第29話「アヤタカの秘密」
迷惑そうな目、疎ましそうな目。
それをさらに越してくる、殺意を滲ませた目。
その視線を一身に浴びて、高い天井の下、アヤタカは床へ倒れ伏していた。
早く起きなきゃ、という悪寒に似た焦りが体中を走り回っているのに、体にうまく力が入らない。
そしてなにより、全身を苛んでくる、この空間に蔓延した悪意。
――よくも、手間をかけさせてくれたな。
――小僧っ子が粋がっちゃって、そんなことしても無駄なのに。
――ざまあみろ。
胸がじくじくと痛む。あれ、おれ、なんでこんなことしたんだっけ、そんなことを思う。
だって、こういう感情を浴びる行いは、避けてきたはずだったから。
自分の置かれている状況、その焦りが遠ざかっていく。意識は内へ、内へと向かっていき、自分のこれまでの生が、切り貼りされたアルバムのように流れていく。
――おれは、ずっと人から何も思われないようにして生きてきたのに。人当たり良く、特別憎まれず、八方美人で当たり障りなく。
フレイヤと話していた、夕焼け色に染まる馬車の中を思い出す。
――初めて誰かに「あれ」を言った。結果は、言うんじゃなかったと、後悔させられた。
――でもあの時ですら、全部は言えなかった。
――おれが本当に隠しているのは。
星っこゲームをした晩、仕返ししようと言った誰かに対してみんなが思った「そんな元気あるか。」
呪文学の時、ラムーンと今日の晩御飯は何にするか話していた時の、周りの「お前ら一緒に食べてるのかよ。」
そしてフレイヤが風呂場で、叫ぶかのように心の声を振り絞っていた言葉。「恥ずかしげもなく尻尾を振る犬のくせして、一丁前に自尊心だけはある。犬ならば犬らしく振る舞っていろ。忌々しい、腹ただしい。」
アヤタカが、本当は誰かに暴露したかった、でも同時に、誰にも知られたくもなかったこと。
――おれは、心が読めるんだ。
全て聞こえてしまっていた。全て知ってしまっていた。
それは生まれつき。
どんなに遮断しようとして、抉り込むように入ってきた、聞きたくない、相手の本音。
――辛かった。自分がどう思われているかなんて、いつだって知りたくなかった。
――だから当たり障りなく、誰からも特別な感情を抱かれないように、うまく普通になりたかった。
――なのにフレイヤはそれを怒る。おれがそうする理由を言ってしまえれば、どれだけ楽だっただろう。
――……いや、さらに傷つけられただけかな。
「……初めて、誰かに。言ったのにな。」
倒れ伏したまま、アヤタカは自重気味に言った。
――さっきから、これまでのことが頭を流れてく。あれ、これ、走馬灯?
こんな能力なかったら、自分はもっと幸せに生きられたのかな。
そう思いながら、アヤタカのまぶたは静かに降りていった。
――絶対に、逃がす!
――そう、絶対に、あれ?
――絶対に逃がしてみせる!
――あれ、これ、誰の声?
鈍くなってきていたアヤタカの意識に、突き刺さるようにして入ってきた他者の思考。ここに蔓延るどんよりとした悪意を切り裂くような、光のような意思。
――サイオウを、今度こそ、私がこいつを救うんだ!
アヤタカのことをサイオウという本名で呼ぶ者なんて、故郷を除けば今や数える程度しかいない。
一体はミザリー先生、そしてもう一体は。
「フレイヤ……」
アヤタカが目を開けた。緑の瞳に、光を灯しながら。
腕を掴まれてぐったりしていたフレイヤが、懸命に体を動かしている。アヤタカはその時、そうか、自分たちは体が麻痺する魔法か何かをかけられていたのか、と察した。
フレイヤはすごい顔で家来たちを睨みつけている。指を、自分の顔に突き立てながら。
「おま、えら。サイオウを、逃がせ。何かしたら、わた、しは自分の顔を、焼く。」
家来たちの間に、若干の動揺が流れる。しかしすぐにフレイヤを取り押さえんと、杖を構えるなり腕をつかもうとするなりの行動が起こされた。
その途端、彼特有のピンク色の炎が音を立てて現れ、辺りをピンクに染めた。
その炎は一瞬、フレイヤの顔を包んだ。
「うぅっ!」
その声に、アヤタカは思わず叫んでいた。
「や、やめろ! フレイヤ!」
顔を抑えながら、フレイヤはアヤタカの方を向いた。さっき家来たちを睨め付けた顔よりもすごい顔で。
「さっさと走れ、バカ! この役立たず! 邪魔だ、いけ!」
桜色の唇からは、罵倒が放たれた。
しかしその言葉とともに、フレイヤから伝わってくるのは、決死の覚悟。
顔を焼く恐怖に苛まれながらも、絶対にやり遂げるという覚悟が流れ込んでくる。
アヤタカには、その感情がまるで光そのもののように視えた。
――こんなこと、青ざめなきゃ駄目なのに。思っちゃ駄目だ。こんな、
――嬉しいだなんて。
アヤタカは尚も続ける。
本当に大事なら、相手の身を一番に案ずるはずだ。それ以上に自分にそれだけのことをしてくれるという喜びの方が勝るだなんて、友だちならあっちゃいけない感情だ、と。
しかし一方で、自分が知れるのは悪意だけじゃない、真心や愛情を知ることだってできたんだと思い知らされた。知りたくないことは山ほどあった。ヘドロのように汚い感情たちの中を歩くのは、苦痛だった。しかしこうやって、心の底から幸せになれる感情だって、ヘドロの中には混ざっていることをいつも思い知らされる。それはまるで、砂金のように。
フレイヤはなおも叫び続ける。
「いいかお前ら! 私に対してもこいつに対しても妙な真似をしたら、すぐにこの顔焼くからな!」
声を張り上げると音階が高くなって、その声はなおさら女の子みたいだ。アヤタカはそんなことをうっかり思った。
フレイヤは続ける。
「そいつを逃がすんなら、私は大人しく投降してやる……分かったか?」
フレイヤはさっきとは比べ物にならないくらいにつらつらと言葉を述べていた。アヤタカも、だいぶ体が動くようになってきた。
ただ、まだ呂律の回りにくい口で、アヤタカも叫ぶ。
「だめ、だ、フレイヤ! 一緒に、逃げ、よう!」
「バカかお前は! こんな状況でどうやって二体とも助かるって言うんだ!」
フレイヤが怒りで頬を紅潮させながら言った。
――た、確かに、でも、でも……
何も思いつかない、頭が働かない。
自分たちを囲む無数の精霊体を前にして、この状況を打破する方法なんて、考えつかなかった。
血の気がどんどん引いていく。
遠くから眉を吊り上げて見ていたフレイヤの顔が、ふっと柔らかくなる。
アヤタカはそれを見て、さらに青ざめた。
――だめだ、フレイヤ、そんな顔しないで。だってフレイヤのそういう顔はいつも……
「私が顔を取られて捨てられたら、どうか探してくれ。」
穏やかに、きれいに笑っている。
「またいつか会おう。」
――フレイヤはいつも、別れの時に笑顔を見せる。
アヤタカは歯を食いしばった。
もう二体の中に、打つ手はなかった。
アヤタカ 藤滝莉多 @snow_bell
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