陽炎を見ていた

 

 夏が来た。昼間の陽炎を見つめて、日傘の柄をくるりと回す。真っ青な空をどれだけ見つめても、通り過ぎる舗道に吹く、一陣の風のようにはなれない今日。繰り出す二本の脚で、わずかな風をとらえては、後ろに逃がしている。

 

 試験期間が終わり、フミと違って部活動の無い私は、一人の帰り道を家に向かって進んでいた。熱でぼんやりとしてきた額に手をやり、幸せなことを考えようとする。


 あの一度の来訪依頼、雪絵さんは、純也さんのお母さんである萌子さんと、文通友達になった。はじめは、向こうから御礼の手紙が届いて、それからすぐのことだ。


 互いの息子と娘の近況、そのほか、何気ないようなことでも想い掛け方が似ていると言って、雪絵さんは嬉しそうに、封筒の宛名をしたためる。かわいい人だなと思う。毎日の小さな不安を、無くならないからといって、普段、口にするような人ではないから。こんなふうに、"分かり合える" 人がいるのはいい。


 相手の萌子さんだって、素敵な人だ。もしかして純也さんが今のようではなかったら、もっと家の外に出て、自由な生き方ができる人かもしれない。ぼんやりとだが、そんな感じがした。

 それでも、腕の中にある幸せの、そこにない形を求めることの難しさや、無慈悲さを、自分ひとりではなく、家族の視点で見ている人だと思う。だからこそ、ちゃんと納得して、前を向いて、希望を求めて生きている。


 "希望" という言葉が出てきて、私は思考を止める。脇の車道を、さぞ車内は涼やかだろう通学バスが、通り過ぎていく。そして今朝も出掛けに、建蔵さんに言われた一言を思い出す。



『これだけ暑いんだから、バスに乗りなさい。通学定期は買って渡してあるのだから、遠慮をするのは、意味が無いからね。人が近くて、怖いのかもしれないが、具合が悪くなったら、だからね、いいね』


『はい』


 その建蔵さんの優しさを、無碍にしたいのではなかった。学校から家まで、歩いて帰れる距離を、その時間の分だけ考え事をして、帰りたいだけだった。赤信号で足を止めると、手提げかばんから水筒を出して、口に当てる。水分補給は問題ない。



 純也さん、という人に出会ってから、私は考えることが増えてしまった。自分と同じ、”話さない” という選択をした人なのだと、そんな風に簡単に思って、連れ行きたいと言われたから、嫌だとは 言わず、付いて行った。


 でも、見てしまったもの、感じてしまったものは、なんだかどれも、喉の奥に、引っかかっている。建蔵さんと雪絵さん夫婦も、仲がいいと思ったけれど、それは互いの理解があるからだと、客観的に見られた。でも、萌子さんと郁也さんは、息子の純也さんがいて、その三人で繋がっている家族、という感じがした。


 『どうして?』という疑問が、首をもたげた。そこにあった空気は温かくて、自分を包んでくれるような気がするのに、不安になった。だって、とても怖かった。純也さんであって、そうでないものがそこに居て、なのにみんな、気づかず笑っていて、どうしてそんなにも穏やかなのだろうと思った。


 子どもの遊び声が聞こえてきて、家近くの公園まで、帰って来たと気付いた。母親と男の子の親子連れが、ブランコのところで遊んでいる。



「ねぇねぇ、強く押して!」


「これくらいかな、それいけ!」


「わーい!」



 楽しそうな光景だけれど、誰もが同じような光景を生きるわけじゃない。だって自分は、そんな風に遊びたい子どもじゃなかった。そんな言葉が浮かんだら、ずきんと、胸が痛くなった。



 いまさらだと、思う。でも私は、別に母が嫌いなのではなかった。どうしても、分かって欲しかっただけだ。言葉以上の世界が大きすぎて、それを口に出来ない私のことを、ただ受け止めてほしかった。母親だから、私を産んでくれた人だから。何より最初に、言葉を教えてくれた人だから、それが叶うという期待を、私は捨てきれなかった。



 『どうして?って、訊きたいのは、本当は私なんだよ』



 母が私に問い続けた言葉に、ようやく私は、一つの返事を返した。面と向かっては発することのできない言葉を、心の中に吐き出す。そうして描けるものは、虚しさだけなのかもしれない。でも、これで私は胸がいっぱいなのだ。

 見えているものは同じでも、感じ方が変わっていく。それは出会った人のせいなのか、まだ短かい人生の、経てきた年月のせいなのか。



 私は家の前に立ち止まり、帰宅の合図をするために、携帯を取り出す。雪絵さん宛に電話をかける。すると雪絵さんがバイブで気付いて、玄関先まで出てきてくれる。そういう約束事だ。


 カチャリという小さなを音がし、出て来た雪絵さんが、手話で私を出迎える。


『お帰り、寿美子ちゃん』


『ただいま』


 笑顔の雪絵さんの表情に、少しの不安を読み取り、私は考える。どこまで立ち入るべきで、またはそうではないかと。いま、雪絵さんのお腹の中には、新しい命が宿っている。まだ、建蔵さんに言えていない秘密を抱えて、迷っている雪絵さんの頭の中には、私のこともある。誰より遠慮をされているのは、私の方なのだ。

 

 まるで小さな冬の太陽のように、純白に光る命を、雪絵さんより私が先に気付いた。なんてきれいで、力強い光だろうと思った。まだ、言葉を持たない人の、母親という一人の人間の中で、生きている形。未だ知られていなくとも、息づいている温度に、哀しくなるほど胸打たれたことが、私に、過去の意識への遡及をもたらしている。


 自分もきっと、こんなふうに生きていた。だから今も、生きようとしている。それは、自分を守ってくれる人を犠牲にしてまで、望んでいいことでは無くて、なのに、どうにもならないことばかりで、歯痒い。



 私は洗面所で手を洗い、髪留めを外して、肩に落ちた髪を梳く。気持ちを整えて、伝えるべき言葉を、頭の中で整理する。そして居間に行き、料理の本を読んでいた雪絵さんの隣に、腰を下ろす。雪絵さんが気付いて、私に尋ねる。



 『何か食べる? お腹すいてない?』


 私はその質問に答える代わりに、こう言葉を返した。


『赤ちゃんのこと、私、気付いてる。建蔵さんに、伝えてほしい。私が、いない方がいいなら、鷺沼先生に、相談するから。安心して』


 雪絵さんはみるみる驚いた顔をして、自分のお腹に手をやると、少し急いだ調子でこう返事をしてくれた。


『寿美子ちゃん、すごい。いつから気付いてたの? 私も昨日、調べて分かったばかりなのに。どうしてかな。お姉ちゃんになる人の方が、分かっちゃうテレパシー?みたいなのが、あるのかもしれない。大丈夫、安心して。ちゃんと建蔵さんには相談するから。みんなで、考えよう』


 その晩、帰宅した建蔵さんに、雪絵さんが伝えた。建蔵さんの喜びようったら、なかった。見たことが無いほど大きな目をして、口まであんぐりと開けて、「そうか…そうか…とうとう…」と言ったと思ったら、雪絵さんを抱きしめようとして、鞄を取り落とした。でも、力加減が分からないから、代わりに雪絵さんの両肩に手をおいて、涙目になっていた。雪絵さんもつられて、涙を浮かべていた。私も、嬉しかった。


 建蔵さんは晩御飯の後、雪絵さんにも分かるように、ゆっくり、私に言ってくれた。


『これから、雪絵の身体の変化に伴って、寿美子が不安に思うようなこともあるかもしれない。でも大丈夫。雪絵のお母さんにも来てもらって、負担があまりないようにする。僕も、出来る限りのことをしようと思う。だから、寿美子は心配せず、これまで通りに、この家にいればいいからね』


 私はしばらく答えに迷って、雪絵さんの表情を見た。不安そうだが、私がウンと言わないと、余計に不安になりそうだ。建蔵さんの顔も見た。もっと大きな不安が見えた。


 生まれてくる赤ちゃんのこと、私のこと。子どもが2人になることで、雪絵さんの負担がどれだけ大きくなるのか、分からないからだ。でも、私を要らないとは、絶対に思わない。そういう誓いのような言葉が、見え隠れした。私は言った。


『雪絵さんの手助けがしたい。それが難しそうなら、鷺沼先生にも相談してみる』


 

 この言葉に建蔵さんは安堵し、雪絵さんは何かに気付いたようだった。でも、それ以上を言うことは避けた。もしかしたら二人で話をしたかもしれないが、私の知る所にはならなかった。



 雪絵さんのお腹が目立つようになってきた頃、私は、かねてより相談していた医師の家へ、一時的にお世話になることになった。季節は移り変わって、夏から秋、そして冬へと至る。


 伯父である医師の家へ、ふらりと純也さんが来たのは、そんな冬の日の、ある日のことだった。


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『かんざさの滝』 ミーシャ @rus

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