第5話
ガルンを取り巻いている漆黒の嵐が止まっている。水中に黒い液体を流したように、漆黒の渦が空間に留まっていた。
エリウスはガルンだけが、自分と同じ速度の時間流に存在しているのを感じる。ノウトゥングはその手にあったが、ガルンの拳銃は間違いなく剣より速い。
しかし、銃弾は放たれなかったし、金剛石の刃もまた剣に納まったままだ。
エリウスとガルンは見つめていた。
自分たちの間に突如として出現した、その巨人を。
漆黒の巨人。身の丈は10メートルほどだろうか。
その立ちあがった夜の闇を思わせる巨人は、間違いなく柱へ磔にされていたはずの存在だ。すなわちグーヌと呼ばれる神。
ガルンは呟く。
「なぜだ。おまえのいる空間は封じたはず」
「愚かだな、おまえは」
グーヌは静かに言った。
「私を破壊できると思ったのか」
「おまえはたかが機械ではないか」
「おまえもまた機械だろう」
ガルンは黄金の林檎をかざす。しかし、それは光を放つことはなく沈黙したままだった。
「馬鹿な」
ガルンの呟きにグーヌが答える。
「それは私が造ったものだ。そもそもお前はそれが何か判っているのか?」
ガルンは無言でグーヌを見る。グーヌは静かに言葉を続けた。
「それはウロボロスの輪と対を成すもの。すなわち世界の亀裂、世界の死滅した部分と対を成している世界を生成する力そのものだ。つまり聖なるカオスから生成変化を生じさせる力そのものがそこに表象されている」
「馬鹿をいえ」
ガルンの美しい天使の顔は、酷く焦燥しているように見えた。
「これは単なる反応炉に過ぎない。本来クラッグスの推進機関へエネルギーを供給するためのものだ」
「そして私はただのクラッグスをメンテナンスするための作業ロボットか?おまえはおまえの背丈に見合った世界を見ることができる。残念ながら見えるものの限界はおまえの限界であって、見られているものの限界ではない。そんな単純なことも忘れてしまったのか」
「おれは」
ガルンは呆然として言った。
「狂っているからだ」
「それも重畳」
グーヌはむしろやさしく語りかける。
「おまえはおまえの望むことを成せ。愛するものととともに死ぬことが望みであれば、それをなせ」
闇色の神は唐突に消えた。エリウスは金剛石の刃を放つ。同時にガルンはトリッガーを引く。
フレヤはウロボロスの輪を断ち切った。
周りの風景が一変する。真紅に染まった荒野は姿を消した。変わりに青い空が頭上を覆う。
そこはアイオーン界である。
フレヤは自分が斬ったものを見て、驚愕した。自分の剣はラフレールの身体に突き立てられていたためだ。冬の日差しのように怜悧な輝きを放つ剣は、ラフレールの身体を串刺しにしている。
ラフレールは哀しげな顔でその剣を見た。
そして、ゆっくりフレヤを見上げる。
「なぜだ。フレヤ。おまえとて人間としての記憶があるのであれば、世界のあるべき姿が何かは判るだろう」
「そうだな」
フレヤは笑った。
「無限に変化しながら漂流していくのが、私の世界だ」
「愚かな」
ラフレールの姿は次第に薄くなってゆく。その存在は光に晒されて失われる影のように、消えつつあった。
「しかし、フレヤ。おまえを分離することによって黄金の林檎を封じることは失敗したが、おまえはここから出ることはできない。おまえは永遠にここに残ることになる」
ラフレールは消滅した。
空はサファイアのように青く、湖は鏡面のように澄み渡り空を映している。
静かだった。
その静寂は、永遠に破られることのないもののように思える。
バクヤはホロン言語によって高速化した思考で、その銃弾を見た。拳銃弾としては大きな12.7ミリ弾が三発、漆黒の嵐を突き抜けて飛来してくる。音速を超えているだろうその速度も、今のバクヤの意識の中ではゆっくりに思えた。
しかし、その銃弾は実際には避けようの無い速度でエリウスへ向かっている。エリウスはまさにノウトゥングを振るい終わったところだ。
ガルンの身体が闇の向こうで四散するのが見える。金剛石の刃はガルンの身体を縦と横に切断した。
意識が高速化しても、身体が高速で動くわけではない。自ずから限界はある。ガルンは分解され火花に包まれたが、エリウスもこのままでは間違い無く死ぬだろう。
バクヤは左手を解き放つ。
メタルギミックスライムは人間には不可能な速度で動くことができる。亜音速で漆黒の左は伸びてゆく。バクヤはその流体金属の左手で銃弾を掴み取るつもりだ。
空気が重い。
まるでゼリー状の物質となって、全身を覆っているようだ。
そのゼリーのように重い空気を切り裂いて、闇色の左手は伸びる。
バクヤは一群となって飛来する12.7ミリ弾を掴んだ。
凄まじい衝撃が走った。バクヤは巨大なハンマーで殴られたような衝撃を感じる。
何千もの刃を左手で掴んだような気がした。そのショックはバクヤの予想を遥かに上回っている。メタルギミックスライムの左手が巨大なエネルギーによって膨らんでゆく。限界だった。
左手は炸裂する。その左手は液状化し円形の穴がゆっくり広がってゆく。全てはバクヤの感覚の中ではゆっくりだったが、致命的な速度は保たれていた。銃弾は左手に空いた穴からゆっくり飛び出ていく。
その速度はかなり落ちたはずだ。しかし、剣を振るった直後のエリウスは避ける動作にはいることができない。
ゆっくりと弾丸はエリウスの身体へ吸い込まれていった。
「エリウス!」
バクヤはホロン言語による高速思考を解除し、エリウスへ駆け寄る。エリウスは大の字になって倒れていた。
漆黒の嵐は、竜巻のような渦を巻き頭上へと消えてゆく。後に残ったのは青白い火花につつまれたガルンの身体だ。
全ては一瞬の出来事だった。何が起こったのかを理解できたのは、おそらくブラックソウルだけだろう。魔族ですらその速度は感知することができないはずだ。
バクヤは倒れているエリウスを見る。
その瞳は閉じられていた。バクヤはエリウスの前に膝をつく。
「くそっ、こんなところで死ぬなんて」
「いや、生きてるけど」
バクヤは顔をあげ目を剥いた。
顔だけ起こし、にこにこと笑うエリウスは、ノウトゥングの柄を見せる。その柄に三発の銃弾が食込んでいた。
「生きてるんやったらさっさとおきんかい、こら」
「いや、弾丸は食い止めたけど着弾のショックが凄くて吹き飛ばされちゃって。痛いから寝とこうかなって」
「あほか」
エリウスはあたまをはたかれて、べそをかく。
「痛いよう」
「さっさと起きろ」
その二人を横目で見ながらヴェリンダが、ゆっくりと破壊されたガルンの身体へ歩みよる。その手の中にある黄金の林檎を拾いあげた。
黄金の林檎には、再び力が戻っている。
猛々しい、凶悪な輝きはヴェリンダの手の中で、次第に強くなっていった。
黒衣のロキが歩み出る。
「それをどうなさるおつもりか」
「知れたこと」
ヴェリンダの言葉をブラックソウルが遮った。
「いやいやいや」
ブラックソウルは笑みを浮かべ、ヴェリンダの隣へ立つ。
「ご心配されることはない、ロキ殿。黄金の林檎は私たちが水晶宮へ運びますから」
ブラックソウルは、晴れやかな笑みをバクヤへ向ける。
「嬢ちゃん。おれを殺したければオーラの水晶宮へこい」
「ちょっとまて、こら」
バクヤが叫ぶと同時に、ヴァルラもまたヴェリンダに眼差しを向ける。
「姉上、お待ちください」
「さらばだ、ヴァルラ」
ヴェリンダの足元に黒い影が広がる。夜の闇のような黒い影。それは闇色の湖のようにも見える。そして、その漆黒の湖に黒い漣がたつ。
黒い影の中央に浮かび上がったのは、白く巨大な女の顔だった。妖艶な、神々の愛妾のごとき美しい女の顔。その女の顔は大蛇のように長大な首に支えられ、宙に浮かび上がる。
その首に続いて巨大な翼と竜の体が現れた。全ての妖魔の母と呼ばれる、邪竜エキドナである。
「姉上!」
叫ぶヴァルラへ嘲るような笑みを見せたエキドナは、ヴェリンダの前へ蹲る。塗れたように光る紅い唇で、エキドナはヴェリンダへ語りかけた。
「あんたには借りがあるが、これ一度だけだよ。魔族の女王」
「一度で十分だ」
ヴェリンダはエキドナへ答えると、ブラックソウルとともにその背へ跨る。
二人を背に乗せたエキドナは、宙へ舞い上がった。
そして、身を翻すと自らが出てきた闇の中へと再び戻ってゆく。エキドナは闇の中へと吸い込まれる。邪竜を呑み込んだ闇は、地面の中に水が吸い込まれてゆくように消えていった。
「ヴァルラ殿」
ロキが魔族の王に声をかける。ヴァルラは頷いた。
「判っている、ロキ殿。少し待て」
ヴァルラは破壊されたガルンの身体のところへ歩みよる。そして、その瓦礫と化した体から、何か黒いものを取り出した。
それは、ヴァルラの手の中で黒い球体となる。ヴァルラはバクヤのほうを向いた。
「うけとれ、娘」
バクヤはその黒い球体をメタルギミックスライムの左手でうけとめる。その黒い球体はバクヤの左手の中で溶け出した。そして、溶けて液状になったものはバクヤの左手へ同化してゆく。
「なんやこれ」
「メタルギミックスライムとおまえたちが呼ぶものだ。ガルンはそれを自分自身の身体として使っていた。その中にはガルンの魔道が記憶されている」
ヴァルラは金色に輝く瞳で、バクヤを真っ直ぐみつめる。
「必ず役にたつはずだ。お前がブラックソウルと戦うのであれば、我が姉ヴェリンダが立ちふさがることになる。その時に、魔道を封じる力が必要だろう」
「あんたは、自分の姉の敵に手を貸すのかよ」
ヴァルラは静かに微笑む。
「私は、魔族の王だ。自分の為すべきことは判っている」
「ヴァルラ様」
ヌバークが思わず、一歩踏み出す。ヴァルラはそのヌバークを眼差しで押しとどめ、エリウスのほうを見た。
「王子よ。私はお前に助けられた。お前の望みを言え。借りは返そう」
「うーん」
起きあがったエリウスは、いつものように少し眠たげな口調で言った。
「とりあえず、黄金の林檎はブラックソウルにまかせられない感じだからなあ。一緒にオーラの水晶宮まで行ってくれる?」
「いいだろう」
「ヴァルラ様!」
叫ぶヌバークに、ヴァルラは凶悪な笑みを返す。
「王が帰還したことをまず知らしめねばならん。その後、旅立つぞ。人間どもの王国へ。白き肌の人間どもに恐怖と殺戮を味あわせてやろう」
フレヤはラフレールが消えた大地が、金色に輝きはじめているのに気がついた。その輝きは急速に強くなってゆく。
フレヤはあまりの眩しさに、数歩下がった。光は一つの形を整えつつある。それは竜の姿だった。
やがて光は弱まっていく。後に残ったのは金色に輝く巨大な竜だった。竜は明けの明星のように輝く瞳をフレヤへ向ける。
「おまえがラフレールを殺したのか」
竜はフレヤに問いかけた。フレヤは頷く。
「そうだ」
「では、おまえが私を契約から解き放ったのだな。礼をいうぞ」
竜は古きものが持つ静けさと、穏やかさを持っていた。そしてその金色に輝く姿は、気高く美しい。
「我が名はフレイニールだ。巨人よ、おまえの名は?」
「フレヤだ」
「なるほど、お前が死せる女神の娘にして最後に残った巨人なのだな。ではお前の望みを言え。一度だけお前のために働こう」
「私の望みか」
フレヤは少し笑みを見せる。
「とにかくここから出ることだな」
「ここはどこだ」
「アイオーン界の中。そして、ウロボロスの輪によって閉ざされたところだ」
竜は暴風のように鼻息を出して笑う。
「なんと、我らはウロボロスの輪の中に閉じ込められたというのか。それを抜け出せというのは荷が重過ぎるぞ。ただ方法はないことない」
「ほう」
フレヤは冬の日差しのように青く輝く瞳で、金色の竜を見る。
「出れるというのか、フレイニール」
「お前の力を借りればな。私と一体化しろフレヤ。そうすればお前の力をとりこめる」
「一体化するとは、どうすればいい」
「簡単だ」
フレイニールは巨大な口を開く。剣のような牙が並んだその口は、洞窟のようにフレヤの前に暗い穴を見せている。その大きな口から轟くような声を発して、フレイニールは問いかけた。
「私に食われればいい。どうする」
「好きにしろ」
フレヤの言葉と同時に、その巨大な口はフレヤを呑み込んだ。
トラウスを囲む壮大なアウグカルト山脈は西方に一箇所、途切れている部分がある。
その巨大な渓谷の西側にサフィアスがあり、そのさらに向こうが西海だ。
渓谷の入り口には古代の砦がある。数百年前、王国が分裂する以前につくられたその砦は半ば廃墟と化していたが、その建物の規模は巨大であり今でも十分要塞として使用可能と思えた。
トラウスを支配したオーラ軍は、2万の兵をその砦に駐留させている。
その砦の一室で、膨大な書類を前にぼやき続けている男がいた。深夜を過ぎたというのに、ただ一人男は終わらない仕事を続けている。
剥き出しの石で出来た壁に囲まれた、執務机以外になんの家具もないその殺風景な部屋がなぜか似合う、どこか無個性な男であった。魔導師のようにフードつきマントを纏っている。その怜悧な瞳は頭の中で様々な考えが高速で張り巡らされているのを感じさせたが、口からもれるのは愚痴とため息だけだった。
「全く、あの人は今ごろ一体何してるんだか」
「あの人とは、おれのことかい? シャオパイフォウ」
シャオパイフォウと呼ばれた男は、うんざりした顔でふりむく。扉はなく布で仕切られただけの入り口に立っていたのは、ブラックソウルとヴェリンダだった。
「戻ってたんですか」
シャオパイフォウは疲れた声で言った。
「なんだ、忙しそうだな」
「ええ、おかげさまでね」
シャオパイフォウは手にしていた書類をほうりだして、ため息をつく。
「大体、トラウスを占拠するなんて三年、いや五年は早いです。補給路が長く伸びすぎて、これだけの軍隊を維持するのに莫大なコストがかかる。しかも、中原の諸侯はオーラのトラウス侵攻を支持していない。あたりまえでしょうね。私たちには、正義が無かったんだから。今、諸侯たちは反オーラという形で結束しつつあります。へたをしたら孤立している我々は全滅します。それどころか、一歩間違えればオーラも滅びます。そんな状況なのに、将軍どもは戦うこと以外に頭脳を使うつもりは全く無いときている。そもそもやつらに頭脳なんてものがあれば、という話ですが」
「いいじゃねぇか」
シャオパイフォウは目を剥いた。
「なにがいいんですか! そもそも私はあなたの考えるべき仕事を代行しているのに。
参謀はあなたですよ! 私は一介の情報将校にすぎない」
「オーラなんか滅んでもいいよ」
シャオパイフォウは立ちあがった。地味な造りの顔が、凶悪な形相になっている。
「いいですか」
「まあ聞けよ、というか見ろ」
ブラックソウルはいつもの獣じみた笑みを見せて、ヴェリンダを指し示す。夜の闇のように漆黒のマントを纏ったヴェリンダは、邪悪な笑みを見せながらその右手をかざして見せる。
その手に乗せられていたのは、地上に堕ちた太陽。
死せる女神の心臓にして、王国の象徴。
凶暴なまでに激しい金色の光を放つ、球体。
黄金の林檎だった。
「まさか」
「そう、黄金の林檎だ」
シャオパイフォウはため息をついた。
「じゃあ、撤収ですか。しかし言っときますけど、二万の軍隊の撤収は、はんぱじゃない」
「おいおい、馬鹿いうなよ」
ブラックソウルは楽しげに言った。
「引き上げるのは、お前とおれ、それにヴェリンダの三人だけだ」
「そんな馬鹿な、じゃあ兵たちは」
「戦ってもらうさ」
「誰と」
ブラックソウルの瞳が凶悪に輝く。シャオパイフォウは背筋に冷たいものを感じた。
「おれたちを追って、もうすぐやつらがくる」
「やつら?」
「魔族だよ。魔族の王ヴァルラがおれたちを追ってくる」
「勘弁してください」
シャオパイフォウは泣きそうになった。
「なに、オーラの精鋭二万だぜ。魔族相手でもそこそこやるさ。勝てなくても、負けはすまい。一週間も足止めしてくれれば上出来だ」
「あのねぇ。私もあなたもいなくなって誰が撤収の指揮をとるんです。魔族と戦って戦力が削がれたらトラウスの残党も黙ってないし、諸侯も敵に回るでしょう」
「いいじゃねえか。全滅しても。たかが二万、小さいことだ」
「長老たちにもそういってくださいね」
「そこは、それだよ。シャオパイフォウ。一緒に考えようぜ、言い訳を」
「全く」
シャオパイフォウはため息をつく。
「水晶宮へ戻ったとたん、あなたが抹殺されても、私は驚きませんよ」
その神殿は暗く重い空気に満たされていた。何百年も前につくられた建物特有の、淀んだ空気。
深夜である。闇は物理的な重さを持っているようだ。人々は寝静まっているようだが、礼拝堂を満たす張り詰めた空気は昼間と同じだ。その神殿の礼拝堂を、サラは歩いていた。
ふと気配を感じ、サラは足をとめる。
「え?」
「僕だよ、エリウスだ」
物陰から現れた灰色のマントを纏った青年の美貌は、確かにエリウス王子のものだ。
サラは驚愕する。このフライア神の神殿はオーラ軍に監視されているのと同時に、自分たち巫女に仮装したヌース神聖騎士団によって警備されていた。太古からある秘密の通路を含め、この建物に秘密裏に出入りすることはできないはず。そして、何者かが侵入すれば自分に必ず知らされるはずだ。
サラは亡霊かと思ってエリウスを見なおす。しかし、その茫洋と笑みを浮かべた顔は、死霊とはとうてい思えない暢気さを漂わせている。
「なにぼーっとしてんのさ」
「いえ」
サラは、ため息をつく。エリウス王子にぼーっとしているといわれては、立つ瀬が無い。
「アルケミアの件は片付いたのですか」
「ん、ま、微妙」
サラの顔がぴくりと動く。相手が王子でなければ、一喝していたかもしれない。
「微妙とは?」
「だから微妙だよ。そんなことよりさ、急いでるんだ」
とうてい急いでいるように聞こえない、のんびりした口調で王子は言った。
「もうすぐ魔族の軍勢がくるから」
「え?」
「魔道の海を渡ってもう港から密かに上陸している。数は百騎」
「ちょっとまってください」
「だから急いでるんだって。みんなグリフォンに乗ってる。魔族だけど僕の味方だから気にしないで」
僕の味方? サラはその言い方にひっかかった。トラウスの味方では無いといいたいのか? まあ魔族である以上、エリウス王子以外の人間は虫けらと見なしていても、なんの不思議も無いのだが。
「気にしないでといわれても」
「なるべく人は殺さないように頼んであるから。じゃ」
ふっ、とエリウスの姿が、闇に溶ける。
「ちょっとお待ちください」
「あ、そうそう」
消えたときと同様に、忽然と王子が姿を現す。
「黄金の林檎ね、あれ取られちゃったから」
「取られちゃった?」
サラは眩暈を感じる。頭の中に手を突っ込まれて、ぐるぐる掻き回されている気がしてきた。
「アルケミアに黄金の林檎があったのですか?」
「うーん、そうじゃないけどね。今はブラックソウルが持ってるんだ。じゃ、これから魔族と合流してブラックソウルを追いかけるから」
「待ってください!」
サラは、必死でエリウス王子のマントを掴もうとしたが、一瞬にして王子の姿は消えた。
「エリウス王子!」
サラは叫んだが、答えは無い。柱の影に隠れただけのように見えたのだが、王子は完全に姿が消えている。魔法としか思えない。
サラは身を翻すと走り出した。
騎士団を集め、早急に手を打たねばならない。
本当に、中原に魔族の軍が上陸したのであれば、とんでもないことになる。サラの顔は蒼ざめていた。何百年も昔に中原が魔族に蹂躙され、何万もの人間が死んだと聞く。
そんなことにならないと思いたい。
ただサラには、エリウス王子の考えを理解することができなかった。
夜が明けつつある。
西から東へと空を見渡してゆけば、濃紺が薄紫へと変化していくのを見ることができた。そして、無慈悲な神の瞳のような明けの明星が、怜悧な光を地上へ投げ下ろしている。
薄い絹のベールが降ろされたように、地上は霧によって覆われていた。そしてその白い海水に満たされた海の底を思わせる平原を、オーラの軍隊が埋め尽くしている。
先頭にいるのは鋼鉄で作られた蜘蛛のような、機動甲冑たちであった。その鉄で身を覆った毒虫たちは火砲の砲身を、前方にある丘陵の頂へと向けている。
その黒い鋼鉄の戦闘機械は、数百ほどいるだろうか。そして、その機動甲冑の後ろに騎兵部隊がいた。
戦闘用の鎧に身を包んだ馬たちに跨った兵士は皆、連射式の火砲を手にしている。
輪胴型の弾倉を装着した火砲は、中原のあらゆる国を業火に包んできた凶悪な兵器であった。およそ五十発は連射可能なその武器は、敵が何ものであれ破壊しつくすことができるはずだ。
それらの機動甲冑や騎兵と組み合わされる形で、歩兵たちが配備されている。歩兵たちもまた、槍のように長大な火砲を手にしていた。その装備であれば、通常の中原の軍隊なら、たとえ十倍の兵がいたとしても蹴散らすことが可能だと思われる。
夜の闇が薄らぐ中、兵たちは待っていた。
魔族の軍勢が現れるのを。
いうなれば、神話の中の存在ともいえる魔族。
かつて魔族の狂王ガルンは、オーラに攻め込み数万の機動甲冑に乗った兵士を別の次元界へと消し去った。後に残った空の機動甲冑は、墓標のようにオーラの地に放置されている。
しかし、今のオーラ軍は違う。何より魔族の女王自身が施した魔道を防御する呪術文様が、その鎧に描かれている。そして、従軍魔導師たちが軍勢を結界で覆っていた。
いかなる魔法攻撃もオーラ軍を脅かすことは無い。
霧が晴れてゆく。
そして、太陽が最初の光を投げかけたとき。
その朝日が輝く中、丘陵の頂に一騎の騎士が現れた。
漆黒の鱗に覆われた、四足の巨大な爬虫類であるグリフォンに跨った魔族。
夜明けの光を消し去るかのような漆黒のオーラを全身から放つ魔族の騎士は、王にこそ相応しい悠然とした足取りでゆっくり丘陵の頂を上り詰める。魔族の軍勢はその後ろに控えていた。
そしてその魔族の騎士の隣には、一人の馬に跨った人間がいる。
神が造りあげた彫像のような美しさを持った青年。夜の闇のような黒き髪と、黒曜石のように輝く瞳を持つその青年は、魔族の騎士とともにゆっくりと馬を進める。その姿は最も古き王国の王子に相応しい、見るものを慄然とさせる美しさがあった。
オーラの兵たちにどよめきが走る。彼らは伝説の中だけの存在であった魔族を目の当たりにしたのは、はじめてだった。兵たちはその姿に驚き、声をあげる。
将軍たちは、そのどよめきを切り裂くように叫び声をあげた。
将軍たちは、配下の部隊に攻撃指令を下す。進軍を知らせる喇叭が、金属質の音を響き渡らせた。
号令に答えるように、兵たちは戦いの叫びをあげる。
怒涛のようなときの声が軍隊を揺るがしたその瞬間。
その声があたりを支配した。
それは、むしろ静かな声である。怒号のような戦いの叫びに比べると、夕暮れの日差しのように落ちついた声だった。
しかし。
その声は兵たちの脳を、その深奥から揺さぶることができる。
その声は、こういった。
『出迎え御苦労である。家畜たちよ』
誰も。
オーラの兵は、誰一人として火砲の引き金を引くことができなかった。その声はまさに自分たちの根源的な主が放ったものであることが、本能的に判ったためだ。
声は語り続ける。
『我が名はヴァルラ。魔族の王だ』
兵たちは、完全に静まりかえってしまった。脳そのものを鷲掴みにされたような感覚が、兵士たちを襲っている。身体が麻痺していた。
『本来であれば、お前たちの出迎えを祝福するはずだった。つまり、おまえたちの汚れた血を大地へ流すことによって、醜悪なおまえたちの存在をより聖なるものへと変化させてやるはずだった。しかし、我は友の願いを聞き入れた』
百名はいる従軍魔導師は、皆血の涙と血の汗を流している。魔族の王、ヴァルラの声を消し去ろうとしているためだ。しかし、それは巨大な暴風雨を一枚の紙切れで押し戻そうとしているようなものだった。従軍魔導師たちは一人、またひとりと倒れ伏してゆく。
そして、ヴァルラの声は大地を割って悠然と流れてゆく大河のように、兵士たちを飲み込んでいった。
『しかし、おまえたちは醜く惨めに生まれてきた。それを放置するほど我は無慈悲ではない。喜べ家畜ども。我はおまえたちを祝福する歌を歌おう』
ぞくりと。
兵たちは戦慄を憶える。
『我の歌はお前たちを目覚めさせる。恐怖と悲哀に』
地鳴りのように。
微かな振動が大地を渡っていった。
しかし、その振動は物理的なものではなく。
それは、精神をこそ振るわせる波動であった。
『そしてその恐怖こそ』
太陽が翳り、闇が笑う。
兵たちは天空が割れ、無数の破片が自分たちに降り注ぐのを見た。
そして、空が割れた向こうから無限の虚無がたち現れてくる。
また、大地が消失し足元に闇が開いた。
兵たちは、無限の闇の上へ立ち尽くしている。
聖なる暗黒が降臨した。
時は止まり。
無限と化した。
王は歌う。
遥かなるときを渡り、闇から生まれ闇へ消えて行く存在を唯一包むことが可能なその歌。
すなわち。
恐怖の歌。
『おまえたちの存在を祝福しうるものなのだ』
闇は。
あまりに広大すぎた。
時は。
あまりに果てしなさすぎた。
開示されたのは永遠よりも長い時。無限よりも果てしない闇。闇は兵士たちの精神を、魂を、肉体から切り離し果てしない無限の牢獄へ幽閉してしまう。兵たちは皆、自分の魂が肉体から切り離され、深淵へと吸い込まれるのを見る。それは暗黒の巨大な海獣が、自分たちの魂を呑み込んで、深海の底へと帰ってゆくのを見るようなものだ。闇は獰猛で容赦はない。そして貪欲に、かつ無慈悲に魂を刈り取る。
それは、兵たちを狂わせるのに十分なものであった。兵たちは恐怖の絶叫をあげ、あるものは魔族から遠ざかろうと身を翻す。しかし、恐怖に鷲掴みにされた兵たちの身体は、ごくゆっくりとしか動かない。
馬たちは悲鳴をあげ、地面に倒れてゆく。騎兵は狂乱の叫びをあげて大地をのたうつ。時折、火砲が暴発し火炎をあげる。そこは地獄と呼ばれる場所とよく似た風景に、なっていった。
兵たちは皆震え、逃げ惑う。火焔が吹き上がり、獣や人を舐めまわす。鋼鉄の毒蜘蛛は狂ったように疾走し、兵たちを踏みにじり殺戮を繰り広げる。
ただ一人。
古き王国の王子、エリウスたげは兵士たちと同じものを見つめながら悠然と微笑んでいた。神々を称える壁画に描かれた賢者のように優しく。邪神を滅ぼす殺戮の天使のように冷たく。
王子は静かに微笑んでいた。
闇は津波のようにオーラの軍勢を覆い尽くす。
そして、兵たちは一人残さず発狂した。
冥界のワルキューレ 憑木影 @tukikage2007
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