深く下げたあと、表をあげた顔は憔悴しきっていた。
「木下ちゃん、大変なことになってらねが、だいじょうぶだが?」
武光課長は親しい間柄だったらしい。「課長」の看板を降ろしている。
「もぅ、大変。しかだねがら、いまぜーんぶ点検してらどごろ」
「あやー、しかだねな。いづまでかかるの?」
「わがらね。でも、あまり引っ張って、正式発表前にマスコミに出でしまっでも困るがら、急いでやってら」
「それは、んだなぁ」
「なんとがするしかねのよ。間違ったんだもの。担当の伊藤くんな、わりぃ奴ではねぇのだけど、ちょっと詰めが甘いんだ。あだにも変なごと言わねがったが?」
「なんも、申しゃげねって言ってらっけよ」
しんみりした空気がミーティングルームに流れる。武光課長、伊藤さんに対してはっきりした物言いしてたけどなと思いながら鼻を啜ると根岸班長がこちらを振り返った。そして、
「おい、地震か。揺れてるぞ」
「え、地震?」
言葉を交している間にテーブルや椅子が音を立て始めた。ギュイイッギュイイッと館内放送が入る。胸ポケットに入れていた自分の携帯も震えた。緊急地震速報だ。
「遅いっつの! 課長、早く!!」
武光班長が叫びながらも一番先にテーブルの下に入った。続いて課長たちも横に入る。その様子を見つつ、とにかくドアを開けたまま支えた。幸い、この部屋に棚は無いし、ぶら下がってる物もない。現場時代に染み付いた行動だ。
あちこちから悲鳴や、物が倒れる音、金属同士がぶつかり合う音が聞こえてくる。揺れが長い。もしかして止まらないのかと不安になったあたりで、揺れが小さくなってきた。どこからともなく、「外さ出れっ、はえぐ!」と怒声がした。
「出ましょう。ほら、急いで」
上司たちを急かしながら、自分も外を目指す。途中で内田さんと会えた。ぁ、と小さく声が出てしまった。どうしたの? いや、何でも無いっす。なにか忘れ物?取りに戻るのはだめだよ。 わかってますって、さ、はやく行きましょう。
*
震源地に近かったのは隣県で、大きい被害が見られたのも隣県だったらしい。らしい、というのは停電したまま翌日を迎え、業務の合間に断片的に聞こえるラジオから情報を入手しているからだ。どうやら隣県は大変なことになっているぞというのは分かってはいたが、自分には当地に親戚縁者がおらず、むしろ目の前の仕事で精一杯なところに余計な情報を仕入れたくないというのが本音だった。
「停電してるのに個人携帯で安否確認、ついでに避難所設営についての連絡もってひどい話ですよね」
「そうね。でもみんなの人事と学校の管理を握っている以上、仕方がないわよ」
防寒のために普段の1.3倍くらいの横幅になっている内田さんが愚痴に付き合ってくれた。もともと細身の人だから、1.3倍になってやっと普通に見えるほどだ。化粧を落としたままらしく、マスクをして、メガネを掛けて、珍しく髪をポニーテールにしている。襟の隙間から、白いうなじが見えた。
「根岸班長と武光課長が言ってたわよ。矢沢くんが咄嗟にドアを支えてくれて助かったって。やっぱり現場から来てすぐの人は違う、俺たちなんか子どもみたいにテーブルの下に潜っちゃったよって」
「あれは成り行き上でしたけど」
実際には初老男性3人を救った話なのに、内田さんに褒められたみたいでなんだか嬉しくなった。
「でも内田さん、本当なら今日から3連休でしたよね。妹さんの結婚式、どうなるんですか?」
「ムリムリ。だって会場が仙台だもん。妹とは直接連絡取れてないけど、親が聞いたら『それどころじゃない』って。市内も結構混乱してるみたいよ」
「そうですか。残念でしたね」
「きっと延期すると思うから、その時にまた休みもらうわ。よろしくね」
妹に先に嫁がれてしまうのは、この男気あふれるどっしりとした構えのせいなんだろうなと思いながら、でもそんなところが内田さんの良いところだと頭がポーッとなる。そうだ、今だ。渡せ。
「内田さん、これ食べてください」
中身が割れてないのはさっき確認した。外側から見える入れ物で助かった。「お渡し用の袋」といって余分に持たされた紙袋も折れていなかった。
「ホワイトデーのお返しです。14日が休みって聞いてたので、本当は昨日渡すつもりでいたんですけど、あんなことになって、すっかり渡しそびれちゃって」
3日前に市内の洋菓子屋に出向いて買った、デカデカと「White day」と書かれた趣味の悪い看板の下に置かれていたクッキーの詰め合わせを差し出した。
「おー、ありがとう。そうか、そんな時期だったねぇ。…これ、いま食べていい? 矢沢くんにも分けてあげるよ。朝からロクに食べてないでしょ」
「そうですけど、正直ありがたいですけど、まずは内田さんが食べてください」
うん、そうする、ひゃー、かわいいラッピング、これ買うの恥ずかしくなかったの。そう言いつつも内田さんはビリビリ包装紙を破いていく。そしてクマの形をしたクッキーが姿を現した。空間に、甘いバターの香りが漂う。可愛い形だねぇ、食べるのもったいないねぇ。でも内田さんはマスクを取って、クマの頭から口に入れていく。クマの上半身が口の中に収まった。ボリボリ。これ美味しい、しかも甘いモノっていいよね、ほんと昨日からくたびれちゃってさぁ。ボリボリ。すっかりクマ一体が内田さんに吸収された。美味しいよ、ありがとう、はい、矢沢くんもお一つ。ありがとうございます。ボリボリ、ボリボリ。妹の旦那さんね、◯◯電力の人なの。へぇ、それは良いところの人と結婚しましたねぇ。ボリボリ。うん、それでね、いま女川原発にいるんだって。ボリボッ
「それは、また、なんというか」
その単語は朝からラジオで聞いている。むせながらもなんとか返事をすると、内田さんのメガネの奥の目が赤いことに気づいた。
「うちの親、いまちょうど閑散期だから安いって、仙台の温泉旅館に泊まってるの。そこはちょっと山奥なのよ。妹は市役所職員だけど、沿岸の支所に今年異動になったばかりだったの。おまけに旦那さんは原発にいて、多分大丈夫だろうけど、一回しか連絡取れてないんだって。ねぇ、ホント、最悪。なんで今なのよ。もうちょっと後ででいいじゃないっ」
ボリボリ、ボリボリ、ボリボリ。
どんどんクマが内田さんに吸収されていく。その様子を唖然として見ていた。憧れの美人上司が泣きながらクッキーを貪る姿に掛けていい無難な言葉なんて、社会人8年目、人間30年目の自分には思つかず、口をついて出た一言。
「う、内田さん、そんな一気に食べちゃって大丈夫なんですか」
大丈夫よ、と言いながら内田さんの顔が一瞬固まった。そして鼻を啜って一言。
「なによこのクマ、美味しいじゃないの。クッキーのくせに。美味しいじゃないのよ」
美味しいですか、よかったです。相手の言葉にほっとして、怒りながらクッキーを食べる、自分の好きな人の様子をじっと見ていた。
クッキーのくせに 黒松きりん @giraffe
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