stray

和泉ユタカ

第1話

    1


 世界は冷たいコンクリートの壁と鉄格子で出来ている。灰色の壁は余りに高く、その前に立つ者の視界を阻み、僕は唯、その湿った影に蹲り、世界の底の無い暗さに震える。

 この壁の向こうにも世界は存在するのだろうか。それとも、この壁の向こう側は世界の果てで、全てを呑み込む闇と深い淵だけがあるのだろうか。僕にはわからない。だって僕は、物心がつくよりずっと前から、『施設』と呼ばれるこの灰色の中にいるのだから。

 一日の始まりを告げるのは燦めく朝陽でも鳥の囀りでもなく、錆びた蝶番の軋む耳障りな音だ。重たい鉄の扉が開くと、煤けた灰色の服を着た灰色の髪の男が現れる。男は左足を引き摺りながら鉄格子の間をゆっくりと歩き、小さく区切られた無数の部屋をひとつずつ覗いてゆく。僕は、男の温度の無い灰色の眼に見られるのが、その眼に映る自分の影を見るのが嫌いだった。

 男がひとつの鉄格子を覗き込むと、眉根をひそめて軽く舌打ちした。

「おい」と男が外に向かって声を掛けると、黒い袋を持った若い男が現れる。若い男は鉄格子を開き、中から引き摺り出したモノを袋に投げ入れる。全ては淡々と、無言のうちに行われる。

 心配することは無い。空いた部屋はすぐに埋まる。世界は行く先を持たない『迷う者ストレイ』と呼ばれる者達で溢れているのだから。

『施設』は世界の秩序を乱すストレイ達を捕らえておく場所だ。ここには老若男女を問わず、様々な者達がいるらしい。らしい、と言うのは、僕は子供達ばかりが集められたこの一画しか知らないからだ。たとえ施設内であっても、ストレイが与えられた場所から外に出ることは許されない。

『朝の点検』が終わると質素な食事が与えられる。後は夜まで一日中ぼんやりと過ごす。稀に小綺麗な身なりの男女が訪ねて来ることがある。『昼の点検』だ。彼等は興味深げに、じっくりと値踏みするような眼で鉄格子を覗いてまわる。そして時折鉄格子の前で足を止め、灰色の男に鍵を開けさせる。そして怯えて暴れる子供を抑えつけて眼や歯並びを調べ、気に入った子供がいれば外へ連れて出る。連れて行かれた子供達がどうなるのか、誰も知らない。

「養子縁組ってヤツだよ」と言う者もいれば、

「健康そうな奴らが選ばれるのは、変なクスリの実験とかに使われるからだぜ」などとせせら笑う者もいる。

 こうして退屈な時間が過ぎ、夕飯が配られ、そして『夜の点検』の時間が来る。この時ばかりはどんなに騒がしい悪戯っ子でも鉄格子の隅に大人しく膝を揃えて座り、灰色の男の眼に留まらないように気を付ける。『夜の点検』に引っ掛かるのは、大抵は病気や怪我で弱った子供達だが、稀に素行の悪い子供も選ばれる。そして選ばれた子供達は『始末』され、二度と戻ってこない。

 一度に大量の子供達が『始末』されると、コンクリートに囲まれた部屋の空気は益々冷たく、重苦しく淀む。そんな夜は、悪夢に魘される幼い子供達の悲鳴と、それに苛つく年上の子供達の怒鳴り声が夜通し続く。

 しかし空いた部屋は翌朝には新入りで埋まる。そして皆、いなくなった子供達の事など綺麗サッパリ忘れたように、そもそもそんな子供達なんて初めから存在しなかったかのように、新しい仲間を囲んではしゃぐ。

『点検』以外で僕達が鉄格子の外に出ることを許されるのは、数日に一度の『自由時間』と呼ばれる数時間だけだった。灰色の男が鉄格子で区切られた小部屋をホースで洗浄する間、子供達は小さな窓がひとつだけ付いた広いコンクリートの部屋に入れられ、そこで手足を伸ばすことを許される。他の子供達はこの自由時間を心待ちにしていたが、僕にとってこの時間は苦痛以外の何物でもなかった。

 僕は同い年の少年達に比べて身体が小さく、鉄格子の中で育ったせいか足腰が弱く、運動神経も悪い。おまけに興奮したりするとすぐに息が苦しくなって咳が出た。だから僕はボール遊びなどする子供達の輪に交じることなく、そして年上の乱暴な少年達に目を付けられないように、いつも部屋の隅っこでじっと独り膝を抱えていた。

 他の子供達と遊ばない子供は僕だけではない。もうひとり、誰とも交わらない少年がいた。僕より少し年上のその少年は、いつも独りで窓際に腰掛け、何処か遠くを見つめていた。僕は孤独だったが、彼は違う。彼は孤高だった。

 艶やかな黒髪と鮮やかな翡翠色の瞳を持つ彼のことを、皆は畏怖の念を込めてジェイドと呼んだ。

「奴は生粋のストリート育ちさ」と、子供達はまことしやかに囁き合う。「奴と目を合わせるなよ。殺されるぜ」

 ジェイドはすらりと手足が長く、その躰はしなやかな筋肉で覆われていた。ジェイドは他の年上の子供達のように踏ん反り返り、肩を怒らせて歩き回ったりはしない。彼は風のように滑らかに、黒い影のように物音一つ立てずに動く。そして素晴らしい跳躍力で床を蹴り、壁を駆け上がるようにして高い窓辺に登る。冷たいコンクリートの部屋で唯一陽の当たるその場所がジェイドの指定席であることは、皆の間では暗黙の了解だった。



 その日もいつものように、コンクリートの部屋に入れられたジェイドは子供達の間を縫うようにして窓辺に近付いた。と、燃えるような赤毛の少年がジェイドの前に立ちはだかった。

 その少年はひと月程前に入って来たばかりだったが、腕力にモノを言わせて子供達の階級社会を駆け上り、子分を従え、すでに一大勢力を築きつつあった。年の頃はジェイドとあまり違わず、背も同じくらいだった。しかし身体つきにしなやかな少年らしさの残るジェイドに比べ、赤毛の少年の肩幅はがっちりと広く、首も太い。そして声も低く嗄れていて、ドスが効いている。なぜ彼がオトナ部屋ではなく子供部屋に入れられているのか、僕にはさっぱり理解出来なかった。

 頭から爪先まで嘗めるように睨(ね)めつけてくる少年をちらりと一瞥すると、ジェイドは興味無さげに肩を竦め、彼の脇をすり抜けようとした。

「待てよ」赤毛の少年がジェイドの肩を乱暴に小突いた。「あの窓は今日から俺のもんだ」

 ジェイドが何か不思議なモノでも見るように、つくづくと少年の顔を眺めた。

「……おまえ、新入りか?」

「それがどうした。今日から俺がここのナンバーワンだ」

 ジェイドが驚きに目を瞠り、続いて可笑しくて仕方無いとでも言う様にクツクツと笑い出した。

「なんだよっ、何がおかしい――」

 ジェイドが不意に腕を伸ばすと少年の胸倉を掴み、その形の良い唇を近々と少年の耳許へ寄せた。

「……どけよ、デブ」

 赤毛の少年の眼が怒りと屈辱に膨らんだ。次の瞬間、大声で喚きながら拳を振りかざした少年がジェイドに躍りかかった。

 勝負は一瞬だった。

 ジェイドは他の少年達のように、取っ組み合って無茶苦茶に殴り合ったりはしなかった。彼は自分に飛びかかってきた少年をするりと躱すと、擦れ違いざまに目にも留まらぬ速さで少年の顔を横殴りした。無惨に毟られた紅い花弁のように鮮血が散り、少年が甲高い悲鳴を上げた。ジェイドの爪に眼を抉られた少年が苦痛と恐怖に床をのたうち回る。周りで囃し立てていた少年少女達は皆、その余りに容赦無い仕打ちに恐れ慄き、蒼褪めた表情で呆然とジェイドを見つめた。

 指先についた血をゆっくりと味わうように舐め、ジェイドが水を打ったように静まり返った部屋を見渡す。誰しもが、その翡翠色の瞳と眼を合わせることを怖れ、無言で俯いた。

 最後にジェイドは部屋の隅にいる僕に目を留めた。恐怖が冷気のように足元を這い上がり、僕の背筋を凍らせる。早く目を逸らさなければ殺されるかも知れないと怯え、全身がおこりに罹ったように震えた。けれども、どうしても目を逸らすことが出来なかった。彼の瞳の奥に揺らめく翡翠色の炎に、僕は陶然と見惚れていたのだ。

 どれほどの間、そうして見つめ合っていたのだろうか。不意にジェイドが口の端を吊り上げるようにしてニヤリと嗤った。そして大きくひとつ欠伸をすると、コキコキと首を鳴らしつつ、何事も無かったかのように悠々と窓辺の特等席に戻った。大声で泣き喚きながら床で悶えている少年の存在など、一顧だにしなかった。


 ここにいる子供達は皆、汚れ、痩せ、飢えと渇きに眼を爛々と光らせる動物だ。けれどもジェイドは違う。彼は動物ではなく、獣だった。



    2


 この一件以来、子供達は益々ジェイドを恐れるようになった。皆、彼が近付くと素早く道を譲り、彼と目を合わさないように下を向く。僕は反対に、無意識のうちに彼の姿を目で追うようになった。灰色の壁に囚われ、行き場の無いストレイであることは彼もここにいる他の子供達と同じ筈だ。けれども高い窓辺に座って何処か遠くを見つめる少年の横顔は、僕には決して手の届かない自由と憧れの象徴だった。

 そんなある日の事。何やら鉄格子の部屋の掃除に手間取っているらしく、少し早めの夕食が『自由時間』の部屋で配られた。冷えた粥の入った大きめの鍋が幾つか無造作に床に置かれるのを見て、僕はひどく憂鬱になった。鉄格子の小部屋ならひとりでゆっくりと食べれるが、ここでは食べ物の奪い合いになる。強い者はより多くを手に入れ、僕のような者は食いっぱぐれ、空きっ腹を抱えたまま夜を明かすことになるのだ。

 僕の側にも鍋が置かれたが、案の定、子供達が一斉に鍋に集(たか)り、僕には入る隙間もない。それでも一口くらいおこぼれに与りたいものだと思い、往生際悪く鍋の周りをウロウロとする僕を年上の少年が意地の悪い目付きで睨んだ。

「ウザイ奴だな! どっか他へ行けよ!」

「……でも……」

「でもじゃねぇんだよっ」

 僕を追いやろうと拳を振り上げた少年が、不意に怯えた表情で後退った。

 振り返った僕の真後ろにジェイドが立っていた。

 鍋に集っていた子供達が蜘蛛の子を散らすように逃げ去ると、ジェイドは悠々と鍋に歩み寄った。そして自分の分の食事を終えると、腰が抜けて床にへたり込んでいる僕の方へ粥の入った鍋を押しやった。

「食わねえの?」

 ……これは何かの罠だろうか。弱肉強食がモットーのこの世界で、ジェイドのような強者が僕のような弱者と何かを分かち合うなんてあり得ない。

 しばらくジェイドの様子を窺ったが、彼は鍋から少し離れたところでゴロリと横になり、満足気に腹を撫でている。やがて寝息を立て始めた彼を見て、空腹と粥の匂いに負けた僕はそっと鍋に近付いた。誰にも邪魔されず夢中になって粥をかき込み、ようやく腹がくちくなった頃、ジェイドがのそりと体を起こした。慌てて後退った僕を眺めつつ、ジェイドがアクビしながら顎をボリボリと掻く。

「おまえ、名前は?」

「……え?」

「名前だよ、な・ま・え」

 ……やっぱりジェイドの鍋なんかに手を出すべきじゃなかった。翡翠色の眼に正面からまじまじと見つめられ、僕は蚊の泣くような声で答えた。

「……名前なんてない」

「は? 名前の無い奴がいるわけないだろ?」

「だって……僕は生まれてすぐに母さんと離されちゃったし……名前を付けてくれるようなヒトもいなかったし……」

「ったく、名前が無けりゃ、自分で付ければいいだろ? そんなもんまで他人を当てにしてんじゃねぇよ」

「……そんなこと言ったって……」

 無言で俯いた僕を見て、ジェイドが舌打ちした。

「……ラズリ」

「え?」

「ラズリ。おまえの名前だ」

 立ち上がったジェイドが、ぽかんとしている僕を威圧的に見下ろす。

「ちょっと来い」

 有無を言わせず歩き出したジェイドの背後を、足をもつれさせながら慌てて追う。屠殺場に連れて行かれる仔羊を見るような憐れみを含んだ視線が、周囲から一斉に投げかけられた。

 部屋の端に来たジェイドが軽く床を蹴り、一瞬にして窓辺に登った。

「何してるんだよ、サッサと登れよ」

 僕も慌てて背伸びして窓に飛びつこうとしたが、指先すら届かない。自分の足元でぴょんぴょんと必死になって飛び跳ねる僕を見て、ジェイドが溜息をついた。

「馬鹿だな、おまえ。垂直跳びが無理なら、ちょっと助走つけて跳んでみろよ。壁を駆け上がるつもりでさ」

 絶対に無理だ、と思ったが、そんな事を言ったら殺されるかも知れない。失敗して首の骨でも折ったらどうしようかとは思ったが、どちらにしろ死ぬなら同じか。他殺より自殺の方がまだマシだと自分に言い聞かせ、壁に向かって突進した。

 目を瞑って壁に突っ込んだ僕の首根っこをジェイドが掴んで引き上げた。

「馬鹿、目を瞑って走る奴があるか」

 首を絞められ咳込む僕の横で、ジェイドがおかしそうに笑った。そして笑いながら僕の顔を窓硝子に押し付けた。

「見えるか?」と言って、ジェイドが頭上を指差す。「あれがお前の瞳の色だ」

 目の前にそびえる灰色の壁の遥か上に、四角く切り取られた澄んだ色の何かが見えた。それが空というモノだと、僕はジェイドに教えられて初めて知った。

 ラピスラズリ、瑠璃色だよ。そう言うと、眦の切れ上がった翡翠色の眼を細めるようにして、ジェイドが笑った。



 僕はあんなに嫌っていた『自由時間』を心待ちにするようになった。二〜三回に一度はジェイドが窓辺に誘ってくれるからだ。ジェイドが何故僕を選んだのか、誰にも分からなかった。それは単なる気紛れか暇潰しで、ジェイドにとっては別に僕じゃなくても誰でも良かったのかも知れないけれど、それでも構わない。汚れてくすんだ窓硝子越しに瑠璃色の空を眺め、ジェイドと肩を並べて日向ぼっこするのは楽しかった。

 ジェイドが窓に登らない日もあった。なぜかと尋ねると、「雨が降っているから」という答えが返ってきた。

「あめ? あめって何?」

「おまえ、雨を知らないのか?」

「だって僕は『施設育ち』だもの」

 少し考えてから僕は小さな声で付け足した。

「……よく憶えてないけど、もしかしたら、『施設生まれ』かも知れない」

 妊娠中の母親がストレイとして捕まった場合、施設内で子を産み育てることが許される場合がある。しかし子供が物心つく前に母子は離される。その方がラクだから、と灰色の男が話しているのを聞いた事がある。一体何が、誰にとってラクなのか、僕にはよく分からない。そして子育てで疲れ、窶れた母親は――

「空から水が降ってくるんだ」

 ジェイドの声で我に返った。

「え? 空から水?」

「雨だよ、雨」ジェイドがくすんだ窓硝子を指差す。「空が曇っちまうからさ、窓に登っても観るものが無いだろ?」

「……見てみたいな」僕は思わず窓のある壁に駆け寄った。「雨、見てみたい!」

 ジェイドは無言でひとつ溜息を吐くと、窓に登り、僕を引っ張り上げてくれた。

 息で白く曇る窓硝子を手で拭い、鈍色の空から零れる無数の水滴に沈む灰色の世界を眺めた。淡く光る雨垂れに濡れた窓硝子に、僕の影が滲んで揺らめく。

「綺麗だね……」

「雨なんていい事ねえよ。寒いし、身体は濡れるし」

「ねぇ、ジェイド。ジェイドはストリート育ちって本当?」

「……あぁ」

「ストリートって、あの壁の外にあるの?」

「当たり前だろ」

「なら、あの壁の外にも世界があるんだね」

 怪訝そうに眉根を寄せたジェイドに向かって、僕は夢中で話した。

「僕ね、あの壁の向こうは、世界の果てかと思ってたんだ。世界は灰色だけど、あの壁の向こうには黒い淵があって、淵に呑み込まれると、僕達は無になるんだ。けれども無になることで僕達は淵の中の闇とひとつになって、そしてやがてこの灰色の世界を覆い、世界の全てを呑み込む。だから、ヒトは僕達を怖れ、僕達の自由を奪う……」

「おまえ、ナニ言ってんの?」ジェイドが呆れたように嘆息した。「おまえって、なんにも知らないわりには妙に哲学的だよな。そんな腹の足しにもならねぇ事にエネルギーを使う奴はストリートでは長生き出来ねぇよ。施設育ちで正解だったな」

 そう言って僕の頭を小突いたジェイドの眼は、何故か楽しげに笑っていた。



   3


 翡翠色と瑠璃色が灰色の世界を満たし、潤す。ジェイドに出会って初めて、僕は自分が渇いていたことを知った。けれどもそんな穏やかな時間は長くは続かないものだ。

 それはある蒸し暑い夜のことだった。

 僕は夢をみていた。甘い匂いのする温かな腕が僕を抱き、囁くような声で子守唄を歌う。身体を静かに震わせる柔らかな子守唄に微睡んでいると、不意に背後から伸ばされた腕が僕の首根っこを掴み、僕を守ろうとする腕から引き剥がした。喉が詰まり、息が苦しくて、空気を求めてもがく僕の耳許で、仕方無いんだよ、と灰色の声が囁く。

「仕方無いんだよ。ストレイとして生まれたお前に運が無かっただけのこと。恨むなら、この世界に生まれた自分の運の無さを恨むがいい。世界はお前を必要としていない――」

 余りの苦しさと恐ろしさに悲鳴をあげて目を覚ました途端に、キナ臭い空気を吸って激しく咳き込んだ。真っ暗な部屋のドアの隙間から、おかしな臭いの空気が流れ込んでくる。

「火事だっ」と誰かが叫んだ。

 鍵の掛かった鉄格子を揺さぶり、コンクリートの壁を叩き、助けを求めて子供達が泣き喚く。恐怖と狂乱に囚われた子供達の悲鳴を聞きながら、僕はゆっくりと目を瞑り、やっぱり、と思った。

 やっぱり、この灰色の世界で、僕は何も知らないまま死んでゆく。それは誰を恨むべきことでもなく、唯、僕に運が無かっただけ――

 突如鉄の扉が開いた。

 真っ黒な煙と喉を焦がすような熱気と共に、布で口を抑えた灰色の男がよろめくように部屋に入ってきた。煤に汚れた悪鬼のような形相で、男が次々と鉄格子の鍵を開けてゆく。檻から解き放たれた子供達が我先にと外へ転がり出る。

 そんな子供達から顔を背け、僕は部屋の隅に横になり、目を瞑った。この灰色の世界に産まれたことも、独りぼっちで生きてきたことも、全ては悪い夢だったのだ。とても疲れていて、唯静かに眠りたかった。

「ラズリッ! オイッ! ラズリッ」

 不意に激しく体を揺さぶられた。

「なにグズグズしてんだよっ?! 焼け死にたいのかッ」

 煙で咳き込みつつも必死の形相で僕を叩き起こそうとする少年に向かって、僕はゆっくりと首を横に振った。

「……僕は行かない」

「なんだと?! ナニ言ってやがる?!」

「たとえここから出て行ったとしても、僕は生きてゆくことは出来ない。だって、僕には運がないもの」

「運がないって……これはここから逃げる最高のチャンスだろうがっ?!」

「……聞いたんだ」

 母から引き離されたあの日、灰色の男が囁いた言葉を思い出し、僕は幽かに嗤った。

「僕達は街を汚し、病気を広げ、秩序を乱す。僕達は盗み、殺し、やがて行き倒れる。だから、より良い世界を築くために、世界の平和のために、邪魔な僕達は『始末』されるしかない。世界は僕達ストレイを必要としていない――」

「……ふざけんなッ」

 不意に翡翠色の熾火が爆ぜた。

「奪われて、踏みつけられて、死んでたまるか! 世界の平和なんてもんに興味はねぇんだよ!」

 そう叫ぶなり、ジェイドが僕の首根っこを掴んで鉄格子の中から引き摺り出し、半開きの鉄の扉に肩をぶち当てるようにして僕を外に突き飛ばした。

 濛々と立ち込める煙と凄まじい熱気で目も開けていられない。怯え、逃げ惑うストレイ達の悲鳴と怒号に足が竦んだ。煙を吸って息を詰まらせ、激しく咳き込む。

 駄目だ、逃げるなんて、僕には無理に決まってる。

 朦朧として地面に蹲った僕を誰かが乱暴に引きずり起こすと、いきなり頬を張った。驚いて眼を開けると、目の前に翡翠色の業火が燃えていた。

「生き延びるのに必要なのは運じゃねぇ。生きる意志だ」

「ジェイ――」

 何か言いかけた僕の頬をジェイドが再び殴った。鋭い痛みに不意に意識がハッキリとする。

「走れっ」

 ジェイドに引き摺られるようにして、僕は必死に走り出した。

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