第2話

    4


 一体どうやってあの火の海に呑まれずに逃げ切ることが出来たのか、全く覚えていない。気がつくと、僕は雑多な道具や空き箱が積まれた暗い倉庫の片隅に横たわっていた。あの阿鼻叫喚騒ぎが嘘のように辺りに人の気配はなく、唯ジェイドが無言で僕の火傷の手当をしていた。生暖かい夜の空気に満ちる不思議な音に、僕は耳を澄ませた。

「ジェイド……あの音はなに?」

「鈴虫だよ」

「……ここは、壁の外なの?」

「あぁ」

「ふうん……」

 コンクリートの壁と錆びた鉄の扉を見回し、僕は少しがっかりして溜息をついた。

「壁の外って言っても、中とあんまり変わらないね」

「明日になればわかるさ」

 ジェイドが煤に汚れた顔を拭い、ニヤリと不敵に笑った。



 こうして、僕とジェイドのストリートでの生活が始まった。ジェイドは施設にいた頃の物憂げな様子が嘘のように生き生きと瞳を輝かせ、黒い影のように音も無く路地裏を歩き回り、数日もしないうちに辺りの地図を隅々まで把握していた。店先から一欠片の肉やパンをくすね、レストランのゴミ箱を漁り、必要とあれば裕福そうな人間に物乞いをしてでもその日の糧を得る。どんな手を使おうと、ジェイドは決して僕を空腹のまま眠らせたりはしない。そして僕は、そんなジェイドの足手纏いにならないように、唯ひたすら必死に彼の後だけを追った。

 ストリートの生活はシビアだ。ジェイドがいなければ僕は三日も保たなかっただろう。ストリートで生きていくのは確かに大変で、動きの鈍い僕は生傷が絶えなかったけれど、でも僕はこの生活を気に入っていた。だって、僕達はとても自由だったから。けれどもジェイドは、夜中にしばしば発作を起こして咳をする僕のことを酷く心配していた。

「なぁ、ラズリ。おまえ、無理して俺について来ることないんだぜ? 最近イイ感じのテリトリーを手に入れたしな」

「うん、でも、僕だって食べ物を運ぶ手伝いくらいはできるし。明日は雨が降りそうでしょ? だから明日の分の食糧まで手に入れば、ジェイドだって雨の中を外に出なくていいし」

 湿った風の匂いを嗅いで、ジェイドが僅かに考え込んだ。ジェイドは雨が嫌いなのだ。

「……そうだな。じゃあ、しばらく寝床から出なくてもいいくらい、今日はガッツリ行くか」

 ねぐらにしている古びた倉庫から出ると、僕は意気揚々とジェイドの後をついて『狩場』へ向かった。

 飲み屋や大衆食堂が並ぶ街角のゴチャゴチャした路地裏がジェイドのお気に入りの狩場だ。高級レストランの裏口もひとつキープしているらしいが、ジェイド曰く、裏口とは言えあまりに綺麗に片付いているところをストレイがウロつくのは、ストレイ狩りの目に付きやすくて良くないそうだ。大衆食堂にしろ高級レストランにしろ、初めの頃は人の食べ残しを求めてゴミ箱を漁るという行為に抵抗感を持っていた僕を、ジェイドはあっさりと鼻先で嗤った。

「じゃあおまえは、市場や店先で獲物をくすねる方がいいのか?」

「そう言うわけじゃないけど……」

「俺は別にどっちでもいいぜ? ただし盗みは見つかると面倒だ。おまえみたいに鈍いヤツは、逃げ遅れて半殺しの目に遭うのがオチだぜ?」

 ……危険度は何より、モラルという面でも盗みよりも残飯漁りの方がまだマシか。一旦納得して腹をくくれば、食べかけとは言え、チーズたっぷりの冷えたピザや少し焦げたソーセージはとても美味しかった。

 路地裏に並べられた大きなゴミ箱に頭を半ば突っ込むようにして、僕は比較的綺麗で新しそうな食べ物を探した。程なく、まだたっぷりと身の残っている骨付きハムの塊を見つけ、心を浮き立たせた時だった。

 背後から伸びた手が首根っこを掴むと、僕をゴミ箱から引き摺り出し、地面に叩きつけた。硬い石畳で酷くあばらを打ち、息を詰まらせた僕の上に大きな黒い影がのし掛かる。濡れた地面に顔を押し付けられ、身動きひとつ取れない。

「……餓鬼のストレイか。俺様の縄張りを荒らすとは、いい度胸じゃねぇか」

 耳許に吐きかけられた腐ったような息に、歯の根も合わないほどの恐怖で体が震えた。不意に僕を押さえつける手が離れた。咳き込みながら顔を上げた僕の前に、大男に体当たりしたジェイドが立っていた。

「……糞ガキが」のっそりと立ち上がった大男がぬらぬらと底光りする眼でジェイドを見下ろした。「殺してやる」

「あんた誰? ストレイじゃないだろ?」

「俺は貴様らみたいな汚ねぇストレイ共からここら辺りを守るために雇われたのさ」

 開き切った瞳孔でジェイドの背中を見つめつつ、僕は息を整え、ジリジリと後退りした。そしてジェイドの合図を待った。胸が痛い。緊張で心臓がバクバクと鳴って、今にも破裂しそうだ。

「餌に釣られて自由を売って、雇われの身かよ。男の癖につまんねぇ野郎だな」

「小汚ねぇストレイが何を偉そうに……」

 男が一歩前に足を踏み出そうとした瞬間、僅かに身を屈めたジェイドが手ですくった泥水を男の顔に向かって跳ね飛ばした。それが合図だった。

 素早く身を翻したジェイドを追って、僕は後も見ずに走り出した。しばらく行った所で僕は右に曲がり、ジェイドは積んであったブロックを足場に塀の上に駆け上がる。

 もし万が一、何者かに追われるような事態に陥った時は必ず二手に分かれること。そして何があっても、決して後ろを振り返るな。ストリートでの生活が始まって最初にジェイドが僕に教えたことだ。そしてジェイドは僕の為に走りやすい逃げ道を選び抜き、それを幾度も幾度も、それこそ目を瞑ってでも走れるようになるまで僕に叩き込んだ。

「今度会ったらタダじゃおかねぇぞっ」

 怒り狂って喚き散らす大男の声を背に、僕は恐怖に竦みそうになる足を必死に動かし、暗い路地裏を駆け抜けた。



    5


「折れちゃいねぇが、ヒビがいったな」

 僕の肋骨を調べていたジェイドが、暗い顔で溜息をついた。

「まぁしばらく大人しくしてりゃあ治るだろ。それにしてもおまえ、よくアイツに捕まらずにここまで走ってこれたな。痛くなかったのか?」

「だって必死だったから……怖くて、痛いなんて感じてられなかったし」

 寝床に横になった僕の肩に、ジェイドがそっと薄いブランケットを掛ける。

「……ジェイド、ごめんね」

「何が?」

「怪我して、足手纏いになっちゃって……僕がいなければ、ジェイドならもっと遠くの……暖かくて暮らしやすい街まで行けるのに」

「バァカ」と笑ってジェイドが僕の額を小突いた。

「俺たちストレイにとっては街なんてどこでも同じようなもんさ。くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと寝ろよ」

 僕の隣に潜り込んだジェイドの背中は、日向の草むらのように良い匂いがして、とても温かだった。



 如何に身のこなしが軽やかで喧嘩慣れしていても、流石のジェイドも体の大きさが三倍以上ありそうなオトナ相手ではどうしようもなかったのだろう。ジェイドはお気に入りの『狩場』をあっさりと諦めたようだった。しかし食べ物を手に入れやすい手頃な狩場ではストレイ達の争い事が絶えない。秋が深まり、喧嘩による生傷が増えるにつれ、ジェイドの『獲物』は残飯から市場の売り物に変わっていった。ジェイドなら下手な真似はしないだろうとは思うものの、僕は僕の為に朝から晩まで食糧を求めて街を歩きまわり、多少の危険は厭わないジェイドの事が心配だった。

 そんなある日の事。

 ようやく胸の痛みも軽くなってきたので、僕は少しばかり外を探検することにした。丁度天気も良く、青く澄んだ空に吹く風も気持ち良い。運動不足で多少足がふらついたものの、僕は久し振りに楽しい気分でストリートをウロついた。そして少し歩いたところで、僕はそれを見つけた。

 それは、白い紙の箱に入ったソーセージだった。誰かの食べかけでもなく、間違えて落として汚してしまったという風でもなく、一本のソーセージが路地裏にポツンと置かれていた。近付いて匂いを嗅いでみたが、腐っている風でもない。誰かの忘れ物かも知れないと思い、しばらく待ってみたが、落し主は現れなかった。

 たまには外に出ると良い事もある。辺りに誰もいないのを確かめ、僕は胸を高鳴らせて箱ごとソーセージを持ち帰った。腹は空いていたが、僕はグッと我慢してジェイドの帰りを待った。

 日が暮れて、辺りがすっかり暗くなった頃、ようやく疲れた足を引き摺るようにしてジェイドが帰って来た。

「ジェイド! おかえり!」

 僕は勇んでジェイドに駆け寄った。

「ねえ! 見て! 凄いんだよ、僕、今日ねぇ――」

 僕が差し出した箱の中身を見た途端、ジェイドがサッと顔色を変えた。

「……喰ったのか?」

「え?」

「おまえッ! まさかその肉を喰ったのかッ?!」

「食べてない! 食べてないよ!」

 ジェイドに胸倉を掴まれ、息を詰まらせながら僕は慌てて叫んだ。

「ジェイドが帰ってくるまで待ってようと思って……」

「絶対だな?! 絶対に一口も喰ってないな?!」

 僕が咳き込みながら何度も頷くと、ジェイドはようやく手を離した。

「……ごめん、ジェイド……あの、これ、なんかダメなモノだったの?」

「毒だ」

 ジェイドが忌々しげに頷くとソーセージを半分に割り、僕の鼻の前に突き出した。

「少し甘い匂いがするだろう? こんなもん喰ったら血を吐いてオダブツさ」

「……ジェイドは何でもよく知ってるね」

 苦しいのとがっかりしたので目に涙を滲ませた僕からジェイドが目を逸らし、ふんと鼻を鳴らした。

「俺の弟はそれで死んだからな。口や鼻から血を噴いて、冷たい雨の中をのたうち回って、悲惨な最期だったよ」

「……ごめん」と僕が小さな声で謝ると、ジェイドが僅かに目を細めて僕を見た。

「あの、つまり、嫌なこと思い出させちゃって……ごめん」

「おまえが謝ることないだろ。こんなもん、ストリートで生きてりゃ日常茶飯事さ」

 そう吐き捨てるように言って、ソーセージを外に捨てに行こうとしたジェイドが、ふと立ち止まって何やら考え込んだ。

「あいつ……ストリート育ちのわけないよな」

「え? なんのこと?」

「おまえを殴ったあのデカブツだよ。イイもん喰って育ったから、図体ばっかりあんな馬鹿デカくなったんだろ? 雇われボディーガードだか何だか知らねぇけど、ストリートをウロつき始めて日が浅いとしたら……」

 ジェイドが不意ににやりと嗤って唇を舐めた。その舌が妙にぬらぬらと赤くて、ジェイドの眼の中の炎がゆらゆらと燃えて、僕の鼓動が速くなる。

「ジェイド……だ、ダメだよ……」

「何が?」

「何がって……いくら嫌いな相手でも、それだけはダメだよ……」

「は? なんの話?」

 とぼけた表情で肩を竦め、外へ出ようとしたジェイドに思わず追い縋った。

「なんの話って、ジェイドってば、あいつにソレを食べさせるつもりだろ?! 毒を盛ったりしたら、そんな事したら、絶対に、絶対に後悔するよ……!」

「……後悔だと?」

 振り返ったジェイドの眼がひんやりと冷たい。ジェイドがそんな眼で僕を見るのは初めてだった。

「ストリートではそんな綺麗事は通用しねぇよ。俺に喧嘩を売ったのが奴の運の尽きさ。まぁ運良く毒の匂いを知っていれば助かるんじゃねぇの?」

「そ、そんなっ、生き延びるのに必要なのは運じゃないって、ジェイドが言ったんじゃないか!」

「そうだ。生き延びるのに必要なのは運じゃねえ」

 僕を静かに見つめるジェイドの瞳の奥で、翡翠色の炎が閃く。

「如何に相手ライバルを叩き、潰し、出し抜くか……生きる意志が全てさ」


 翡翠色の炎は世界の全てを焼き尽くすほどに熱いのだろうか。

 それとも血も凍えるほどに冷たいのだろうか。


 僕には分からなかった。



    6


 毒入りのソーセージに関して、全てがジェイドの思惑通りになったであろうことは聞かなくてもわかった。ジェイドが持って帰ってくる『獲物』が以前に比べて格段に良くなったからだ。きっとそれはテリトリーを取り戻したというだけでなく、邪魔者は毒を使ってでも排除するジェイドの容赦の無さがストレイ達の間で一目置かれたという事もあるのだろう。けれどもジェイドは何も言わないし、僕も訊かない。ただ、この一件以来、僕たちの間に小さな亀裂が生じたことだけは確かだ。

 別にジェイドが僕に対する態度を変えたわけではないし、僕だって極力普通に接しているつもりだ。けれども夜、ふと会話が途絶えた時に、何処からともなく吹き込む幽かな隙間風を感じる。

 その風を感じるのが嫌で、僕は沈黙を埋めるためだけに喋り続けた。ジェイドは元々かなり寡黙な方だし、僕だって話すのは苦手だ。でも隙間風はもっと苦手だ。必死で話題を探し、つまらない冗談を言い、無理にはしゃいで笑う僕に、ジェイドは「ああ」とか「うん」とか曖昧に頷く。

「ねぇ、ジェイド。君が初めて僕に気付いた時のこと、憶えてる?」

「……初めておまえに気付いた時?」

 それまで適当に相槌を打ちながら、眠たそうに欠伸をしていたジェイドがふと身体を起こして僕を見た。ジェイドが久し振りに話題に興味を持ってくれたような気がして、僕は少し気持ちが浮き立った。

「うん、そう……僕達が初めて目を合わせた時だよ。ほら、ガキ大将だった赤毛の子がさ、ジェイドに喧嘩売ってさ」

「……あぁ」

「あの窓は俺のモノだとか言い出して。周りのみんなが囃し立ててすごい騒ぎになっちゃって。それであの子がジェイドに飛び掛ったんだけど、ジェイドは一発であの子の眼を……」

「なあ、もう黙れよ」とジェイドの低い声が不意に僕を遮った。

 僕が口を噤んで俯くと、ジェイドが少し慌てたように口調を和らげ、「ほら、明日も早いからさ」とまるで言い訳のように言葉を継いだ。言い訳なんてジェイドらしくない。そんな風にジェイドに気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、くだらない話をしてしまった自分がひどく情け無くて、益々気が塞いだ。

 世界から消え入りたい気分で背中を丸めると、ゴホゴホと咳が出た。最近夜が冷え込んできたせいか、以前にも増してよく咳が出る。そして一旦出始めると中々止まらない。そんな僕を気の毒そうに眺めていたジェイドが、「あのさぁ」と溜息をついた。

「あのさぁ、おまえって、体力は全然ねぇけど、ツラは悪くないんだよな。大人しいし、手癖も悪くない」

 一体何をいきなり言い出したのかと、訝しげに自分を見上げる僕からジェイドがふと目を逸らす。

「……おまえみたいな奴はさ、綺麗に体を洗って体裁を整えれば、いくらでも貰い手があると思うんだよな。例えば子供のいない金持ちの家の前で、ちょっと哀れっぽく泣いてみせれば……」

「やめてよッ」

「……悪い」と呟き、ジェイドが疲れたように首筋を揉んだ。「でも、こんな風にストリートで生きてゆくだけが、生きる道じゃねぇよ」

「……わかった」

 ジェイドから目を逸らして深呼吸を繰り返し、僕は波打つ胸の内を宥めた。

「もしいつか、何らかの理由でジェイドと別れるようなことになったら、そうするよ」


 ……もしいつか、君に見捨てられたら。

 それでも僕は、生きるために精一杯足掻いてみせる。

 それが君の望むことなら。


 薄いブランケットの下にふたりで潜り込む。いつものように背中合わせで横になったが、やはり僕とジェイドの間には眼に見えない隙間があって、そこに吹く風に胸が凍えた。



    7


 翌朝、夜半から降り出した雨が止むのを待たず、ジェイドは街へ出て行った。昨夜の会話など忘れたかのように何気無く振舞っていたが、結局最後まで僕と正面から目を合わせようとはしなかった。

 僕は彼の重荷でしかないのだろう。いつか、ジェイドが帰ってこなくなる日が来るかも知れない。その日を想像すると、鼻の奥がツンと痛くなった。でも本当は、そんな日が来る前に、ジェイドにそんな選択を強いる前に、僕は自らここを出ていくべきなのかも知れない――

 背後の気配に振り返ると、淡い逆光の中にジェイドが立っていた。

「ジェイド? 早かったね……って、どうしたの……?」

 只ならぬ様子のジェイドに近付いた途端、鉄の匂いが鼻を突き、首筋にざわりと悪寒が走った。雨と泥に汚れたジェイドの肩に、パックリと大きな傷が口を開けていた。ジェイドの腕を伝ってポタポタと滴る赤い雫が、足元を濡らし、地面を染めてゆく。

「ジェ、ジェイド……」

「ストレイ狩りだ」

 ジェイドが僕の腕を掴んだ。

「逃げるぞっ」



 雨の中、僕達は必死に走り続けた。思えば僕達は、施設から逃げ出したあの日以来いつも走り続け、逃げ続けている。

 どこでも良いから、どこか遠くへ行きたくて、僕達は懸命に走る。どこか、この灰色の世界の片隅に、僕とジェイドが楽しくひっそりと暮らしていける場所を求めて。欲しい物は唯一切れのパンと、安心出来る寝床と、お互いの温もりだけ。誰にも怒鳴られず、誰にも憎まれず、誰にも追われない何処か――

 狩り出され、追い込まれたストレイ達が上げる悲鳴に耳鳴りがする。けれども生き抜くためには、立ち止まることも振り返ることも許されない。罠は至るところに仕掛けられていた。飛び出してくるハンター達の腕をかいくぐり、投げられた縄を避け、泥濘に足を取られそうになりながら、無我夢中でストリートを駆け抜けた。

 やがて怒号と喧騒が遠くなり、ふと我に返ると、僕達は街外れの見知らぬ路地裏にいた。辺りはとても静かで、ハンターもストレイも、誰もいなかった。

 降り頻る銀色の糸のような雨の中、ジェイドがゆっくりと地面に膝をついた。

「ジェイド!」

 慌ててジェイドの肩に回した腕が、生温かい血でぬるりと滑った。幾ら傷口を押さえても、じわじわと滲み出る血が僕の手を染め、溢れ、紅い花のように濡れた石畳に咲き、広がってゆく。

「なあ、ラズリ……昨日、俺たちが、初めて目を合わせた時のこと、憶えてるかって、言っただろ?」

 肩で荒い息を吐き、苦しげに喉を鳴らしながら、ジェイドが不意に言った。

「俺が、なんで、おまえを構ったか……知っているか?」

 僕が黙って首を横に振ると、ジェイドが翡翠色の眼を細めるようにして笑った。本当に久し振りに、穏やかで温かな翡翠色を見た気がした。

「……おまえの眼が、空の色だったからさ」

 雨の日でも、蒼い空が見えるように。

 そう呟き、ジェイドが眼を瞑った。


 この灰色の世界で、迷う者ストレイには帰る家もなく、行くあてもなく、待つ人もいない。世界はお前達を必要としていない、と灰色の声が囁く。確かに世界は僕を必要としていないのだろう。でもそんな事はどうでもいい。段々と冷たくなってくるジェイドの身体を温めようと、僕は懸命に彼の手足を擦った。

 空が零す冷たい水が、少しづつ、少しづつ、ジェイドの中から彼を形作る何かを奪ってゆく。雨を止ませて下さい、と鈍色の空に向かって祈った。何でもするから、僕の全てを差し出しますから、どうか雨を止ませて下さい。


 不意に雨が止んだ。


 驚いて天を仰いだ僕の眼に、赤い傘が映った。

 振り返ると、目を丸くした少女が立っていた。

 ジェイドを置いて逃げるわけにもいかず、足を竦ませた僕に少女がそっと手を伸ばす。観念して目を瞑ると、暖かな指先が喉元に触れた。生まれ初めて知る、けれどもどこか懐かしい匂いが、甘く優しく僕を包む。服が汚れるのも構わず、少女が僕とジェイドを膝に抱き上げた。

「お母さーん! 大変! はやく来て!」

 少女に呼ばれ、落ち着いたベージュ色の傘を差した母親が路地裏に現れた。

「この子達、怪我してるみたいなの。おうちに連れて帰っていいでしょ?」


 雨に濡れそぼった体を微かに震わせ、瑠璃色の眼の白い仔猫と翡翠色の眼の黒い仔猫が、少女の柔らかな腕の中から母親を見上げた。



(END)

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stray 和泉ユタカ @Izumi_Yutaka

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